こんなご質問がありました。
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はじめまして。難しい話ばかりなのでおそるおそるの投稿です。
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私は以前、平泉中尊寺で偶然お神楽を見て、脳髄を揺さぶられるような衝撃を受けました。
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でも残念ながらどうしてお神楽が気になるのか言語化できません。
−私見だけれど、神楽は神秘劇なんです。
ストーリーも小道具も衣装なんかも神秘に至る象徴です。
ですから、神楽を細かく調べていくと民族学的には面白いはずです。
神事の目的は神人合一です。神楽もその目的にそって構成されています。
神楽を奉納することで、神に降りてもらいます。あなたは恐らく、
その降りてきた神霊を感じたのかも知れません。
それは霊能があると、霊視できますからあるていとど言葉で
表現できますが、一般の方は言語化できない何かとして、
心が引かれるのだと思います。神事では眼には見えていませんが、
祭神が降りてきているのですよ。
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すぐのお返事ありがとうございました。
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ところで可視的な世界と精神的な世界は二項対立的なものなのでしょうか。
−地続きじゃ。対立的に見えるのは、カルマの世界を見ているから。
低我にあるから。
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視覚というものが重視されるのは歴史的なことであり、
絶対的な価値があるとは思えませんが、かといって精神的な世界が
手に取るようにわかるわけでもありません。
−脳は、外的刺激に関する限りは100分の何秒か前の世界に居る。
それとは別に知覚がある。
知覚は内的世界でゲシュタルトしていく。
なぜ手に取るようにわからないのかというと、ゲシュタルトするから。
ゲシュタルトはわかりやすく言うと万華鏡のように変わりつづける絵のようなもの。
万華鏡の中の画像の一つ一つを分析してもしかたないでしょう。
「ああ、きれいだな」って感じるしかない。
精神世界がわからないというのはこれだと思う。
概念的に説明できないのです。
そこで、この場合は外的刺激がきっかけとなって、
知覚が神秘的意味をもつようにゲシュタルトすることを狙っている。
シュタイナーの神秘劇は、実際に神秘体験をした観客が出たという記録がある。
霊能は特別なものではなくて、何かのきっかけで
概念的世界から離れるこつがわかるものらしいです。
でも、うちの旦那みたく全然精神世界を認めない人はだめですね。
音痴とおなじで、霊的知覚音痴とでもいうのでしょうか。
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私が感じたものが神霊なのだとすると、それは霊感が強くないと
はっきりはわからないものなのでしょうか。
−できます。所謂、占の類がそうです。
潜在意識を通じて神霊との交流もできます。
神事ではよく〜占というのがあるでしょ。豊作なんかを託宣するの。
私は、霊能は変動があるので、霊視できない時もあります。
そう言う時は易をします。
占と言うよりも霊との対話ですね。アドバイスをもらうのです。
フーチのように振り子を用いるとその場で霊の状態がわかります。
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