「幸せへの提言」



−幸せは触れ合いから始まる−



カウンセリングの相談事で多いのが、「幸せな人がうらやましい」「何のために生きているのかわからない」

という悩み事。 要するに幸せじゃない心的状態なんですね。

また、似ている愚痴ですが、「なかなか結婚相手が居ない。家庭をもっている人がうらやましい」

反対の立場ですが「配偶者と家族のために苦労している。独身者がうらやましい」

何か、この愚痴的な本音を並べると、第三者から見ると、勝手な事を言っているな、と感じますよね。

結局のところ自分中心に考えていて、相手を思いやれないようです。

結婚できないのも、自分が結婚できないから落ち込む。でも、結婚には相手が必要です。

その相手はどう思っていたのでしょうか。結婚できないと悩む人は、相手の異性の気持ちが分からない人が多い。

家庭生活が苦しいと悩んでいる人も、悩んでいるのは自分だけと思い込んでいて、他の家族の本心を理解できない人が多い。

(奉仕される側の人は、結婚して満足するらしいですが、奉仕する側になるとストレスが溜まるだけですよね。

結婚して幸せを感じているのは、配偶者が貴方に合わせているだけかもしれませんよ、気がついたら一人になっているかも)


つまり「幸せではない、生きている意味が無い」と愚痴を言う人は、心の中に自分しかいない状態(独我といいます)になっていて、

周りの人間を思いやれない思考習慣に陥っているようです。

心の中に自分しか居ないので、社会的な動物としての人間は孤独を感じて生きる意味を失い、幸せでなくなるのです。


人間は社会性を持って生まれてきています。 一人では生きていけないといいますが、人間には仲間が必要なんですね、泣いている赤ちゃんは、

抱いたりさすってあげると静まりますがスキンシップですね。 マッサージもスキンシップの部類に入ります。

人間は、触れ合うことで社会性を感じて、精神が満たされるのです。




−人間は浄化の場−


「幸せとは何か?」という問いかけがありますよね。 人それぞれに答えがあります。

例えばこんな感じ、

「家族みんなが恙無く暮らせることが何よりの幸せ」

「平穏無事ないつもの毎日が一番」

「とにかく仕事が在れば何とかなる」

「とりあえず、宝くじを当てたい」


この回答をよく考えると、幸せって、自分が置かれている状態や環境に対して言っていることなのでしょうか?

自分の欲求が満足されていて、無事に暮らせる状態を幸せというのでしょうか?


こんな例はどうでしょう、

三十過ぎの青年A君、彼は親に言われるままに良い大学を出て、上場企業に入ったのですが、何故か突然退職してしまい、そのままニートをやっています。

初めは早く次の就職先を探そうと頑張っていましたが、ふと気がついたのです、いのままでも良いのかも知れないと。

親が何でもしてくれるので、無職でも良いわけです。 今仕事をしなければならないという必然性が無いのです。

A君は、親の機嫌を取りながらしばらくブラブラ暮らすことになりました。 彼に「貴方は幸せなの?」とたずねたら

「少しも幸せではない、こんな自分になったのは親の責任。 だから親は俺の面倒をみて当然なんだ」何と勝手な言い分でしょう。

でも実際にA君みたいな人物が居たのです。


A君は、親と暮らしている限り幸せでは無い、と思っていますが、ニートの身分を止めるつもりはありません。楽な暮らしですからね。

A君は、働かなくても親の資産で老後まで暮らせます。 派手に遊ばない限りは平穏に人生を送れます。

でも本人は幸せだとは思っていません。 彼は、自分の居場所が無い、と感じているのです。

職場にも、家庭にも自分を必要としてくれる人は居ない、「自分は居ても居なくても良い存在だ」という考えがいつも頭の中にあり、

その強迫観念のような想念が、A君の周りに取り巻居ていました。 どうしてそんな気持ちになるのでしょうか? 彼が鬱だから? 

