【福島原発避難区域内、動物たちの地獄を忘れないために】

                                              2011年4月22日 記  


人間は神に頼り生きていますが、動物たちも人間を頼り生きています。
神は人間を見捨てることはしませんが、人間は自分たちの都合で動物たちを殺処分します。


2011年3月11日の東日本大震災から一ヶ月以上たち、
4月22日に、福島原発から半径20キロ圏内が立ち入り禁止になりました。
住民も立ち入ることが出来なくなりました。

大震災発生以来、私がもっとも懸念していたことは、
動物たちの保護でした。世界各地の災害で、
いつも家畜やペットの避難が問題になっていたからです。

「人間の命が優先だ」とおっしゃるでしょうが、
震災からもう40日経っています。
人間の皆さんは、助かる方はもう助けられています。
被災地ではライフラインも徐々に復旧しているのです。
人間の皆さんはもう安全のはずです。

政府や行政は、避難区域内の動物たちを助けることはしませんでした。
何かにつけて「非常事態だ」「想定外だ」の連呼。
言い訳にしか聞こえません。

テレビではあまり伝えられませんが、海外の報道機関や、
週刊誌などの雑誌では、見殺しにされた動物たちの地獄の現状を報道しています。

室内に閉じ込められた猫たちの共食い、路上の牛の死体に群がるカラス、
繋がれたまま餓死している犬、そしてカラスは人の遺体も餌にしている。
まさに、福島原発避難区域は、動物たちの地獄です。

せっかく、大震災を生き延びた命なのに、政府に殺されるのです。
隣街に原発がありますが、何かあったときは、
私は最後までここに残り、動物たちと共に在りたい。
今回の福島原発の経緯を見て、政府がどれほど信用できないものかが良く分かりました。
弱い者たちに無関心な社会には未来はありません。
人間として未成熟な人たちは、「動物が何なんだ?」という、
そして次は、障害者は口を出すな、になるだろう。

地震や津波で死ぬなら納得できますが、原発は人災です。
正直言って私は、苦しんで亡くなった動物たちに変わって、政府を恨みたいです。

犬や猫たちは、いつも人間の家族と一緒に暮らしていました。
人間たちを信じて、疑わなかったでしょう。
それが突然、街の中から人間たちが居なくなり、
地震の恐怖の中で、水も、餌も与えられず、逃げることもできず。
彼らはどんな思いて亡くなって行ったのでしょう。
彼らは、死の直前まで人間の家族を思っていました。
必ず戻ってくると信じていました。忠犬ハチ公のように。
目をつぶると、家族との楽しく過ごした時間が思い出されるのです。
だから亡くなる時の彼らの顔は穏やかでした。

私は、多くの動物鑑定をしてきましたが、
動物たちは、とても誠実で純粋な心を持っています。
私は、動物たちの、人間に対する真心が痛いほど感じられるのです。
人間を最後まで信じて亡くなった彼らを忘れないためにこのページを作りました。


【魂の里・命のメッセージ】

2011年3月11日の大震災。
その直後から、魂の里(精霊界)にいる犬霊クッキーからこんなメッセージがありました。


  「人間の家族も、動物の家族も早く再会出来ますように!

   みんな一緒に帰りたい! みんなで一緒に暮らしたい!

   家族が一緒になれますように!」


私は、クッキーたちと一緒にいつも祈っていました。

すべての家族が、一緒に暮らせるように。

せめてお盆のころには、皆さんが故郷に戻れるますように。

人間の家族も、動物の家族も……、




【コヒペの記事ですが、この現実を残したいので載せます】


・福島第1原発 牛に「ごめん」 警戒区域化で最後の世話
毎日新聞 4月21日(木)21時15分配信

◇楢葉町牧場主

 同県楢葉町の蛭田(ひるた)牧場。20キロ圏外のいわき市に避難している
経営者の蛭田博章さん(42)は21日、約130頭の牛たちに最後の餌を与えた。
強制力のない「避難指示」の段階では、3日に1回のペースで餌やりのため牧場に入っていたが、
22日午前0時以降は不可能になる。蛭田さんは「何もしてやれず、ごめん」と牛たちにわびた。

この日、蛭田さんが干し草を積んだトラックで到着すると、
エンジン音を聞いた牛舎からは一斉に鳴き声が起きた。まず飲み水を与え、
次に干し草を一列に並べると牛たちは我先にと食べ始めた。与えたのは1日分。
牛が飲まず食わずで生きられるのは約1カ月が限度という。

