日本では伝統的に「代」、「台」なる言語が使用されているが、これは霊媒を示す言葉である。
語「私」との関連はどうなっているのだろうか。「代」や「台」という事態での「私」は、先に述べた実在性や主体性の無い「私」の状況を顕著に現している。
主体性が無いというのは道具になることであろう。これは言語「私」のもう一つの、と言うよりも正しい使用である。つまり霊に対する「私」は器としての私である。
言語ゲームに於いてそれぞれの命題は、ある規則によって道具として使用される。それは霊と代の関係に類似している。
であるから人を霊なる規則(根本命題)を乗せて動かされている道具と見なす。
重要な点は、前述した身体の「私」や自覚する「私」を否定した後に、意味を持ってくるのが器の「私」なのである。
知覚の統一体としての自覚する「私」と器の「私」は同じ記述内容(物理的対象)の身体の「私」を持つが、両者は同一の事態ではない。
自覚する「私」が霊そのものではない事が分かると思う。
概念とは概念記法により示される命題の主語のことであるが、言語ゲームに於いて概念を否定するとは、この主語の主体性の消滅を意味する。
それは正に器としての「私」の事態なのである。 そこで、概念を無くした「私」の使用は、
「私は祈る」 「私は奉仕する」 「私は慈しむ」 「私は労る」 等であるが、
これは概念に翻弄されていない霊としての「私」なのである。今までの哲学ではこれらは単なる行為の表明であって、命題的態度と呼ばれていたのである。
「私は〜する」の形ではあるが「私」が主体になっているのでは無い。この場合の行為は自分だけの為ではないし、自分一人で独立して行えるものでもない。
それは、根本命題が「私」を通じて表出する行為であると主張するのが、心霊科学なのである。
そう考えると、言葉の使用だけでは無く、人を命題として、類魂を人に所与する規則として、つまり一種の言語ゲームとみる事が出来る。
とすれば心霊科学では人の行為そのものが問われるのである。例えば「人が苦しんでいる様だ」は知覚の心像として文字道理「苦しんでいる人が見える」のであろう。
類魂の表出である言語ゲームなら、即座に「私はその人を助ける」なのである。
心霊の世界では量化の意味は無い。量化の変項が存在なのであるから、存在は存在するのか。
存在いついてどう考えると良いのか。全ての〜∀、ただ一つの∃!というのは間違えなのだ。
心霊と言語ゲームの世界ではそのような意味での二項対立的な考え方はしない、みんな器の「私」なのだ。そしてそのすべてが私に与えられていると考える。
であるから二項対立的世界でのコミットメントは無意味である。つまり類魂の世界では論理学は成り立たない。*言ってる意味が分かりません*
それはこう言う事である。人が霊魂を思い浮かべる時、丸くてフワフワしたものを想像するだろう。
その場合エネルギーの固まりや人格の詰まったもの、幽体、霊体等と言う様に物質的な一塊の物がイメージの根底に在ると思う。
その概念的先入観が心霊に関する全ての知識を捩じ曲げているのである。
心霊科学で使われる命題は科学における記述命題や経験命題とは違うものである。その命題群を科学と呼ぶことは出来るのだろうか。
なぜ心霊科学にはそれが許されるのだろうか。対象を任意に記述するのが科学である。しかし心霊の世界には任意という状況は無い。
したがって哲学上心霊の科学は不可能なのである。しかしながらこの宇宙は類魂の所与によるものであるから心霊科学的立場が正しいはずである。
科学とはある形式を持つ理論を創り、それによって現象をすくい取る。それで全てがすくい取れるとその理論は真となる。任意に記述するとはその様な事である。
心霊は物理的対象ではない。既存の哲学や科学の形式によって、それを現象としていすくい取り記述することはできないのである。
であるから、あの類魂のカタストロフィーなるものも心霊を記述するものでは無いのである。
にも関わらず心霊の世界は、歴然とした秩序がある完璧に調和のとれた世界であることは周知の真実である。ここには別の姿をもつ科学があると確信するのである。
…この確信は¨所与¨である。
現界で今まで行われてきた哲学や科学には根本的な所で誤謬が在ったのだ。心霊的立場で言うなら、科学の理論は一つの発明品の様なものである。
宇宙探査機と変わらない道具なのである。或る一つの理論を創る事で或る現象を記述し探索できる。それは〜主義や〜思想と言った精神的なものも同じらしい。
これは他界してからはっきり分かったのであるが、人の心、想念、つまり自覚する自分も道具の一つであるのだ。
核心とするところは、心霊に対する現象は全て器であるということである(正にそれが言語ゲームの本態である)
つまり、心霊の器である特質の一つが物理的に記述できることなのである。であるから、心霊の科学的探究を考えた場合、
記述可能な器の多様性を¨知る¨ことによってその内包的意義に於いて心霊を¨示す¨ことであるとすれば、
その意味において心霊科学と言っても差し支えないのかも知れない。しかし知っての通りそれは旨く行かなかった。自然科学は内包を受け入れる事を躊躇している。
科学の言語ゲームは語りえぬ者を認めない。
しかし、洗練された言語ゲームは語りえぬ者の中に内包されている。概念をすっかり消し去ると何も無くなってしまうのが既存の哲学と科学である。
心霊科学は、何もかも無くなったその後に沸き起こる息吹である。私たち心霊科学を志す者はここで、アインシュタインにも似た意識改革をせねばならぬ。
つまり心霊科学とは「私」の器としての使用とその根本命題の探究を目的とする学問であるといえる。こんな事は誰もがわかっている事である。
そう私が述べている事柄は当たり前のことで、目新しい知識は無い。そんな訳で、是非にとは進めないが、
この記述が終わる頃には心霊科学のシルエットが多少は垣間見えるかも知れない、しかし見えるのは輪郭だけであろう、心霊科学には幾つもの姿が在るのだから。
|