心霊に関する理学的考察
神仏や霊などまったく信じない人と暮らしていると、指導霊のいわれる心霊科学との問にはあまりにもギヤップがあり、心霊科学を必要とする人間が本当にいるのだろうかと愚痴をこぼしていたら、以下のような答えを受けました。本稿中の 【】 の付いた文言は筆者が調べたことです。

この地上の全ての存在は、神の細心の現れである。神の御恵みによって活かされているという信仰がある。それゆえ私たちは神を求めようとする。その神に対する「知」が科学的認識を得るとさ、心霊科学というのだろうか。

しかしながら科学的認識とは、自己が自分自身を知ろうとするときに自己の外部での事象を体験する事によって認識するものであるから、神を自己の外で認識する事は可能なのであろうか。

今、人間社会はかつてない繁栄の時を迎えている。科学のお陰である。私たち人間は科学なくしては生きられなくなってしまったが、神に対する「知」はどうであろうか。はっきり言って、神や心霊のことなど知らなくてもこの現界謁歌できるのだ。


         


人間にとって科学とは何なのであろうか。その科学と肩を並べる事は心霊科学にとって正しいのだろうか。神に対する「知」は人間にとって本当に必要なのであろうか。神を科学の懐佃耗主義に晒すことが許されるのだろうか。霊界の一部のグループからもこのような問題が提起されている。私はこれらの問題について、以下のごとく主張したい。

私たち心霊科学を志す者は、科学とは何なのかということについて、自然科学者以上に理解していなければならない。ここで哲学的見地から科学を論じるよりも、科学とは霊的存在としての人間が・目己実現するための一つの形式であると指摘したい。霊界では精神統一が重要な 「行い」 の一つであるが、現界における科学的形式もこれと同じ意味を持つものと考えられる。現象として現れる人間はそれぞれ千差万別の業を持って生きなければならない。

現象面のみを考えるなら、この人間社会は不平等としか言いようがない。
現界では、科学の名のもとにこの不平等が急速に拡大している事は誰もが認める事実である。しかし、それは現象に捕らわれている物事の見・万である。先に述べた問題点はいわゆる論理のすりかえである。私たち人間は一個の霊である事を忘れてはならない。


現界の物質科学は、一部の特権的な人間に利用されやすい傾向がある。科学の成果は経済的にも社会的にも有利な人々にしか提供されていない。しかし、心霊はすべての生命ある者に平等に与えられている也貝源であり、権利なのである。私たちはこの大いなる「知」の資源を放棄するわけにはいかない。
心霊科学は決して神を暴くものではない。人間自身の真実の姿とその未来を開くための 「知」の体系なのである。科学の懐疑主義は不可知論への道標ではなく、私たちが自分自身を一個の霊であると認識するときそれは、真理へ至るための一形式となる。

霊の存在は実証されていないが、否定する証拠もない、という消極的肯定論があるが、心霊科学の立場からはこの主張は正しいとはいえない。実証できないが、否定する証拠もないというのは科学の土俵に乗せられないと自ら認めている事になる。心霊を科学の土俵に乗せるには「霊」という漠然とした形而上学的存在を排除して、何らかの測定可能な量を見いだし概念を定義し、それ以外の余計な知識を選別しなければならない。しかし、これは先にも述べたが、神をその座から引さずり下ろすものでは決してない。私たち自身の真実の姿が知りたいだけなのである。

今までの心霊研究の成果の中で「体系」と考えられるのは、類魂概念である。私たちはそれを科学的理論にするために形を整えなければならなかった。類魂の本質を科学の形式に組み入れることが心霊科学の第一歩となるはずである。



心霊の本質を理解するために

(1) 実在する近傍とは何か
古典力学の概念で、「力」というものがある。この力が何なのかしばらくの問わからなかった。私たちも霊を明確に理解できなかった。現在、力はベクトルで表されているが、これは数学の概念をそのまま物理に持ってきたものである。

ベクトルは大ささと方向を持つ量で、速さを表していて矢印↓を書く。物理学は物体の運動を表記することを目的としている学問だから、ベクトルを使った理論を作り物体の運動を覿測できれば満足するといえるであろうが、心霊科学のほうはどうだろうか。心霊科学は物体の運動を表記する事を目的とはしていない。

