要するに神は即戦力になる人霊が欲しいのである(他界しろと言っているのでは無い)つまり、生きていてもそうであるが、他界して直ちに背後霊として働ける者が必要なのである。
新しい時代になって宇宙を開発するそうである。と言うことは、その宇宙の資源と共に物霊が人の社会に入ってくる事を意味する。
今までは地球の中の事で済んでいたのである。そうなれば人の社会は増々未成熟な人霊が増えるのは間違いない。
更には遺伝子産業の全盛である。これは医療や人口問題の為とか言うが人の痛みや苦しみを楯に、その影で巨額の資金が動く。
技術というものは、本質的には人の欲望を満たす道具なのである。
宗教的、道徳的批判は別にして、心霊科学的に考えるなら、人の遺伝子を操作する事は人を家畜と同様に扱うことを意味する。
それは人のレベルを動物に迄下げるのであるから、当然人の社会に未発達の霊が入り込み易くなるということである。
つまりそれによっても物霊が増えてしまう。勿論人間は未発達の霊を助けるのが責務なのであるから、それはそれで良いのであるが、
余りにも物霊が増えすぎてしまうと人の霊界だけでは浄化出来なくなって仕舞う。もしもそう成った場合に付いて、私は想像する事は出来無い。
今ここで君達が心霊科学の真実の姿を自分のものとして行う事が出来れば、それは君達だけでなく人類の未来を開く事になるのだ。
心霊科学を志す者が他界してから因縁霊とやらになっていては困る。他界したならば、後に残る者達を導いて遣らなければ行けないのだ。
そんな心霊科学が世紀末とか滅亡とかに脅かされているのでは問題外である。我々は、そうした否定的概念を受けて立つ側なのである。
よく人は「罪も無い人が何故こんな災難に遇うのか」と言うが、では災難とはどんなものなのか。動物達が人に殺されるのは災難では無いのか。
彼らにも犠牲者という言葉を使う権利は無いのだろうか。災難や犠牲者という概念は、現象の世界の対立的構造にすっかり染まり切って居るから感じるのだ。
心霊の世界には災難も犠牲者も無い。ある一つの類魂の中で起きている動的な状況であって、因果論的に関係付ける事は無意味である。
その意味での“全てが自分”なのであって、これは以前から言われて来た事であるが、つまり災難を与えるのも自分だし、受けるのも自分なのである。
しかし、心霊科学としては正しく理解されていないと思う。私がこれまで批判してきた事柄の背景には、業思想という一種の態度がある。
業は心霊科学とは相容れない概念なのである。それをあたかも心霊科学の専門用語の様に使っていた為に、学問上の混乱が生じていたのである。
原因と、その結果としての人間という関係で心霊を観るから先に進めない。人は結果では無い。
そうだとしたらこんなややこしい結果なら始めから原因が無かったら良いのにと思ってしまう。それでは完全な自己否定になってしまう。
人は諸々の事態の結果(*業生?)では無くその類魂全体を表出するアスペクトする命題の一つなのである。そう考えると縁起思想で全ての事態を語る事は出来なくなる。
私は宗教は批判したくない、しかし心霊科学の周辺にある哲学上の問題であるなら別である。
「因縁生起」が集合論の形式を持つものであるなら批判の余地はあるし、さらに自覚する「私」と霊を混同し、器の「私」を否定するなら尚のことである。
あの方が宇宙をどう観ていたのかその胸の内が知りたい。(縁起では世界像は幻だから器も認められない事になるのかしら?
尚、L君はお釈迦様のことを求道者だと思っています)
縁起思想は物事の成因について探究し、その結果それは無いのだ、という主張をする。つまり「縁に依りて」とは言うが、事態を原因と結果で捉えている事には変わりない。
それを否定すると確かに主体の「私」は無くなる。行為が行為を生むこと、「私」に主体性が無くなることに付いて縁起と言語ゲームは同じ事を言っている様に見えるが、
しかし両者の背景となっている言語ゲームは全く違っている。という事はそのゴールも違うのである。あの方は恐らく独我としての「私」を分析したのだと思う。
だから結論として無になる。言語ゲームを認めない独我は何にも語る事は出来ない。その様な意味での無我の境地なのである。
もし私の見方が正しいのなら、縁起の言語ゲームというのは命題を無力化すことなのではないか、つまり死んだ命題にしてしまうのである。
それ以上何も出来なくしてしまう。ある意味では記述命題よりも融通が利かない記述命題には記号としての意味があるから。
この事態を悟りというならそれはそれで良い。私が問うのは心霊科学にとって意義が有るかどうかの一点である。
あの方の生きていた時代は今の世の中の様に、オカルトや迷信が氾濫し得体の知れない団体が蠢いていていたのである。
あの方はそういった輪廻や業に由来する妄想を打破したかったのである。輪廻思想は独我論の一つの形態なのであるから、それに伴って主張される前世や報い、
因縁などは独我の「私」が作る幻なのである。それと闘うには徹底的に「私」という概念を消し去るしかないのである。
あの方(釈迦?)はこの様に独我論の幻を見て「無」と言った。それは記述出来るのだと錯覚されている内的体験の事であり、更にそれに対応するとされる現実の事態のことである。
であるならこの内的体験とは感覚与件のことであろう。あの方は超能力を否定したと言うがこの感覚与件に関する限りは超能力はあり得ない。
言語ゲームの見地からも実在するかの様な内的体験や感覚与件の考え方は間違っている。あの方にはこの哲学上の問題が分かっていたのかも知れない。
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