「心霊研究」1998年4,5月号掲載


          類魂論の考察 類魂の本質について





         *類魂の本質についての留意点*




 図10(前号)の段階では、霊とは何かをはっきりさせることができませんでしたが、数学的存在を認めることによって、少しその輪郭が見えてきました。

これまでの考察から、近傍が存在すると積極的に認めたカタストロフィー多様体を「霊」と定義することができます。

そこで、この「霊」を基に図10での仮定を考え直してみます。
すなわち、人は二つの要因、横の類魂と縦の類魂によって近傍を定められ、

それによって行動できるということです。行動する以前は「物」であったと解釈できます。定義により近傍が実在すると認めたカタストロフィー多様体は「霊」なので、

「物」も「霊」になることができるのです。

 更に、近傍を定めるという意味は憑依することです。類魂が人に憑依して行動させます。同様に「物」にも憑くことができます。

神霊が御神体や御弊に依り憑くことや、因縁霊が物品に憑いている場合などです。

従って、行動変数xは人の行動のみを示すわけではなく、類魂全体の現象の場としてのxなのです。

 霊の中には、いろいろな類魂が始めから全部存在しています。私達は、物事は少しずつ大きくなって最大になり、その後しだいに小さくなって終わる

という固定観念のようなものをもっています。しかし、心霊は始めも終わりも無い常に存在するものなのです。

その霊という存在者の中に行動変数xとしての自我が現れるのです。私達が自分だと思っている意識である自我は、多様体内の類魂の中から、

ある一貫性を持って選択されたもので、自我は類魂によってコントロールされているのです。

 

 このようにも考えられます。「霊」(カタストロフィー多様体)を守護霊とすると、行動変数xは人間で、それに作用する要因がいかに複雑に働いても、

人は常に守護霊の統一的支配(全機性)を受けていることになります。行動変数xをまとめると、一つは、人の行動は「物」を含めたたくさんの類魂達によって現され、

もう一つは、その行動は類魂全体からみると常に統一的になされている、ということです(これは存在者の本質といえます)

 ところで、物質化現象というものがありますが、これを物理現象と同義ととらえてはなりません。心霊は存在論であって物理現象ではないのです。

物質化現象はお化けが出る程度の意味でしかないようですが、行動変数xとして解釈すると、類魂という「存在者」が物質化した現象考えるべきです。

 

 私達は仏教用語の業という言葉をよく使いますが、心霊科学として業をどのように解釈するか考えてみます。

私達は前世の業とか、先祖の業が子孫に及ぶという言い方をしますが、このような使い方は業に力があって、過去、現在未来を結びつけています。

つまり、既に存在していない過去と、まだ存在していない未来を実在のものとする考え方(輪廻)です。

これは仏教思想というよりも古代インドの思想で、行為が行為を生むとして行為を中心に考えられ、厳密には霊と関係がありません。

仏教はその行為である業を否定しています。

 心霊科学は、行為(業)は類魂によるものであると認めます。未来の業を生むという意味で、類魂も業と解釈することができます。

ですから、横の類魂が増えるということは、業の量が増えると考えてもよいでしょう。横の類魂は自己を中心にした人間社会での広がりで、人と人との繋がりが大きくなると、

それだけ行為のやり取りも多くなります。それは行為が行為を生むのではなく、類魂が行為を現すからです。

 古代インド思想や仏教での業は、現象を業と考えることで現象に近傍を見いだしていますが、仏教の場合は現象の構造論にとどまり、

また霊は現象の一部であるとして否定しています。行為を生むという点で業と類魂は同じと考えて良いのですが、心霊科学での業と仏教での業は明らかに違います。

仏教の業は、物体の占有する部分しか近傍の存在を認めない座標系の考え方と同じものではないかと思います。

つまり仏教思想と座標系(x,y,z,t)での物体は、それが存在している瞬間、瞬間にしか存在できないのです。以上の説明を簡単にまとめると

 

・行動変数xの゙行動゙とは、存在者の物質化現象であるととらえられる。

・二つの要因と業は現象においては同義であるが、本質的には異なる。

二つの要因が近傍を定めることにより「物」は存在者として行動できる。

 

前世である、縦の類魂からの業としての選択性については、物霊との関係があるので、項を改めます。









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