2000年4月号掲載

工事中です、まだ図が入っていません。ご了承ください。


 《小山先生との往復書簡》


これは、平成11年5月以来小山先生との間でなされたものです。



―往信―



前略、


小山先生、お元気になられて何よりのことです。他界したら私の背後霊になってほしいなんて失礼な事を申しましたが、お気になさらないで下さい。

霊が了解していれば、その通りなのでしょうが、やはり学問上の争点となりそうな所は確認して置きたいのです。



@ 知覚に付いて、心霊世界と今までの科学では知覚の考え方が全く違うのです。西洋哲学の出発点は宇宙と人の関係、それは神と人にもなりますが、人が宇宙を知るには知覚がなければならない、だから知覚とは何かが学問の事始めになるのです。そこで、心霊世界では知覚をどう考えると良いのか、です。今までの科学は、知覚は概念であるとしていました。概念というのは一対一の関係で、〜は〜である。と断言できる物事のことです。これは哲学的には釈迦の因縁論と同じものなのです。世界の物事を全て原因と結果の枠にはめようというものです。それがこの現界、概念の世界なのです。それはそれでよいのですが類魂の世界は違っているのです。 類魂の中では一対一の対応関係は無いのです。先生は、そのことを霊系が連なると仰っていましたね。つまりある一つの霊ではなく類魂全体が関わってくるのです。では非概念的知覚とは何なのか、です。霊は物霊ではないのかと言います。行為するのであるから、当然その原因として知覚が在ると考えます。類魂の表出としての人の行為を考えると、物霊が知覚に相当するのではないのかということです。物霊は類魂の中で知覚として振る舞うのではないか。だからこそ物霊が重視されるのです。物霊が知覚の一種であれば、心霊科学の出発点になるからです。



A もう少し非概念的を説明します。

今までの概念の知覚論は、刺激→中枢→行為、となって中枢に主体性がある。つまり、人は頭で考えて行動する。これは当たり前ですが、それはそう教えられたからですね。非概念的であるとは、人の行為の主体は中枢に在るのでは無く、刺激を与える環境にも在るのだと考えます。この知覚はアフォードと呼ばれていて既にロボットの制御に応用されています。急に物が飛んできて、咄嗟に避けるとか、走っている電車の中でも倒れない、の様に頭で考えないで、無意識に正しい行為が出来ることです。霊視や霊感はこれと同じ種類の知覚ではないのかと言うのです。 そしてその担い手か物霊である。人は類魂という環境の中で物霊を知覚しそのような行為をしてしまう。そう考えると物霊は概念的ではないから業では無いのです。人の行為の原因としての物霊ではなく、類魂全体の関与するある状況を示す意味の知覚が物霊なのだ、だから指導霊は類魂論の中から因縁思想は排除すべきだと言います。それは今後の課題ですが。そんな訳で、物霊は非概念的であるのかどうか、先生はどう思われますか。



B事象の構造、科学では論理形式とか論理構造と言います。これが同じだとそれらの理論は互いに仲間同志ということになります。心霊世界での事象とは類魂だと思います。重要なことは類魂の一つ一つは細胞に例えられて、類魂の全体は生き物であり、有機体なのでは無いか、です。先生の観ている類魂が有機体であるなら、概念の物では在りません。生き者は概念の塊ではないからです。



以上、@とAの確かめ方を分析哲学と言うらしいですが、これがヨーロッパから来た霊のお箱な訳です。この霊は小山先生の類魂論が偉く気に入っているのです。L君はソクラテスやプラトンと同じくらい外国では有名な哲学者らしいです。そのお陰で、日本にもL君の本が翻訳されて在るのですが、その本の内容と今遣っている類魂の研究を比べると、哲学的には全く遜色無いです。というか小山先生のアイディアのお陰でL君の哲学が生前のものより更にグレードアップした感じです。こんなことが分かる人は日本には余りいない様です。いますぐはどうにもならないでしょうけど、何十年か後にはどうにかなって欲しいものです。




 平成11年 5月12日       草々



                     川崎









―返信―



  〜中略。さて、兼ねてから類魂を発表し、その中で人間は救う立場に立たされているのであって、救われる立場では無い。つまり人間は神の一部であり、下働きをする者であると言って来ました。人間は生きることを通して業を消し、それが物霊浄化に繋がっていると信じて居ります。90歳になって寝た切り老人になっても、それは価値の在る業消しだし思っています。生きる苦しみそのものが業消しになるのです。(私はこれは余り遣りたくないと思っていますが)

神の正邪の問題は人間の善悪とは違うと思っております。神の正であり、人間の善である部分が重なっていれば大変結構な事なのですが、業の重たい者程その反対の組み合わせに成っていきます。それを正である。邪であると画一的見方をしてはいけないと思います。これは過去の宗教が画一的な救いを出しているので一部の人しか救えないのです。心霊はもっと善正的なもので在ってもいいと思います。



@類魂は一対一の関係に無いに付いて。

類魂の中では一対一の関係は無いと言われていますが、自我霊は背後にある高級、低級の想念を選択し、自己の統一想念とします。それを自己意識として人間に伝えます。これをどう考えるかの問題ですね。

A非概念的知覚を物霊は振る舞う。

高級になった物霊は自己の属する守護霊に対し、力を与えその代行も行いますが、守護霊の枠の中では知覚の役目を果たすこともあると思いますが、高級な物霊が単独で勝手に振る舞う事はありません。

B霊視、霊感はアフォーダンス(物霊或いは環境が生物に与える価値)なのか?

その通りと思います。高級な物霊は高級な想念に力を貸して行いますが、低級な物霊は低級霊に力を貸し、或いは高級霊の監視下で人間を惑わせます。

C物霊は業では無い。

物霊の存在自体は業ではないと思います。しかし物霊が誰かに憑いて向上しょうとした時、その人にとっては業になると思います。

D類魂論の中から因縁思想は排除すべき。

低級霊が高級霊から救済を委託されて、自己の霊柱の中に組み込まれ、向上の段階に入った場合、霊柱の因縁となるのではないでしょうか、これは人霊か自然霊であるかの違いだけで人間に・いて修行する段階の霊はある程度の想念を持っている霊も居ます。



私の死後、類魂2で書きましたが、三日後に生まれるか、或いは霊界の仕事をしてしばらく生まれ変わらない方か、何方かを選べと言われた時に私は生まれ変わらない方を選んだと申しましたが、それには徳が足りないので地上で修行をして来いと言われ、ガンになってしまったと書きましたが、生まれ変わらない方は霊界で類魂説を広め、人が自力で救われる方法を教える事でした。これは川崎さんの霊の意見と見事に一致したのです。これで私の霊界での仕事は内定したのでしょう。



長々と文章を書きましたが、病気をしてからボールペンが自分の思うように運ばないので苦労しています。疲れて来ると特にそうなので、協会の文章もやっとの思いで書き上げたのです。まだ書き足りない所がたくさん有りますが、疲れましたのでこの辺で筆を置きます。



                  草々



平成11年 5月14日            小山順司







前略



 順司様、いかがお過ごしでございますか。心をいっそう強くもたれて、お元気になられるようお祈り申し上げております。



 まず、始めに頂いたお手紙です。電話でも話しましたが、私の霊は神道系なので、仏教思想は嫌いなのです。でもこれは哲学上の事で、類魂の中にはお不動さんや、観音様もいます。お不動さんには九字の切り方を教えてもらった事も在ります。でも、ああいう仏神は術は使えるというか、実務は出来るのですが、学問は駄目みたいです。そういえば先生の即身仏の先生、何年か前にテレビに出ていたように思うのですか。ミイラで町おこしをするとか言って。妙に記憶に残っているのは、地元の人の話で、そのお坊さんは皆の幸せを祈って入定したのですが、その時に空気穴として竹筒をさして、自分はずっとお経を唱え続けるからこの竹筒声が聞こえ無くなったら死んだと思ってくれと信徒に言伝てたというのです。私の記憶違いかも知れないですけと。



*物霊には主体性は無い、には同意します。主体性の有無というよりも、物霊のリアリティが問題なのです。物質的実体性では無く、“それを観る”ことが出来るのか、なのです。私にはまだ観えていないので、四苦八苦してます。私の霊が物霊に注目しているのは、物事は、物霊が在って現れるからです。高級霊の想念だけでは何も起きないと思います。焦れったい程のんきでおっとりしています。何百年でもそうして鎮座在しまして居ます。其処に物霊が在って動きが出るから、ああ、これは類魂だったのかと分かります。それで、類魂が物霊を受容し、生物が行為するように何らかの活動をするのだとしたら、物霊は、類魂にとっては知覚に関する情報なのではないのかと考えられます。だから記憶装置の様に見えて、指向性があるのかも知れないのです。



*物霊は記憶装置、に付いて。小山先生の仰っている記憶は習慣的記憶と言われるものです。物霊的記憶はそれとは別にして考えた方が良いらしいです。詩の内容を暗記して、復唱したり、同じ運動を何回もして感覚と運動の中枢に回路ができるもの、これは身体の能力で習慣という訳で、生理学や認知科学の領域なんです。関係ないわけじゃ無いけど、一応そこで線を引いておいた方が問題のポイントが絞り易くなるのです。類魂に直接関わるのは、過去の経験と自己意識が結びつく記憶だと思うのです。この記憶は過去の出来事をただ反復し

て思い出すだけでは無く、その、時自分の心の中で感じたことも同時に思い出します。外的出来事と、心の中の内的事態がセットになって記憶としての物霊になって、それが沢山集まり、自己意識になるのではないでしょうか。

ですから、コンピューターは人の習慣的記憶を参考にして作られているから心がないのです。コンピューターは物で出来ているけれど、自己意識を造る物霊が活動していないと考えられます。



*少し認知科学的に考えますと、記憶は過去の心的状態と今の心的状態が結びついていなければ記憶として成り立たない。と言うことは、物霊が記憶であるなら、今現れているこの事態が、物霊を物霊たらしめている事になる。過去の経験が在って今の行為や心的状態があるというよりも、物霊が制御の情報そのものであると考えた方が良い事になります。この考え方がアフォーダンスというのです。



次に、原稿ですが、



〈地獄〉のところ、



*自己防衛と恐怖と固まるはその通りです。家のウサギがそうです。怖いと固まって動け無くなり、ピクリともしません。竦んじゃうのです。低級霊は、本当は神様が怖いのでしょうが、人に接っしていると少し賢くなるのかしら。中々扱いが難しくなるので、面倒になると「何だこの野郎」になっちゃいます。



*いつも心に引っ掛かっているのは、“憑依”どんな事かです。私達は何気なく使っていますが、良く分からないです。梅原伸太郎先生が民族学的に述べていらっしゃいますが、そうじゃなくて、もっと憑依の実態的なところが知りたい。その点、小山先生の類魂論は詳しいです。でもやっぱり何か気になっているので、後で考えておきます。



*よく、家の改築や庭を掘り起こして、“障り”というのが在りますが、物霊に関係しているのでしょうか。今住んで居る所は山を削って宅地にしたところなのですが、引っ越した時は変な霊が次々と出てきて、妖怪の様な姿なので、夜眠れない事もありましたが、今は慣れました。姿は見せますが、みんな背後に任せてあるので。物を壊すとその物霊が・依するのでしょうか。だから自殺すると自分の体霊が・依するのですね。生まれつきの障害者が明るい心を持つのは、始めから物霊を持たないで生まれているからでしょうね。中途の障害者は物霊を放せないので暫く苦労するのかもしれない。



*物霊は固まろうとするから、つまりある一つの苦しみの中にずっと身を置き続けることになる。だから人間界よりも苦しみが大きい。私は一度、ある人を徹底的に恨んだ事があるのですが、その時はその人だけでなく、その人の子供や持ち物、車まで呪ってしまってその人とすれ違った、通行人までも恨んでしまいました。世間の物全部が敵に見えたのです。坊主憎ければ袈裟までもと言いますが、その通りです。恨みの念しかなくなって、一日中恨むことだけを考えるのです。ですから低級である程、苦しみが大きいのは分かります。ふと、気が付いたのですが、記紀神話で地獄に落ちた神様と言えばイザナミですよねそして、そのイザナミに群がったウジはヤクサノイカヅチノカミでしたよね。ここで思い出したの言うことは物霊に関係があるのでしょうか。いづれにしても雷、剣、磐の神は物霊なのでしょう。



 尚、お送りしました本ですが、「アフォーダンス」の知覚論を心霊科学に取り入れたいというのが、私の霊の意見です。一般向けなので難しくは無いですよ。



小山先生、長くなってしまいましたが、嫌わないでくださいね。あまり先生をいじめると、

親不孝をしているみたいで後味が悪いので止めます。



出来るならお返事を書いて下さい。 御先祖の皆様に宜しくお伝えください。



            草々  



                   川崎





この手紙についてはお電話でお答え頂きました。



§物霊は記憶装置について。

科学では大脳のなかに記憶が存在するとされています。私の考えでは類魂の中に於いては、記憶は習慣的記憶が積み重なっているのだと思います。高級な物霊になっても本来守護霊に対し力として奉仕する立場にあるので、守護霊の考えの具現化に努力します。ですから自己が単独で主体となることは無く、色々な記憶が在っても守護霊の秘書的な役割を演ずるのであって、自ら出しゃばって行くことは無いと思います。ですから単独で人間をコントロールするセンサーの役目は守護霊の枠の中でならあり得ると思います。







 ―往信―



小山先生、



 お身体の調子が少し良いようなのでなによりです。6月5日にの夜に見えたのですが、先生が現れて「オレ、あと二年だよ」と言うのです。こういう時は判っていても少しおおめにに言って置くと叶うときが有るので「もう二年上乗せ出来ないの」と私が言うと涙が出て来ました。 

私は今まで先生の様な霊能の強い方の接したことが在りませんでしたが、失礼な言い方ですが、誠に興味深い体験をして居ります。お互いに霊能が有る為でしょうが、私の家族にも感じたことの無い様な何か独特の感情を禁じえないです。これは私が勝手に感じているものなので先生には関係いので気にしないで下さい。



