大震災とアセンションについて、霊界からのメッセージですが、未完成です。 10年ほど前も、シュタイナーの霊界通信があったのですが、難しすぎて休止しました。 → 「思考の哲学・ウィトゲンシユタインとの対話」 『アセンションとは何か』ルドルフ・シュタイナーの霊界通信 ーアセンション認識が人類の未来を開く!ー 霊信記録者 高橋久美子 T・アセンションの定義 生物の特徴を簡単に挙げると、外界から、自己と非自己を区別し、自立的に活動し、さらに自分の複製を作り増殖するものといえるが、 もっと確信的に定義すれば、生物とは自己複製する物質である、とも言える。 しかし、この定義は、物質的創造の中での生物の営みを説明しているに過ぎない。 生物学における生命の定義は、物質的側面から見たものであり、命の真の姿を述べてはいない。 叡智学的見地に立てば、命を持つ者とは、神の思考を享受する者。そして思考は、己の始まりと終わり、そして現在を知り、実感する。 私の思考は、霊的潮流の中で、サイクリックしながら、太源に吸収される。 つまり、神の思考は、すべての命あるものにアセンションを与える。宇宙も、人間の精神も。 アセンションとは、宇宙の初めと終わり、そして現在を知り、実感する思考をいう。(アセンションの定義) アセンションとは、深遠で壮大な、神と宇宙の叡智に参入するためのシステムなのです。 アセンションに関する情報は、人間を取り巻く、自然の至るところに存在し、その情報を知覚し、認識することをアセンション認識と呼びます。 そして、アセンション認識は、思考の過程で能動的に形成されるものなので超越的なものを感じる。 森羅万象に霊が宿るというアニミズムは、まさにこのアセンション認識なのです。 つまりアニミズムは、未開人の迷信ではなく、哲学(認識論)と言えます。 (サイクリック:宇宙論の一種。宇宙はビッグバンとビッグクランチを繰り返すという学説。アセンションという思考も、拡散と収縮を繰り返しながら成長するという) ヒーリングや癒しなど、自己満足の道楽的スピリチュアルは卒業です! こちらから(霊界)見ると、皆さんがやっているヒーリングや癒しは、人間がそう思い込んでいるだけで、自分の気分に対して神経症的になっているのです。 問題は、霊性を高めること。それはビジョンと実践のスピリチュアル、アセンション認識です。 アセンションを知れば、道楽的スピリチュアルは全く必要なくなります。人間として生まれているなら、アセンション認識によって、叡智の世界に進むべきなのです。 U・人間の魂における動物たちの役割 動物にも、魂があり、心があり、夢を見る者たちであるというのはお分かりでしょう。植物も、植物魂の領域があり、人間や動物とは違う意識を持っています。 スピリチュアルに関心があるのなら、人間以外の命ある者たちにも感性がある、 つまり人間と同じように、喜んだり、楽しんだり、恐怖を感じたりなどの感情もあることが理解できるでしょう。 それを考えた上で、私たち人間は、彼らを食べて生きています。食肉用の家畜たちは、一年ほどしか生きられないでしょう。 しかし、その短い生涯の中でも、彼らなりの喜びを感じ、感情を表していたはずです。家畜たちも命ある者ですからね。 私が言いたいのは、他の命を食べて生きなければならない、人間の霊的自覚ということです。 現代の人間は、この責務について何も知ろうとしない。スピリチュアルを学ぶ人間であっても。 そう言う私も、動植物の魂が人間の魂にとり、どれほど大きな意義のあるものであるのか、という事は、霊界に来てからわかったことなのです。 私は、十年ほど前から、高橋の霊団に寄寓しています。一般に言う、指導霊とうものでしょう。 (しかし、何も役に立ってはいません。勉強あるのみ、の日々です) 高橋は、出かけることが多く、日本国内の諸々の聖地や存在に関して、共に体験しています。 私は、高橋の周囲5メートルくらいの状況がわかります。 高橋が出会う人間や、霊的な存在との交流も、高橋と共に取り組んでいるのです。 政府や行政は、人命第一、といいます。それは当然ですが。 しかし今回の試練(東日本大震災とそれに続く原発事故)で、もっとも問題となるのは原発避難区域内の動物たちに対する霊的責任です。 人間の社会が、まだその域に達していないから動物たちも命を持つものである、ことを考えられないというのは分かりますが、 行政がこの動物たちを助けられなかったということは、人間全体の業となります。 動物と人間は、同じ地球に生きている仲間です。