不死と霊魂不滅

私は最も重要な事態と言うべき「不死」に付いて直接的には未だ述べていない。
やはり始めに問題となるのは「不死」や「霊魂不滅」などの言語が正しく使用されているかである。自我の持続と言う意味での不死ならそれは間違えである。
その意味の不死は概念論的である。
ある枠組の中に在る、複数の個体が同一の特徴を持っているなら、それらの個体に普遍なものが内在すると言う主張。
つまり人間が死んで他界する、その人間の生前の人間と死後の人間に普遍なものが在る。それが霊であるとする。
そしてその事態を「不死」であると言っている。しかしこの様な考え方は心霊科学本来の立場ではない。
なぜなら、概念の場では不死も不滅も無いからである。ただ類似性があるだけで、一見同じ様でも両者は同一の者では無いのだ。
しかしそれでも「不死」と言いたく成る。「私は死んでいない。こうしてここに居る」と言う発言。しかし一体何がそう言わせるのか。
なぜそう言えるのか。「私」という器。それを命題と考える。その一つの命題が様々の意味を持つとするのがアスペクト変換である。


「私」は類魂によって与えられ、類魂の数だけアスペクトするのである。
その時に概念で語られる「私」、即ち自我を全て消し去ると其処には何が残るのだろうか。又その時「私」という命題はどのような意味を持って使用されるのか。
「私は死んでいない。こうしてここに居る」と言う発言。それは神によって与えられたアスペクト変換なのである。
私たちは神に於いてこそ始めて「不死」を語る事が出来るのである。神から離れた「霊魂不滅」は有り得ないのだ。神から離れて何者も在りはしないのだ。

(心霊科学を進めて行くと神が益々身近に成って来る。それはそれで良いのだが、ある意味で私は心霊科学に困難なものを感じている)


今までは、霊と超能力を区別できずにいた。その為に超心理学的に心霊を解釈しょうと試みていたらしい。
「意識は物質に作用する」と言う命題がある。これは意識と物質が共有する言語ゲームを示す事が出来なければ真とは出来ない。
超心理学はこの点に関して何か語っているだろうか。言語ゲームを共有するとは、既存の科学で言うなら論理形式が同じという事である。
物理の論理形式に付いては分かっている。つまり命題「意識は物質に作用する」を真とするには、物理の論理形式を意識に強要する事になる。

それは、意識は物理的対象と同様に扱えるという意義を持つ。つまりそれは感覚与件という概念である。

物理的対象は全体を最小単位に分解して記号化して扱う事が出来る。それと同じ事を観念に求めたのである。
知覚の一つ一つを記述命題に見立ててその総体が心であると考えたのだ。つまり知覚を概念として扱うのである。

*現代の哲学や科学はこの考え方が主流です。でも認知科学に言語ゲームを持ち込んだ、アフォーダンス理論と言うのが有ります。
同じ言語ゲームを使っていてしかも人の知覚と行為が研究の対象なのです。心霊科学に関係が有りそうです*

今までの説明でそれは心霊科学的で無い事が分かると思う。ではE.S.P.なるものはどうか。
私の感想では超心理学は全ての点に於いて事態を甘く観ていると思う。
彼女は喧嘩を売る様な事は言うなと心配しているが、私は心霊科学と明確に一線を画したいのである。
私の役目は物事を根本に於いて批判する事であるので、超心理学で使用されている「知覚」の意味が問題である。




ピア・スピリチュアル