以下の記述は正しいでしょうか、



 A1 ドロボーをしてドロボーの因縁を転化された。

B1 ドロボーをしてお金の物霊が憑依した。

A2 動植物を食べるとその因縁が転化する。

B2 動物を殺すとその霊が憑依する。

A3 親の因縁が子に転化する。

B3 親が子を殺すとその霊が親に憑依する。同時に先祖に在った子殺しの因縁もその親に転化する。

A4 自殺するとその因縁がその人間に転化する。

B4 自殺すると本人に物霊が憑依する。



A4 とB4 に付いて、自殺するのは、先ず自殺した霊が居る。我慢して生きつづけた場合、自殺霊は浄化されて人間には我慢した分の徳が来る。自殺した場合、自殺霊はその霊の持っていた自殺の因縁を人間に転化し、自殺霊では無くなったので楽になる。しかしその場合魂は小さくなる。自殺霊では無くなったのでそれに対応する高級霊もなくなったから。だから自殺霊は自殺の因縁を持ったまま浄化した方が向上する。一方自殺した人間は、今度は自分が自殺という因縁を持つ霊になり表出の場を求める。それが転化。それがなぜ子孫に転化するかと言うと、自殺以外の因縁の内容が似ているから。

ということは同じような因縁を持つ他人にも転化(あるいは憑依)する可能性が有る。

自然死では、自然の法則によって序々に体霊のエネルギーが消滅するので、死後は体霊に関わる物霊は憑依しない。人霊を体霊が取り巻いていて、その体霊を形成するのが物霊、だから意図して体霊を滅ぼしてしまうと、その体霊を補給しなければならないと考えた。図1の様に並べてみる。体霊が欠落すると、単純に考えて、少し低い物霊を取り込んで体霊を造る。そのように人の体霊に取り込まれる事が物霊の救済の始まりになる。

そしてAとBの違いと関係を明確にしたい。因縁霊が居て、その行為をすると何故その因縁霊の因縁が転化するのか。行為しなければ、その因縁は因縁霊が持っていて、その人のものでは無いということになる。だから釈迦は無といった。人が無になり行為しなければ因縁を持たない事になるから。しかし因縁そのものが無くなった訳ではないから、釈迦の教えはそこが間違えていた。だから他界してから落ちちゃったらしい。



 因縁はそもそも何なのか、霊が自殺の因縁を持っていると自殺霊と呼ばれる。つまり過去の行為が或る形でそこに実在する事を意味している。そしてそれは既に完結した行為ではなく、これから表出しょうとする志向性でもある。何らかの志向性を与えるのなら、それはだだ単に記憶と言うよりも行為を制御する情報なのです。先生の背後の先生方は記憶を明らかに、完結した過去の出来事としてでは無く、制御の情報としての記憶を考えている。コンピューターでいえば、自殺ソフトな訳。ソフトは記憶と制御の情報(志向性)を兼ね備えている。そしてそのソフトを構成するプログラム言語の一つ一つが物霊と考えられるのかも知れない。自殺霊が居て、その人が自殺すると、その人が自殺ソフトを受け継ぎ自殺霊になる。それを転化というならどうして人間はそんな行為をしてしまうのだろうか。釈迦のように無になっていてはいけないのだろうか。これは此処までにしておきましょう。まだ私も結論が出ていないので。

これは何を遣るのかと言いますと、物霊の言語分析なのですって。とにかく良く分からないものは分析して正体を確かめるのだそうです。人間が自分自身を心霊科学的に分析していくと最後にのこるのは器の「私」なのです。器は身体だから物質で出来ている。それが類魂の中で使用されるから器となる。つまり器は物霊てもあるはずです。であるなら小山類魂論の物霊の論理的形態と器の「私」が同じであれば、物霊と器を同義としてもよいのではないのか。科学はそういうやり方をして幾つかの考え方を統一していきます。その過程で緻密な分析をするのですが、私はいま一つ良く分からない。L君の本を参考にしていますが、余りにも専門的なので私の手にあまっています。いつも最後は「君が判断しなさい」になってしまう。日本人の霊はおおよその事は分かるのでどんな本を調べると良いかや、考えの方向は教えてくれますが、細かい事柄は分からないのです。一つの文章が出来た時に、これはこれでよいのかになると、日本人チームははっきり断言出来ない。それでL君はというと日本語がまるっきり駄目。それで結局想念を受け取る私の判断ということになる。だから本で調べるしかない訳です。同じ言葉でも心理学、物理学、哲学等の各分野で考え方が少しずつ違っているので、私なりに出来る範囲で二重三重のチェックをします。それでも心霊は全く未知のものなのでどうにもならないのです。現界の学問がまだそこまで行っていないのです。だからやはり私の判断になってしまう。



小山先生のものと私のものは互いに補い合うものらしのです。小山先生の類魂は全体的で解剖学的傾向が強いと思います。だから物霊がよく分かるのです。物霊は類魂の隅々まで形を換えて浸透しているので、類魂を外から眺めないと観察できないのです。L君の言語分析は類魂と類魂の関係を詳しく調べた上で、類魂の仕組みを解明しょうとするものです。ですから人間の眼の前に在る現象から入っていきます。どうしても人間中心になるのです。しかし科学の観点に立つと、これが科学であるならこの類魂論がどんな人にも利用できるものにしなければならないのです。その為には哲学的論理学的基礎を固めて置かないと駄目なのです。一端基礎が固まれば、先に進むときに迷わずに済むのです。その基礎から離れなければ良いのですから。つまり特に霊に聞かなくても人間が自力で判断して類魂の立場に立てる様になるということです。私の霊たちが目指しているのは、霊能のない人でも、自分の意思で判断して類魂的生き方が出来るようにしたいと言うことなのです。私は先生が御存命の間に道を示したいのです。先生が他界されると後には只の文字しか残りません。文字に小山先生が居るわけでは有りませんから。これはL君の好きな言葉なのです。その文章の中にそれを書いた人が生きて住んでいるのではないから、いくら文献を研究しても本当の姿を知ることは出来ない。所詮はただの印刷物に過ぎないからそれに捕らわれてはいけないというのです。生身の人間が良いのです。長くなって申し訳ありません。疲れさせちゃいましたね。



              草々



                   川崎







この手紙に付いての返信は協会誌に掲載されました。





 御質問の件に関し、私の考えを述べさせて頂きます。



A1 泥棒をして泥棒の因縁を転化された。

その通りと思います。



B1 泥棒をして金の物霊が憑依した。

金を物質に変え人間がそれを使うと物霊が憑依します。金を奪っただけでは精神的な罪悪感が因縁となるだけで、大した事にはならないでしょう。奪った金を他人に与えた場合、奪ったという業と与えたという徳が両方入って来ます。



A2 動植物を食べると因縁が転化する。

体霊になるので当然と思います。



B2 動物を殺すとその霊が憑依する。

「万物は利用されることによって向上する」殺し何に利用したかが問題です。例えばその人が知らないで何の気なく殺したとします。動物の立場から言えば殺されるべき因縁があったといえるかも知れません。しかし行為は当然背後からの指示によって行われたものなので、その人が自殺をしなければならない因縁を持っていたとする(或いは人殺し)その動物が命を犠牲にする事によってその人間の身代わりになったとすると、当然その動物は憑依する権利を持つことになります。



A3 親の因縁が子に転化する。

親が子に与えた分は転化します。親の犯した罪は子供に転化するのかとの御質問と思われますが、それぞれ魂の出る所が違うので(霊 の因縁が異なる)それぞれの霊柱の掃除を遣らせられるだけでその意味においては無いと言えるでしょう。しかし親が子に与えた分量が多ければ多い程子供は親の因縁を引き受けなければなりません。又、親の因縁と子供の因縁が良く似ているので、同様な因縁が出て来ることもあります。しかしこれは本質的には自己の因縁なのです。子が親から霊的に借りが在れば償いです。でも助けてくれる人が居なければ因縁は転化しなくても憑依しす。



B3 親が子を殺すとその霊が親に憑依する。

前述の通り、各々の霊柱の因縁を消すのが大切でその中に子殺しの因縁が在ったとすれば、それは横の類魂である親に転化し、自己に振りかかって来ます。子殺しの因縁が具体化するような家庭では当然徳が無いので、徳を使って他家へ霊的修行旅に出ることは出来ません。その為親に憑依することになるでしょう。しかし子殺しでも色々な状況を考えなければなりません。感謝して死んだのか恨んで死んだのか大きな分かれ道で、更に殺さなければならない状況によって、一概には言えないでしょう。背後霊がそれを決めるのです。



B3 同時に先祖に在った子殺しの因縁も親に転化する。

元々、子殺しの因縁が霊系に在ったからそれが横の類魂である親に転化し、その因縁が出てきたのです。その行為が行われる事によって霊系の因縁が転化して来ました。



A4 自殺するとその因縁はその人に転化する。

その通りです。



B4 自殺すると本人に物霊が憑依する。

結果としてそのようになると思います。自殺によって自己の物霊を勝手に浪費(?)してしまったので、の償いをしないと自己が頼りなくなり覇気が無くなってしまいます。必然的に物霊を求める様になります。



『自殺霊が我慢して自殺しなかった時、魂が小さくなるか』

なりません。自殺霊は、自己の類魂の中の、自殺部分に有ったのです。我慢して自殺しなかったので自殺霊は高級になり、自殺霊を救済できる側に立つ事が出来るようになります。つまり私の言う魂の中の黒丸部分が浄化して白丸になったのです。



『因縁霊が居てその行為をすると、何故因縁が転化するのか』

重い因縁は下降して霊柱の底辺に行きます。その因縁の行為を行う事は、その人の想念が底辺まで下降してその因縁を憑依したのす。つまりその因縁はその人に対し表出したわけです。何故それが行われなければならないのかと言うと、人間は物霊を救済する動物だからです。そして物霊に近づき人間はその為に運命が落ち込んでしまいます。それが物霊救済なのです。



『人がその因縁を行為しなければ、その因縁は自分のもとはならない。しかしその結果その因縁は消えない』

人間は上位の類魂から見れば多数の人が派遣されて来ているのです。支配霊はその人から外して、類魂の中の、他の人に転入させて、その人がその霊の向上を図ります。類魂の中で色々な動きが有ります。(8月号参照)



『人間は何故自殺因縁があると自殺してしまうのか』

霊系の中に自殺の霊系を持つと、どうしても自殺指向が出ます。私にも自殺霊が居る為、沢山の自殺霊を救済させられています。しかし即身仏(自殺霊)がそれをさせないで守っているのですが、運命は非常悪くなり自殺した方が楽だと思うようになります。その時自殺への道が引かれてしまいます。救済する霊が居るか、徳が在るかしないと自殺へ導かれて行くでのでしょう。自分の心が何方に無垢かによって決まります



『物霊と“器の”「私」は同義か』

本質的にはそうだと思います。ですが、霊界から提示される多数の運命の可能性を選択するのも私だと今は考えて居りますが、これも今後又変わるかも知れません。この部分は自分で選択しているのか、或いは霊界から選択させられているのか良く分かりません。現在は魂の小さい人は自分が選択している様な気がします。しかし魂の大きい人はどうも霊界から選択させられている様な気がします。



                     早々



平成11年 6月18日



小山







前略



 小山先生、お手紙を頂まして感謝しております。難しい手紙を送ると先生が疲れてしまって寿命が縮まってしまいそうで何となく気が引けるのですが、性懲りもなく送ります。私の気持ちにはお構いなく霊界は進んでいます。いつもそうですが、始め話を持ちかけられると不可能のように思えて戸惑っちゃうのです。小山先生と私を一つにさせようと言われても、何処をどう遣って纏めていくのか見当も付かなかったのですが、ここ二三日で目鼻がついて来たみたいです。



  中略


インドでは世界の全ての存在はある業を持っているから、生まれ変わってその生が在ると信じられている。お釈迦様はそれには同意している。でも神に対する認識が違っていて、インド哲学では人は業生から解き放たれると超越者である神に帰るのだ、つまりブラフマンに帰一するというのに対して、お釈迦様はそれを否定して、神も我の一形態だから無にならないと行けないとしたのです。お釈迦様の言っている無は宇宙の主宰者である神すらも否定するものなのです。仏の慈悲とかいうのは大乗仏教の仏のことで、お釈迦様の無には慈悲も情けもないのです。生物の完全否定なのです。ですから釈迦の後を追って悟ったつもりになっても、人の救済なんて出来ないのです。

後世の人々はその所を良く理解せずに、自分を神格化してしまってすがってくるから大変困ったと言っています。



 インドでは業を持つのは悪ですが、類魂の世界では救済の為だと思います。ですから生き物がこの現世に生まれてくる事に対する認識が正反対なのです。先生の背後の方は仏教系の他に陰陽思想も混じっているみたいですが、やっぱりここは日本なのです。使用する想念は仏教的でも本質は日本なのだと思います。同じように私の所は科学と哲学の想念を使ったのです。

面白いことに、お釈迦様とL君は、学問上は反対の立場なのです。過程1と2は今の哲学では独我論と呼ばれています。独我はこの世界には自分だけしか存在していない。なぜなら他人の心を直接知ることは出来ないから、というものですが、これはそのまま事実なので、何処かおかしいけど論理的に否定できなかったのです。L君は言語ゲームの立場で否定したのです。お送りしたウィトゲンシュタインの本にも独我論が少し書いてあります。でも現界のプロの研究家はこの二人は反対ではなく同じ境地だったのではないか、と本に書いてありました。これは興味深いです。



そんなこんなで、以上が今度の作品の導入部分のベースになるんですって。小山類魂論には仏教の言葉が使われているけど、本質は仏教じゃないよって言いたい訳です。それじゃその本質は何かというと、有機体なのです。生物は生きるために行動します。当たり前ですが。インドではその当たり前のことが悪だったので無になろうとしたのです。生き物はストレスが加えられても直ぐに普通の状態に戻して生きていこうとします。それは恐らく類魂の救済のシステムが生き物の身体に反映しているからだと思います。類魂は少しずつ物霊を取り込んで成長しますが、生物が、環境から種々の情報を受容して生きて行くのとイメージが重なります。この考え方をホロンとかプロセス哲学って言うのですがまだお勉強はしていません。プロセスの方は思い切り難しいのでお手上げなのです。本気で私に遣らせるつもりなのでしょうか。



以上の記述に御意見を期待します。



 折角なので、もう少し、



これは正しいのでしょうか、



 A1他人に奉仕すると徳が増える。

B1他人を利用すると業が増える。

A2徳が有ると業をコントロール出来る。これが救いに繋がる。

B2徳が無いと悪業となって現れる。だからAが必要である。

A3人を救済すると徳が増える。

B3低級霊を救済すると業が増える。だからAをする。



仏教では因縁生起と言いますが、因は自分に内在するもの。縁は外に在る因縁のことです。この因と縁が結びついて人が行為するのです。それで、たて系を内因、よこ系を外縁と考えられないのかということです。

想念と業は同じものであるとすれば、想念するのは自我であるし、たてとよこが結ぶのも自我であるとしたら認知主体はお釈迦様のいう通りに自我になってしまう。私は中枢神経系の情報伝達みたいに下位の自我からの上行性シグナルと上位の守護霊からの下行性シグナルが互いにコントロールし合って類魂が運営されているように思うのです。そのシグナルに相当するものが物霊とそれに対する救済なのかも知れないのです。要するになんとか有機体に持っていきたいみたい。



