それは、人が生きているそれ自体がアスペクトであるからだ。類魂のカタストロフィーの様に三つの変数によって定まるものではない。
類魂の数だけアスペクトがあるのだ、その多様性を論理を立てて記述することは出来ない。カタストロフィーはその最も単純な事態に付いて示しているに過ぎない。
因果的志向性は心ではなく、概念の塊である。言語ゲームはこの概念の塊を消失させる。その意味で心霊科学は超心理学とは違う立場にあるのだ。
主体性の無くなった命題が、つまり命題自身がアスペクトするのではない。人の側にもともとアスペクトの心像が生じていて、
命題を見ることでその心像が命題に投影されそれを知覚としてしまう。
命題の記述内容とは別に、自らが命題に与えた意味を知覚した、それはまさしく、“かがみ”ではないのか。私たちは命題に自らの鏡像を見た、それがアスペクトである。
人で言うなら、彼女の場合、彼女はどこから見てもただの主婦だが、所与により使用の仕方が違ってくる。
彼女は私の所与によって心霊科学者としての執筆を行っている。
これが人のアスペクト変移である。
もし人間の全存在がアスペクトにより成るとしたらそれはどんな事態か想像してみよ。そう、それが器の「私」なのである。
更に器に徹するなら、いま私が述べている心霊科学的探究も必要無くなってしまう。鏡として表出する事に専念すれば良いのである。
所与されているのであるから、人の浅知恵で、右往左往する必要はないのである。と言う訳で、類魂のカタストロフィーは、命題が¨かがみ¨になる事態を示している。
それは物霊に因ってなのである。類魂のカタストロフィーを一つの複合命題と考えて、(x.a.b
)の一つ一つが要素命題なのだ。
根本命題である物霊aが活きている実体であることを示している。
(私は、神を姑息な論理の牢獄へ押し込めようとしているのかも知れない。もしそうだとしたら、巷の自称救世主と同じではないのか,…)
|