心霊科学のための言語ゲームの概要

ウィトゲンシュタインは言語ゲームの全容を明らかにするよりも、示す事に主眼を置いてた。
彼にとって哲学的探究とは、枠で囲む事では無く開示する事であったからだ。
その為に、他の人が彼の言語ゲームを完全に理解しようとするのを難しくしている。

心霊科学の記述可能な部分はカタストロフィー理論で形式化できるが、心霊の殆どの部分である記述不可能な部分をどうするかが問題である。
観測できる対象にだけ拘るなら自然科学と同じになってしまう。私は言語ゲームの成熟した姿が類魂であると考えている。
であるから、言語ゲームの特質を明らかにする事で心霊科学を可能に出来ると信じるのである。これは飽く迄も心霊科学の為の言語ゲームの概要である。


使用に着目した場合、各要素命題には共有する根本命題がある

それは命題の主体性の否定を意味し、要素命題が言語ゲームに使用されている事態である。
人の場合は世界像として与えられる。命題は色々な場面で多様に使われる事で意味を持つ、類魂に所与される人間は生きることそのままが意味である。
言語は使用されることそれ自体が全てである。ウィトゲンシュタインはその使用の多様性を文法と言っていた。
心霊的に、使用されるとは、神の身体の一部となって神に与えられている事を意味する。
であるから、ウィトゲンシュタインの言う「それは正に使用される」は要素命題が器になることを意味する。



記述について、それは概念の否定

各要素命題には家族的類似性が有り、互いの繋がりは無い。これは実は¨よこの類魂¨の特徴を示している。
よこの類魂は類似した者達の集まりであるが、守護霊は同一ではない。
各要素の間には断絶があり連続性はなく、互いに孤立している。であるから、それらを「〜は〜である」という記述命題と同じものとして捉えてはいけない
(*つまり=で結べないと言うこと)それを家族的類似性と呼んでいる。ウィトゲンシュタインは数も同様に家族的類似性があると考えて、
数もそれぞれ独立しているので連続性は無いから集合論は正しくないと主張していた。彼は数も、文法的言語と同様の記号だと思っていたのである。
確かに、集合論がそのままの意味で成り立つには記号とは違う何かが与えられなければならない。
しかしながら現象の世界でそれを求める事は難しい。(*先稿に出てきた実在する近傍のことらしい)

そこで以上の特質を持つ形態の中では、次の事が可能となる。


“自己確認の可能性”

「霊を見る」と「物を見る」とはどう違うのか、つまり物は見えるのになぜ霊は見えないのか、である。物を指し示すことを直示と言う。
「これは〜です」と相手に教えることであるが、この場合、相手と自分の生活形式が同じでなければ意思の疎通は出来ない。
そう、言語ゲームがあるから直示できるのである。自分自身に対して直示すると自己確認となる。
これも私たちの日常では当たり前の事であるが、哲学的科学的には難しいものであると先に述べた。
しかし、日常の常識とは言っても事実上は「私は〜である」と言うのは、身体の「私」を示しているに過ぎない。
それでは霊を直示できないのか、である。
私と彼女と、彼女の家族とは同一の類魂内にあって、殆ど同じ内容の所与が有るにも係わらず、
彼女には私が知覚できるが、他の者には出来ない、その差は歴然としている。
家族的類似性の中では、各要素命題は互いに閉じている。つまり、それ自体ではなにも出来ない仮死状態の命題なのである。
それらを機能させ使用するものが根本命題であるが、物を直示するとは、根本命題を共有するのではなく、
逆に共有する要素命題があるから物を差し示す事が出来るのである。つまり人と人の間で直示する場合は、
人が物に対して根本命題として働いて物を使用したのである。とすれば共有する要素命題があるから直示出来ることになる。
そうであるなら、自己確認は身体の「私」しか示せない。おそらくこれが、「霊の証明」に関する本質で在ろう。
直示に付いては、「霊」は直示できる要素命題ではなく「私」と同じ働きをする根本命
題なのである。
そんな訳で、霊を直示する、つまり霊を実体の有る何かとして¨見せる¨等とはおかしな事になる。不可能と言うよりも、その要求そのものが無意味なのである。

