障害者は救われない?

それは救う立場に立たせられているからです。障害者は生きているだけで物霊の救済を行っています。人間は何回も生まれ変わりながら運命の良い時も、また運命の悪い時もある訳です(類魂5第7図)その運

命が悪ければ悪い程、救済能力が大きいのです。健常者は何かをしなければ行けません。一般には六波羅密(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)を行ずることが類魂救済の原動力になります。でも障害者の居る家庭はその多くが物質的に豊かな家庭が多いようです 

(川崎注 そうとは言えない。それは小山氏の障害者にたいする偏見)

それは障害という業によって、物霊の救済を行い家庭の業を減らしているのだろうと思います。

救う立場というのは自らの分を悟り、行動をその中で規制し、その一生を少しでもプラスにして行こうとするとき救う立場になる訳です。

耐えることは、嫌々耐えるのも耐え方ですが積極的に自己の心との闘いによって耐えて行く方がプラスになるし苦しみも少なくなります。障害者を持った家庭はその人を中心にして家庭を築いて行くことが大切だと思います。私の所にもその様な人が見えて居ります。その障害者は明るく楽しく生きて居ます(平成4年・547 霊界と肉体)

人間が人様の為になるという立場を取って行動を起こすときいつの間にか救われていることに気付くものです。私は以前お坊さんの霊から聞いた話として四つの救われ方が在ると書きました。もう一度書くと、

 一番目は他人を踏みつけても救われる。

二番目は自分が救われる為に人を助ける。

三番目は他人を助ける為に自分を救う。

四番目は人間は絶対の中の存在であるから、救うとか救われるとか    の存在では無い。他人も自分も同一であるから共に手を携    えて発展していく。

人はそれぞれ自分の心が何を求め、何を与えているか考えて行動します。ですからこれ等は人間の心性の高さによって全部が存在するだろうし、その折りにふれてまた考え方も変わって来るかも知れません。私がボランティアをして相手を助けたと実感した事があるかとの御質問ですが、苦しんでいる人がその苦しみが取り去られた時、私も喜びを感じる事も在りますがボランティアは私の生活の一部になって出来る間は続けようという感じで遣って居りました。惰性です。特別に気負い込む事もありません。

私の感覚では救ったり救われたりということに捕らわれている間は救われ無いということです。そんな気持ちから離れてしまわなければいけません。私はボランティアを遣る事によって生じる業の遣り取りの問題で3年間悩みましたが遣っている内にそんなこと忘れてしまいました。そして自分がずっと向上している事に気付いたのです。坊さんが言った四つの救われ方は考え方としてはあり

ますが、こんな事を考えながら遣っている様では、救われる事に捕らわれ執着しているのです。これは救われたい霊が救って欲しいと捕らわれているので、早く忘れてしまった方が良いです。


ピア・スピリチュアル