・「私」と言うもの

物事を見極めようとするなら、先ず言葉の使用について考えると良い。諸々の事態の本質的所与が、私たちの使っている言語に反映されているからである。
それなら心霊はどうであるのかである。
言語としての「霊」の使用に付いて今まで心に止めた事は在るだろうか。
「霊」を語るときに人は霊をどの様に理解して使用するのか。「霊は存在する」と言う時に人は「では何処にいるのか」と問う。
この時「背後にいる」、「(部屋の隅を差して)ここにいる」あるいは、「私の腹中にいる」と答える。
腹中にいるにしてもそれは、医師の診察に対して患者が自分の身体を指して「ここが痛い」と言うのと同じで、自分とは離れた所にある、
自分とは別の何らかの実体と感じている。このような場合の「霊」という語の使い方は正しいのだろうか。

人間の身長や体重、血液型、DNA配列などは物理的対象である。この人間の物理的対象となるものの一つ一つは人体のある状況を示すものである。
“物理的対象”の場合は、例えば、「この現象の物理的対象となるものは速度である」のような言い方が正しい。「霊」なる語はどう使うと良いのか。

そう、専門家と呼ばれる者でさえ無為に語の使用を誤り道に迷う事が多いのである。「神」「霊」「自己」等の語は、
私たちにとっては重要な働きをするものであるから、使用方法を間違えてはいけない。

いま述べた、言語「霊」は物理的対象に近いものであるという思い込みがあったのではないか。だから「それは何処に居る」と問えるし、
それに対して「ここに居る」と答えてしまうのだ。ここで注意することは、物理的対象となるものは、
ある全体の中から¨量¨となって抽出れるある一つの¨表示¨であって、現象の全てではないということである。
無論、物理還元主義者はそれが全てであると信じている。
命題は使うことによって意味を持つのである。
無制限に真偽を問うことが¨正義¨であると言う思い込み同様に、世界のすべてが記述可能であるという幻想を持つ者が居るのだが、
そういう者は自分の全存在が遺伝子の配列によって定められていると本気で信じているのだろうか。

例えば彼女の場合、彼女が川崎久美子本人であると証明出来るものは何もない。家族が証言したとしても絶対に正しいという確実性は無い。
全員が嘘を付いている事もあり得る。公的機関の身分証明書があっても、そこに記載されている事柄と本人である同一性とは別のものなのだ。
今流行りのDNA鑑定にしても、それが一致したからと言ってDNAの配列が人間の全存在なのだろうか。

人の証言にしても身分証明書やDNA鑑定にしても、それは社会のルールとして、それで身元を証明したことにしょうと決めただけで、
自己の同一性を問うことは、哲学的にも科学的にも意味の無いことなのである。それは┌霊の身元を証明する┌ことも同様である。
私たちは日常生活上の常識から、単純に自分自身の身元が証明できると信じ込んでいたのである。
つまり人には、身体が示す「私」以外に本人が自覚する自分である「私」があるわけだ。
その自覚する「私」が「霊」であると思い込んでいる事が心霊科学に混乱が生じている大きな原因であると思う。
自覚する私とは目覚めている意識の事であろう。つまり知覚の統一体としての「私」なのである。
この知覚は物理的因果関係によって外的対象と心像か結び付けられている意味での知覚なのである。
かつて物理的に実在する外的対象と区別した心像を考えようとして、感覚与件なる概念があったが、これは哲学上の誤りである。
それと同様の間違えを心霊科学も行っている。
知覚の統一体としての「私」には実体性が無い。もし実体性があるなら物理的に記述できるはずである。
私たちは何故かその知覚の統一体としての「私」に主体性を持たせたがる。そしてこの様な哲学的曖昧さの為か、それが霊なのだと結論してしまう。
外的対象に由来する知覚を寄せ集めてみても、それに主体性があるはずは無い。であるから自覚する「私」を主体として自覚するのはおかしい事であるし、
それに対して非物質的という意味での霊を認める事も正しくは無い。
霊は物質の根本命題(*物霊?)であるが、非物質では無い。
これは物質やそれを前提とした非物質、つまり一般的な意味での霊とは異なる、ある存在ということである。
そう考えると、実は知覚の統一体である「私」が身体が示す「私」に存在の確実性を与えているのである。
その場合前者の「私」を非身体とは言わないだろう。そしてこの様な事態を言語ゲームと呼ぶのである。

一般によく耳にする唯物論や観念の概念も知覚や私、対象に付いての間違った見方によるものである。知覚の統一体としての私の根底には(感覚与件にしても)、
外的対象と知覚内容が一致するという前提があるが、実体性の無い知覚を、外的対象と同一の論理形式を持つものであると考えるのはおかしいのである。

外的対象の実在性を重視するのが唯物論、知覚内容の独立性を主張するのが観念であるが、何方も探究の出発点が正しく無いことがわかる。
では霊をどう考えると良いのだろうか。
身体の「私」にも、自覚する「私」にも霊は無いのである。「私」には霊は無いのだろうか‥‥。これが哲学の限界である。


ピア・スピリチュアル