唐突なお願いで恐縮いたしますが。

私は子供の頃から霊能がありまして、最近、本格的に霊信を受けるようになりました。纏ったものは日本心霊科学協会の機関紙「心霊研究」に掲載させて頂いていますが、ここ一年ほど人智学関係の霊信がありまして、テキストだけで1MBになりました。この霊信を発表する前に、人智学の専門の方のご意見を伺いたいと思いまして、心霊科学協会の理事の方を通じて、○○先生に接触し、この原稿を渡しましたが、ご協力は望めませんでした。恐らく「障らぬ神に祟りなし」と思われたのでしょう。しかし、人智学上の問題点に付いて、専門の方のご意見が必要と感じているのです。それと、この霊信は生前のシュタイナーの作品よりもかなり突っ込んでおりまして、接神の行や沈潜について、生々しい記述があります。シュタイナーを敬愛されている方にはショッキングな表現なのですが、指導の霊は、ありのままを語りたいと言います。そのようなわけで、もし出来ましたら、この霊信を見て頂いて、ご批判を賜りたいのです。ご一報をお待ちしております。

 

 

 

○○さんが協力しなかったのは「触らぬ神に祟りなし」という、消極的な理由からでなく、もっと積極的な理由があったはずだと思います。シュタイナーは霊媒を通じた霊との交流に、自我が自立を失った状態を見て、それを強く批判しています。その状態は、人間の霊的進化に逆行する力の関与を可能にする危険があるといいます。それこそ逆に心霊研究をなさっている方達にはショックかもしれませんが、たとえば自動書記の際に働く、黒い力についても、事細かに指摘しています。シュタイナーがわざと詳しく述べなかった行の詳細をあなたを通じて、その指導霊が伝えてくる必然性が分かりません。霊媒的伝達を批判していた当のシュタイナーが、向こう側からメッセージを伝えるはずもなく、その指導霊の関わりが不明です。もし私が、一部でも目を通して論評した場合、それを雑誌の編集部がどのように表現するか分かりません。いずれにせよ、私はシュタイナーの心霊研究批判を合わせ述べるはずです。「心霊研究」編集部がそれをそのまま載せるわけもないと思います。したがって、やはり私も、この件をお引き受けするわけにはいきません。なんか、頭かたそうですが、これって人智学にとって大切な姿勢ですので悪しからず。

 

 

 

先生がそう仰るのは予想しておりました。心霊科学の霊能者と言ってもいろいろ在ります。わたしは霊媒ではありません。一応あそこに草鞋を脱がせてもらっている訳で…、

気功のレーポートですか、先生は気功に疑念を持たれている様にお見受けしますが、私もそう思います。シュタイナーの言うエーテルと気は同じではありません。人智学は霊学です。そこから離れてはいけません。中国医学は霊学ではありませんし、中国錬金術にゴルゴだの丘はありません。シュタイナーならきっそういいます。

余所見をしてはいけないのです。キリストとの合一の無い人智学は無意味です。気功の人は宇宙と合一したとはいいますが、キリストと合一したとはいいません。これは霊学的に重要なポイントです。

この程度の会話なら宜しいですか?

 



 

はい、意見交換は全然構いません。お申し出に対する私の反応を代弁して「人智学は霊学です。そこから離れてはいけません。…余所見をしてはいけないのです」とおっしゃって下さっていると思います。でも私のシュタイナーに対する関わりは、もう少し柔らかなものです。当HPの中の「シュタイナーだって間違えることはある」というファイルに私のスタンスが述べてあります。ただ、おっしゃる通り、シュタイナー思想のポイントはキリストであり、ミカエルですから、そこは外せませんが、気功や中国医学を調べるくらいはします。中国医学のお世話になったこともありますし。もちろん、他のものに振り向きもしないという意味でおっしゃったのではないだろうとは思います。人智学のポイントは外さないという意味ですよね。

