催眠術で前世の記憶を語らせるそうであるが、あれは科学的でも心霊科学的でもない、単なる語りであって飽くまでも心理療法なのである。
あれは科学の実験では無いから、科学的配慮はされていない。あの状況で語られる前世が真実であるなら、
人の記憶に関する科学的にも心霊科学的にも正当な評価が必要になる。もちろんそれも成されていない。
概念の場である自覚する「私」が生まれ変わるのでは無い。だから前世の記憶が無いのだ。何度も言うが自覚する「私」と霊を同一視しては心霊を正しく探究出来ない。
生まれ変わりに関してもそうである。自覚する「私」、詰まり心というのは複数ある事は医学的にも明らかである。しかし常識として私たちは心は一つだと思い込んでいる。
同様に「私」の霊も一つでは無く、無数の類魂より成る。その中のほんの一部が前世や因縁等と言う姿で顕れたとしても、どんな意味が有るのだろうか。
現象というフィルターを通して見るから行き詰まる。心霊のナマの姿を見よ。現象にはただ類似性が有るだけで、同一のものは無いのだ。
つまり類魂の境地に立つなら、敢えて生まれ変わりや報いを想定する必要はないのである。元々全てが内包されているのだから、どんな意味の「私」も存続させる必要は無いのである。
類魂の中では生まれ変わる主体としての自我は無いし、また特定の過去の原因に由来する報いも無いのである。
しかしそれにも関わらず、自分はある人物の生まれ変わりであると自覚する人が居る。その人は何故そう確信出来るのだろうか。
類魂内のある特定の霊の所与を強く受けてその霊の生まれ変わりだと信じるのであろうか。しかし生まれ変わりは自分だけが中心に成されるのでは無い。
類魂全体を展望しなければならないのである。
生まれ変わりというのは、本人が自覚する以外にその生まれ変わりを意味する事はできないのであるから、
本人の確信に於いては確かに生まれ変わりであると思う。しかし、ある類魂全体で何人かの人間を表出するのであるから、霊と人を一対一で関係付ける事は出来ない。
私自身の感想を述べるなら、私は守護霊に対して生まれ変わりを感じたことは無い(分霊の意味は理解しているが)年の離れた兄の様な感じがする。
自覚の有る人が生まれ変わりを感じるのは、むしろ背後霊に対してであると思う。そして恐らくそれは「因縁」に関係がある。
概念論的形式、それは記述する事であるが、「生まれ変わり」や「報い」はそれと同じ形式を類魂に強要しているのである。
前世療法で語られる前世や、霊媒が語る因縁と言うものには、何ら実体性は無い。つまり今此処に在る事実では無い。
と言う事は、物理的対象の様に現実に有った出来事だと考えてはいけない。私たちは人の行為の原因は精神であると常識的に考える。
だから心の中のイメージと現実の対象が一致すると思い込んでいるが、それは違うと述べてきた。
因縁や前世を次々と語るのは、類魂内のその時その時の事態をアナウンサーの様に実況説明している、徒それだけの事なのである。
業想念に捕らわれるなと言うのはこの意味なのである。類魂は生き物なのである。我々と同じように活動し行為する。
その類魂の営みのほんの一瞬の状況を前世や因縁として深刻に受け止めてしまう。それはナンセンスである。類魂全体を展望すべきである。
前世療法で体験する世界や霊媒の語る霊は確かに感動的で魅惑的である。しかし心霊科学は有り難いものでも感動するものでもなく、実践する科学なのである。
そして学問的探究というのは純粋に人の側に許される行為である。神自身は探究の必要は無いのであるし、霊界にも学問上の新発見とか新説があるわけでは無い。
人の側の人間的努力によってしかその道は開かれないのである。私は前世を否定しているのではなくて、認識を改めようと言っているのです。
前生は類魂全体を視野に入れないと駄目なのです。私が思うには、事態がカタストロフィー的になって行くと霊と人が対応関係になるのかもしれない。
それが類魂の中に入って行くと成り立たなくなる。言語ゲームは意味の多様性を認める世界ですが、それ以上にもっと霊界の方が多様な世界のように感じます。
L君の言語ゲームだけではカバー出来ない様に思うのです。
「因縁」に付いて、因縁の原因にされる立場から考えると、因縁と供養の論理が通用するのは、その問題が解決する見込みが有るからだと思う。
もし因縁による報いを避ける為にだけ供養するなら、どうにもならない状況になった時は、手を合わせる気がしなくなるでしょう。
逆に供養される先祖になって考えると、健常者だけの家庭にただ一人の障害者として生まれた人間が居るとして、
そんな身障者は父方にも母方にも居なくて本人だけです。その障害者が他界して孫子の代になって、その子孫の誰かが眼が悪くなったり、
足が悪くなったりして嫌な事ばかり続というので、拝み屋さんに見て貰うと、きっと眼が悪くて足も悪い障害者の先祖が居たよ、
と言われると思う。それでお決まりのご供養になるのでしょうけど、それって霊からすると何かカチンと来る。確かに、霊界にいるその障害者の霊は高級霊では無いけど、
災厄の原因にはされたくない。その障害者の霊だけが悪いんじゃない。手を会わしてくれるのは良いけど、違う。
供養は相手の霊が低級で、迷って居る事を前提にしていて、さあ供養したんだ今度はそっちが加護しなさいって強要している様な気がする。
それに一日何回読経して、何日で成仏出来ると言うけれど、その数字の根拠は何なのかしら、そういう信仰は概念的な訳で、心霊科学とは無縁なのです。
それは漠然とは分かっていたけど、宗教関係の霊能者に実際にそんな霊が出たと言われれば反論出来なかったでしょう。
それは心霊科学の哲学的根拠がはっきりしていなかったからです。そうは言っても霊たちが「寿司が食べたいよ」とか
「身体が痛いから何とかしてくれ」とか言って来ることも有る。私はそんな時は供養してやるんだとは思わないで、労りや感謝の言葉をかける事にしている。
自殺霊みたいに落っこち過ぎている霊は別ですが、少し迷っているだけの普通の霊はそれだけで自然に向上してくれるみたいですね。
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