また、類魂の言語ゲームでの「私」や「自己」は現象学でのそれとは全く異なるものである。
しかし言語ゲームに於いてこそ本来の自己を問える。器の「私」を認めることは、自我の「私」を消し去ることである。
その後で無ければ人は互いに通じ合えないのである。
人が人に直示するとき、それは物を示して「これは〜である」と言うが、
これは「物」が言語ゲームの乗物となって人と人の間を行き来するのである。つまり「物」が命題となり器となって動かされている。
その様な意味で物の背景となっている言語ゲームを物霊と呼ぶ。



根本命題とは

検証できないがそれ無しでは私たちの生存が成り立たない命題のことである。

例えば、「地球は百年前もあった」
      「私は死ぬまで人間である」
      「私は銀河の外へ行った事は無い」

などである。こう言う当たり前の事柄を科学は対象には出来ない。これは言語ゲームに属するものなのである。
全人類が共有している根本命題の総体が私たちの言語ゲームの基盤なのである。(*L君はそれを世界像と言っています)



“アスペクト変移(知覚)”

言語ゲームの世界、即ち主体性を消失した命題とはどんなものなのか、これは心霊科学であるからストレートに考える事が出来る。
現象の世界に捕らわれていると中々難しい。しかし現象の世界にも類似した形態がある。それがアスペクト知覚であるが、やはり一つの関心事として、
如何にして心霊を記述的科学と結び付けるのかである。そこで、アスペクト知覚をカタストロフィー理論と志向性の関連で多少の説明をする。

アスペクトについて、有名な、ウサギーアヒルの図があります。良く見ると、うさぎにも見えるしあひるにも見える。
この図を命題の一つとして考えると、記述内容は変わらないのに、人によってうさぎに見えたり、あひるに見えたり、両方同時に見える人も居る。
これは明らかに記述命題とは違う。つまり、この様な“見え方”については検証したり、真偽は問え無いことになる。
このアスペクト知覚はその命題がある言語ゲームに属しているから認められる。『哲学的探究』にはそこまでしか書かれていない、
哲学だから当然ですけど。ではそれを心霊科学として考えよう。このアスペトの“見え方”の知覚は、
視覚と思考が絡み合ってアスペクトのうさぎやあひるになるのですが、それを一般的に志向性と言っています。これは人の内的活動全体を差す言葉の様です。

志向性の研究をする最先端の科学が認知科学、人工知能の研究です。
認知科学は志向性をどう考えているかと言うと。
脳の中に外からの刺激がインパルスとなって大量に入力されますが、中枢神経系はそのインパルス全部を一度に処理出来ないですから、
ある特定の情報に関連のある感覚に注意を向けます。その収束の数学的モデルが“ゆらぎ”です。
インパルスのゆらぎの中からある所に収束して、その収束が知覚となり、その知覚の総体が人の心になるのだと言う。
ウィトゲンシュタイン的な主張ではこれはおかしい。インパルスの一つ一つは独立した記述命題なんです。
図にすると波々になっていて繋がっている様に見えるけれど、実際には類似しているがバラバらのシグナルなのです。
それを私たちは知覚として、何か纏まりのある、実体が在るように思ってしまう。この様なバラバらの情報を何故私たちは統一的に知覚するのか、
何故私たちはバラバらの情報を扱っているにも関わらず、自己という意識に途切れがないのだろうか。
L君はそれは器の私が働いているからなのだと言っています。行為を表出する器の私が自覚する私を一つに纏まった私として与えているのです。

つまり志向性に付いて、一般科学と言語ゲームでは見方が違っています。今までの考え方では行為にはそれに先立つ原因として意思の作用が在って、
それは因果説なのですが、言語ゲームでは行為の原因としての何らかの実体としての精神は問題にしないで、
行為するそれ事態が志向性を実体化するものであるとしている。恐らくこの因果説的志向性と言うのは、超心理学の扱う精神の事だと思います。

そして因果説的志向性はカタストロフィー理論につながります。数学のテクニカルな所は分からないですが、
志向性のゆらぎがカタストロフィー的になって行く場合がある訳です。



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