志向システムとは、志向戦略によって、振る舞いが充分な信頼性をもって予測できるシステムのこと。
人の振る舞いは言語ゲームの中で表出しているのであって、予測しているのでは無い。ある事態は事態そのものであって予測では無い。
志向システムはシステムに主体性を持たせようとするが、言語ゲームにはそれは無い。そして心霊の世界には世界像が放つ光が輝くのみである。
システムとは、関係し合う要素間の集合、要素間の制約仕合う関係、故に統一的な全体を構成している。
またシステム内の複雑系は環境よりも低い。従って言語ゲームはシステムでは無い。
内包や意味、志向性について根本的に誤解がある。内包や意味と因果的志向性を同義とするのは正しくない。
全体がある一つの志向性を呈する事が内包では無い。それは、ある一時的な状況に注意を向けているだけであって、
本来の内包や意味は言語ゲームに於いてでなければ問えないのである。
初期の認知科学、人の行動を予測出来なければロボットは作れない、だからその様な体系になっている(フレーム問題)。
そのロボット用に作られた理論で人を探究しても、人のロボット的側面しか見えて来ないのであるから、
そのロボット的一部分を観て矢張り人は機械なのだと言うのはおかしい。
ロボットは心霊的には物霊を人のより身近な所で利用して上げる点で意義がある。私は人間的な機械は必要だと思うが、逆にその体系に人を押し込めるのは正しくない。
霊は結局は、過去の者たちで在る。志向性と言うならその過去のゆらぎが今に収束すると解釈する。それは業のことで在るのかも知れない。
志向性はある情報=概念を選択する方式に名付けただけの事であってそれに主体性や意味を持たせることはおかしい。
つまり、志向性や業は心の正体では無いし、まして心霊では無い。何時も考えていることは、心霊科学に希望は在るのかと言うことである。
希望とは確実性の事であろう。とすればそれは、私は自分自身に確実性が欲しかったのかも知れない。しかしそんな思いが我々を予言と言う袋小路へ誘うのである。
現象の世界から離れられない私たちの心には、概念的態度が染み込んでしまっている。それは何かに付けて確実性を求める思考習慣である。
そして人が自分に対して確実性を問う時は、特に今の時代はそうであるが、非常な不安を覚えてしまう。これはどんな言語ゲームなのだろうか。
結局のところ予言とはその様なものである。それは滅びを前提とした救いなのである。
自分自身の確実性に対する不安があるから、自分の身の回りの物事全てに確実性が欲しくなる。本当は自分自身が問題の元で在るのに他の者に確実性を要求する。
それで何かとお告げを聞きたくなる。そしてそれにはいつも予言が伴うが、しかしそれで消して救われることは無い。
救いの原動力とでも言うべき器の「私」に気付いていないからである。私たちは活きている命題なのである。
私たちの自らの行為が自らに光を投げ掛けるのである。であるから心霊科学を志す者なら予言に耳を貸す必要は無いのである。
*ある特定の未来があると断定するのは概念なのです。記述論理学の「〜は〜である」と同じ世界なのです*
文法的言語「神」に惑わされては行けない。私たちは活きた言葉(命題)を使うのである。君は言語「神」に生命の響きを感じるだろうか。
出来ないとしたら、それは「神」の使用を間違えているからである。神は最も多様なアスペクトを呈するのであるから、
日常生活の至る所に神のアスペクト変移が見出されるはずである。私たちの目前にある日常の営みの中にこそ答えが在るのだ。
私の言う神は、「神」と言う概念では無く、生身の神なのである。
又それは、創造する神でも、君臨する神でも無い、その神は私たちの世界像の背景を照らす鏡なので在る。
|