同じ霊同士なんだから、意識(自我)だけで対面できないのか? |
《死後の人間に、人種があったり、人間みたいな形姿でいたり、
性別があったりがする必要がないと思う!あったとしても、
エーテル体とアストラル体を脱ぎ捨てるまでで、脱ぎ捨ててしまえば、
自我だけ!そこには、生前の地上生活では必要だった、
属性は必要ない。だから、あの世から、
この世界に現われるてくる霊は、地上で生きている時には、
必要だった属性を持って現われる必要なんてないのだから、
自我だけで私たちと対面すればいいのにと思ったのです》
>それは¨属性¨ではないですね。自我の自己表現の手段なのです。
分かりやすく言うと学習にい似てます。勉強して知識を養って、
実生活に役立てればそれだけ人生が豊かになります。
¨属性¨は過去世での霊的向上の表出、知識を学ぶと同じです。
何世もかけて霊体にめり込んでいる業を浄化していきます。
その過程で、¨属性¨となって現れます。
実は業は消えて無くなるのではないです。形を変えるのです。
エーテル体に沈んでいる業は経絡を通じてアストラル体の一部に変換できます。
この場合はエーテル体そのものは消耗しません。
霊能力をつかっても疲れないタイプの霊能者はこれだと思います。
業を受けたら直接アストラル体に転化してしまうので、
エーテル体の機能を損ねることが無いのです。
疲れる人は、エーテル体にくっついて、
そのまま物質体に現れてしまうのでしょう。
この業の鍛錬は、霊体にとっては、試行錯誤して学ぶ学習なのです。
その人間が人生経験をつむことで、
霊体の中の業はより霊的な存在へと成長していきます。
人間の役割は、高次の霊と地上の迷える霊たちのパイプになることです。
人間のなかで、高級霊と低級霊が出会い、低級霊を救済していきます。
エーテル体は地上の霊たちの出入り口です。
エーテル体に入ると業と言う形になります。そして自我は高次の場です。
自我が高次の存在とリンクしていれば、
体内で小規模のゴルゴダの丘ができます。地上浄化、
堕天使救済の目的に立ては、自我は高いほど、エーテル体は大きくて、
業にまみれているほど、目的にかなうことになります。
昔から、聖者は一般市民のどちらかと言えば貧乏で、差別されて、
大変苦労する家庭環境に生まれ、つまり業が重い。
にもかかわらず高い自我をもって生まれ、人々を導いていきます。
それは以上の論理によるものです。
¨属性¨は、救済を目指す高次の自我にとっては、逆に必要なものなのです。
というわけで、自我で会いたいのなら、あなたが自我だけになってみましょう。
>これは類魂論でいうと、¨魂が大きい¨といいます。業が重い、
という表現は低級霊が多い。
つまり助けるべき対象の範囲がそれだけ広いと言うことでも在ります。
その状況にある人に高次の魂が降り、低級霊の救済をします。
つまり、低ければ低いほど、霊的には高くなる可能性があります。
ですから、現世的には楽な人生ではないです。
霊体は浄化し向上すると意思を持ち、人の霊から独立して個性を持ちます。
だから、最終段階で自我だけになるときに、霊体を脱ぎ捨てるのではなく、
霊体が一個の霊として人霊から独立していくのです。
それも物霊の一つの在り方です。その後この個性をもった霊体は、
その人間がまた現界に生まれてきたときに背後霊の一員として働きます。
でも、しばらくは見習でしょうけど、
もっと進化すると天狗の門下に入るものや、神の眷属になるものもいます。
何れの場合もその人間と同じ類魂の中で進化していきます。
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