釈迦は自我しか見ていなかった。
でも、自我の奥には守護霊、上位の霊が連なっています。
それは業ではありません。
仏教では因縁生起と言いますが、因は自分に内在するもの。
縁は外に在る因縁のことです。
この因と縁が結びついて人が行為するのです。
それで、たて系を内因、よこ系を外縁と考えられないのかということです。
想念と業は同じものであるとすれば、想念するのは自我であるし、たてとよこが結ぶのも自我であるとしたら認知主体はお釈迦様のいう通りに自我になってしまう。私は中枢神経系の情報伝達みたいに下位の自我からの上行性シグナルと上位の守護霊からの下行性シグナルが互いにコントロールし合って類魂が運営されているように思うのです。そのシグナルに相当するものが物霊とそれに対する救済なのかも知れないのです。要するになんとか有機体に持っていきたいみたい。
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