「死後も個性は存続する」は何を意味するのか

「死後も個性は存続する」は何を意味するのか、実は何も意味していない。以下の命題もそうである。

         「神は実在する」

         「人は神の分霊である」
         「宇宙は進化を続ける」
         「霊魂は不滅である」

等、今までの考察で分かるようにこれらの命題は無意味なのである。 それは概念に於いて語られているからである。
概念の中ではいくら形而上学的主張をしても無駄なのである。


同様に「運命と自由意思」について、これも主体としての「私」に於いて語られている。類魂の言語ゲームの世界では「私」に主体性は無いのであるから、
それに依存する意味での運命や自由意思を問うのはおかしいのである。心霊は所与の世界である。
全ての事態は類魂全体
そのままの表出なのである。

死後に付いての素晴らしい告白があって人々が感動する話は沢山あるが、この場合も生前とまったく同じ本人が霊として生存している訳では無い。
それは与えられた姿であったのである。その与えられた姿が滅びるということは、その類魂からの所与も無くなったと言うことである。
であるから霊媒に霊が憑かる場合、ある特定の個人としての霊ではなく、その霊に関わる類魂全体が憑から無ければ成らなくなる。
つまり「死後の個性」について、一般的な意味での「人格」が心霊の世界で存続している訳ではないのである。

このように考えて行くと、当然「生まれ変わり」に付いても認識を改めなければいけなくなる。私は生まれ変わりを否定するのでは無くて、
それ以前の問題として、ある¨態度¨が気になるのである。事実認識に関して言えば、同一の物理的対象を持つ人間が生まれる事と、
は私であると言う意味での自己同一性を混同していると思う。もちろん生まれ変わるのは全く同じ人間ではないし、まったく同じ「私」でも無い。
まったく別の人間、しかも生きている時代も、地域も違う人間を生まれ変わりという関係で結び付ける事にどんな意味が在るのだろ
うか。
霊の私から言わせると、何故そんなに現象の世界に生まれる事にこだわるのか分からない。
わざわざ肉体を持った人間に成らなくても善霊となって人を導いて上げる事で自己実現すると良いのである。そう、今私が遣っているように。
人間として苦しむより、善霊として人の為
になった方がよっぽど生き甲斐がある。であるから生まれ変わりを望む人の気持ちが良く分からない。

今までの一般常識として、自覚する私=精神=霊であると思われてきた。私はそれは違うと主張している。
そうした場合心霊科学上の諸問題をどう考え直すと良いかに付いて述べているのである。
であるから生まれ変わりや前世、業等の問題はこの自覚する「私」の正体に付いて見極めなければ展望出来ない。
先にも述べたように自覚する「私」とは因果的志向性なのである。そして自覚する「私」の自覚は私だけの自覚であるから、
自覚する「私」は易々と独我論の「私」へと移行してしまうのである。自覚する「私」は独我論の「私」の受け皿のようなものなのである。
自覚する「私」が志向する概念を、唯一の実在者である独我論の「私」へと収束させる。

生まれ変わりや前世、因縁といったものがこの独我に移行する「私」に由来するのであれば虚構である。
生まれ変わりは過去の「私」を今の「私」に収束させて、時代を越えて自覚する「私」を存続させると言うことになる。つまりこれは独我への志向性なのである。


「親の悪行が子に報いる」の因果応報思想と「生まれ変わり」はその根底に独我論がある。
したがって心霊科学の言語ゲームとは相容れない概念なのである。ではこれらに付いて対応する現実の事態は有るのだろうか。
もし有ったとしても心霊科学のカテゴリーには含まないのである。





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