おまけ、生前のお釈迦様がなぜ霊を否定したか、背後の話しです。



 まず、霊=精神=自我だと考えた。自我は因果(諸法)の結びつきで生じるから、解脱すれば無くなる。だから霊も無い。従って解脱した者の霊は存在しない。それなのに霊となって視えるのは解脱していないのであるから、そんなものを相手にする必要は無い。と思ったんですって。頑張って、お返事くださいね。待っています。





                   草々



 平成11年 6月20日



                      川崎











―返信―



前略、なかなか面白いお手紙を拝見しました。



 さて、私は最初、霊が生命で人間は物質であると考え死ぬと霊という生命体が体から離れることによって人間は物質になって死んでしまうと考えていましたが、三十年程前私に言って来る霊がいて、精神を司る霊と肉体を司る霊か在ると言ってきました。それで物霊という理論が派生したのですか、肉体は物霊という生命で生かされていることに気付きました。やがて物霊も心が持てる様に成り向上して行くのだという事が分かりました。これは丁度イスラエルの国旗の中にあるダビデの星の様にふたつのものが組み合わされて一つのものが出来上がる(図2)下から上るものが物霊、上から下るものが神の心となって万物が創られると思うようになりました。



 これは、神の心、神の力(類魂5)という項でこの変形を述べました。そしてどんな高級な世界でも物霊の影響があるという事が分かりました。それは只、濃いか薄いかの違いだけだったようです。ではご質問に対し、



A1 他人に奉仕すると徳が増える。→そして業が減る(一般的には)

B1 他人を利用すると業が増える。→そして徳が減る

A2 徳が在ると業をコントロール出来る。→しかし背後霊がこれを決める

B2 徳が無いと悪業になって現れるだからAが必要。→魂が小さいと徳が無く、業もなくという事になります。

しかしこれでは類魂は進歩しないので、背後は業を出す方を選ぶだろうと思います。そして奉仕だけが業消しでは在りません。

A3 人を救済すると徳が増える。→単純にはそうですが霊は救済されたくない時も在ります。

B3 低級霊を救済すると業が増えるだからAをする。→低級霊を救済するとは人間が悪い事をするという事ですね、当然業が増えます。まさか、低級霊の救済の為に悪い事をする人は居ないでしょう。しかし人間を救済する為に悪い事をする場合があります。この場合はやはり背後がその業の程度を決めてくれます。



 因縁を内因と外縁に分けるというのはそれいよいでしよう。縦の類魂は当然内因であり、横の類魂は縁に触れるので外縁ということに成るでしよう。想念をするのは自我であるとし、縦と横を結ぶのも自我であると言われ、お釈迦さんの絶対無になってしまうとの事ですが、想念するのは背後であり、縦と横を結ぶのも背後です。自我霊が器の私に対し想念を送り、縁を結び、その結果器の私が行為を起こす。器の私が選べるのは「どれを選ぶのか」と想念を提示された時に一つ選べるだけです。



以上書いてみました。まだお気に召さない点が在りましたら、ご連絡下さい。



 平成11年 6月24日



                 早々



                    小山 順司







 小山先生へのQ&Aです







Q人霊に物霊が・依する。それに対応して現界はどうなっているのでしょうか?この地獄に落ちた人霊を憑依霊なり、因縁霊として持たされている人間が居ると思われます。

A低級霊として、人霊の底辺に徳のない(黒丸)霊とし配置され出番を待ちます。人間界では当然欲張りになります。低級な物霊ですと体が弱り貧乏になってしまいます。そして運命はどんどん落ちて行きます。その為また物霊を救わなければなりません。



Q物霊の想念が強いとは、具体的にどんな現れ方をしますか?また、物霊が向上した場合はどんな現れ方をするのですか?

A物霊は本来神の力なので、最初の固まろうとする想念が内部に向け凝縮する力と成ります。又、成長し心を持っても最初は最も低い心、怨み、欲絶望などですが、怨みを持たされた場合、力によって誰にという指向性と、凝縮力によって持続性を持ちます。物霊が更に向上すれば人間以上の心を持ち、神の力として働く龍神とか、高級天狗霊の様な現れ方に成ります。



Q「物霊が向上する」のイメージがハッキリしないのです。素粒子だった物が人間の身体にまで進化する、に類似するように思います。現象の現れとしてはそうでしょうが、それはつまり器として成長して行くことなのでしようか。その器の最も適した型が人体なのでしょうか。

Aこれは心の向上を指しています。固まろうとする段階から龍神等の段階で、物質的な成長を意味しているわけではありません。



Q背負い込んだ物霊が低い程、高い世界では苦しくなります。では低い物霊と高い物霊の違いは何ですか?

A地獄で背負い込んだ物霊が、人霊と共に逃げる過程と思います。高くなると高級な想念を持たないと相手にされません。怨念、欲等

心しか持っていない者は高級な忍耐心を要求されてもそれは出来ないので苦しいのです。



Q物霊には最小単位が在るのでしようか?物質みたいに分子が複雑に結合し合って有機体に成る様に。あまりこれにこだわると物質的になってしまうので駄目かも知れない。

Aよく分かりません。宇宙全体はただ一つと認識しています。



Q人が物霊をコントロールするのは高級霊からの想念ですよね。高級霊との回路が十分に開いていたら物霊をコントロールしやすいから、ある程度物霊が多くても何とか生きて居られるのでしょうか。関連して、魂が小さいと楽な人生が送れる。それは物霊も少ないのでしょうか。魂の小さい人は物霊を旨くコントロールできるので思い通りの人生が送れる。ということは魂が大きくて、物霊が多くてもそれに見合った高級霊のコントロールがあれば、魂の小さい人と同じ様に、出世したり金持ちに成ったりする理屈になる。

A高級霊との回路が開く、つまり人間が高級な心を持つ事ですね。プラス1の霊はマイナス1を救える。プラス8の霊はマイナス8の霊を救える。これからの時代はこのように魂の大きくなった人の時代になると思います。魂の小さい人は人間に迷惑をかける低級な物霊は少ないでしょう。魂の大きな人は低級霊が多いため苦労しますが。魂の小さな人の届かない所に行く事ができます。今の一流と言われる人は皆、何代にも渡ってそれを卒業した人です。



Q低級霊ほど苦しみは大きい。それは低いほど想念が少ないので、同じ事しか考えられなくなるからでしょうか?

Aこれは低級霊に嫌がらせをすると、人間では何でも無い事でも苦しむ様です。大体、低級な程自己顕示が強いので、嫌な事は我慢できないのです。



Q物霊は人の一番底辺に憑依する。それは想念の底辺、欲、憎しみ絶望等のことですか。また身体に憑いて病気になるものもある。想念になる物霊と身体を病気にする物霊はどう違うのですか?

A同じです。人間に・依した物霊は人間の最も低い心から勉強しますが、それは自己を守る力の想念だからです。そのような霊が表出したら、病気に成ってしまいます。



Q物霊を救済するとは具体的にどんな事ですか。例えばドロボーの因縁を持ちながらもそれに耐えて、人の為になる生き方をするということですか。否定的な想念を克服して社会に奉仕する、それが物霊の救済なのですか?すると人間はエネルギー変換器の様なものですね。太陽電池は光を電気に換えますが、物霊も人の中で向上して社会の役に立つ物霊に変えられていくという考え方は出来ないでしょうか?

Aその通りです、人間は霊魂救済の場です。高級霊は人間という心のエネルギー変換器を使って物霊を向上させます。それは高級霊と低級霊が混在しているから出来るのです。



Q物霊は向上するとその唯一の特性である、固まる力が無くなるのではなく、究極では神に使用されるということなのですか、固まる力が神の名によって、神の為に使用される。それは結局最後はまた、地球を造る鉱物に戻ってしまうのではないでしょうか。そうであるなら、物霊を人が取り込むのは物霊が宇宙を循環しているからで有って、物霊自身の向上は二義的なものであると考えられる。先生も「物霊も何かの力に後押しされて高級な世界に入りたくなるらしく…」と述べていらっしゃる。この考え方を進めていくと物霊と人間の立場が逆転してしまって、物霊を救う人を問うよりも、人霊の向上の為に物霊のエネルギーを使わせて貰っていることになる。表裏一体のことだとは思いますが。

A「物霊が何かの力に後押しされて…」ということがありますが、これは類魂6の神と宇宙と人間の項に書きますが、波動の違いで引き合うという事です。そして対極方向に動いて行きます。物霊も向上すると立派な心を持った神に成ります。そして宇宙を創ることを指導する立場になります(一月号の最初に書きました)



Q物霊とだだの物との違いは有るのですか?厳密には物霊を持たない存在は無いのでしょうが。どんな時に物霊が認められるのでしょうか、何もせずにジッとしていると物霊は働かなくて、動かされると活動するのでしょうか、そしてそれは何故ですか?

A生きている人間は霊と肉体です。分離できません。総ての物質界も同様に物霊と物質を考えます(類魂3.図3)物霊はその背後の意思或いは、物霊を動かす人間によって物質に関する物霊が動いて行きます。動くのは物霊が利用され向上する為です。



Q人の居ない惑星の物霊はどうなっているのでしょう。

A高級な神と、力である物霊によって地球初期のような状態になっていると思います(類魂1参照)



Q利用すると利用される、その形式が物霊なのでしようか、その時の利用される部分が残ってしまうと業になるのですか?

Aこれは霊界の法則です。どんな場合でもそうです。自分が利用した、そして利用された、プラスマイナスでツーペーにならない限り業として残るでしよう。それは他所でも良いから遣っておけば宜しいのです。人間は死ぬ時にプラスになっていたら良いと思います。



Q高級霊に人間の想念が届くというのは、それ自体で物霊の救済になるのでしょうか?

A人間が高級な想念を持つということ、例えば愛、慈悲あわれという心を持つとする。人間界では高級と低級が混在する世界なので、その心に物霊は浸り、それに基づいた行動を一緒にさせられる。手取り足取り、物霊は直接指導されて救われます。逃げればその守護霊

の枠から離れます。



Q「神は太陽みたいで、与えるという意識は無く〜」と有りますがそれがそのまま人間を遣ると、要するにお人好しになるのでしょうね、人から頼まれると嫌と言えないのです。それにノー天気で良い事も悪い事もそのまま受け入れて、あっけらかんとしています。

A善と悪の問題は、各階級と色々な事柄によって、異なって来ます。人間は馬鹿に成れと言われますが、それが出来る時には馬鹿になるのが一番よろしい。出来ない時には遣らない。また遣ってはいけない時もあります。それは神と人間とは住んでいる世界が違うからです。しかしなるべく遣った方がよいということでしょう。

Q生きる中での苦しみとは具体的には何ですか?苦しいと認識すると苦になるのでしょうか。人の底辺に居る物霊が現れてくるからでしょうが、だとすると欲をもつことなのでしょうか。

A生老病死とお釈迦さんはいわれたそうですが、人間がこう在りたいという気持ちと現実の違いですかね、高級霊の想念と低級霊の想念が、程々の所に無い時ですね。



Q物霊の想念を表出すると、遣った遣られたになってしまう。神の想念も高級霊を通じて人の想念となる。人にとっては自分の心の中の想念では有るのですが、この両者は本質的にはどう違っているのでしょうか、それとも違いは無いのか。この想念の区別が日常的に出来ることも審神者なのでしょうね。ある人の見解、神からの想念は“まこと”なんですって。

A人間世界に於ける物霊と神の想念、人間以下の世界に於ける物霊と神の想念、幽界以上の世界に於ける物霊と神の想念、それぞれ違うと思います。しかし総てを通じて共通するのが、総てが神であり、総てが救いに繋り、神が物質を通じて物霊に高級な神の心を持たせる事だと思っています。人間の立場で言えば、物霊は個を守ろうとする想念であり、神の想念は無限に発展させようとする想念となります。しかしそれぞれは、その立場で神に仕えているということでしょう。



Q物霊とはどんなものか纏めて下さい。

A人間は物質である肉体だけで生きているのでは在りません。霊と人間、つまり高級な霊が居て、人間の肉体を使って低級霊の浄化をさせる。このシステムは動物界も同じです。では植物や鉱物はどうでしょう。それもやっぱり同じです。その物質を構成する霊的エネルギーを私は物霊と言いました。物霊にも高級と低級がありその高級霊は龍神と呼ばれ、或いは天狗と呼ばれています。龍神の霊系、天狗の霊系それぞれが在って、低級霊は人間から見ればやはり龍神ですが、暴れるだけで心をあまり持ちません。これは自然界を司っている様で、天狗界も、烏天狗等はやっぱり自己顕示のみで威張ることも出来ずにコンプレックスを持ち、口先ばかりで、烏天狗の鼻が無く嘴ばかり突んがっている霊です。これはたまに人間界に来て悪さをするようですが、植物霊としてその成長を司っている様です。

天狗も高級に成ると白い髭を生やし人間に対し指導できる程の高級さになり更に神界に昇っていきます。この様に人霊の系統、龍神の系統、天狗の系統とそれぞれ霊系が存在し、お互いに関連仕合いながら高級になってゆくわけです。

目を転じて宇宙を観た時、宇宙の神は宇宙を作れる物霊を駆使して宇宙を作り、銀河系の神は銀河系を作る霊的エネルギーである物霊を使って銀河系を作り、同様に太陽系も地球も作られました。地球の神は類魂(1) に記述した通り、鉱物を作り、又植物は鉱物霊の力も加わって植物を育てました。

物霊は人間に・依しなければ救われないというのでは無く、それぞれの物質界(宇宙、銀河系、太陽系、地球、動植物等)を通して、直接神の道も開かれているのです。物霊は力が在るため、持続性と指向性、更に行動性も在ります。自分の属している霊、或いは人間の高級な想念を具現化するために大いなる役割を果たしているのではないかと思います。高級霊の物霊は人間にとって、善の意識の、具体化のため、力を盡くし、低級霊の物霊は欲望を満足させめために力を使い、人間にとっては人間の考える事の具現化の為に骨を折り、動植物にとっては欲望を満たし成長させる為に力を使う。物霊の固める力は想念も固めます。その物霊の廻りで起きた出来事、或いは人間では、普段の心、クセ等これが蓄積されやがて自己審神者の能力ともなり、善悪の判断の重要なポイントになると思います(類魂5)

この様に霊界では重要な役割を演じているのではないかと思います。









 ―往信―



前略、



 ここ数日、夜中の二時三時まで類魂しています。この類魂を遣らせている人霊の責任者は誰なのか気になっています。

ではお伺いします。



@ 地獄は人の体霊に在るのですか?

