徳と幽体

さて人間は何もしなければ本来救われないのです。救う立場に立って行動を起こす事が、やがて救われてくるということで、一万円出したから一万円救われると言う訳には行きません。弱者が救われる為の心霊科学であってほしいと願うのは良いですが、この法則は変わらないので、自分が何らかの善の行動を起こす事から始まります。本当の救いとは何かと問われていますが、心が救われて行く事なのです。

ボランティアが救われる総てではありません。これはやはり出来る人が遣る事で、救われる人は一部です。しかしこれを出来る人は幸せです。出来ない人でも他の事を考えればいいのです。仏教では六波羅密を行ずる事だと言っています。
健常者が幸福で障害者が不幸であるというのは必ずしも当てはまりません。むしろ新聞に見えている自殺者は健常者ばかりの様な気がします。勿論私の言う事が間違っているかも知れません。しかし人間は所詮何かを与えられていれば何かを奪われている。50 100歩の所でウロウロしているのです。早い話人類全員が救われていないのです。ですから人類全員が救われたいという願望を持っている訳で、自殺して死にたいそれも救われたいからだったのでしょう。人間の魂は高級な部分はどんどん上に昇り、低級な部分だけが下降して人間の皮を被せられているわけで、その内面は業ばかりです。業の軽い部分はすぐ救われて残っているものは自殺とか殺人とか強盗です。

もっと重くなればヒットラーやオームの麻原彰晃の様に人類に害を与えた人が救われないで魂の中に残っているはずです。
この様な人が生まれ変わって人間の皮を被り幸福になりたいと現実の不幸を嘆いていたとすると、それを見た背後霊は何と言うでしょうか、しかし何も知らないで皮を被せられた人間はやはり良い運命で人並みの幸福を願うと思います。類魂は誰にでも、行動を起こした人に救いの手を差し出しているのです。人はそれぞれ違った立場で、その役割も又千差万別となっております。
その中で悩み苦しみ
祈り、奉仕をするのです。するといつの間にか悩みが減り心が淨められ、自らの欲望も程々になり、自己の持っている低い部分の魂も、高い部分の魂も両者を踏まえて物事が見える人間に成っていきます。それにはどれだけの時間がいるかその人によって違ってきます。

人間は絶えず二つの心の間に挟まれて暮らしております。それは高級霊の心と低級霊の心です。これは言い方を変えれば高級霊の建前の心と低級霊の本音の心です。誰でも本音の心は在ります。本音の心ばかりを出してこれを何とかしろと高級霊に迫ってみてもどうにもならないのです。人間はいつも背伸びをし、ヤセ我慢をして、建前を通して行かなければならない悲しい生き物なのです。それが類魂を救う原動力になっているからです。

救いとは何か…、これは各自が自己の魂の中で背後霊と共に悩みながらオリジナルな救いを考えていくことです。決して誰も教えてはくれません。それはかえって邪魔になるだけなのですから。



ピア・スピリチュアル