「客観的に事実である」とか「絶対に間違えの無い事実である」と言うのは互いに言語ゲームを共有していなければ言明は出来ない。
現象の世界は家族的類似性の為に確実性は全くあり得無いのである。にも関わらず「科学的事実は確実である」と主張する。
それはある科学の原理という言語ゲームに属する事柄であるから確実性が有るのであって、その科学的事実自体が絶対的な事実という訳では無い。
確実性を主張する場合は、その科学的事実の背景となっている科学的原理を明らかにしなければ成らない。
現象の世界の家族的類似性は、現象の側に居ると想像が難しいが、心霊の側から観るとはっきり分かる。事態は一つ一つバラバラで、事態の間には結びつきは無い。
何と言うか、フィルムの一コマ一コマの様に互いに独立していて、しかもごちや混ぜのジグソーパズルの様な状況に成っている。
このまま現象として表出すると家族的類似性となる。
しかし宇宙には諸々の言語ゲームが存在していて、曖昧な言語ゲームから、類魂のように完成された言語ゲームまで多様な言語ゲームの世界が展開している。
それらの言語ゲームによりバラバラの事態が繋ぎ合わされて次第に意味を持ってくる。それ故宇宙には、家族的類似性を有しながらも、確実性が在ったのである。
結局のところ、確実性とはデカルトの言う「我思う故に…」なのである。問題はその我である。今まで述べた事に因れば「我」は無いのである。
では一体何が「我」を思わせるのか。その「我」を思わせる何者かと、小山君の言う救済や奉仕の確実性の背景になっている何者かは同じ者なのである。
勿論、1951年以前の言語ゲームではこれを正当に論ずることは出来ない。言語「私」に付いての認識が足りなかったのであるから、
あの頃のウィトゲンシュタインは「私」と言うものは、人類の歴史を世界像として、重荷や呵責の様に背負わされていると感じていた。
だから「私」が生かされているのは義務と考えていた。発見者でありながら彼は言語ゲームの真実の姿を観ていなかったのである。
言語ゲーム論は所謂、哲学の概念であったが、人の視覚に付いては解明され、科学的事実に成ったそうである。
*認知科学と言うと、アルゴリズムとかチュリングマシン等のイメージが強かったです。つまり人間を計算する機械とする見方。
そうでは無くて人の行為を主題にした考え方がアフォーダンス理論です。階段を昇ったり物を掴んだり、
昆虫の動きをしたり、たまにテレビに出てくるロボットが有りますが、
ああいった人や生き物に近い行為をするロボットの為の理論なのです。それは計算する機械とは全く違った考え方なのです。
アフォーダンス理論は1980年代から研究されているらしいですが、霊の先生が認知科学の勉強をしなさいと言うので、
手当たり次第に関係の本を調べてこれに行き着いたのです。
提唱者のキブソンははっきりとは言っていませんが、間違えなく言語ゲームの影響を受けていると感じました
(アフォーダンス理論で超能力や気を考えると面白い結論になるかも知れない)
それでアフォーダンスとは何かと言うと、人が環境から受容する言語ゲーム的情報じゃないかと思います。
ギブソンはその情報の内、視覚と行動に付いて科学的に明らかにしたのです。
この勉強をしている途中で浅間先生のものを読めと言うのです。浅間先生の主張は恐らく環境と進化に関するアフォーダンスなのではなかと思います。
その観点でブルーバックスの論文を書き直すと環境のアフォーダンスと進化に付いての重要な示唆になるのかも知れない。
まだ漠然としていますが、何となく点が線に成って行く様な感じです。類魂と人の進化、行為とアフォーダンス、
霊と念等が言語ゲームによって一つに結び付いて来たみたいです(嫌、言語ゲームだけが全てでは無い。と誰かが言っている)
この後L君がアフォーダンスから類魂を述べるので参考の為、言語ゲーム的が明らかな所を抜粋します。J.J.ギブソン著『生態学的視覚論』サイエンス社p.110〜111.