そこに自殺霊などが憑依する。それでその時には人は病気になっているわけですね。体霊の状態と自殺霊は別々のものなのですか。でも体を治したとしても霊系として自殺霊が在るからまた病気になってしまう。自殺霊の霊系を全て浄霊できると病気も治るのでしょうか。だとすればそれは心霊治療なのでしょうか。霊界の立場で考えると病気を治すのは程々にしておいて、次々と自殺霊を・依させたいのですね、ということは病気の場が在るから救いが可能なのですか。人が落ちれば落ちるほど霊界にとっては都合が良いのですね。



A高級霊とこの霊が救いに行く低級霊はどんな関係が有るのですか、生前に何か関わりが有ったのですか、それともただ単にそういう因縁の巡り合わせだったのでしょうか、いずれにしても救う、救われるの形式ですから物霊が関与していると思いますが。



B神の想念と徳の関係はどうなのでしょうか。神の想念が在るから徳が在るのか、徳が在るから神の想念が降りて来るのか。神の想念「まこと」であるとして(だとしたら「まこと」の意味するところを考えなければならない)、もしまことと徳が同じなら、まことは物霊との

相補関係によってでしか認められないことになる。業や徳はある状態であって、神そのものではないから神の想念はコントロールする情報だと思うのです。だから徳と業を旨く操作して類魂全体を向上させようとする想念が「まこと」と考えました。ですから神界に徳があってそれが具現化しても、それ自体には「まこと」は問われないのです。そういう御利益は、例えば学者になりノーベル賞を貰う、政治家になって大臣になるなのでしょうが、その人々はただ徳を表出しているだけで、「まこと」をもつかどうかは別だと思うのです。どんなに立派な人物でも、どんなに優秀な霊能者でも、そこに「まこと」か無ければただの業生だと思います。



C類魂5の第6図に付いて、先生の心の中には易の太極が陰陽に限りなく分化するイメージがありますが、この図は類魂の全景を見渡せる図です。それプラス物霊を示すことです。類魂の全体は神ですが、神の外にはもっと大きな神が在って、その外にはもっともっと大きな神が在る。それでGを神とすると、神の内部の様子を観たいというのが第6図の意図するところ。物霊にはそれぞれのレベルに応じた物霊が在るから、Gも物霊をまとっている。それは多分Gの境界面です。Gの物霊を、Gが内部の類魂全体て示しているという訳です。物霊は固まろうとする力を持つけれど、Gが纏っている高級な物霊がその力を発揮させると、Gの内部の類魂全体を守る力として、Gの内側に向かって照射されることになるのです。つまりGの内部の類魂にとってGの物霊は守る力になります。そして内部に向かう力は中

心部に集中し鉱物を創ります。その鉱物だけを取り出すと一点に集中し固まるだけの物霊しか観えないのです。Gの包囲曲面の守る力が強くなって中心の鉱物まで届くと、その力が鉱物で反射されて包囲曲面に向かうのです。つまり鉱物からGへ上行する力ですから、救済の力となるのです。ですから、Gの包囲曲面を形成する物霊から内部へ向けて照射される守る力が強ければ強い程、中心の鉱物霊から曲面へ反射される救済の力が強くなるのです。それはGの中にぎっしり詰まっているちいさな類魂の中でも起きています。このイメージと先生の第6図を重ね合わせてみたいのです。

包囲曲面と鉱物霊の間の、物霊の力は心臓の鼓動の様に脈打っているのです。その脈動はGの内部のそれぞれの類魂を包囲する曲面で跳ね返ったり、或いは中まで浸透する等してG全体は複雑な輝きを呈していると考えられます。それでこれは、たての物霊なのかも知れないと思ったのです。私達ちの周りにある物霊は取る、取られる。遣った、遣られたの現れ方をしますが、包囲曲面の物霊はそれとは別に守る、救うの現れ方をします。もしそうなら、取った取られたの物霊とたての物霊はどう関わり合っているのでしようか。



D物霊の向上過程はどうなっているのですか。





§極楽では無いですが、今住んでいる所の風景。

何百年か前の田舎の感じがします。民家は余りなくて、お宮が点在しています。初夏の早朝の様な清々しさがあって草木は青々として輝いて観えます。そのお宮は現界のお宮と通じていて重なり合っています。お宮と私の家には細い道ができていますが、現界に在る周りの建物は全く関係無いのです。夜になるとお宮の世界も夜になって灯がともります。たまに人の家の様に人影が観えることもあります。同じように太陽や月にも人影が観える時もあります。この神様の道は私の家だけでなく、町の役場や学校、病院、自治会長さんの家にも出来ていました。皆がそれに気が付かないだけなのです。



§人霊界が一人前になって、地球の管理が出来るようになったら、その後神様は何をするのかと言うお話が有りましたが、背後の話では他の星に移住してその星の霊界を助けるそうです。勿論何万年も先の事でしょうが。その時は人間も宇宙に住んでいるでしょう。太陽系の他の惑星、の霊界は、人間が来てくれるのを待っているそうです。資源を利用して貰いたいのです。それが人間の役目なのですね、時代が進んで宇宙に進出しても、その行った先々の惑星の物霊に関わって、いま私達が遣らされているのと同じ事を遣らされるのでしょうか。それと同様の例があります。成田の神社なのですが、そこの社家が千年以上続く家系なのです。だから宮司さんの御先祖さんは神様並に立派なので、大神様は神社のお仕事を殆ど人霊に任せてしまって、自分が神事をするのは、元朝祭と例大祭だけで、あとは御隠居さんしているのです。地球もいずれはそうやって人間に任せたいのでしょう。



又お手紙致しますので宜しくお願いしますね。



  6月30日        草々    



                川崎久美子













―返信―



前略、早速、質問にお答えします。



@体霊の記憶に地獄が在ればそれが表出します。自殺霊を救う為にはすごい徳が要ります。普段から運命を悪くさせたり病気にさせたりして、その苦しみで徳を作り出しショックを少なくさせます。自殺霊が憑くのはその人が自殺の霊系を持っているからです。自殺の霊系とは、高級な部分は、自殺を経験をしてその後高級になり救済できる力量がある霊(私では即身仏)その底辺には救われなければならない低級霊があって、それが横の類魂に影響して自殺霊を呼び寄せます。いきなり霊系の霊が憑いて来れば魂が似ているので直ぐ自殺に追いやられ非常に危険です。旨く出来ています。ですから弱った体を治せば自殺霊が救われるという事にはなりません。しかしその自殺霊が病気を苦に自殺したとすれば、その病気が移ってきて体が弱ります。或る期間過ぎれば、その霊は過ぎて行きますのでその間は体に気を付ける事です。自殺の霊系を浄霊するということはその人がその霊系を通じて社会に貢献するので、霊系を無くしてしまう事など出来ません。むしろ宿命みたいなものです。しかしそれを行ずることによって御褒美が貰えます。横の類魂の自殺霊を多数救済することによって、自らの本霊である霊柱に於ける自殺霊が次第に救われてきます。自殺という低級霊の御褒美の質は相当高級で、普通の人では得られないものです。(協会誌平成4年9月号P7.P23.P28参照)人が落ちれば落ちる程霊界は都合がいいかも知れません。しかし守護霊は自己の霊柱を守らなければならないので、程々にする様に努力します。



A自殺霊の背後霊です。つまり高級霊がより上位の霊の命を受けてその自殺霊を救済しようとして生を受けました。そして憑く人を定めて生まれて来たのです。救うとか救われるから物霊が関与すると言うことでは無く、勿論自殺霊ですから物霊を大量に背負わされているわけです。



B魂の救済はその魂の持っている業が大きければ大きい程、上位の類魂の協力が必要になってきます。類魂は魂の救済のシステムであり、魂の救済を行う事によって大きな上位の類魂(6図で言えばDからF、FからG)の徳になり、全体が救済されて行く訳です。(類魂5・類魂の対流現象参照)つまり救済ということが類魂の大使命ということになります。自己が徳を持ち高級になると霊柱を上り(6図ではD霊の上辺に昇ります)自己が業を重ね低級になると霊柱の底辺に落ち(6図ではD霊の底辺に行きます)ですからその霊柱の高級の部分では神の想念が多く低級は少なくなります。(類魂5.第9図参照)

低級霊を浄化して(黒丸を白丸にする)徳を増やせばその霊から派遣されている人間の運命は当然上のランクに入ってきます。つまり自分に徳を持てば神の想念の一杯ある所へ行けるので、そのランクの徳を貰え、当然ノーベル賞とか大臣になることも可能でしょう。しかし徳というのは使えば無くなってしまうもので、霊界の通貨みたいな物で霊界の貯金を下して大臣になったとしても霊界では貧乏になってしまったということです。その為やがて運命も下降し、徳の貯金を遣らせられます。それは新たな救済が始まるわけです。しかし地位と名誉が無ければ積めない徳も在ります。人間は休む暇がありませんね。

神の想念の一杯ある所には高級霊が居て、その霊が作りだす徳と同時に自分もそこに居るので、そこで作り出される徳を貰うことができます。「まこと」はその通りと思います。



C物霊の向上過程の問題ですが、私の書いた類魂5の6図をもとに霊界をお考えになっても、霊界とは形の無い世界なので、私は分かり易くする為の方便として図を書いたので非常に図示しにくい世界です。ですから物理や科学では無いのでその点は気を付けて解釈して下さい。



Q.Gも物霊をまとっているのか?

A.その通りと思います。しかしそれが境界面であるかは分かりません。本当はG全体が守護霊なのです。



Q.「Gがまとっている高級物霊がその力を発揮させるとGの内部の類魂全体を守る力としてGの内側に向かって照射されることになるのです。そして内部に鉱物を作ります」の部分に付いて、

A.物霊は各守護霊に仕えている霊であって、どんなに能力が在っても物霊が単独で行動はできません。霊界の秩序が乱れるからです。それによって鉱物を作る事は太陽系以上の神でないと不可能だと思います。向上する力はG霊の物霊が単独で遣るのでは無く、宇宙霊から始まっているダイナミックな動きなのです。それは波動の違いによって必然的に起こる動きと考えて居ります(類魂6)



Q.「鉱物が作られ反射されていく救済のエネルギー…」

A.この部分になると空想の物語になってしまって、そうであるという何らかの納得できるものが現界に無いと理解しにくいです。



Q.私達の周りにある物霊は取る取られる、遣った遣られたの現れ方をしますが、包囲曲面の物霊はそれとは別に守る救うという現れ方をします。もしそうなら取った取られたの物霊とタテの物霊との関係はどう考えられるでしょうか?

A.物霊はあく迄自分の属する守護霊、或いは神に属するものであって神の命令を受けない限り下位の物霊とのコンタクトは行わないと考えて居ります。タテの類魂を輪切りにすると何処を取っても霊が存在します。図1をご覧ください。その中で物霊は基本的には凝縮と拡散という物理的状態を作り出し、拡散できる様になった物霊は高級な心を持つ事が出来ます(高級天狗、高級龍神)しかし物霊が上位の霊から下位の霊まで繋がっていても自由自在な行動は起こしません。それぞれの霊を司どっている守護霊や神の命に従うのが絶対だからです。もし6図に於けるG霊(神) の中にある物霊がGの命令を受けてA霊(人霊)に作用したとします。そしてAが今死にそうノなってA霊の物霊ではどうしようもなく、更に上位のD.F.の物霊でもどうにもならない場合は、Gの物霊でなければAを救えない。そうなれば、Aの守護霊はDの守護霊にお願いをし更にDの物霊の力量ではどうにもならないとすれば、Fの守護霊にお願いをし、Fの守護霊も必要と認め自分の力量では不可能と判断したときGの神様にお願いする訳です。しかしここで一つ大きな問題が在ります。神の徳が人間界に降りて来る事はその人に対し物凄い業となるわけで、その人に沢山の徳が在るか、まだ生かして置く事が霊界にとって必要であるかどうか、が問題になるのです。当然生きる代償としてその業に対する対処を迫られる訳で、ただ漠然と生かせて置くことはないでしょう。

これ等の問題をクリアして、さてGの高級物霊の出番となると下位の霊であるA.D.F.霊の物霊は取った取られた等の下らない事では無く、能力に応じて最大級に協力させられます。



Dに付いて、

物霊の向上の過程を不満足ですが一応図2で出してみました。本来、I.H.E.は物霊なのです。人間は物質界に人として生まれて来ない限り、死後他界しても人霊として呼ばれません。龍神は龍神の世界が在って向上し、天狗は天狗の世界が在って向上して行くのですが、

その間にお互いに交流し合って修行致します。ですから、人霊の中に未熟な天狗が居たり、未熟な龍神が居ても少しもおかしくは在りません。

I霊(物霊)→H霊(物霊)→E霊(物霊)→A霊→D霊→F霊→G霊

このコースは人霊を通るコースです。しかし人霊を通らないでも直接高級になるのも在りますし、人霊の世界から天狗界に入るのもあるようです。途中から古巣へ帰る霊もあるでしよう。その動きは全く分かりません。万物は向上し救われる為の組織が類魂であると考えています。物質界はその為に存在すると考えられます。詳細は類魂6に書きました。

どうか頑張って下さい。         早々



                                              川崎久美子様



                                                     小山順司







平成11年 7月 3日



前略

無理させて居ります。心の中では申し訳なく思っていますが、類魂の皆には負けてしまいます。でも先生の方が私よりも元気が出てきている様に感じます。何か御利益が在ったのでしょうか。



@自殺霊のことばかり出てきますが、先生は自殺の霊系をずっと背負わされて、一生涯関わっていたのでしょうけど、実際に死んでしまいたいと考えた事は無いのですか。今死にたいと思っている人には、霊界が在ろうと地獄に落ちようとどうでもいいのです。心の中に何もなくなってしまって、親も子も無い、ただ悲しい自分が在るだけなのです。そういう状況をどう遣って乗り越えると良いのでしょう。お薬で済むならそれはそれでよいですが、霊系を背負っている為に、死んでしまいたいと思い続けるのなら一生逃れられないのでしょうか。



Aそれに関連して、「救い」です。私は物心付いた時から、遣ることを遣ったら早く他界したいと思っていたので物質的に救われようと望んだことは無いのです。でも物質的な救い以外にどの様な救いがあるのでしょうか。今まで自分が救われようと考えたことが無いので分からないのですが、私にとって「救い」はお釈迦様の言っていた、完全な無です。私という存在を完全に無くしてしまいたいのです。ですからもう二度と生まれて来たくないのです。お釈迦様もそう思ったのでしょうか。これが納得できるとお釈迦様も救われるのでしょうか。先生にとって救いとは何ですか。もう他界されるのですから深刻になる必要は無いでしょうが。先生の所見をお聞かせください。