大きな類魂の中の一部となっているのです。 もし動物の霊性を無視し、動物の命を尊重できない場合は、人間の魂の底辺が欠落することになります。それはアストラル体を形成する力で、 人間の情緒を豊かにする光です。動物の魂には、この光が備えられています。家畜やペットの動物たちは、人間のために作られた命です。 ということは、人間は、神に代わって彼らの存在に責任を持たなければならないはずです。 「家畜やペットは、人間の所有物だから、殺処分でいいじゃないか」と簡単なことをいう唯物論者が居ますが、そういう人間は地獄で彼らの餌になれば良い。 人間の属する類魂の三分の二は動植物の魂が占めているのです。 人間は、霊性を持った霊的存在なのです。この福島原発事故の意義を考えなければならない。 それがつまりアセンション、魂の高次元化なのです。 動物たちの魂は、人間の魂の一部をなしています。大きな類魂の中にあります。 人間はその霊的事実を自覚して、人間のために身を犠牲にする小さな命たちを救わなければならない。 それは、魂の親になるということ。神は人間の魂の親です。人間は、神に代わって、動物たちの親になります。 そうすることで、人間を通じて、動物たちに、直接神の力が伝わるのです。 御親ワークを参照してください。 彼ら、動物たちを助けられなければ、まだまだ人間の社会には悲惨なことが起こるでしょう。 こう言うと、また「人間より動物が大事なのか!」と文句をいう人が居ますが、そう、私は犬が大事です。悪いですかね? 人には大切なものがありますよね、家や貴金属、貯金通帳など。私は犬です。家族ですからね。命があるものです。 いくら説明しても、心の世界が違う人間には理解できないでしょう。しかし、人間であるならば、他の命ある存在に対して責任があり、義務があります。 それを無視し続ける態度が正しいというなら、神は人間を必要としなくなるでしょう。人間は、神に代わって自然界を守り、生き物たちを労わる為に在るのです。 人間にそれが出来なければ、お役ご免ということで、破滅するしかないですね。 (これを編集している最中に、4月28日から5月2日まで立ち入り禁止区域内のペットの保護を開始するというニュースがありましたが) 震災後、一ヶ月くらいし、湊丸の実家に行き避難時のことを聞きました。やはり動物は出入り禁止なので、柴犬は置いて避難したそうです。 しかし、義父さんは避難所の独特な雰囲気に耐え切れず「俺は柴と死ぬ」と言って大津波警報の中、寒くて真っ暗な自宅に戻ったそうです。 今の現世では、動物と生きることは、覚悟が必要なことなのかも知れません。でもそれは人間として成長した証なのです。 人間は自分たちだけでなく、他の生き物たちも守らなければならない、その心境こそ善であり、人として正しい行いです。 地球の中に生かされている、自然と共に生きていく覚悟なのです。 自然に寄り添って生きるという実感、それをアセンション認識といいます。自然は、人間に癒しを与える為にあるのではありません。 人間は、地球に居候しているのです。人間は自然界に寄生している状態なのです。 私たちは、このアセンション認識をしばらくの間、すくなくとも百年くらいは忘れていました。 この度の大震災で、日本人は多くを学び、一部の人々は霊的な気付きの中に アセンションを感じているはずです。大災害は自然の中で生かされている有難さを感じ、 自然への感謝心が生まれる。また現実の厳しさの中で助け合う仲間に感謝し、 社会のために何かしてあげたいという気持ちになる。日本中の人々がボランティアで被災地に駆けつけている。 この震災のおかげで、日本人は人間として、大切なものを取り戻しつつあります。 アセンション認識は、数千年前の日本にはありました。縄文時代の日本人は、自然の中にアセンションを実感しながら生きていました。 縄文人の信仰を自然崇拝とかアニミズムと言って、現代人は馬鹿にしますが、彼らは、迷信深かったから精霊を信じていたのではないです。 日常の暮らしの中に、自然の厳しさがあったからです。一度森に入ると、獣に襲われたり、足場が悪くなっていたりと、遭難の危険があります。 食料のために狩りをすれば、獲物の動物と命を懸けたやり取りをしなければなりません。 (それは、イオマンテの儀式を知ることによって理解できます) ひと粒の米粒も、ひと切れの肉も魚も、みんな命なのです。わたしは、だれかの命をもらって生きている、生かされている。 そう気づいたとき、人はもっとやさしくなれる。他者にも、大地にも、自分自身にも。 