さて、川崎さんが人智学に関る霊言をキャッチしているということですが、それに対するコメントは難しいです。指導霊は、とにかく人間を越えた霊的存在ですから、私なんかがどうこう言える相手ではないのですが、霊的存在にも、実にいろいろあることは私もシュタイナーを通じて、知っています。ドイツの人智学系の教会、クリスチャンゲマインシャフトの牧師さんなんかは、自分が関わっているのが、天使なのか、大天使なのかが分かるようなことを言っていました。そういう正規の進化上にある霊的存在ならいいでしょうが、人間以上でも、ルチファー的な存在もいる。でもその区別は、シュタイナーでもないと難しい。というわけで、いろいろな指導霊はありえるでしょうが、その霊格とか、霊統かいう話になると私には何とも言えません。霊能者ご自身は、媒介者を引き受けているくらいですから、信頼できる高次霊であるとしか思えないでしょう。そして、信頼できる霊であっても、(失礼ながら)霊能者がそのメッセージを全て正しく受け取っているかどうかは他の人間には検証のしようがないです。シュタイナーに言わせると、神智学の泰斗も、アストラル界まではいいけれど、それ以上の霊的領域は正しく見えていないそうですし、アストラル視ができても、必ずしもシュタイナーのように見えるわけでもないようですね。

シュタイナーは、読者に向かって、自ら霊的世界を見なくても、自分が述べていることを理解するだけでも、霊的世界の実際は把握できる。その内容を脳裏に浮かべていると、死者にも一種の教育ができると言っています。

私は、そんなことまでふつう考えませんが、でも、道を踏み外さないようにするには、シュタイナーの言うことを守っているのが一番だというふうに考えています。というわけで、結論を言うと、川崎さんが、たとえ人智学についての霊言を得ていると言われても、すぐにそれをそのまま受け取ることは出来ないのです。霊能があると言われれば、あるのだろうと信じますが。

 



 

私は自分の霊能や霊信を強要するつもりはありません。家族でさえ理解してくれないのですから、人様に分かってもらえるとは思っていません。子供の頃、親がまったく分かってくれなかったので、うらんだことも在りました。

ですから、オームの人たちの気持ちがわかります。親が敵だと社会も敵になるのです。でも100万に一人位なら分かってもらえる方が居るかもしれないと思い、netの世界に入ってみました。シュタイナーが霊媒を拒否したことに関連して、私の霊視したものを述べてみます。街には邪気とか邪念みたいなのが漂っていますが、歩いている人の霊体にスッと入っていくのを見たことがあります。オーラの窪みというか、ひびというか、ずれているみたいなのです。そのずれから邪気が出入りしています。よくそれで平気で歩いていられると思っていますが、霊媒もそうなのです。霊媒が入神するときも同じ感じです。やっぱり霊体がズレて、そこから霊が出入りしています。それで、自我です。

自我は各々の霊体を統一する働きがあります。プロの人智学者に申し上げるまでも在りませんが、仮にアポロン的統一法と言うことにして、正反対の方法論なのです。入神は自我の働きを放棄するものです。私も一度トランス状態を体験したいと思って、霊に「やってみてくれー」と頼んだことがありますが、だめでした。体の作りが違うって、入神できるのはフェンリルがあるからだって、フェンリルについて詳しく知りたいです。フェンリルが成熟するとシャクティになるそうです。日曜日の午後に神様のお部屋に霊が来ていました。一人はブルーの瞳で、金髪。剃髪しいらっしゃったので、修道士と思います。もう一人は日本人の様で、神父さんの姿をしていました。お二人は軽く会釈をすると消えてしまいました。これは樋口先生の天使さまだと直観しました。同時に樋口先生にも霊能があるみたい、と感じたのですが。

netでも霊的交流がはかれるのですね。興味深いです。

またその内よらせていただきますので、そのときはよろしくお願いします。男の方はお仕事があって、それで毎日ホームページをするのは大変なことと思います。

お体に気をつけてがんばってください。

 