そこで霊に最も類似する数学的概念は何だろうかと考えると、やはり近傍になる。数学的解釈がそのまま物理的事実につながるものではない事はよく判っているが、だからといって何もしないわけにはいかない。だめなら何度でも考えなおせばよい、それが科学なのだから。

物理学では物体の運動が問題となる。心霊現象で問題となるのはその特異点である。特異点を研究する数学の分野がトポロジー(位相幾何学) で、カタストロフィー理論はその中で最も評価されるべき成果である。
近傍の概念を心霊科学で使いやすいようにするために近な例を引くと、実在する近傍とは私たちの身体を構成する細胞である。細胞は近傍の様相によく似ている。そこで核を点xとして、その近傍とは、核から細胞膜までの距離εより内部の構造物の集合Uε(x)と表す事ができる。
つまり生体は細胞の近傍による位相が定まっていると解釈し、私たちの身体もある種のユークリッド空間であることがわかる。

近傍の性質は、

・どの点の近傍も自分自身を含む。
・どの近傍もその中に含まれるもっと小さい近傍がある。
・二つの点の近傍が交わっていたとする。この交わりのどの点をとっても、
 その近傍が交わりの内部に含まれるものが存在する。

これらは数学的に抽家化されたものなので、そのままでは、細胞には当てはまらないが (霊における近傍は、そのまま当てはまると考えている)、要するに連続性を意味していて、近傍は上記の性質を持つから、各点は空間として一つにまとまることができる。各細胞も細胞膜を通じて互いに開かれており、一個の生体としてまとまっていると考える。

次に有髄神経繊維の情報伝達を、近傍の実在という観点で考えてみる。神経繊維は紬索を中心にシュワン細胞が取り囲む神経鞘が幾つも連なっている(図1)。

刺激が与えられるとその部は興奮して非興奮部に対して電気的に陰性となり、そのため周囲から興奮部に向けて局所電流が流れ込む。有髄繊維は電気抵抗の大きい髄鞘で覆われ、局所電流は髄鞘をさけて最も近いランビエ絞輪から流れ込むので、繊維の中は通らずに、絞輪部が次々に興奮していく(跳躍伝導)。そこで神経繊維も神経鞘という近傍が定まっていて、数直線のようにある一定の間隔で細胞が並んでいると考える。つまり、ある一定の大きさの細胞が並んでいて、そこを一定の速さで情報が伝わっていく。

言い換えると、同一の神経繊維のどの神経鞘も大きさは同じなので、情報の伝達速度は同じである。これが実在する近傍の意味なのである。すなわち、実在する位相空間の中で、物体が一定の運動をするとき、位相空間内のどの点からその物体を見ても速度は同じであると考えられる。

ここに二つの仮定をあげる。

・真空中での光の速度は、互いに相対的に一様に動いている全ての座標系において同一である。

・あらゆる自然法則は、互いに相対的に一様に動いている全ての座標系において同一である。

この中で「互いに相対的に一様に動く座標系」とは、互いに等速度直線運動をしている運動者(「者」と書くが、物理学では運動する者は物体で、それを観測する観測者は機械であって人間は介在しない)のことである。

その等速度直線運動の意味であるが、一直線上を一定の速度で動くのであるから、位相空間であることがわかる。神経繊維と
同様に考えると、実在する近傍が定められているからこそ互いに相対的に一様に動いているすべての座標系において光の速度は同一になるのだといえる。

光速度不変の原理は揺るぎない真実であって、その真実は宇宙が実在する位相空間であることを示唆していることになる。

以上が実在する近傍についての提案である。


(2) 精神と霊について
「精神と霊は同じものである」という暗黙の了解がある。「精神活動は脳によるものなので、脳がなくなると精神もなくなり、だから霊もない」という論法がある。先に、心霊科学を行ううえで余計な知識を選別しなければならないと述べた。理論の中には自己矛盾する事柄があってはいけない。精神と霊についての概念を選別しなければならない。