そして、世界の中の自身の位置を知るのです。それがアセンションです。 アセンションの中では、自分の存在意味は問われない。何故生きているのか?現世での使命は?などと悩む必要はなくなる。 アセンション認識の気付きと、導きのままに進んでいけば良いのである。 V・原罪の真の意味 古今東西のさまざまな研究家が、論じているが、原罪とは、神を信じなくなること、神から離れる行為(想念も含めて)を言うのだと考えている。 しかし、真実の原罪は、単純に神から離れることではなく、人間の霊性にとって大変厳しい要求を意味するものでありました。 私は、イエス・キリストに帰依している者です。生前も、現在も自分という存在のすべてをイエス・キリストに適うために精進しています。 おそらく、地上のキリスト者もそう実践しているでしょう。しかし、霊界に来て、実は、そうではないことが分かりました。 原罪とは何か? それは人間というものの、世界における存在意義を思考させるものです。霊界での学びは、ただひたすら気付きの積み重ねです。 地上のように、先生が生徒に語る、というスタイルではなく、聖霊や、先輩の修道士と共に暮らす中で、少しずつ真理を自覚していくというものです。 その霊界の修道院での暮らしの中で、もっとも衝撃的な気付きが「原罪」でありました。 原罪には、深い霊的な真実が背後に控えていたのです。それは、神と人間の、決定的な違いなのです。 それゆえ、原罪は、人間である以上、永久に消えない。その人間の信仰には関係無く。 人間は、神の被造物という理由ではありません。もっと深刻な理由です。 それは、人間は、他の生き物を食さなければ生きられないという「仕組み」です。 元来、キリスト教は、動物に霊的意味を認めていません。眼中に無し、考えるに及ばずです。 家畜は人間が作った物ですし、自然界の動物は、人間以下で、世界の付属品のようなものです。 もちろん、西洋には動物愛護や自然保護の思想はありますが、それは霊的見地からのものではなく、 科学の進歩のおかげで、人間たちの考え方が代わったからなのです。 19世紀の初め、ダーウィンの進化論の影響で、動物と人間の先祖はおなじらしい、 動物も痛みを感じるらしい、ということが分かったので、動物に対する同情心が生まれたからです。 宗教的な見地からの愛護ではないのです。中世のキリスト教では、動物には魂は無く、自動で動く機械と認識していました。 そのため、普段から利用されることの多い馬は、過酷な虐待を受けていました。子供の時分に、街の中で飼い主に打たれて悲鳴上げる馬を見ました。 馬が泣くと「煩い!」と言われ、もっと打たれていました。私は子供心に、馬が可哀想とは思いましたが、それ以上の心の動きはありませんでした。 家畜が叩かれるのは日常のことだったので。つまり、キリスト教には、動物の居場所がないのです。 あれだけ、人間に尽くし、命もささげているのに、動物の魂を救うという考え方はありません。 しかし、それが当たり前でした。生前の私も、動物たちの魂や人間との霊的な関わりを思考したことはありませんでした。 霊界の神の家。ここはスイスの山間にあり、ベネディクト系の教会です> (生前の私は、プロテスタントでしたが)聖ロヨラに師事し、イエス・キリストや、仏陀との対面も適いました。 もし許されれば、その経緯も話したい。私は、霊視者ですが、他界してもその能力はそのままでした。 ただ地上と違うことは、神の家では、ビジョンには天使の許可が必要ということです。 霊界では、霊視は神聖なものです。自分の勝手は許されません。自分という存在は、 すべて神に因るので、思うことも、ビジョンすることも、神に適うものでなければならない。 ある日、私は、同郷の哲学者を紹介されました。ルートウィッヒ・ウィトゲンシユタインです。彼は、犬をつれていました。ビーグル犬です。 神の家で動物を見たのは初めてのことだったので、どんな意味があるのかと、興味を覚えました。そう、ここに犬がいるのは、神のお指図であるはず。 犬は、私の想念を察したのか、側に来て、尾をふりました。唐突に、犬の想念が、私の周囲を取り囲みました。この犬は、私をビジョンしようとしたのです。 霊視は容易く出来るものではありません。しかし、この犬は、気楽にビジョンを楽しんでいるようでした。 犬は、私をリィーディングしているのです。「私は、クッキーだよ。女の子。貴方は孤独な人間だね? 」と語りかけてきました。 その想念と共に、このクッキーの魂の情報が、洪水のように私の意識に注がれました。