新宿の街を歩くことがよくありますが、歩いていると、気分は最悪です。実にたまりません。空気が物理的にも悪いし、退廃的な雰囲気が精神によくない。川崎さんのように霊視できたら、さぞかしおぞましい光景が展開されているものと思います。

川崎さんが、ご覧になったのが、本当に私の天使だったかどうか、私には知りようもないですが、天使は本来、光の存在ですから、それ以外のイメージは見る人が自分で分かりやすいようにつけたものだと思います。金髪碧眼のドイツ人ぽいイメージと、神父さんの姿は、私の守護天使っぽくて、気に入りました(そんな問題でもないけど)。いずれにせよ守護天使がいることは信じています。転生する人生を追ってずっと見守っている存在ですね。ずいぶん迷惑というか、世話をかけていると思います。

魂と肉体の間に近世以降、隙間ができて、良くないものが入り込んでくることについてはシュタイナーも言っています。川崎さんの描写は、リアルに感ぜられました。また、川崎さんの場合、意識を失った霊媒状態で接神しているのではないらしいことも、お話から分かりました。意見交換は大切ですね。

またそのうち掲示板においで下さい。

 

 

 




 

天使様のことが気になりまして、物質界にすんでいると外側の形や色、姿にとらわれてしまいます。私たちはそういう思考習慣が身についてしまっています。そのままの思考習慣で霊的修行をしてしまいます。その結果、オーラの色とか天使の容姿に気が取られて、その霊的体験の本来の意味を見落としてしまいます。

私はそれで何度も失敗しました。ですから、霊視は思考ではないです。思考は物事、霊的体験も含めて、それらの背後にある本質を瞬時に認知する自我の活動です。シュタイナーの本にはintuition とあったように思います。樋口先生、スピノザの直観知とは同じものなのでしょうか。また、シュタイナーの一元論とスピノザの一元論との関連はどうなのでしょう。それと、ウィトゲンシュタインの一元論と言うのもあって、外見上の関係はわからないですが、思考しなければいけないのです。思考によって新しい道が開くのです。あまりいじめちゃいけないですね。専門外でしょうから、

それで、先生の天使さまですが、きっと「私たちは確かに存在しているよ」と私を通じて先生に伝えたかったのだと思います。だから先生がいつも心に描いている姿を私にも見せたのだと思います。霊が私たちに見せる姿というのは自己表現の一つだと思います。女の人がメイクするのと同じで、その時の気分や場面で表現を変えるのです。ですから

霊がどんな姿で現れてもあまり気にしていません。

年がばれますが、私は30年間、私なりに努力してきたのす。せっかく毎日注意を払ってやってきたのだから、

新しいカルマは作りたくないと思っています。来世回しのカルマはごめんです。人智学者の方と私が、敵なのか味方なのか、あるいは善悪というようなこともですが、お互いに新しいカルマを作る必要は無いと思うのです。

ですから、人智学者の方にご意見を伺おうとしたのです。私は人智学者の方とは争いたくないのです。初めに西川先生が「これには納得できません」とはっきり仰ってくださればやめるつもりでした。霊が言うには、とにかく、ゴルゴダの丘に達した人間が必要なのです。でも人智学者の中に出てくれなかったのです。

シュタイナー以降その人間が出てくれないのは、先ず、霊学が正しく伝わっていない。それと、やっぱり修行が難しい。

それじゃ一つ新しい霊学を作っちゃえ、という話になったのです。で、日本からは浅野正添の古事記論、川面凡児の霊学が、ゲルマンからは人智学が提示されました。私は人智学は霊的修行の一般教養と捉えていますので、大まかなアウトラインは知っておりました。私の出身母体となる心霊科学と人智学の間の壁もよく分かっていました。

そんなわけで、ものすごーく気が進みませんでした。今もそうですけど、それで、霊界に逆らって、人智学を迂回する方策はないかと考えました。だって、ゲルマンなのだからゲルマンに戻ればいいのです。そこで種本を検討してみました。