霊とは実在する近傍が定められたカタストロフィー多様体である、と定義していた。脳は確かに実在する位相空間であるが、物質であるから死ぬ、だからこの定義はおかしいのではないかと考えてしまう。いやそうではない。実在する近傍の意味を思い起こそう。点xの近傍とは、xとの距離がεより小さい点の集合である(イプシロン近傍)。
位相空間ではすべての点にイプシロン近傍が定まっていてしかもそのそのすべてが実在すると主張するのが、「実在する近傍が定められたカタストロフィー多様体」なのである。

私たちはどうしても物事を現界的に考えてしまう。排除すべきものは、この唯物的偏見である。物事はその瞬間にしか存在しない。過去や未来はフィクションであるとする唯物的偏見が頑の隅にある限り、心霊科学を行うことはできない。心霊料学は、私たちが現界で教え込まれた物理を中心とした自然科学とはまったく違う料学であることを良く理解しよう。

精神と霊のように一見類似した考え、例えば気と霊、サイ科学や超心理学と心霊科学等、霊と他の概念を明確に区別できないために、いつも無用な回り道をしていたが、繰り返し述べてきた「類魂=実在する近傍」を科学的基準とすれば迷わなくなるだろう。精神も霊の側から観ると判ると思う。霊からみると、物質も精神も同じ「器」なのである。物質の側から考えるから迷ってしまう。
もう少し何が霊で、何が精神かを考察してみよう。それによって次の段階に進める。

生命体の最も基本的な働きは、「自己」 と 「非自己」 を区別して、「非自己」 の侵入から「自己」 を守り、維持することである。脳も外部からのシグナルを知覚するためには、すでに自己の中にあるシグナルなのか、外から・釆たものなのかを、そのつど瞬間的に区別して情報として統合している。その統合した情報がたくさん集まって、自己という意識が横成される。つまり現界の生命活動は、その脳も「自己」と「非自己」を区別することが本質であるといえる。

また、脳を作っているニューロンの活動電位はパルス波であるから、脳の情報処理もデジタル型が本質である。コンピューターと同じで0か1の一回一回完結した信号を大量に処理し、私たちはそのひとまとまりになったものを意識として感じているが、これは閉じた近傍なので、位相空間にはなっていない。この状況のなかで、「実在する開いた近傍」を見いださなければならない。

先に述べた類魂のカタストロフィーで考えると、それは「類魂によって近傍が定められている行動」といえる。脳は独立した存在ではなくて、身体の臓器の一つである。また生体はそれを取り巻く環境の一部でもある。人間は人間だけで存在しているのではないというのが類魂論の考え方だから、この場合は外界から与えられた信号が中枢神経で処理されて、効果器(行動) によりまた外界へ反作用していると考える。行動は筋を働かせる特質を持つ中枢神経系の活動が実体化したものであるから、行動と脳は不離のものである。さらに環境がそれ自身に反作用させるための仕組みが行動する人間と考えると、実在する近傍の意味がはっきりしてくる。

現界の生物学は生物の身体しか実在していないから、環境は二義的存在になってしまう。類魂を認めた場合は、生物は環境が進化するためのシステムであると考える。生物は自身が置かれている環境に内在するポテンシャル (霊)によって生かされているということである。

【「人は霊によって生かされている」という真理は私たちにとっては当たり前の認識ですが、そうした当たり前の事柄を一つ一つ科学するために正確に言い表すことは困難です。精神、霊、脳も漠然とした思いはありましたが、指導霊に指摘されるまでは、完全に心霊科学の立場に立って考え直すことはできませんでした。「アナログ的」が心霊に近いものだとする考え方があり、確かに物理現象と比べるとそうみえますが、違います。私たちがアナログ的と思っているものは、あくまでも物質現象の中のアナログであって霊そのものではないということです。

ここでは実在する位相空間が間遠となっています。つまり、人間の中枢神経系の本質が実在する位相空間であれば良いのです。しかし、物理的にみた人間の中枢神経系はデジタル型の情報処理システムが主体となっています。この情報が脳の中で大量に集積されて、「ゆらぎ」 になっているとするのが今の科学による脳のイメージです。
指導霊はこの物理的、現象的壁を越えるために、もっと純粋に物理的姿勢を貫こうとしているのです。それが精神の作用、反作用というわけです。】


