本来のアフォーダンス

心霊科学は正にこの当たり前の行為を探究の対象としているのであるが、それを論理だの哲学だのと弄る方がナンセンスなのかも知れない。

認知科学のアフォーダンス理論は勿論、類魂は必要としていないから、人は環境からアフォーダンスを与えられるだけの、行為する機械である。

其処から類魂に向かうとはどの様な事であるのか。


将来、アフォーダンスの研究が進んで人の日常的行為が科学的に解明された時、間違えなく人の本質である心霊にも及ぶはずである。

論理形式が同じであるから、通常は記述科学に還元されてしまう、そしてやはり心霊は無かったのだという事になってしまう。

我々は、科学を利用はしても飲み込まれてしまう訳には行か無い。


其処で私は、類魂論とアフォーダンス理論を区別した上で包括的に捉えなければならない(それで心霊科学の道が開くのかどうかは分からないが)

類魂も環境のアフォーダンスも自覚する「私」にその場がある。先に述べているが霊能者はこれを日常的に区別している。

そして進化に関わるアフォーダンス、それも環境のアフォードだけでは説明できない何かがある。



*浅間先生はそれを念と言っている?結局の所、それが究極の問題である。精神と心霊の区別を付けることだ。

知覚の総体が精神というなら、精神は自覚する「私」である。自覚する「私」と心霊を同一視すると因縁論に陥ってしまい、其処から小山君的救済に向かうのは難しい。

私もそうであるが、心霊を探究する研究者が霊能を良く理解しないで先に進もうとするから行き詰まってしまう。





ピア・スピリチュアル