・想念の法則(マーフィーの法則等)は社会環境のアフォード
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人の社会のアフォーダンスを考えると、金銭や地位、人脈等は社会環境のアフォーダンスの知覚という事になる。
金銭なら金に関するアフォードを上手く知覚して行動できると金持ちに成れる。それがよく言われる「想念の法則」なのである。
人の社会をアフォーダンス的に観ると、社会環境のアフォーダンスの知覚を一早く受け取る者は、世渡りが上手く願い事が叶う。
しかしそれは馴染みの言い方をすれば、業が増えると解釈できる。前期類魂論ではそれが物霊で在った。
物霊が無くなると物が不足してしまう。身体は病気になるだろうし、社会的には貧乏に成るだろうと言っている。
人の社会に関してはアフォーダンスと物霊は同じであるとしても良いのではないだろうか。そうなると環境と類魂をどう捉えて探究するかが問題となる。
これは言語ゲームの範囲を越えるので次回、心霊の世界に対し別のアプローチを試みてみる。
「想念の法則」も一つの確実性である。しかしアフォーダンス的には、その主体は社会に在る。
社会的に成功する事が救いであると思っているのなら、それはそれで良いが、私たちの主体は類魂にあるはずなのだ。
では類魂に於いて救われるとはどんな事であるのか、それはずっと述べているが中々納得できないで居る。
私の心の凝りと言うのは、環境の確実性と類魂の確実性は一致していない、寧ろ対立している様に見える点である。
こう見えるのは私が未だ向上していない為かも知れない。
前期の類魂論では、環境即ち現界の確実性が与えられていると物質的に豊かに成るが、一方霊的には徳が減ってしまう。
全くその通りであるがこの論法をそのまま進めると因縁論に行き止まってしまう。祖先の悪行が子に報いると言うものである。
その論理の中には救いは無いと既に示している。仏教の信奉者はだから解脱するのだと言うであろうが
解脱そのものの心霊科学的信憑性が明らかでは無い(解脱は自覚する「私」が解脱するのであるから、
概念の形態であって心霊科学的懐疑の可能性がある。しかしそれが心霊科学に利用出来るかどうかは分からない)
類魂の中では被害者も加害者も無く、類魂のその時々の状況を現象として表出しているだけで、
ただ人は無心にその役目を果たすのみで在るという事は理解するが、今一つ説得力に欠ける。私は、如何に正当な理由であっても、
否定的事態を肯定したくは無いので在る。類魂の中で物霊を放し向上する事は、社会環境に於いては不幸になってしまう。
この考え方の何処かに誤りが有ると感じる。環境の確実性と類魂の確実性は対立するかの様に見える。だから救済の構造を探究する上で迷ってしまうのだ。
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