(3) 最小作用の原理
類魂のシステムにカタストロフィー理論を使ってみたが念写も同様に考えられる。自然界において原因となるべき状況とその結果の問にはあるポテンシャル (関数) が定まっているはずである。したがって、類魂のシステムにおいて結果となるべき念写は、ポテンシャルの最小値を与える点として示されると考えられる。(トムの仮定)

この最小値の集合(特異点)を見いだす事が、心霊料において、念写研究の意義とするところである。つまり類魂論によって物理的心霊現象である念写の説明を試みたい。そうでなければ心霊科学の意味がなくなる。

我々は、人の行為についての類魂のカタストロフィーを行動変数xを人の行動、平常要因bをよこの類魂、分裂要因aを物霊と仮定したが、それをそのまま念写に当てはめてみよう。

よこの類魂とは思いの量、想念のことであるから、平常要因bはイメージや観念ということになる。物霊はすべての霊的存在に不変であると考えている。
では行動変数舛を何とするか、神は霊とはいえないようなちっぽけな存在にも行動することを与え霊的存在とするのであるか


      



ら、これは「光」としておこう。それを視覚化すると図2 になる。矢印の道のりをたどって念写が起さている。イに達してイメージが鮮明になり、そこで物霊が働き、ウに向かい幽体化し、エにジャンプして物質化、すなわちイメージが光として実体化する。この図でわかることは、平常要因aのイメージや、ウの幽体化の領域は物理的に知ることはできなくても、光が実体化したエ付近の状況はわかるのではないか、それが可能ならエの状況を調べることで類魂のシステムのポテンシャル、すなわち「霊」 の存在を確かめる事ができるのではないだろうか。

物理では、システムのポテンシャルエネルギーが常に最小になるような状態が現れることがあるが、これはシステムがポテンシャルを最小にするという行動をとると解釈する。その最小の状態が突然起こる時、カタストロフィー・ジャンプになっている場合がある。それを起こす一原因となっているものが分裂要因と呼ばれていて、物霊は分裂要因と同義のものなので、これが働くと類魂のシステムは最小(あるいは最大) の状態になるように行動する。
この最小作用の原理の式を書き直すと、ニュートンの運動方程式になるので、最小作用の原理とニュートンの運動の法則は同じ意味を持っていることになる。
ニュートンの第三法則をよく考えると、作用と反作用によって物体の質量を定義していることがわかる。我々は物体は物霊の働きによって状態を変えると主張するが、物霊は、この質量の定義にある作用と反作用というシステムの中に存在しているのだ。

そこで、「霊」という形がわからないポテンシャルがあって、それが最小になる状態を、このシステムが質量を持つ状能であるとしよう。これは図2のエのことである。エの状能写類魂は質量を持つ行動をする○つまり物質化である(物霊により光が集められ、重い光が生じている)

【ハミルトンの原理があって、ある時刻と位置の占…が別の時刻と位置に移動するとき、運動の経路はいろいろあるが、実際にはラグランジユ関数をある点から別の点までを積分したものが最小になる経路である。それで最小作用の原理というらしい。それでこのハミルトンの原理の式を書き換えると、ニュートンの第二法則と同じものになります。ニュートンの三つの運動の法則は不完全であるとしてマッハが考え直して、第三法則は質量の定義をしているもので、それを言い換えると、「比較用の物体Aがある物体の作用によって得る加速度がその物体がAの反作用によって得る加速度のm倍であるとき、その物体の質量はAの質量を単位としてmであるとする」つまり、ぶつかってきた物体の反作用によって生じた加速度の倍数が、質量なのだといっている。それにベクトルを付けたのが第二法則です。
だから、最小作用の原理とニュートンの第一 、第二法則は同じ意味であると解釈してもよいのです。この最小作用の原理が類魂のカタストロフィーにも現れていて、それが最小値を与える状況になる事を「質量を得る行動をする」と解釈しようと言っているのです。

       



それともう一つ、ここで参考にした本には、このような物理の法則はある量を定義すると同時に、その測定方法も示している書いてありました。物質の質量は他の物本をぶつけるとその反作用でわかる 。つまり質量とは何かと、どうやって測定するかがニュートンの運動の法則に盛り込まれているのです。それでピンときたのは、念写は霊の則定法なのかもしれないということです。