「事象の入れ子構造:生態学的事象の流れは、相互に入れ子構造になっている自然の単位から成る。
つまり上位の出来事と下位の出来事というふうに、出来事の中に出来事がある。
単一の出来事を何にするかは選択の問題であり、測度の単位により決まるのでは無く、適切な開始と終結に依存する。
・・・・・連続的事象の入れ子構造になっている階層の最適な例は動物の行動に見出されるが分けてもはっきりしているのは人間が作り出す事象、
つまり会話、音楽、演劇等である。もし我々がこれらの入れ子構造になっている一連の構造を理解出来れば、
事象の成り行きは事象の始まりにすでに暗黙の内に示されていることが分かる。
つまり如何に終わりは事の始まりに存在しているかが分かる。そこで観測者は始まりを見れば終わりを予測する事が出来る」
この予測は科学的ではなく、言語ゲームの中で生じる“分かり”で、何時何分に何が起こるという様な概念的予測ではないのです。
ですから観測者も観測では無くて“展望”なのだと思います。
事象の入れ子構造に付いては、行為が行為を生む事だと思います。視覚と行為は一体のもので、だから“見え”が次の“見え”を生じさせる。
つまりそれは事象の始めと終わりは繋がっているということを意味するのです。この言い方は常識的には変ですが、
今までの科学の根本的態度は事象は始めは始めで独立して存在していて、
終わりも独立して存在していてというもので、だからこそ何時何分何秒に何が起こると正確に予測できるのです。しかし私たちが物事に連続性を感じるのは、
私たちが言語ゲームの中で生きているからなのです。だから良く、どうして私たちの時間は一つなのかという問いが有りますが、
それはこの宇宙の本質が言語ゲームだからではないのかと思います。
「事象のアフォーダンス:ある事象は場所や、対象や他の動物と同じように、私が動物に対するアフォーダンスと呼んだものを持っている。
また、別の事象は場所や対象、他の動物のアフォーダンスにおける変化を含んでいる。火は寒い夜には暖かさをアフォードするがまた、火傷させる事もアフォードしている。
近付く対象は衝突を伴わない接触をアフォードするか、衝突を伴う接触をアフォードするかのいずれかである。例えば軽く投げたリンゴは一方の場合であり。
槍は他方の場合である。古代の人間にとって近づくウサギは食べる事をアフォードした一方で、近づくトラは食べられてしまうことをアフォードした。
これらの事象は刺激では無い。心理学者がそれを刺激と呼ぶのは馬鹿げている。
問題はこれらの事象がどの様にして知覚され得るかに照らして、どんな情報が有効かという事である」
これは言語ゲームであるなら当然の事なのです。L君の超心理学の批判でも分かる様に、私たちの扱う知覚は刺激とは違うシステムなのです。
刺激とそれに対する結果としての行為は概念なのです。刺激の後に反応が起こるのは常識ですが、実はそうでは無く、
人や動物はアフォーダンスの知覚という今まで知られていなかったシステムによって行動するのです。
アフォーダンスはウィトゲンシュタインの言うアスペクト変移に類似するものだと思います。環境のアスペクト変移がアフォーダンスの知覚なのです。
更にP.145
の「アフォーダンスを知覚する事は対象を分類する事ではない」のところでウィトゲンシュタインの名を挙げて、アフォードは概念では無いと述べています。
ですからギブソンは言語ゲームを知っていたはずです(言語ゲームを認知科学に使ったのはよくやったと思います。L君は心霊科学にしょうとしているけれど)
時代の流れは非線形なのでこのアフォーダンス理論も複雑系の物理に向かっているらしい。前述してますが、類魂の世界は複雑系ではないのです。
カオスやフラクタルを新しい科学として持て囃しているけど心霊科学はその数学では無いのです。非線形は物質の世界の本質で、
それを言語ゲームでは家族的類似性と言っている。私たちは物質の中で暮らしているからどうしても複雑系を見てしまう。
アフォーダンスも提唱者のギブソンの時点では言語ゲーム的だったけれど、結局は現象の世界の学説で終わってしまうのでしょう。
でもL君が言うには環境が人にアフォードする仕組みと、類魂が人に所与する仕組みは同じだそうです。
だから類魂に関して論じる時は類魂のアフォーダンスと言って良いのかも知れない。それで、アフォードと類魂をどうするのかしら*
アフォーダンス理論は言語ゲーム的ではあるが、この理論によって人の行為の全てが解明される訳では無い。
何よりも問題なのは自然科学の理論の全てが集合論を基盤に置いている点に有る。認知科学もシステムという集合論が出発点になっている。
しかしアフォーダンスという言葉は使えると思う。漠然とした概念に名を付けて新しい道が開けることがある。 物霊の様に。
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