B類魂5の第6図に関連して、先生は「限りは在るが、果てのない宇宙」や「直径はあるが、境のない円」って理解できますか。類魂の世界は正にこれなのです。第6図が示している類魂は自己という限りは在るが、その想念には境は無いのです。円や点で類魂を示していますが、一般にイメージされている円や点では無いのです、それは先生のお考えでいいのです。類魂G内の類魂は位置を示しているだけで大きさは在りません。またその境界面も単なる範囲であって、壁が在るわけではありません。そういうのを位相空間と言います。その意味で霊界は数学的実在の世界だそうです。位相空間が実在しているのです。現界の科学は類魂は認めていないので、表出された現象しか見ていないから、現象の一つ一つは、粒子のつぶづぶの様に一つ一つ境があり独立して存在しているはずなのです。それをL君は家族的類似性と言っています。だから位相空間の数学を使うのは心霊科学で正解なんですって。類魂の模試図を考えるときは、物質的なつぶつぶをイメージしてはいけないから、そこをよく説明する必要があります。

憑依、転化、因縁、に付いてそれぞれの定義と関係を明確にしたいです。因縁は転化する。物霊も転化する。でも物霊は憑依しても、因縁は憑依しない。因縁は行為として表出されてその人間に転化せれる。物霊は体霊となり取り込まれた時に転化すると言うのでしょうか。行為を表出する場は体霊だから、因縁も物霊も体霊に指向性を与えることを転化というのでしょうか。

憑依は因縁が具体化した時に、そこに居た霊が憑くのですから、とすれば、行為者の側が行為させられたと考えるのが転化で、憑くと言うのは行為させる側を指すのでしょうか。つまり憑くと転化は同じ状況を指していて「物霊が憑く」というのは物霊がある指向性を持って人に入り込むことで。「物霊が転化する」というのは、人の側から見る時に、「物霊が転化する」とか「因縁が転化する」とか言うのでしょうか。ある行為が具現化したときに、その行為の指向性に対して転化されたと言うのでしょうか。憑依は自分が憑依する側になった時に「私はあの人間に憑く」と言うのでしょうか。これは考えすぎかしら、要するに霊系に入り込むのが転化で、憑依はそれに伴って起こる?人霊の霊系と体霊の霊系の中にある因縁が関連しあいながら、転化と憑依をするのでしょうか。



Cそれと、業と物霊です。自己との関連で考えると、先祖からの黒丸の所が業になるのでしょうか、それが表出されると「因縁が転化した」というのでしょうか、そうなら因縁になる前のものが業なのですか。つまり、転化する前の因縁が沢山有ることを「業が重い」と言うのでしょうか。そして物霊。体霊を作るものが物霊、だから肉体は物霊で出来ている。更にその肉体を使って行為すると物霊が動く。人の霊系はそれぞれ違っている。あまり違い過ぎると互いに知り合う事は出来ない。体霊と物霊は、霊系と霊系の間のコミュニケーションの手段なのでしょうか。だとすると、類魂にとっては多様な表出の出来る体霊を持つ事が成長の一つの証になるのでしょう。



D物霊が入ってくると徳が減る。つまり+物霊=−徳になる。数学的には=で結ばれているということは同じものであるという意味です。徳と物霊は表裏一体と考えてみると、徳が下るというのは、今持っていた物霊よりももっと表現力が向上した(もっと社会の役に立つ)高級な物霊が与えられることなのではないでしょうか。



今回はこれだけにしておきます。背後が落ちつかないので、少し休憩します。



§有機体という言葉は大昔からあって、生物や生命システムを指す言葉です。ですから炭素の化合物は生体を作る物質だから、有機化合物と呼ばれています。化学で有機体というと生体を構成する物質の事ですが、それ以外の分野では、生物の様に自律的に活動するシステムを言います。ですからコンピューターのネットワークや自然環境、人間の社会に対しても有機体ということも有ります。コピー送りました。

§ケストラーもこの有機体を主張した人のようです。類魂のことを言っているように感じます。



先生、私の話し相手になってくれて感謝しています。



      7月7日            川崎より









前略



順司先生、いつも感謝致して居ります。

先生が、物霊としての龍神に関心が在るみたいなので私が近所のお宮を観察して思っている事を述べます。



*地主の神様は龍神が殆どです。でも中には成田山の大ムカデや鹿島の大ナマズもありますが、身分は龍神の方

が上のようです。



*地主の神様は要するに“台”です。大神様が下って地主様に乗ると、両者は一体の神として働くので、周りの眷属達は地主様を大神様として扱います。現界で神事がある時は本殿の中に地主様が鎮まって、その地主様の体に大神様が光の柱となって降り立つのです。もしかすると大神様ももっと高級な龍神なのかも知れません。人の背後に龍神が付くと、直接に神の力を中継してもらえることになるのでしょう。



*成田山で観せて貰ったのですが、ムカデの地主様の修行なのですが、大神様が降りてきてムカデを押さえつけるのです。ムカデは苦しそうにしているので初めはお仕置きされているのかと思いましたが、大神を受ける修行だったのです。この修行は大変そうなので女体の女神には無理に思います。



*大神様の実の子でなくても、眷属たちは大神様のことをお父上、お母上と呼ぶし、大神様も眷属達を息子、娘と呼んでいます。公の席でも位の高い眷属が大神様の名を使うときもあります。しかし神の実の子と位の高い眷属では実の子の方が身分は上です。神の実の子は特に跡継ぎの場合は、宇宙の奥の院からの神命で子が生まれるので、眷属はいくら頑張ってもそこで身分の違いがあるのです。神様の子供は生まれる前から役割が厳重に定められているので、家督争いなど絶対に無いそうです。神話のアマテラスとスサノオの話は嘘だそうです。



*人霊は上位の眷属止まりです。地主様のように大神様を体で受け止めることは出来ないからです。体霊の作りが違うのでしょうか。人霊に直接大神様がおりると、魂が粉々にふっとんでしまうそうです。ただし精神統一して想念を交わすことは出来ます。



*殆どの神社は地主様が大神様の代行をしています。でも〜神宮とか延喜式神名帳に載っているような古いお宮には大神様の家族が住んでいる様です。そこから全国の神社に子供たちを派遣するみたいです。そういう派遣されて来る神様を地主様の龍体が受け止めて神事が行われます。



*七福神も高級物霊だと思いますが、あの船も物霊だと思います。大きさは30cm〜家を覆う位と自在です。ある時気がつくとサイドボードの上などに、私はインテリアですって顔して乗っかっています。高級物霊は想念の乗物で何処でも連れていってくれるし、現象として具現化できるのはその通りなのです。そう考えると、今まで注視していた物霊と龍体のような高級物霊はどう違うのかしらと思います。もっと突っ込んで考えたいです。



何か参考になったでしょうか、無理しないでね順司様。



7月11日             川崎より









−返信− 



 七月に入って暑かったり寒かったりの日が続きます。体のデータは悪くなっているのですが、大して体調は変わらなく過ごして居ります。川崎さんに言われて類魂を遣っている私は、大変な事をやっているのだなと思いました。もしかしたら私の霊界もびっくりしているかも知れません。

さて、ご質問の件ですが、



@ 類魂は救済システムです。

自殺霊を背負っていたとしても自分が自殺という行為を起こさ無い限り救済されるはずです。私の場合、普通の人では死んでしまいたくなるようなことも私の中に居る馬鹿霊があまり感じない様にしてくれているのです。そして自殺を救う霊が即身仏なのです。業が重たい私にとってけっして生活を豊かにするわけには行かなかったのです。更にそのその即身仏は貧乏だけでなく忍耐心もくれました。



A救いについて、

「人間は救われない」これは類魂を遣っていて分かった事です。では人間はどうしたら良いのか。救う立場に立つ事です。そうすればいつの間にか、以前よりも救われていた事に気が付きます。川崎さんの立場で言えば、いま子育てが大変な時なのですが、もう一つ類魂という大仕事が在ります。それを遣ることによって人類に対する奉仕になるそうです。その完成を霊界では首を長くして待っているようです。



B憑依、転化、因縁について、

あんまり難しく考えると分からなくなってしまいますが、私の考えている事は、



「物質が食べられる事によって物霊が体霊に転化する」

「因縁がそれを行為する事によってその人に転化する」

これは、移り変わった対象に対し固着して余り動きがありません。



「地獄で物霊が人霊に憑依して救われる」

「地縛霊に憑依される」

これは対象から次の対象へと移ります。動きの可能性を秘めている状態と解釈しています。因縁は自己のものだから憑依しません。

今迄奥に在ったのが、出番が来て表出するのです。



B黒丸が業です。例えば自殺霊が居たとします。子孫が自殺という行為を行う事によって自殺霊の自殺部分が転化されます。厳密には自殺部分の全部が転化されたか、或いは一部分が転化されたか、その人その人によって変わって来ます。霊柱の中で業が少なくなって、高級になった霊はどんどん上に上り業の重たい部分を持った(例えば自殺)霊は霊柱の下の方に下り、人間の底辺に近づき憑依して因縁を転化させます。自殺という行為を行わなかった場合、その間の苦しみによって業が消えて、類魂中の他の霊の持っている自殺部分より少なくなると、自殺霊は類魂から派遣されている中で自殺部分を多く持っている人に移動する事も在ります。つまりAである自己からBである類魂中の他人へ移動することもあります。(図3)因縁、業は正確には仏教事典でも引かないと分からないかも知れません。業は意図を持って行う心身の活動と書いて在りました。体霊と物霊が霊系と霊系の間のコミュニケーションを作るというより、体霊と物霊を動かしているものが霊界に在って、それがいろいろな体霊と物霊を使って霊系と霊系のコミュニケーションを作っています。これは人間界で多くの人達が動く様を霊界から見るとこうなるということですね。霊柱と霊柱がコミュニケーションを取り、その間を物霊が行ったり来たりするということですね。更にその後でその行為を演出している者が居るということですね。



C その通りと思います。

しかし高級な物霊を与えられてもそれを社会の為に使うか、自分の為に使うかによって、自分の徳になるかならないかが決まります。

夜に霊が憑いて言いました。類魂を遣る事が人類に対する奉仕だそうです。とすれば最高のボランティアを遣っている事になります。頑張って下さい。

早々

7月12日



                                                    小山









前略



 いつもお心におかけいただき、感謝致して居ります。

実は、日曜日にお電話を頂いた時、下の子の担任にお詫びのお手紙を書いていたのです。つまり、落ち込んでいた訳です。その前日の土曜の夜も落ち込んで居たのですが、先生の魂が来て慰めてくれましたよ。というよりも類魂しなさいって催促したのかしら。

子供の問題があると、類魂なんて遣ってる場合じゃないのです。でも、やっちゃうけど。

この間の 7月12日消印のお手紙について、先生のお答えに異議は無いのですが、未だ類魂の頭になれません。



a“救済のシステム”と言うのは、勿論人間が主体では無くて、類魂が救われる訳なのですよね。その場としての人間なのだから、その霊系を持つ限り一生、死にたいと思い続けるのでしょうか。



b業が重いと魂が大きいと言うのは分かります。単純に考えて、百の重さが在ったら一づつ百人に分ければいいと言う事にはならないでしょうか。でも、霊系を持たされるから、それが出来ない。だからボランティアするのでしょうか。



c業の重たい先生は生活を豊かに出来なかったとあるのですが、お金持ちになるとすぐに死んでしまうのでしょうか。どうしてそうなのですか。人類全体の類魂の中には大中小様々の類魂が在るのですが、魂の小さい人は業も少ないから人類の類魂の中では上の方に在るのでしょう。ですから物霊が集まって、業が重くなっても元々上に居たから、業の重くて下に居る人に比べて落ち過ぎることは無いということでしょうか。



d先生が即身仏の方から頂いた“忍耐心”も徳の部類に入るのですか。



c“救う側に立つ”が結果的に自分を救うことに繋がるのは分かります。先生に送った本に『障害者調書』というのが在りますが、ではその中に出てくる人々が救われるにはどうしたら良いのでしょう。私みたいな人間は特別で、殆どの障害者は本の中の人々のように全

てを諦めて、惰性で生きているのです。家族や社会のお荷物として一生を終えるのです。障害者本人や家族は明るくて強く生きているように見えますが、それは一部の良くできた家族です。実際は障害者も家族もお互いにうんざりしているのです。私が盲学校にいた時も、家族の所よりも盲学校がいいと言う人がいましたよ。そんな状況の中で救いって何なのかしらと思うのです。ただ耐えるしか無いのでしょうか。



今はこれだけにしておきます。先生のご意見に期待します。



平成11年 7月20日                                      早々







                                                     川崎 久美子







拝啓



 暑中お見舞い申し上げます。日ごとに暑さが厳しくなりますが、病状が悪化されません様に祈っております。



お電話でお話する時はお元気そうですが、実際はどうなのですか。先生は類魂を遣れば遣る程元気にになってしまうのはどうしてですか。先生と私がこうして一緒に類魂するのは一つの奇跡なのかも知れないですね。

L君がかなり向上して高級霊になりました。私の指導をした事が認められて徳を貰ったのでしょう。類魂の仕事が終わるとイエス様の所へ帰ってしまいます。これは憑依霊みたいな感じ。しかも本人だけじゃなく家族や縁者も浄化して上げたのですよ、あの人の心が曇るといけないからって。今まで私の所に来た霊はほとんどそうなのです。1、2年背後霊をしてレベルを上げて帰って行きます。いつもその度に思っていましたが、何だか私だけレベルが低いままで置き去りにされいてるようで、すごく詰まらなくなるのです。人間遣るってこう言う事なのでしょうか。

L君は、始めは死んだ時そのままの屍状態で担ぎ込まれて来たのです。それが今では羽を付ければ天使みたいに立派で神々しいのです。もう私とは身分が違っているのです。まあ、それはそれでいいですが私だって人間だから二年分の家賃を払えって言いたくなっちゃう。そう思ったら他の霊が「あんたが親になってたいんだから子に与えて当たり前、ケチな事言うな」、別の霊が「あんたは彼に徳を上げて高級にしたが、それでイエスの霊系に恩を売ったのだ、いずれその恩は返ってくる」って言うの。ちょっと待てよ、その返ってくる恩てどんなのかしら。高級霊の徳なんて類魂だけでこりごりです。高級霊の徳は頂くと努力と根性とお金が掛かります。