子牛の牛舎を見ると生後3カ月の雌牛が栄養不足で死んでおり、
別の1頭が絶えそうな息で横たわっていた。蛭田さんは重機で掘った穴に死んだ子牛を埋め、
瀕死(ひんし)の子牛の背中をずっと、なでた。「ごめんな、ごめんな」。
涙が止まらなかった。

立ち入りが禁止される今回の事態を前に、牛舎から牛を解き放とうと何度も悩んだが、
近所迷惑になると考え、思いとどまった。最後の世話を終えた蛭田さんは
「一頭でも生かしてやりたかったけど、もう無理みたいです。
次に来るときは野垂れ死にしている牛たちを見るのでしょう。つらいです」。
それ以上、言葉が続かなかった。【袴田貴行】







     ↓ 三年後、このような展開に! 牛の死は無駄ではなかったようですね。
       人間の勝手んのは事実ですが、牛たちは飼い主さんの心の糧になってくれたようです。





<東日本大震災3年>牛がつないでくれた縁「いつかお礼を」 毎日新聞 4月28日(月)12時2分配信


<東日本大震災3年>牛がつないでくれた縁「いつかお礼を」 瀕死の子牛の背をなでる蛭田さん=福島県楢葉町で2011年4月21日

 「瀕死(ひんし)の牛に『ごめん』 最後の世話 1日分の餌」−−。忘れられない取材がある。2011年4月21日、福島県楢葉町の蛭田(ひるた)牧場。

干し草を積むトラックが着くと130頭の牛が鳴き出し、我先にと餌を食べ始めた。牛舎で栄養不足の子牛が息絶えようとしていた。

「何もしてやれなくてごめんな」。牧場主の蛭田博章さん(45)は涙を浮かべ、牛の背をなでた。


【震災直後と今を写真で振り返る】

 東京電力福島第1原発事故を受け、原発の半径20キロ圏内は翌22日から立ち入り禁止の警戒区域になることが決まった。

牧場は原発から19キロ。事故以降、蛭田さんはいわき市の避難先から3日おきに餌やりへ通っていた。

「最後の世話」の見出しがついた記事は22日朝刊(東京本社発行紙面)に掲載された。

 だが、それは「最後」にはならなかった。

 蛭田さんはその後も抜け道を車で2時間走って牧場に通った。「どうしても見殺しにはできない」。すぐ後に異変は起きた。

 5月上旬、牧場へ着くと、牛50頭が牛舎から外に出ていた。誰かが牛舎の柵をこじ開けていた。

半分は牛舎に戻せたが、残り半分はぬかるみにはまって動けなくなり、助け出せずに死んだ。その後、牧場に「牛を殺すな」との張り紙がされた。

 自分が書いた記事のせいではないか−−。電話で蛭田さんから事情を聴き、申し訳ない気持ちになった。



 今年3月、蛭田さんと再会した。ずっと気になっていた牛の最期を聞かせてもらった。

 3日おきの餌やりにもかかわらず、栄養不足や夏の熱中症で次第に数は減り、11年末に10頭になった。

研究機関から、警戒区域の動物の残留放射線量を調べる検体にする提案を受けた。「牛の命が世の中の役に立てるなら」と承諾した。

 11年12月27日。穏やかな青空が広がっていた。横たわってかすかな息をしている牛に注射をし、安楽死させる作業が粛々と進んだ。

最後の1頭は、4歳の雌牛だった。骨と皮だけで辛うじて立っている。暴れないよう固定具を付ける際、元気な牛なら逃げ回る。

だが、その時は向こうから近づいてきた。蛭田さんが固定具を付けると、牛の大きな目から涙がこぼれた。


蛭田さんは今、楢葉町の農業復興組合で除染後の農地の保全活動に携わっている。

祖父(93)が創業した牧場は、震災前は県内有数の規模だったが、再開は見通せない。

 蛭田さんは一時、自殺も考えた。だが「支えてくれているものがある」という。あの記事が出た際、全国から激励の手紙が寄せられた。

数人と今も文通を続け、「お体に気をつけてください」などのささいな言葉にいつも励まされる。

 「牛がつないでくれた縁。まだ会ったことのない方々ですが、いつか直接お礼を言いたいんです」。

はにかむような笑顔だった。【袴田貴行】


   元記事はこちら ↓

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140428-00000037-mai-soci



  餓死させられたのに、素直な牛たち!

  大変な思いで死んでいったのに、逆に、飼い主さんを次のステージに立たせてくれました。

  動物の純粋さに感動しました。





  ピア・スピリチュアル








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