鬱と言ってしまえばそれまでですが、Aくんの発言は、震災で大変な体験をしている皆さんにはまったくナンセンスで、話になりませんよね。

Aくんは、家族も生きているし、住む家もあるし、食べるのにも困らない。 被災して何もかも失った人々から見ると、贅沢やわがままとしか映りません。

実は、それはAくんも分かっているのです。 でもどうしても仕事をする気持ちに成りません。前向きな自分になれないのです。

それは、幸せが無いからです。被災した人々よりまったく恵まれた暮らしをしていますが、Aくんにとっては幸せではないのです。

つまり、幸せは、物質的な環境に在るものでは無いと言うことですね。では幸せって何処にあるのでしょうか?


私は、一年間ほど歩けなくなったことがあります。外はもちろん室内の移動も大変で、やっとトイレに行けるという状態でした。

座ることも出来ないので、和室の動作は苦労しました。その時はアパートに住んでいて洋室は無かったので、畳に座らないと暮らせません。

そこで時間があれば、膝を曲げて正座をする練習をしました。もう一つ困ったことは、靴下を履いたり足の爪切が出来ないことです。

健常者なら何でも無いことですが、トイレに行ったり、座ったり靴下を履いたり、日常の普通のことが、誰かに助けてもらわないと出来ません。

しかし、当時は夫とは家庭内別居の状態で、実家も遠く、頼れる人が居ないので、早く足を治そうと決意し、それから私は、毎日自分なりのリハビリをしました。

(整形外科のリハビリ室に務めていたことがあり治療法は熟知していました)


膝関節の周りを丹念にマッサージして柔らかくしながら曲げて行きます。 

痛いのを我慢して曲げ伸ばしを繰り返しました。一年くらい続けて、少しずつ足の状態が良くなってきました。

一番感激したのは、あまり時間を掛けないでスッとトイレに行ける様になったことと、靴下を履けるようになったときです。

それまでは、靴下を履き替えるために身体を曲げると、大変な痛みだったので、同じ靴下を何日も履いていました。

(それから20年たち、結局靴下を履くのがキツイのと、杖が必用になりました)


昔から「失ってみてそのものの大切さが分かる」といわれていますが、正にそれを実感したのです。

トイレに行くのも、靴下を履くのも、正座をするのも、日常のありふれた行為ですが、それが出来なくなって、身体が五体満足であることのありがたみが分かったのです。

つまり、普通に暮らすことの幸せですかね。しかし、実はもっと深い意味があったのです。 「失ったから大切さが分かった」のでは無いのです。

執着がなくなったから、小さな幸せを感じることが出来るようになったのです。

もし執着があったなら、トイレに行けたくらいではうれしくないでしょう。 以前のような元気な身体にもどりたいと焦り、神や世間を恨んでしまいます。


自殺願望があり、神を恨んでいる人は社会に対して執着していることが多いものです。しかし、執着していないなら、自殺願望で悩まない。

何時死んでも良いけれど、自殺願望が原因でウツにはならないのです。 社会から自立しているので社会を恨まない。

それに気が付いたのは、3月11日の震災があって、自分自身も被災地区に住んで直接体験し、熟考する機会が与えられたからです。


何かを失う、例えば破産して財産を失う、病気や怪我で身体の機能を失う、大きな災害で家族を失う、など、

元には戻せない大きな損失があり、心に傷を負っても時間は流れていくものです。 動機はどうであれ、時間の流れが人間を前進させます。

前向きでは無いにせよ「このままではダメだ、とにかく生活しなければ」と言う気持ちに成ります。

私は、離婚して一人になったら、お金は生活保護をお願いするとして、日常の動作を一人で出来るようになりたい、その一心でリハビリに励みました。

意地っ張りもありますが、今思うと、その時点で家族や仕事、健康な身体に対する執着が無くなっていたのです。

「元の自分と同じにならなくてもいいから、取り合えず生活できるようになりたい 」一端、現世的執着から離れて、どうやって生きていくか考え直し、

リハビリしかないと思ったのです。つまり障害者になることで、執着が無くなったのです。


ここで私が言いたいのは、執着心が幸せを感じる心のチャンネルを閉ざしているという真実です。

心のチャンネルが閉じているというのは、霊的には大変重大な状態です。 人の心は、神の光と物質界の波動が交じり合い、万物を浄化する場なのです。

その浄化の場を閉ざすというのはどういうことなのでしょうか?