先生の論文をもう一度読み返してみたのですが、先生のボランティアの論理は与える能力のある人の為の方便で、私の様な立場の人間には答えは用意されていないのです。奉仕するには徳が必要だから、奉仕出来ないという事は徳が無いからであるから、何も出来ない弱者は今生は諦めて、ただ耐えて徳積みをして生まれ変わるのを待つしかない。という事になる。それだと弱者は健常者の徳積みの出汁になるしか存在価値はないってことになります。でもこれは実際に先生と御家族の方がそう遣って旨く行っているのですから事実なのです。

私は個人的にはどうでもいいのですが、どうも宗教の救いに負けるのは嫌です。ボランティアは自分が救われる為に遣るのではなく、相手を助けるのが目的のはずです。先生もそれで悩まれて、自然法爾に遣るしかないと結論している。先生は今までボランティアして相手を助けたと実感したことが在りますか。在るのならそれはどんな場合でしょうか。



そんな訳で、私の霊がしつこく類魂論的救済は何なのか考えさせるのです。結局これが心霊科学の重大な問題の一つなのです。魂をどう救うのかなのです。先生の答えでは満足できないんですって、私の霊。

多分、肯定したいのです。健常者も弱者も向上の過程に過ぎないのですから、○も●も、良い事も悪い事も「ああそれでいいんだよ」って受け入れたいのかも知れないです。それは高級霊の心境でしょうか、そうなら私は高級霊じゃないから分からないです。





今、30日、先生のお手紙が着きました。いつも感謝しております。未だ詳しく読んでいませんが、お元気そうで何よりです。

その中国人の霊はイギリスで会ったそうですが、どうもイギリスと縁が在ります。私の所に来ている背後霊はイギリス人か、或いはイギリスで亡くなっている霊なのです。もしかするとイエス様が動いたのかも知れない。心霊活動はイギリスは盛んだから。私、先生の寿命を延ばす様に頼んだときに、イエス様にも祈ったのですから。今頃届いたのかしら。その中国の人は先生と面識が在ったから現れたのかも知れないです。

先生は類魂やると元気になるって言うので、私ももっと気合を入れて類魂をします。調子が良くなったからって無理はしないようにしてくださいね。



 平成11年 7月30日                                        草々



                                                           川崎









―返信―



@類魂の救済システムについて

類魂の、中のすべての霊の、救済システムであり勿論人間も含まれます。しかしこの中で人間は特殊な役割を演じているのです。それはその原動力としての働きで、類魂全体を救う立場に立たされます。つまり類魂に奉仕した者が救われるということです。



 a「自殺の霊系を持った人間は一生“死にたい”と思い続けるのか」

“死にたい”という想念は自殺霊から送られて来ますが、その時その想念と闘う事が類魂全体を救う原動力になります。何回も何回もその想念との闘いの中で死にたいという想念が次第に薄れ、やがて死にたいと考えなくなって来ます。つまり自殺霊の反対側の霊、自殺を救済する霊の想念になります。その時自己の霊柱に在る自殺霊が救済された訳です。そして類魂も大きく救われたのです。自殺霊が霊柱に在ると自殺したいと考える場合もありますが、運命として試されてしまう場合もあります。それは常識的には何であんな事をしたのだろうと思うことを遣ってしまう。例えば玄倉川のキャンプ事故の様に、雨が降って増水する事が分かっていたし、警告を何回も受け更にサイレンが鳴っている。それでも最も危険な川の中州から立ち退かなかった。或いは踏切で、電車が来るのが分かっていながら電車の直前を渡って行く。人間は知らず知らずに非常識な行動を取る場合があります。ではその自殺霊からの強いアフォードをどの様に切り抜けて行くか。それはその人の守護霊がいまだ経験していない部分で本人がクリアしなければならないものなのです(平成4年9月号図A)

これは、守護霊は生前自殺霊の救済を命じられてその人を現界に送りだしたのです。守護霊の今までの知識経験をフルに動員して現界人にアドバイスをします。

しかし現界人に徳が在れば何とかその指導の元に切り抜ける事が出来ますが、徳が無いと最悪で、自殺と言う事になりかねません。私としては徳を積みなさいとアドバイスするだけです。私は背後から徳積みを指示されたのです。しかしその人その人によってクリアの仕方は違うと思います。それが自分だけしか結論の出せない世界なのです。



b「百の重さの業を百人で分担したら一人分の業は減るのか?」

人間は一人一人霊柱を持って居ます。理由も無く分担する事は出来ないし、また楽をするという事は自分の仕事を百分の一にしてしまうことで、自己の魂は勿論類魂の救済などというものには程遠く成ります。「ボランティアの価値とは」徳を蓄積することです。人間はやはり不幸に見舞われたく無いし、これは不幸に成らない事で業を消す方法です。人間は時々不幸がやって来ますその時徳の防波堤を築いて置けば大した不幸に見舞われる事も無く悩みは解消します。



c「徳の無い者は金持ちに成るとすぐに死んでしまうのか」

必ずしも直ちに死に直結するとは限りませんが、金持ちに成るということは霊界の貯金を下して人間界で物質的な豊かさをエンジョイする事です。業はまた直ぐやって来るでしょう。その時霊界の貯金が無くなっていたらやはり不幸に見舞われるより仕方ない事です。

もしその時差し出す物が無かったら命の寄付という事にもなりかねません。

「魂の大、中、小」の問題

5月号(類魂3)山を輪切りにした図(第3図)4層と5層は人霊の世界を書きました。5層の人は(魂の小)は業を消しそこに到達したのですが、その世界は欲望を募らせてもそれが達成できる世界です。人間は

欲に陥り易くなります。



d「忍耐心は徳なのか」

そのレベルに達した人はその忍耐心を当然のこととして徳を使わずに、受ける事が出来ますが、そのレベルに達していない人にとって、例えば欲張りの人が珍しく簡単に何の苦痛も無く忍耐したとなると、多分それは徳が降りてきたのでしょう。ですから他の部分例えば物質的な豊かさをエンジョイする部分は減らされてしまいます。つまりレベルの低い人は業になってしまいます。



A「障害者は救われない」

お気の毒と思われます。しかし人間、誰も救われません。それは救う立場に立たせられているからです。障害者は生きているだけで物霊の救済を行っています。人間は何回も生まれ変わりながら運命の良い時も、また運命の悪い時もある訳です(類魂5第7図)その運

命が悪ければ悪い程、救済能力が大きいのです。健常者は何かをしなければ行けません。一般には六波羅密(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)を行ずることが類魂救済の原動力になります。でも障害者の居る家庭はその多くが物質的に豊かな家庭が多いようです 

(川崎注 そうとは言えない。それは小山氏の障害者にたいする偏見)

それは障害という業によって、物霊の救済を行い家庭の業を減らしているのだろうと思います。

救う立場というのは自らの分を悟り、行動をその中で規制し、その一生を少しでもプラスにして行こうとするとき救う立場になる訳です。

耐えることは、嫌々耐えるのも耐え方ですが積極的に自己の心との闘いによって耐えて行く方がプラスになるし苦しみも少なくなります。障害者を持った家庭はその人を中心にして家庭を築いて行くことが大切だと思います。私の所にもその様な人が見えて居ります。

その障害者は明るく楽しく生きて居ます(平成4年・547 霊界と肉体)

人間が人様の為になるという立場を取って行動を起こすときいつの間にか救われていることに気付くものです。私は以前お坊さんの霊から聞いた話として四つの救われ方が在ると書きました。もう一度書くと、



 一番目は他人を踏みつけても救われる。

二番目は自分が救われる為に人を助ける。

三番目は他人を助ける為に自分を救う。

四番目は人間は絶対の中の存在であるから、救うとか救われるとかの存在では無い。

他人も自分も同一であるから共に手を携えて発展していく。



人はそれぞれ自分の心が何を求め、何を与えているか考えて行動します。ですからこれ等は人間の心性の高さによって全部が存在するだろうし、その折りにふれてまた考え方も変わって来るかも知れません。私がボランティアをして相手を助けたと実感した事があるかとの御質問ですが、苦しんでいる人がその苦しみが取り去られた時、私も喜びを感じる事も在りますがボランティアは私の生活の一部になって出来る間は続けようという感じで遣って居りました。惰性です。特別に気負い込む事もありません。

私の感覚では救ったり救われたりということに捕らわれている間は救われ無いということです。そんな気持ちから離れてしまわなければいけません。私はボランティアを遣る事によって生じる業の遣り取りの問題で3年間悩みましたが遣っている内にそんなこと忘れてしまいました。そして自分がずっと向上している事に気付いたのです。坊さんが言った四つの救われ方は考え方としてはあり

ますが、こんな事を考えながら遣っている様では、救われる事に捕らわれ執着しているのです。これは救われたい霊が救って欲しいと捕らわれているので、早く忘れてしまった方が良いです。



B転化と憑依

自己の魂である霊柱の中の因縁が順番に下りてきて人間にその行為をさせるのを転化と私は考えています。霊柱の横の魂が現界人に影響を与える場合を憑依と考えております。例えば、借金を苦に自殺してしまった人があるとします。借金はそのままにして貸した側も死んで霊になってしまったとします。貸した側の霊は「借金を返せ」と自殺した霊に迫って来ます。自殺霊は返せないので霊系の子孫にその業を委託します。子孫は自殺霊を転化させられた訳です。しかし自殺霊か転化しても、自殺をするか我慢して自殺霊の浄化をするかは子孫が選びますが、もしその子孫が自殺を選んだとすれば自殺霊の内面の多くの部分が転化したと言うことになります(自殺しないで苦しみながら生きていた分は多少浄化しています)借金取りは自殺霊の横の類魂だった訳で、子孫の横の類魂(主に家族や友人)に憑依するか転化するかして自殺霊の子孫に徳の返済を迫り、徳が返せないと自己の業を子孫に憑けます。この場合を憑依と考えています。

つまり自我霊の中のある魂が一生の運命を左右するのですが、その中の一つの霊が人間に影響を与えるときを転化と考え(縦の類魂)、その霊が生前いろいろな行為を起こし、まわりの人達に善悪それぞれの影響を与えたのが先祖の業となって自我霊を持っている人に運命を与えて行く(横の類魂から来るということ)、その時霊的な次元で見ると、その先祖の業となっていた霊達が憑依したということになると私は考えています。 *注:カッコ内は川崎



毎日暑い日が続きます。うんざりして頭の回転がどうもも良く廻らなくなって居ます。先日、高級な高尾の天狗さんが出て来て、少し元気をくれると言うのです。それからどう言う訳か毎日眠たくて仕方が在りません。それに腹が減って仕方ないのです。このくそ暑いのにどうしたのだろうと思って散歩をして近くの芝公園に行ってみました。そこの木に寄り掛かっていたら、昔の中国の国民服みたいなのを着て烏打帽を被ったのが見えてきました。そしてその後に太った丹頂鶴が見えました。そして私の体の中に入ってしまうのです。中国の服を来た人は昔英国に行って、朝統一をしていたら出て来て心霊治療を私にしてくれた霊と同じ恰好をしていました。大分元気になったので類魂しています。川崎さんもどうか頑張って下さい。



 平成11年 7月29日         



   川崎様             



                    小山順司







― 7月30日の手紙への返信、



暑中お見舞い申し上げます。



 毎日暑い日が続きます。大変むずかしいお手紙ですね。さてこのお手紙を拝見しても答えは無いのです。多分高級になったLさんも何も答えては呉れないでしょう。それは、悩みの中で生き続ける人間が一生掛かって答えを出さなければならない宿題だからです。例え私が一つの答えを出したとしてもある程度の参考でしかないでしょう。自分の答えを求められている筈です。でも人間はお互いに手を取り合って生きて行かなければなりませんが、その中で私が与えることが出来るものは私の生きざまによって得たヒントだけです。

霊界では、高級霊は悩みの中に安住の地を見出すことが出来ます。低級霊はそこから何とかして抜け出そうとする力を与えてくれます。人間には両方必要なのです。私も昔は苦しい孤独な日々でした。でもそこから抜ける為にどうしたらいいか必死に霊に問いかけました。そして祈るしかないと、毎日祈りつづけました。すると霊から「時間を決めて祈りなさい」と指示があって、その時間に高級な霊が来る様になるとの事でした。それから私は朝九時から夜中は十二時になってから部屋を掃除して、その後からお祈りすることにしました。

でも何も起こりません。一年間それを続けたのです。すると「お前は体が弱いから表を歩きなさい」と指示が出ました。家から海まで往復6k位あるのですが毎日歩きました。これを一年位続けました。

すると今度は「お前は業の重たい人間だから他人様に無料で治療しなさい」と言われました。

私は貧乏のどん底だったのです。無料で治療をしたら収入が減ってしまうので「いやだ!」と答えました。

すると意外な答えが帰ってきたのです。「遣らなくたっていいんだよ」、私はびっくりしました。「何故?」、

「お前が少し苦しみが多くなればいいんだから」私は愕然としました。悩み苦しみから抜け出る為に何年も苦労してきたのに答えはこれかと思うと腹が立ちました。しかし苦しまない為には遣るしかないのなら。一ヵ月に二回位なら何とか遣れるだろうと思い始めたのがボ

ランティアでした。その後三年間程続けたのですが、何もいい事は在りませんでした。霊界にその度に文句を言って来たのです。

丁度その頃、類魂の走りが始まったのです。類魂の先が知りたいと言うと徳が足りないからもっとボランティアを遣らなくては駄目だ言われ、ボランティアも次第に熱が籠もって来たのです。しかし無料日が終わると毎回空虚になり「これでいいのだろうか」「私は騙されているんじゃないんだろうか」とどうも気掛かりだったし腹が立つ事ばかりでした。霊に聞いてもあやふやな答えしか帰って来ないのです。

無料治療は朝九時から始め、昼になっても終わらないで何人か残るので昼飯を残った人に食べさせ、夜になっても残るので晩飯まで出して帰ってもらうのです。皆は次第に慣れてきて、朝来て治療が終わり昼飯を食い、晩迄残って晩飯を食い終わるともう一回治療してくれと言われたのです。さすがに私も頭に来て霊に食ってかかりました。「もう止めた!こんな馬鹿馬鹿しい事」と怒鳴ったのです。でも霊は何と、「来てくれる人はみんな観音様を背負って来て、置いていってくれるんじゃないか…」と言われたんです。