シラー、ベーメ、ロヨラ、ドイツミスティックなんかを物色しましたが、エックハルトは別にしても、やはりシュタイナーがいいのです。霊能力の容量が違うのです。ペーメも評価されますが、霊学と言う点ではシュタイナーの方がまとまりがある。結局大きく一巡して人智学に戻ってしまいました。

今、私の前には25000ページを超える「旧仮名遣ひ」の本が在ります。これからこれらを読み通して、分析することになります。ただ単に人智学と比較検討するだけではなくて、全部ばらばらにして、新たに組み立てなおすということだそうで、何で私がやらないといけないのか。

「何で人智学者にやらせないんだー」と文句を言ったら、こんな答えが返りました。

「哲学には独我論というテーマがある。人智学は学問なのだろうか。もしそうであるなら人智学の中から独我論は排除すべきである。人智学が独我論を保つなら、学問的発展は望めない。だから心霊科学から人間を出した」いつもこんな感じで、やり込められて、哲学事典が必需品なんです。

樋口先生、お仕事やめて残りの人生を人智学に全部投入して、ゴルゴダの丘に達してくださればいいのです。そうすれば川崎は苦労しないですみます。要するにキリストと合一する人間ができればいいのです。人智学でも心霊科学でも、どちらでもかまわないらしいのです。先生にぼやいても仕方ないですけど、こう言う霊的に高度なぼやきと言うのは霊には面と向かって言えないので。

ところで、ゲルマンの神使は、天使さんなのですが、日本側の同じレベルの霊も天使という名称を使ってもよいとは思っています。でもなんとなく感情的に許せないものがありまして「あんなののどこが天使なんだー」と反抗心が沸いてくるので、人智学の皆さんのように素直に天使様と言えるのはうらやましいです。

 

 




 

コミュニケーションが必要なのは、何も意見を交わさないうちに固定観念で相手を見るのを避けるためですね。

いろいろ書いていただいて、論点なども見えてきました。シュタイナーの霊的一元論について哲学的に述べるのはまたいつかにしましょう。肝心な点がふたつあります。

1.川崎さんが心霊科学というとき、どういうものを考えておられるのかということ。シュタイナーがスピリチュアリスムを批判しているのはご存知だと思います。正直言って、ゴルゴダの丘に、人智学からでも、心霊科学からでも、どちらからでも行き着くことが可能であるようなことを述べている霊的存在が、どういう存在なのかよく分かりません。

2.シュタイナー以降、人智学者にゴルゴダの丘にたどり着いた者はいないということが、どういうことなのか。シュタイナーの域まで達しはしないものの、霊的世界に参入していると思われる人は、ドイツの人智学関係者にもいます。

ドイツ語がお読みになれたら、Johannes W.Schneider:"Erinnerungen an fruehere Erdenleben ?"をお読みください。前世の自分の姿の見方などが詳細に書いてあります。著者は教育者です。シュタイナーが達したほど、うんと高次のレベルに達っしてキリスト霊の本質まで見るということでしょうか。それだと、いないでしょうね。私が仕事をなげうって、頑張ってみたところで、とうてい及びません。私は、シュタイナーが語ったことを読み、それに基づいて考えるという立場に止まりたいと思います。それにシュタイナーは、市民生活をなげうつことを禁じています。人里離れた山奥にこもってするような行の時代は終わったことを繰り返し言っていますよね。キリストと合一という方向は、シュタイナーのものではないのではないかと思います。表現の問題かもしれませんが、神との合一という表現と同じく、忘我状態が連想されてしまいます。ふだん使い慣れている言葉使いの問題に過ぎないのかもしれません。私も偏見を脱しきれていない面があるでしょう。

 

 




 

キリストが降臨するというのは、その人間に降りるのではないのです。その人間を踏み台にして、国土に降りるのです。キリストの降臨は、台になる人間一個人の霊的体験にはとどまらないのです。

