既存の科学は閉じた志向性を扱ってきたが、アフォーダンスは開く志向性(*この言葉は使えないかも知れない)なのだ、
そしてそれが物霊である。物霊が特異な実在なのはこのためである。概念に見えるが開く志向性を持っている。
アフォーダンスは開く志向性に名付けたものである。類魂の様に次々と事象が連なり、途切れ目は無い。
概念は閉じていてバラバラだから、ある一つの物を特定して取り出す事が出来る。アフォーダンスではそれは出来ない、ある一つを掴もうとすると、
芋づる式に次の事象が連なる。つまり概念の世界である環境が、器の身体を形成(生物)する、
それは環境内のある関連したアフォードを知覚できる器であるという事だ。環境は何故その様な身体を志向するのか。
否、そうでは無い、概念がアフォードするのではない、元々環境の本質は言語ゲームだったのだ。
生物はその一部の情報をアフォーダンスの知覚として与えられるのである。そう考えた方が理解し易い。
私は心霊科学的救済の確実性に付いて述べているので在る。心霊科学的救済は、身体の「私」や自覚する「私」を救う為のものではない。
身体は医学に任せると良いし、精神は信仰にせよ癒しにせよ、結果的には満たされると良のである。そして器の「私」には心霊科学的洞察が不可欠である。
生物の身体は物理的対象としての身体ではなく、器として観るなら、アフォードする環境も含めて器として考えられる。
つまりアフォーダンスする環境の中から生物の身体だけを取り出す事は不可能なのである。
環境が生物にアフォードし、進化を促したと言うよりも、環境それ自体が生物という器を造る段階にまで成長したのだと解釈できる。
地球環境がそのアフォードを知覚する生物を創造し、終には人間も出現した。それは地球環境の“成長”なのである。
環境はなぜ器の「私」を造ったのか、今この論述で言える事は、地球は物理的に記述する物では無く、私たちにアフォードする、活きている環境であるということだ。
私たち器が出来たのは地球環境の成長の証なのかも知れない。であるとしたら、地球環境の成長の証である人間は何を求められているのか。
そう、“物霊の浄化”であろう。しかし物霊とアフォードが一致する事について説明が不十分である。
環境のアフォーダンスに関して生物には主体性は無いつまり、生物の為に環境が在るのでは無い。
環境が自分自身の為にアフォードし、それによって私たちは行為し、進化する。このアフォードと物霊が同じもので在るとしたらどの様な意義が在るのか。
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