神の想念と徳の関係はどうなのでしょうか。
神の想念が在るから徳が在るのか、徳が在るから神の想念が降りて来るのか。
神の想念「まこと」であるとして(だとしたら「まこと」の意味するところを考えなければならない)、もしまことと徳が同じなら、
まことは物霊との相補関係によってでしか認められないことになる。
業や徳はある状態であって、神そのものではないから神の想念はコントロールする情報だと思うのです。だから徳と業を旨く操作して類魂全体を向上させようとする想念が「まこと」と考えました。ですから神界に徳があってそれが具現化しても、それ自体には「まこと」は問われないのです。そういう御利益は、例えば学者になりノーベル賞を貰う、政治家になって大臣になるなのでしょうが、その人々はただ徳を表出しているだけで、「まこと」をもつかどうかは別だと思うのです。どんなに立派な人物でも、どんなに優秀な霊能者でも、そこに「まこと」か無ければただの業生だと思います。
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