心霊科学上の問題は概念の場で論じる事は出来ない。救済もそうである。概念的に救済を考えるなら、どう遣って救うとか、
誰が救われて誰が落ちるのか等と無意味な思いに至ってしまう。所で、低級霊と呼ばれる者と高級霊と呼ばれる者の本質的な違いを考えた事は有るだろうか。
人霊で有りながら何故低級霊に成ってしまうのだろうか。
私たちは物理的情報を知覚して行為するが、同様に類魂の所与によっても行為出来る。であるなら、類魂による行為に関しても知覚と言っても良いのだろうか。
しかし、類魂による知覚と物理的情報による知覚をどう区別すると良いのだろうか。霊能者と呼ぶ者達はそれを日常的に、即座に出来る様である。
何故、霊能者にはそれが許されるのだろうか。それは霊能者が救済の道標であるからだと思う。
霊能者が物理的情報と類魂を区別する構造と心霊科学的救済の確実性には類似性がある。
自分でこう発言して置きながらでは有るが、これは非常に難しい論点である。これは心霊研究とそれから連なる日本の心霊科学の出発点である。
ここで誤れば、今まで先達が果たして来た心霊に関する知識の全てを崩壊させてしまい兼ねないのである。
*また少しL君はスランプです。今私はSpeedを聞きながら遣っているけどこれは物理的知覚。お腹が空いて何か食べたくなってきたのも物理的知覚。
これは内的たなものでしょうけど血中の糖の濃度を調べれば客観的に分かるから物理的です。そしてL君をまつのは類魂的知覚だと思う。
所で、L君の母国語は英語では無い、でも生前は使っていたと言う。私の心の中にはミイラ化した受験英語しかないのですが、
それでもL君の生の声が聞きたかったので英語で試みようとしたのですけど、やっぱり駄目でした。私の英語に付いての概念が不完全だったからだと思う。
つまり器として充分に耐えるだけの英語の概念が無かつたのです。でも、英語の器は無くても他の器は有る。
神や心霊に付いての知識とか、科学や宗教に対する認識とか、それにそう言う知識は直ぐに勉強する事が出来る。
これ等の知識も言語で組まれているものだけれど、それに関する類魂の言語ゲームの、共通の世界像が、L君と私には有ったのです。
でも外国語だと概念的に習得するのに時間が掛かる。だからこの仕方になったのだと思う。L君も私も互いに相手の母国語を習う必要が無くなったから、
それは楽なのですが、お陰で私は専門書の山と格闘しなければならなかったのです。それでこれが類魂的知覚であるならどんな事なのかしら*
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