トムの定理について

科学の一般的な実験について考えると、ある実験があって、その一部分を取り出して、ある初期状態に置いて壷の期間観察します。その実験を別の人が観察しても、同じ実験で、同じ→部分で、同じ初期状態なら同じ事が観察できるという決まり事があります。しかし実際には理想どおりの実験はでさなくて、外界からの影響を完全に取り除くことができないはずです。科学の実験とは初期条件や外界からの摂動がどのようなものであっても、本質的には変わることがないのです。この性質を構造安定性といいます。微分方程式になりますよ、ということです。そして科学とは何か、それは研究対象となっているシステムの構造安定性を見いだすことであるとしています。
(これに対してフラククルやゆらぎの数学は、非構造安定の世界を扱っています。今の科学は非線形に注目していますが、心霊の世界は違うようです)
したがって、心霊は物質現象に対しては、本質の世界なのですから、何らかの構造安定なモデルを考えることができるはずです。
それでトムの定理ですが、「四個以下のコントロール変数をもつ構造安定な静的モデルがあって、その中におくれの法則が現れていたとすると、このモデルは表1のような標準ポテンシセルFのカタストロフィーのどれか一つと一致する」というものです。データを処理して、極大と極小が同時に起こるような状態があると、そのモデルは表1のFと同じになっていると考えるのです。】


(4) 念写について
物霊が作動していない場合のイメージaと行動する光xのグラフは図3になる。さらに、物霊が作動している状態のグラフは図4になる。これは図2と同じものである。
行動する光というのは、イメージPによって感作された光で、物理的光とは別のものである。イメージaが作用した反作用として、行動する光が現される。しかしこの図3で示されている部分の機序は、想念の世界の事であるので唯物論的に知ることはできない。

図4は行動する光が念写となって実体化したことを示す。この時に念写と透視が同時に起きることに注視すべきである。このように念写と透視が同時に起こる場合、トムの定理により、カタストロフィーのポテンシャルFになることがわかり、図3の観念の世界を予想することができる。これが、念写が霊魂不滅の証明方法の一つであることの論理的根拠である。
霊のポテンシャルの多様体である類魂のカタストロフィーFを証明するには、二つのポイントがある。第1は幽の領域のイメージがジセンプして実体化することの証明。第2は、それと同時に物理的特異点を意識が支配できるという証明である。


     


イメージは情報の自己組織化を、それを意図して行うことである。脳の作る精神との根本的な違いは作用力となることである。しかし、脳が死ぬとそのイメージもなくなると考えてしまうがそうではなくて、脳も身体の臓器の一つなのである。脳の活動も反作用によるものであって、その作用力が類魂のカタストロフィーの平常要因aであるところのイメージなのである。イメージは不滅である。

脳が死んでもイメージは死なない。もし反作用させて現したければ、別の脳を探すことになる。
物理的入力による作用力によっても脳は活動し意識を作るが、イメージによる反作用との違いは第2のポイントの特異点である。イメージは特異点を支配できるのである。逆に脳の作る精神は特異点に支配されている。それは当然のことである。
脳の作る精神は物質の一種だからである。
つまり、透視と連動して起こる念写とは別に、観念によって光が物理的隔離を超える直接的な証明が必要となる。
(これについては、筆者は光のコヒーレントを利用した実験のことを聞きました。念写と同じ考え方で音を使う方法もあるのですが、いずれにしてもそれができる人がいない以上だめだと思います。筆者には評価でさないので報告は留保します)。
以上、念写について言及し、心霊科学の予備知識としたい。しかし、本論の論旨は念写そのものではなく、カタストロフィー理論によって念写がモデル化できることを示したにすぎない。
本論は、心霊科学とは何かを明らかにするために進めてきた。またその主張は一つの提案であって、それによって心霊科学の理念というものを浮き彫りにすることにあった。その理念とは、人とは何かであろう。この宇宙の中での人間の位置を問う事であると思う。                   


以上平成10年10月号掲載

          


      ピア・スピリチュアル