人間という存在が何故尊いのでしょうか? 

それは、人間の魂と身体の中で、神の救済が行われているからです。 人は、神の力の媒体です。 

人間は神の力を、物質の世界に導く役目があり、それこそが人間の存在意義なのです。 執着心によって心が閉ざされると、その役目を果たせなくなります。

自殺願望があり「早く死にたいのに、生かし続ける神を恨む」と言う人が多いですが、その自殺願望に耐えて行き続ける事で、自殺霊を浄化しているのです。

いくら神に恨み言を言っても、生き続ける以上は、神のお役に立ってしまうわけです。

逆に言うと、生きて行くこと自体が生きる意味なのです。 自分の生きる意味に疑問を持つ必要は無いのです。

良く、「霊性を高めなさい」「魂を浄化しなさい」と言いますが、正にこの仕組みを指していて、人が自身において、神の光を物質界に放射し、この現世を明るく照らすことを言うのです。

神の光を媒介する人間は、隣人に対して、導きの灯台にならなければならないのです。


それは、こう言う事です、

生活するためにはお金が必要ですが、執着すると、お金のためにお金を欲しがります。

「もっと欲しい」と思うようになります。 或いは、人よりも見栄を張りたくてお金が欲しくなります。

しかし、お金を稼ぐ本来の目的は生活をする為だったはずで、その生活は何のたか? 