クッキーは、日本で生まれましたが、一歳になる前に病死しました。 飼い主は、霊視者で、ウィトゲンシュタインはその人物の指導霊だったのです。「貴方は、どうして一人でいるの? 皆は見えないの? 」 この犬は、死んでからは霊界で使命をもった犬として飼われているのです。 私は、面食らってしまいました。自分が霊視の対象になるなんて、しかも犬にです。動物にそれが許されているなど思いもよらないことでした。 そして私は、動物にも魂の領域があり、神に適う霊性があること知りました。気がつくと、自分を見つめる沢山の瞳を感じました。 動物たち生き生きとした生命力のある眼差し。神の家には、動物たちも暮らしていたのです。自我のチャンネルが閉じていたので気がつかなかったのです。 私は恥ずかしくなりました。ウィトゲンシュタインは、クスクスと笑いながら頷きました。 「神の家は、魂の箱舟です。動物たちが住むのは当然のこと。神の家は、人間の魂の場です。貴方は、貴方の魂の内側を、自ら観察しているのです」 なるほど、そうなのです。神の家は、たんなる修道院ではなかったのです。 神の魂の内側で、私はそのほんの一部分を覗いて「次なる高みへの階段」と思い込んでいたのです。 中略 私は、クッキーの後に従い、ある魂の小部屋に入りました。それは、男性で、自殺志願者の意識でした。 部屋の中は薄暗く何も感じません。実際の屋根裏部屋のような雰囲気です。カーテンが閉じられているようです。 手探りで中に進みます。クッキーの赤毛の体がぼんやりと光っています。 部屋の中ほどに来ると、目が慣れてきたというか、この意識との波動が合ってきました。 この小部屋は、男性の聖なる場、霊性の座なのです。ここは神の光で満たされるべきなのですが、 窓には重いブラインドが下ろされていて、室内も、外も何も見えない状態です。 そのためにこの意識の主は、自殺願望を持つのです。霊性の座に光が満ちていれば、死ぬ気持ちは起きない。 しかし、何故、この意識の小部屋は閉ざされているのでしょうか?すると白い小さなものが目の前を横切り、窓の傍に立ちました。 小さなものは、子猫でした。子猫が窓の傍に行くと、ブラインドは消え去り、外の景色が見えます。猫は、移り行く景色にじゃれています。 猫は、いかにも楽しそうに、窓から入る木漏れ日と戯れております。 気がつくと、魂の小部屋が徐々に明るくなってきました。猫は、クッキーに気付き、二人は仲良く走り回りました。 一層、室内は明るくなり、意識の戸棚が次々と開いていきます。この意識の主は、過去の楽しい記憶を思い出しています。 それにより、自殺願望が多少おさまりました。「自分はまだ生きていけるかもしれない」と考えられるようになりました。 そこで私は理解しました。この子猫は、自殺志願者が前世で可愛がっていた猫の魂であるということ。 そして、この猫の魂が、自殺志願者の意識の小部屋に光をともしているのだということ。 猫は、この男性の意識の座で、神の光を導く役割を果たしている、一種の霊的器官なのです。 どの人間の意識の座にも、この猫のような霊的存在が活動しています。 人間の魂は、それ自体では、神の光を引き込むことは出来ないのです。 太古から繰り返された過去世の中で、自然界との霊的な交わりを通じて、人間の魂の中に、動物の魂が取り込まれ、 神と通じるための役割を担っているのです。それが高度に進化した状態をグラールと呼んでいます。 生前、必死に人間存在を探求してきたのですが、それは、意識と魂を外から観察したものであった、と言えます。 意識の小部屋と、その中で魂に光を与えるために活躍する子猫を見た事は、全く予想していないことでした。 神の家で、クッキーのガイドがあったちから知ることが出来たのです。 クッキーの案内は、私を観察者から、体験者に変え、ビジョンは観察することから、よりリアルなものに変貌したのです。 中略 このように、動物魂は、人間の意識に神の光を導くという、重要な役割を与えられている。 今世では動物に関わらなかったという人でも、今までの数限りない前世では必ず交流があるはず。 動物と無関係な人間など居ない、なぜなら人間は動物を食べて生きているのですから。 私は、それをどう受け止めて良いのかわかりません。 神の家や、自分の魂の座では、動物たちが活動し、神との橋渡しをし、人間の魂を守っている。 その動物たちを殺して、人間は生きていかなければならないという現実です。 それは、人間の原罪以外の何物でもないでしょう。天使は「それは役割なのです」とだけ言いました。 つづく、 ピア・スピリチュアル |