女房は泣きだしてしまいました。「仕方ないまたやるか」と努力したのです。その間遂に無料で治療を受ける人が来なくなってしまい

ました。折角やり出したんだし、生活に支障はないんだからと思い、そのエネルギーを老人ホームに継げたのでした。

いつの間にか三年経ちました。或る日の事神棚を見ると向かって右側の扉の所にピカピカ光るものがくっついていました。大きなのは1cm四方位あって角張っていました。大小の無数のキラキラ光るものが付いているのです。丁度、クモの糸に朝露が光ように輝いて見えたのです。「霊界が喜んでいるんだ」と私は直観しました。霊界は喜んでいるんだし、生活には支障は無いんだし、遣れるだけ遣ってみようと思ったのです。

私の家には特別にいい事は何も起こらなかったのですが、親の所には起こっていた様です。私は親から借りた霊的借金は返したんだと思い、自分の所も悩みが在っても悩まなくて済むようになったのです。ボランティア開始から十年経ちました。惰性で続けて来たのです。特別に良い事をしているという気負いも悪い事をしているというコンプレックスも無く人間は遣れるときには遣っておくもんだという様な義務感で遣っていたのです。ある日お金が無いのに貸して遣るから家を買いなさいと言ってくれる人が出てき来たのです。借りたお金が返せるかどうか不安が少しばかり在りましたが、仕事がどんどん忙しくなってきて、収入も増え、何とか返せそうなので今住んでいる家を買ったのです。それから又数年経ちました。借金と今持っているお金が大体同じ位になった時、また収入が元の木阿弥になってしまったのです。私もまあこんなものだろう、これ以上金は与えられないということなのだと考えて諦めたのです。しかし困っている時は徳を積めば霊界が何とかしてくれるという考え方が、この時心の奥にしみ込んでいたのでした。

金は天下の廻り物といいますが、業だって天下の廻り物なんです。類魂を遣っていて落ち入り易いのが業のやり取りです。と同時に人間は皆どこかにコンプレックスが在り、そのため虚勢を張っているようです。そんなもの取り除いてしまえば気が楽に成るでしょうが、多分これも余計なお節介かも知れません。



さて人間は何もしなければ本来救われないのです。救う立場に立って行動を起こす事が、やがて救われてくるということで、一万円出したから一万円救われると言う訳には行きません。弱者が救われる為の心霊科学であってほしいと願うのは良いですが、この法則は変わらないので、自分が何らかの善の行動を起こす事から始まります。本当の救いとは何かと問われていますが、心が救われて行く事なのです。

ボランティアが救われる総てではありません。これはやはり出来る人が遣る事で、救われる人は一部です。しかしこれを出来る人は幸せです。出来ない人でも他の事を考えればいいのです。仏教では六波羅密を行ずる事だと言っています。



 健常者が幸福で障害者が不幸であるというのは必ずしも当てはまりません。むしろ新聞に見えている自殺者は健常者ばかりの様な気がします。勿論私の言う事が間違っているかも知れません。しかし人間は所詮何かを与えられていれば何かを奪われている。50歩 100歩の所でウロウロしているのです。早い話人類全員が救われていないのです。ですから人類全員が救われたいという願望を持っている訳で、自殺して死にたいそれも救われたいからだったのでしょう。人間の魂は高級な部分はどんどん上に昇り、低級な部分だけが下降して人間の皮を被せられているわけで、その内面は業ばかりです。業の軽い部分はすぐ救われて残っているものは自殺とか殺人とか強盗です。

もっと重くなればヒットラーやオームの麻原彰晃の様に人類に害を与えた人が救われないで魂の中に残っているはずです。

この様な人が生まれ変わって人間の皮を被り幸福になりたいと現実の不幸を嘆いていたとすると、それを見た背後霊は何と言うでしょうか、しかし何も知らないで皮を被せられた人間はやはり良い運命で人並みの幸福を願うと思います。類魂は誰にでも、行動を起こした人に救いの手を差し出しているのです。人はそれぞれ違った立場で、その役割も又千差万別となっております。その中で悩み苦しみ



祈り、奉仕をするのです。するといつの間にか悩みが減り心が淨められ、自らの欲望も程々になり、自己の持っている低い部分の魂も、高い部分の魂も両者を踏まえて物事が見える人間に成っていきます。それにはどれだけの時間がいるかその人によって違ってきます。

人間は絶えず二つの心の間に挟まれて暮らしております。それは高級霊の心と低級霊の心です。これは言い方を変えれば高級霊の建前の心と低級霊の本音の心です。誰でも本音の心は在ります。本音の心ばかりを出してこれを何とかしろと高級霊に迫ってみてもどうにもならないのです。人間はいつも背伸びをし、ヤセ我慢をして、建前を通して行かなければならない悲しい生き物なのです。それが類魂を救う原動力になっているからです。

しかし川崎さんが言う○も●も良い事も悪い事も「ああそれでいいんだよ」って受け入れたいのかも知れないと書かれています。私もその通りだと思います。子供の頃砂利道を三輪車に乗って走ろうとしました。石ころにつかえてどうにも上手く走れません。そこへバスが来ました。バシバシと石ころを踏んづけて揺れもしないで通り過ぎて行きました。

人間は大きなタイヤにならなければいけないようです。悩む、苦しむ、それが人間を大きくするはずです。



ボランティアに付いて、有難迷惑だと言われていますがそういう人もあるようですが、そうでない人もあるようです。施設の方でボランティアを受け入れるというのは大変な事らしいです。私はかつて施設の従業員の方が

「ここの老人はわがままな業つくばりで早く死んでしまった方がいいのではないかと思う人ばかりなのに、貴方はそんな人に何で奉仕するのですか?」と質問されました。今から30年前の事です。従業員はまだ若い女性でした。

「私みたいな馬鹿が一人や二人居たっていいでしょう」とその場ははぐらかしたのですが色々な考えの人が居るものだと考え、やり切れない思いになった事が記憶に在ります。



 ボランティアは絶対の善ではありません。この世の中に絶対はありません。ドイツの哲人ヘーゲルが言っていました。善を行おうとすれば悪が伴うものだ。悪をしまいと思えば何も遣らない事だ。しかし一番悪い事は何もしないことだと…,いつも善の中には悪が存在し、悪の中にも善が在るものです。その中の悪だけを見つめるのでは無くて両者を踏まえて考えなくてはならないのが人間ではないでしょうか。死刑囚が死刑になる直前に人生最高の心になって死んで行くという話を聞いた事があります。死刑囚が独房の中で救われていくということはどういう事でしょうか、それ以前に物凄く悩み苦しんだはずです。ゆとりの在る間は悩ませられるのかも知れません。



救いとは何か…、これは各自が自己の魂の中で背後霊と共に悩みながらオリジナルな救いを考えていくことです。決して誰も教えてはくれません。それはかえって邪魔になるだけなのですから。



 最後に救いに付いて、その絶対的な根拠、更に私に救われているのか、救われる立場になって類魂論が変わっていないかと言われていますが、類魂論は川崎さんが不備な点を御質問して頂いて益々光を増して来た様な感じです。其処には強者とか弱者とかはありません。みんな弱者であり救われたい立場に立っているからです。そして絶対的な根拠とか、小山は一体救われているのかとの



質問ですが、残念ながら両方ともNOです。神だってもっと救われたいから向上の指向性を持って暗中模索をしているのでしょう。誰でも一番最初目覚めた時に大きな乗り越えられない壁みたいなものが目の前にそびえ立っているのを感じるものです。そこで絶望してはいけません。その壁は一歩一歩登って行けば消えてしまうものです。



 業を消すのに焦ってはいけません。そして高望みしてもいけません。これしか業消しが出来ないというものもありません。嫌だなと思う事を少し無理して遣ることです。



 動けない寝た切り老人が苦しくても笑顔を見せることが業消しであり、一言有り難うと言うことが業消しなのです。そしてそれが出来たら、心からそれが出来るようにするのが高級な業消しとなります。



 自分をみじめだと思ってはいけません。どんなに辛くても前進できるものです。それが目の前の壁を消す力となります。西田幾太郎が言っていました。人生は絶望、非望、希望、絶望、非望、希望の連続です。しかしその中のほんの少しの希望を頼りに、人間は生きていくのだと…



 絶望の後に希望があると言うより絶望がなければ希望は与えられません。そのリズムが人生というものです。あなたのお手紙を拝見して涙がこぼれてきました。そして夜明けが近いのを感じました。業が消える時はこんな状態になります。そのような感覚が今迄何回もあったと思います。ですが段々底が浅くなります。そのまま進んで下さい。霊能者は孤独で他人より余計な苦しみがあります。それが宿命です。それを乗り切らなければなりません。決して甘えられません。その時世界に一つしかない大輪の花を咲かせることが出来るでしょう。



暑さが加わります。私の体はどうなっているのか分かりません。多分悪くなっているのでしょう。病院にこの所行っていないのでデータが分からないのです。もし良くなっているのなら奇跡でしょう。宝くじが当たるようなものです。それを当てにするのもみじめです。

川崎さんも将来必要な人なのですから元気で頑張って下さい。

敬具



平成11年 7月31日



                                             川崎様            



                                                   小山 順司









前略



 〜中略、



私は両足の先天性股関節脱臼で眼も悪かったの。赤ちゃんの頃からずっと治療をつづけて、小学校に上がる頃には普通の生活が出来る様になったの。母はその間、歩けない私を連れて満員電車に乗り、札幌の大学病院へ通ったのです。それに付いては感謝しています。でも障害児が生まれた事は親に取ってはとんでもない恥で、母は「内の血筋にはこんな児は居ない」といつも小姑から言われていたらしいです。そのストレスを私に向けたでしょうが、いきなり怒りだすことがあって物を投げつけたり箒で叩かれたりしのです。

私はただ逃げるしかなくてどうして怒られるのだろう、理由をちゃんと話してほしいと思っていました。父も寝ている私の所へ来ていきなり蹴る時も在りました。私はただ単純にこの人達は私が嫌いなのだと思っていました。

その内に弟が生まれたのですが、弟も股関節が外れていました。私よりも軽かったので今では治っています。父はその弟にも辛く当たって、赤ちゃんの弟に煙草の火を付けたことが在りました。弟はギャーと赤ちゃんとは思えない叫び声を上げました。正に火を付けたように泣くというのはその事です。そのあと引きつけを起こして真っ青になりました。私は今でもその時を思い出すと怖くなります。弟は赤ちゃんだったので、この事は覚えてはいません。そんな記憶は無いほうがいいですから良かったです。



私の霊能は小学校の5.6 年の時に現れて、中学に入る頃には霊感少女になっていました。良く在る話です。親は私に霊能が出るところっと態度を変えて“普通の親”になりました。

私の神様は御利益が結構あって、相談事をして半年程で親戚内の悩み事が無くなってしまったのです。親戚は自分の悩みが無くなると次は自分の知人の悩み事を聞いてくるようになったのですが、それもそのうちに無くなって神様への願い事が何もなくなってしまったのです。他人だと「それではまた何か在ったらお願いします」になりますけど、親しくしている姪だと気安くなって、何でも頼みに来るようになったのです。先生が無料の治療をしていたときに来た図々しい患者と同じです。

人間は何かいい事があるともっといい事が欲しくなります。それがただで、何でも揃っているとなるとなおのことです。始めは仕事の問題、病気、子供の進学など真面目な相談事だったのですが、それが叶えられるともっと叶えられる事は無いのかと私の所に頻繁に連絡をくれるようになりました。それは一人じゃなくて親戚全体がそうなってしまったのです。



 中三の時、そんな親戚が訪ねてきて、株で儲けるお願いをしょうとしたのです。私に二、三千円の小遣いを握らせて、何百万円も儲けようというのです。もう一人母の妹なのですが、旦那とは離婚するつもりなのですが、新しい彼とのデートが旨く行くように頼んでくれと言うのです。私も先生と同様切れちゃったです。それで「こんな相談は誰が考えても非常識だからもう神様には頼まない」と親や親戚に言ったら私の親は私の味方になるどころか、強欲な叔父と色情因縁の叔母の肩を持って「子供のくせに生意気な事を言うな、大人の苦労を知らないくせに誰に面倒みて貰っている」と言うのです。

その時私は、この人たちは親の顔をしているけど物乞いなのだと思いました。このままでは全部奪い取られてしまいそうで居たたまれなくなりました。それよりももっと問題なのは神様です。神様は人間の戯れ言を聞くためにここに来ているのでは無いのでしょうから、そのためにも自分を守ること、自分を守れば神様を守ることにもなりますから。それにはできるだけ早くこの親の所を離れることだと考えました。そして人との関係は、親も含めて最低限度にして、もう人前では霊や神の話はしない事、と心に決めたのです。その時の決意はとても固くて今でもそうしています。おかげてこんな意固地な性格になってしまいました。でもそれは正しかったと思うのです。もしそのまま相談事をしていたら、ただの拝み屋で終わっていたでしょう。



 背後霊はどうしたかというと、先生のところのような信頼関係は余りないの。なんて言うか専門馬鹿の集まりなのです。ある一つの事を遣るの。神様が「行ってきなさい」と命ずると、何も考えないでそれだけを遣ってくるの。勿論もっと高い霊も居るけど、そういう霊は人間の事はあまり同情しなくて、落ちるなら勝手に落ちればって感じで。私の親たちがわがままなことばかり頼んでも「自分たちは人間を助けているのではなくて、落ちている霊を助けるのだ。その二義的効果で人も助かるのだ」といって、突き放されちゃうの。

背後霊と私は要するに下々の者なのです。神様を引き立てて行かなければいけないのです。だから神様が命ずる事は、何でも喜んで遣らないと駄目なのですが、体の無い背後霊は何でも出来るけど、人間の私はそれに全部付き合っていられないのです。



 そんな訳で、高校に入る頃には相談事は拒否していたのです。それでも親は諦め切れなくて、ずっと私を責めていました。ちょうどその頃障害が重くなってきて、視力が一年で0.8 もさがって、最終的には眼鏡を掛けても0.03位になってしまいました。その私に母は「神様に取り次がないから罰が当たったんだ」と罵ったのです。この言葉で進学しないで、盲学校へ行くことに決めました。本当に失明するかも知れないという不安も在りましたが、何よりも親が浅まし過ぎるのが情けなかったのです。盲学校の寮に入って親と離れれば少し状況が変わるかも知れないと思ったのです。

親はまた私を責めて「世間体を考えろ、お前は恥さらしだ」と言うので、「盲学校はお金が掛からないからこれ程の親孝行は無いでしょう」と言い返したら、それからは何も言わなくなりました。



 私は先生のように積極的に生きる努力はしていませんが、それは反省します。始めの出発点がいけなかったのでしょう、私は神様がそれでいいならそれでいいやって諦めてしまうのです。実際には徳も業も厳重に管理されているみたいなので、どうにもならないので、悪あがきはしないというのが私の今までの生き方です。