それはシュタイナーの成し遂げた事柄を見るというまでも無いです。私の霊は修行者を台と言います。神の踏み台なのです。救世主や霊覚者とはいいません。日本にも同じような方がいました。聖徳太子だそうです。交霊会や物質化実験をすることを心霊科学と思われているようです。

シュタイナーの頃のヨーロッパの心霊科学はそうでしたし、いまはサイ科学が同じようなコンセプトでやっています。物理科学的に霊の存在を証明しょうとすることは原理的に無意味です。ここでは詳しく説明できません。岩波の哲学思想事典、感覚与件、言語ゲーム、独我論等を参考にしてください。現代の科学には物理還元主義という、見えないフォーマットが存在しています。

古い言葉では唯物論です。今は内部観測論と言うらしいです。これは最新の哲学なので、事典にはありません。霊はこれは最強の唯物論だと言っています。

つまり、科学的に真であると言うことは、物であるという事なのです。ですから交霊界や、物質化実験によって物理科学的に、霊の存在が証明されたということは、すなわち霊は物であるということを証明したことになるのです。だからシュタイナーは心霊科学者を唯物論者と言ったのです。これを心霊科学協会の先生方にはなしました。「心霊科学のあり方は間違っている。本来の道を探すべきです」と言ったら、理解してもらえました。でも実際に行動に起こすのはむずかしいですが、この詳しい哲学的経緯は「心霊科学上の諸問題に関する哲学的探求」と題して「心霊研究」にのせました。面白いことに、理系の先生に受けたみたいです。

サイ科学もこの心霊科学と同じ理屈の誤謬があります。気が物理的に証明された場合、気は物の一形態に過ぎないのだということになります。そしてエーテル体と気が同一のものであれば、霊体は物質の付属物であるとみなされてしまいます。それが物理還元主義という唯物論な訳です。

これは私が言っているのではなく、科学哲学の専門家がすでに警告していることなのです。サイ科学との関係は気をつけたほうがいいです。実は私は鍼灸師です。気は物質とは思わないです。ですからサイ科学の方法は好みません。また違う科学の方法があるのです。それをシュタイナーは精神の科学と言います。学問には論理的形式、もしくは論理的背景というものが在ります。人智学の論理的背景とは何なのでしょうか。専門家の方を差し置いてこんな話をするのは本当に恐縮します。

私は先ずこの、人智学の論理的背景を探ることからはじめました。人智学を根本から理解するためです。それで、ゲーテから入りました。というのは哲学の指導を担当する霊もゲーテを研究したことがあるからです。この霊もルで始まる名前なのですが。でもあのお方のルではないですけど、

ゲーテはイギリスの経験論に基づく科学とは別の科学があることに気づいた人でした。気づいたのですが混乱があったのです。シラーとの対話が知られています。どうもその混乱はシュタイナーにも在ったみたいです。原型概念とゲシュタルトなのですが、とても掲示板では書けません。

「霊界の境域」にimaginationintuition の説明があります。先にも書きましたが、霊視が目的ではないのです。直観知を養うことが思考なのだと思うのです。でもなんとなく見るという行為を強調しているように感じるのです。見るのではなく、高次に由来する「解かり」が問題なのです。ドイツ人はフォームにこだわる傾向があるようです。正確に見たいと欲します。

もう一つのGestaltがあります。ゲシュタルトは研究者によって考え方が違いますが、Gestaltを制御の情報として捉えようとする分野があります。認知科学の一分野で、アフォーダンス理論といいます。シュタイナーの考えていたゲシュタルトとアフォーダンス理論が含意するGestaltにはゲーテとシラーの対話にもあった問題が隠されています。それを解明することが人智学の論理的背景を確かめる一つの方法らしいです。人智学を認知科学的に分析してみようと言うのです。それで解かるのは、人智学は視覚に関する認知であるらしいと言うことです。でも、それはimaginationの世界なのです。人間が本来在った世界はintuition の世界です。人間は種々の感覚器官をもっていますが、それぞれの感覚と知覚の仕組みを認知構造と言います。

