自我は、器という意味では無主体
釈迦の無我とは意味が違います。
因縁を内因と外縁に分けますが、縦の類魂は当然内因であり、 横の類魂は縁に触れるので外縁ということに成るでしよう。 想念をするのは自我であるとし、縦と横を結ぶのも自我であると言われ、お釈迦さんの絶対無になってしまうとの事ですが、 想念するのは背後であり、縦と横を結ぶのも背後です。 自我霊が器の私に対し想念を送り、縁を結び、その結果器の私が行為を起こす。器の私が選べるのは「どれを選ぶのか」と想念を提示された時に一つ選べるだけです。