 類魂への動機を語れって霊が言うけど、やはりそれは盲学校だと思います。私は先生のように今の自分が苦しいとかもっと良くなりたいとか思わないのです。もっと苦しくていいから早く他界したいと思っちゃうの。そう考える原点は盲学校なのです。結局、親も親戚も社会も外の人達なのです。生きている世界が違うのです。同じ日本語を話はなしているのに心が通じないのです。心が分からない人達の中に居ても仕方無いから、早いこと神様の所に帰りたいなって思う。



 大抵の人は1.2 級の重度の障害を負ったら生活保護か障害者年金なんかで遣っていくことを考えるけど、障害があるんだから身の回りの事や家の中の事が出来れば上出来なのです。それで充分なのですが、盲学校に入ってくる人達は自立して生活しょうとする頑張る人達なのです。先ず担任の先生がそうでした、全盲なのですが自宅から学校まで電車とバスを乗り継いで通ってくるんです。ラッシュの札幌をかいくぐって。それでちゃんと先生の仕事をするの。だから、眼が見えなくなっても何とかなるんだと思いました。



 クラスメートには何人か、中途失明の社会人が居ました。その中の私の親と同じくらいの歳のおじさんなのですが、おじさんは社長さんだったのですが、事故で失明して廃業する事になってのです。でも借金があって社屋と他の不動産を売っても足りなくて。死亡時と同じだけ出た保険金も返済に回してすっからかんになっちゃったんです。この状況で、大学に入ったばかりの息子がいるの。その息子が頑張って入った大学だから何としてでも中退させたくない。今は奥さんがパートに行っているけどその仕事もどうなるか分からないから、自分は死んだつもりで精進して資格を取るんだっていうのです。

おじさんは失明してほやほやなので点字はまだ覚えていないのです。テストの答えを書くとき仕方ないのでカンで書いたのです。だから何を書いたのか分からない事も在って、大変困難な中で若い人達と一緒に勉強したのです。男の人は失明しても大黒柱しなければいけないのかしらと思いました。



 こんな頑張りやのおじさんたちが居るのに私の親は何なのかしら、比べては行けないのでしょうが、私の親は自分達の娘の置かれた状況が理解できなかったのでしょう。お金や不倫や、親や親戚のいる世界は私の居る世界と全く違うのです。盲学校の、ぎりぎりの所で真剣に生きようとする人達とは別世界なのです。



先生は徳と業の方程式を何十年も掛けて頭の中に組み込まされたから直ぐに類魂の事情が分かっちゃうの。私はそれを理解しようとすると、待ったがかかるの。別の考え方がないのかって悩まされてしまって、先に進まなくなるのです。でも、もたもたしているのは嫌なので。



@○と●について、

上にあがるのが○、下に落ちるのが●ではなくて、特異点として考えてみる。でもこの特異点にはもっと突っ込まなければならない問題があるのです。特異点は物理の宇宙論ではブラックホールの事だから、類魂とは論理的背景が違うんだって。論理的背景っていうのは本質のことだと思いますが、他にも同じような言葉が出で来るの論理的構造、論理的形式、それぞれ意味が違っているみたいだけれど良く分からないのです。○は解き放す力、だから上に行くのでしょう、それを数学用語で「開く」と言います。●は固まって集中する力だから重くなって下に落ちてしまう。それを「閉じる」といいます。●は一つの霊なのだけれど物霊が重いから結果的に落ちちゃって低級霊になっている。だから「閉じる」の原因は物霊と考えていいのでしょうか。閉じるを図示すると□でも○でもいいですけど枠で囲むことです。この枠を空間と言います。

ーの線だけでも一次元空間と言います。このとき線が何処までも延びて限りが無いときは開いていることになります。つまり物質は、物霊という閉じた空間の中に生じている、あるいは表出すると言うことです(図5)

物霊は、宇宙の、始めのときの、神の想念でもあります。図5は、その時の、神の想念を示すとも考えられます。神の想念する物霊が取り囲み、内部へ力が集まってその中心部に物質宇宙が出来たのです。そうだとすると宇宙の始めには物霊があった。中心に物質が出来る直前の物霊はそれだけを観ると神でもないし、物でもないからその意味での“無”なのでしょうか。

図5を少し縦長にしてみます(図6)

頂点の●は物質的表出で人の想念なら欲望等です。頂点の●は上になっているので、下部の●より浄化していることになって、また下に行く程●が多いのですが、この●達は頂点の●に向かっています。この図では上昇するように見えますが、図5にすると中心の●に固まっていく事になります。それで図6を所々輪切りにすると、頂点の●に近づく程魂が小さくなります。物霊が少ないほど魂が小さいというのは、頂点が●だからってことになります。もし○だと逆に開いた空間なので、向上すればする程高級物霊の数が増えてくるはずです。

では○をどうするのか。

●は枠で囲んだ空間だからイメージし易いけど、開いている空間は良く分からない。現象の世界では開いていても閉じた空間にみえるのです。これは類魂論を有機体に繋げるための説明です。



Aホロン

類魂を観ようとすると、現象の世界では●から表出される物だけが見えているのです。人間なら肉体だけが見えている。つまり肉体も類魂なのです。類魂論では●の在る所には○が在る。だから体には○の表出があるはずです。物霊は凝り固まる力があって、その力の集中した中心に物が出来る。その物霊の力の為に物は周囲から独立し一つ一つ隔絶した存在に見える。あの人はそれを家族的類似性と言っていた。家族的類似性は物霊の表出に名付けたものだったのです。ウットゲンシュタインと先生は同じものを見ていたのかしら。きっと霊界の高いところでは霊系は一つになっているのでしよう。

物霊が表出した体は互いに独立して周囲とは孤立している。それだけのものなら命を保つことは出来ないでしょう。ただ在るだけなのですから。類魂論によれば人が生きているのは○が働いているからです。人間は物を取り込んで生きている。でも物を沢山集めてそのままにしておくと段々落ちていって、病気になるかもしれない。物を取り込むことは生命を蝕むことなのです。でも○が●を浄化して命を助けて、更に向上した●は徳となって人を守るようになるのでしょうか。

では人体では何が○の働きをしているのでしよう。身体そのものは●だからそれを解き放す行為や状態が○を示しているのでしょう。それが全体性だと思います。●のままだと独我の世界なのでしよう。それを解き放すというのは外の世界と情報をやり取りする事です。身体で言うなら物を食べて栄養を取る、知覚して外の環境を知り行動する等です。それは生命活動そのものです。類魂を観察すると業と徳に眼が向いてしまいます。それはつまり、物霊を持っていると、物霊が表出する物だけが見えてしまうからでしよう。でも○が働いているので全体性があって類魂を形成できるのです。話しをまとめます。類魂はホロン構造をしているらしい。自我の中の●は物霊が重いのでそれが表出すると閉じている“物”になる。それだけを見ると一つ一つ独立している想念ですか。そこへ守護霊が○を降ろして●を向上させようとする。その時に横の類魂との業や徳のやり取り、転化や憑依がある。それが可能なのは守護霊がそれぞれの類魂に○を降ろして全体性を与えているからでしょうか。だとすると、類魂は部分と全体を併せ持ったホロンと言えるのです。



以上に付いて御意見をお願いします。







霊系に徳が多いとその人は思いどおりの人生が送れるといいますが、それは徳がその想念を具現化するエネルギーになっているということですか。そこで、現象を具現化する時に徳は物霊と同じ働きをしているのではないかと思いました。例えば、いい男が居ないかなと望んだ時に、私の徳が彼の回りを取り囲んで彼に働きかけて、気持ちを私に向けさせ望みが具現化するのです。

徳は物を放す時に生じる。その徳でまた別の物を手に入れるというわけでしょうか。物を持たされる、つまり望みがかなう範囲は個人差があって、或る一定の範囲で豊かになれる。だから何か新たに望みがある時は今まで持っていた物を放して、その分の空きを用意する。それが徳となって新しく望みを叶えてくれる。というように考えられないでしょうか。それが魂が広い人なのでしようか。徳と物は表裏一体で徳が多ければ沢山物を持つことが許されるのでしょうか。徳や物霊が取り囲んでその力が集中したところに想念が具現化する。或いは物質が表出するとしたら、念写や念力などの物理的心霊現象に結び付いて行くことになります。



幽体とエクトプラズムが同じかどうかは分かりませんが、エクトプラズムは霊の想念のままに形を変えると何処かの本に書いてありました。霊媒も霊が幽体を使って人の体を使うと聞いています。想念を具現化する意味では徳と同様の働きをしているように思えます。徳と幽体の関係はどうなのでしょうか。



この前のお電話でどうして霊能が出来るのかを、お伺いしましたが、詳しくご説明をお願いします。



先生の寿命が延びるのと宝くじを一緒にしないで下さいい。先生はそれだけの事をしてきたのですから当然なのです。私は先生が居ないと全然遣る気しないですよ。相手が居るから遣らなければならないと思って来るの。自分一人だったらもうとっくに放棄しているでしょう。それに類魂以外にもお伺いしたいことが沢山在りますから、しばらく生きていて貰わないと困ります。



           8月 7日      川崎より











暑いという以外言葉の無い日々です。毎日あまり眠れないので体調が少し落ち込んでいます。



死というものが総ての業を消してくれる…、なら素晴らしいんですが、そう思って自殺した人が多いと思います。でも後がもっと苦しいので大変です。人間は生まれ変わりとっ変わりして人生の続きを遣らされているので全くうんざりです。たまには双六の上がりとか3から7へ進むなんてのもあったら楽しいだろうなと思います。人間なんて弱い動物です。少しでも楽をさせて助けてくれる人が居ればその方に行きたくなるのが人情でしょう。霊能だってそうです。それはこれを授かって生きて行きなさいと背後がくれたものです。それを他人の為に無償で与える事が自分を救う一つの手段です。それを受けた人は当然その業を受けるのですが、その人がまた他の人に親切にしてやればそれで業は廻って行きます。



業は溜めるからいけないんです。廻っている分には一つも害にはなりません。他人が色々の事を言ってきますがもしそれが出来るのなら遣って上げたらいいんです。業がどうのこうのということは人間が考えることでは無くその人の高級霊のお仕事です。人間が神を守ことなど出来ません。神はもし嫌なら勝手に拒絶するでしょう。



障害者の立場が劣っているか、いないか、これは変えられない宿命です。それを嘆いていても全く救いはありません。そこから出発です。頑張って下さい。



人間はどんなに業が深くてもそれなりの救いが有るものです。悪い運命だって、頑張っていたらいつの間にか救われていた事に気が付くものです。川崎さんの背後霊さんも類魂を持って来て、首根っこを捕まえて遣らせているのですが、強力で高い霊が居るのですね。







さて御質問ですが、



Q.閉じる原因は物霊か? A.そうかも知れません。



Q.宇宙は無か?

A. まだ物質のできる前だと思います。勿論固まろうとする意識は宇宙にとって必要な意識だと思います。しかしそれだけでは存在し得ません。拡散しようとする意識も当然必要になりましょうし、宇宙の動きはそれによって作られるのではないかと考えております。

ですから物質を作りだす力が物霊とすれば、拡散の意識と凝縮の意識が同時に働いて物質を作っているのではないかと考えています。拡散と凝縮が別々に存在するのでは無く、同時に存在するのではないかと思います。どうも図にしにくいです。この図7の様に単独で存在するのでは無く、凝縮と拡散、両者が作用しているのではないかと考えられるのですがどうでしょうか。とすると高級な物霊が配下に於ける低次元の物霊を総動員して宇宙を作ったと考えられます。その背後に神の意向が在ったのでしょう。



Q.○と●に付いて、

A.○は解き放つ、人間にとっては病気を治す。●は固まる、人間にとっては病気を作る。この両者のバランスの上に人間が存在しているのではないでしょうか。固まりっ放しでは動きの取れない人間になってしまい、解き放つだけでは力のない人間になってしまいます。霊界の部品○と●を集めて一つの物を作るという事ですが、それぞれが自己の持っている力で個性が存在している様です。とするとホロン構造になるのかも知れませんね。



Q.●は徳となって人を守るようになるか?

A.その守護霊の配下に居る人を守ります。



Q.人体では何が○の働きをするのか?

A.人間の心と行動です。



「霊系に徳が在ると思い通りの人生が送れるか」

徳は霊界に於ける貨幣の役割を果たしております。それを物質にするか心にするかは守護霊が定めてくれるでしょう。人間が徳を積むということは主として物霊を浄化する事です。つまり高級な物霊を作ることです。ですから徳があるということは高級物霊があるということになります。この世に一升のマスを持って来た人は一升マス分しか入らないのです。とすれば先ず一升マスの或る部分を空けて置けば新しい何かが入る様になるでしょう。しかし普段から徳を積んでおけば持ってきたマスも次第に大きくする事が出来ます。しかし思い通りの運命は徳を食いつぶし次の代の運命を悪くさせるでしょう。



「徳と物は表裏一体で徳が多ければ物を持てるのか」

ということですが、高級になればなる程物質から遠ざかろうとします。ですから中級位のあまり高級でない霊が守護霊ですと、物質的には割合に豊かになれるようです。



幽体とは、肉体から離れた霊の持っている物質に近い部分と考えています。肉体、幽体、霊体、神体と物霊も段々希薄になってきます。

エクトプラズムの問題ですが、眼に見えたり写真に写ったり、又は力として表現した場合、それがエクトプラスムではないかと私は考えています。幽体と徳の問題ですが幽体は物霊だろうと思います。つまり物霊に徳を与えれば当然高級な物霊になっていくわけで、そうなれば守護霊の補助的な立場に立ち、或いはその力として働く事が出来るようになります。想念的にも自己を守るだけの固まろうという想念から抜けて、人間の心を身に付けるようになります。善悪を知り、自己審神者をする力を持つことができる様になります。



「どうして霊能が出るのか」

これは、私の考えでは魂の大きな人、つまり普通人より高級な部分はより高く、低級な部分はより低い部分を持って生まれて来た人が、その人の持っている低級な部分に心や運命が落ち込んだ時に霊能が出で来るのではないかと思います。これは最初は動物的な欲望の霊能から始まります。それを浄化するようになって高級な霊能になって来ると思います。大体一代で高級な霊能が出るのは少なく、何代か霊能体質的な人が続いて、その魂を浄化した後に高級になって来るようです。ですから横の類魂を観ると分かるのですが、親とか更に祖父母とかに続いて霊能が有った場合高級に成って来るようです。勿論霊系の先祖に徳が在って、その人が運命としてその徳を使わなかった場合でも当然高級な霊能が出て来るようです。

まだ当分暑さが続くでしょう、どうかお体を大切にしててください。



   8月12日



        川崎様         小山順司