つまり、imaginationintuition はこの認知構造が異なるのではないか、imaginationは視覚に基づく認知構造をしているのではないかと推測されます。そしてそれがシュタイナーの考えていたGestaltです。ではintuition はどんな認知構造をもつのだろうか、疲れたです。またそのうちに、川崎の言う心霊科学とはこのintuition の心霊科学なのです。intuition の世界を神道ではまことの道と言います。だから、神道にはカルマ思想が無いのです。日本の心霊科学は心霊科学とはいいますが、神道霊学の伝統があります。ヨーロッパの心霊科学とは継承するものが違います。そこに心霊科学協会の先生方も気が付かなかったのです。あそこの主祭神は思兼大神と言いますが、神掛りの神ではありません。非常にアポロン的なお方です。先生、私は先生に勝ちたいという気持ちはありません。ですから、先生も力まないでください。

 





 

いやあ、凄いです。力が入っています。勉強になりました。いくつかコメントを。

キリスト霊がイエスに降臨したことを、踏み台にしたという表現は分かりますが、キリスト霊が地球に降りて働くためには、人間イエスの存在も不可欠だったわけですから、イエスも重視すべきだと思うし、救世主と言って差し支えないと思います。シュタイナーもそうしていると思います。踏み台を強調する姿勢の背後には、霊媒的な考え方の残滓も感じられなくはないです。シュタイナーは、キリスト霊が地球に降臨したことは、地球進化の一大エポックと捉えていますね。国土というより、進化していく地球、人類に結びついた降臨だと思います。

ゲーテの形態論は確かに視覚的ですが、霊学(精神科学)は、ImaginationInspiration,Intuitionを、人間のアストラル体、エーテル体、物質体と結び付け、さらには、認識状態のレベル、霊界の現れのレベルと結び付け、総合的に捉えているので、シュタイナーの考えを特にImagination的と規定する発想は私にはありませんでした。おそらく川崎さんが意図するところは、高次な認識状態であるIntuition重視なのだと思います。シュタイナーは、科学としてニュートラルに3つの認識状態を解明しているので、いわば横断的に捉えていると言えます。ただ神秘主義的にあちらの世界へぶっとぶのではなく、人間の地上的営みにも目配りをするのが人智学ですね、地上と霊的世界の間を等分に渡り歩くというイメージです。芸術・宗教・科学の再統合としての人智学には、確かにどちらかというと、Imaginationからの出発というイメージがあると言えるかもしれません。

でも、人間を取り巻く重層的な霊的世界は常に存在しているわけで、それを科学的に捉えようとする霊学(精神科学)も、人類の幸としてその科学を用いようとする人智学も、その内にはImagination,Inspiration,Intuitionそれぞれの認識状態から得られた叡智がこもっています。

とまあ、シュタイナーの立場を代弁しましたが、うーむ、人智学の代弁をする羽目になるとは…

 

 

 


 

直観知を養うことが思考なのだと思うのです。でもなんとなく見るという行為を強調しているように感じるのです。

: 見るのではなく、高次に由来する「解かり」が問題なのです。

 私は何かを「理解する」というのは、その何かの高次構造を「見る」ということだと思います。ですから、見えるだけではその高次構造そのものを「理解した」とは言えません。そのまた高次構造が見えたときはじめてそれが理解できるのだと思います。その場合の「見る」という行為は肉眼で見るのとは大分違うと思いますが、多分何らかの関連はあるのでしょう。しかし、そうするといつまでたってもすべてを理解することはできない、ということになりますが、すべてを理解したものに存在への衝動が残っているかどうかは疑問です。いずれにしても、精神的なものこそ物質的なものの高次構造というか原因をなしていると考えられます。そうすると、超常現象は不思議ですが、普通の人間の方がはるかに不思議だ、ということにはならないでしょうか。また、いろいろ聞かせてください。

 

 