というと、社会に役立ち人のためになるため、何かの役に立つために生きているという事ですよね。

その何かの役に立ちたいという気持ちも、心のチャンネルを開く切っ掛けになります。

人のために何かしたい思いやりの気持ちは、執着から離れて素直な気持ちになれるからです。


でも、執着を離すだけなら、瞑想や精神統一などの行で案外と上手く行きます。 無になるということですが、それだけでは「幸せ」とは違うようです。

無になると、心は穏やかになりますが、より「幸せ」というわけでは無い。 人間は執着を無くすだけでは「幸せ」ではありません。



−執着を無くすと学びがある−


それを理解したのは、本格的にスピリチュアルカウンセリングを始めて、様々な霊と交流するようになってからです。

真面目にスピリチュアルに取り組んでいる努力家には、僧侶の霊が付いていることが多いのですが、本人も僧侶霊も霊格は高いのに、何故かあまり幸せじゃないのです。

僧侶霊は他界して二、三百年経つのに「まだ修行中です」と言います。 無欲で修行に励む。 それ自体は悪いことではありませんが、何か違うな、と感じました。

僧侶や行者の霊は、生前は一生懸命修行して、そのままの意識で他界し、霊界でも同じように修行しているようです。

彼らの目的は「世俗を離れ、欲を無くす」事ですが、それなら障害者に生まれ変わると良いのです。

障害者になれば、俗世の殆どのことをあきらめなければならなくなります。地位も名誉もお金も無意味になり、セックスも出来なくなるので、出家する必要がなくなります。

と、ある僧侶霊に話すと「カタワ者は未熟な人間なのだ」と言ってきたバカな霊が居ました。この僧侶霊は、単純に修行すると業が無くなり徳を積めると思っているようです。


私は、自分自身が幸せか、不幸かということは考えたことは在りません。

でも、人生の中で一度だけ「自分は不幸だ!」と感じたことがあります。 それは高校三年の三学期で、進路を考えなければならない時でした。

それまではある大学を志望していて、共通一次に取り組んでいました。 その大学は自分でも自信が在ったので、必ず合格できると信じていたので、

もう入学する気持ちでいました。しかし、願書の提出期限ギリギリで進路を変更し、大学進学を諦めざるを得なくなりました。当時は大変なショックでした。


今でも、年末のその時期になると思い出します。元々目が悪かったのですが、気が付くと0.01になっていたのです。

視力がガクンと落ちて、メガネを掛けているのに最前列の席でも黒板の字が見えなくなっていました。

慌てて眼科に行くと「この視力は盲人のレベルだよ」と言われました。病名は緑内障です。

それで大学進学を諦めたのです。無理に行けば行けるとは思いますが、先が無いですから。 大学を出ても、目が見えなくなっていたら、社会に出られなくなります。

それなら、失明しても身を立てられる盲学校に進もうと考えたのです。 (私は親との確執があり、失明しても親に頼るつもりはありませんでした)

クラスメートは、みんな大学受験の追い込みです。 私一人だけ盲学校でした。

すごく落ち込みましたが「失明対策!盲人になっても自立するため」と自分に言い聞かせました。 それから盲学校入学の四月まで、ツウツウとして毎日をすごしました。

「自分は不幸。霊能者ってプライベートでは不幸になるっていうけど本当」と感じていました。



−寄り添う心が人を幸せに導く−


しかし、盲学校の生活がスタートしてからは、自分の考えが完全に間違っていたと分かりました。 盲学校は、私にとっては人生の学びの場で、しかも楽しいところでした。

盲学校は、先生も生徒も真面目で勉強熱心な人たちばかり、ワルは一人も居ませんでした。

同じ境遇の仲間で、みんな互いを思いやり、アットホームな場所でした。

それに比べると健常者の普通校は、殺伐としていて下品で粗雑な人間の溜まり場に見えました。 普通校は身体が元気な分、動作や言葉遣いが粗野なのです。

それと、盲学校の皆さんは自分のことは不幸と思っていないのです。 それは、自分の置かれている状況を冷静に受け止めて、流れのままに生きているからなのです。


もっとも感銘を受けたのは、先輩のカップルでした。

二人とも全盲ですが、学校を出て社会人になったら結婚すると言います。

「先輩達は、結婚して子供はどうするの?」と聞いたら 「当然、欲しいよ」というので、「もし目の病気が子供に遺伝したらどうするの? 心配じゃないの?」

大変に失礼な質問ですが、人事ではなかったのであえて聞きました。

「二人とも遺伝性の病気だから、子供もそうなると思けど、私は家族が欲しい。 一緒に生きていける家族が欲しいから子供を生むよ」先輩は、ごく自然な口調で話しました。

この言葉も、感銘を受けました。昔から、生まれてくる子供は五体満足で、欲を言えば頭のいい子がいい、といわれていますが、

子供を生む霊的な意味は、優秀な人間が欲しいということが目的ではなく、魂が、絆のある人生の仲間を求めているからでしょう。


五体満足な健常者は、どうせ育てるなら優秀な子供が欲しい、と願いますが、それは目的の履き違いで、子供を生む目的は、家族を作ることであり、

自分と絆のある仲間を自らの力で作ることなのです。 苦しみや、喜びを分かち合って、共に寄り添って生きていく仲間を作ること。それが家族。

盲学校の皆さんは、障害を持ち、互いに寄り添って生きていくことで、人間として大切な気持ちを自然に現すことが出来るのです。

私は、心の底から盲学校に入って良かったと感じました。そのまま健常者の中に暮らしていたら、人間として本当に必要な心に気が付いていなかったでしょう。

この時、初めて霊界に感謝しました。


それで、幸せって何でしょうか?

他界して何百年も経つ僧侶霊は、霊界で真面目に修行して執着心はなくなっているはずなのに

「まだ修行中です」という。

そして、私が盲学校で知った、互いに寄り添う心の真理。

私は、人として素直な気持ちで生きていく、盲学校の先輩カップルが真であると思う。

人として在りのままに生きていけば、出家して僧になる必要は無いと考えています。

皆さんはどう考えますか?



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