川崎の答え

西洋哲学の元祖と言えばプラトンですが、イデア論はご存知ですか、

西洋神秘主義の源流の一つでもあります。樋口先生を差し置いて、大風呂敷を広げるのは気がひけますが、大まかに言うと、イデアの世界は魂の故郷で、そのイデア世界の最高のイデアが善のイデアです。その象徴が太陽です。つまり光です。それと理想の原型と言うのも善のイデアな訳で、西洋人は伝統的に視覚イメージを重視します。

実はこれは人間の視覚優位性という認知構造に由来するのです。人間は対象を知覚しようとするときに、視覚を優先します。これは認知心理学の研究結果に基づくものです。私がなぜこのような観点で論じるかと言うと、人間の認知構造はほかにもあるからです。私が注目するのは聴覚による認知空間です。これは物理的に見るや聞くのではなく、思考の仕組みなのです。

思考はシュタイナーの言う思考です。聴覚の認知空間の研究はまだあまり進んでいませんが、私はこの聴空間の認知構造はintuition の思考の仕組みと類似するものがあると、それこそ直観しています。

実は私は盲学校の出身です。今はパソコンがなんとか扱えるくらい回復しましたが、そのせいかどうかわかりませんが、あまり見るにこだわらないのです。むしろ視覚イメージは静めて、耳をこらすと言うわけです。

もう一つ、聴空間と直観知の関連で、古事記の神族で耳の名のつく神様が出てきます。神武天皇の皇子で神八耳命です。

この神は霊能者です。霊の話しでは、古代の日本では耳を象徴とする精神統一の方法があったそうです。それは私にも多少分かります。霊をより詳しく認知しようとするときに耳をすますという気持ちになります。されは霊の音を聞きたいというのではなくて、霊の雰囲気を聴くのです。また、日本語には物理的に音を聞くのほかに「香を聞く」という表現があります。臭覚なのに聞くといいます。これはまさに聴空間による認知なのです。 

と言うわけで、「解かり」についての主張は私の霊的体験に基ずく、直観知なのです。 )^o^(

私の霊が試みようとしていることは、神道と人智学を結びつけて新しい霊学を作ろうというものです。

ここは日本なんだし、私たちは日本人なのだから不自然ではないと思います。まったく異なるかのような二つのものを結び付けるにはどのような学問手続きをするとよいのか、似ているからと言って安易に受け入れると、後で学問的に行き詰まって自己崩壊をします。それが、まさに心霊科学なのです。先生が仰られたことはよく心得た上でやっています。私の霊は精神の科学と地上の学問を区別せずに、なんというか、これは一つのいのちなのだという考えで統一的に論じようとしています。ぶっ飛びの世界と地上の学問を滑らかに結び付けたい。これも私の重要なテーマの一つです。霊能者はぶっ飛びの世界と、物質的現実世界の板ばさみの中で、押しつぶれそうになる自我を常に奮い立たせなければなりません。この「滑らか」は数学の専門用語でもあります。霊学のセンスのない工科の先生でも論理的に筋道を立てて説明するとわかってくれます。理系の思考法の利点なのです。つまり、理性なのです。理性に訴える霊学が必要です。

理性に訴えて、丁寧に主張するとぶっ飛びを受け入れてくれます。それは数学的に帰納演繹する思考法を身につけているからです。理系の先生は方程式を見ただけで、その対象のすべてを把握できます。それはその式の中にその対象の論理的背景が示されているから、そして理系の先生の思考にもそれと同じ論理の場があるから、その式を思考することが出来ます。そういうことを無意識にやっているわけです。つまり、この論理の場なのです。神道と人智学を根元で結びつける論理の場をそれぞれから取り出して示し、さらにこの二つは同じ論理的形式をもちますと論証しなければならないのです。そうすることによって初めて、この両者はリンクできるかもしれないと言うことになります。

この論理の場を見出すためには体系を一度ばらばらにして、本当はどんな構造をしているのか、命題論理的にはどうなっているのか分析しなければいけません。それを人智学と神道、両方に対して行います。人智学者でここまでやった人はシュタイナーも含めていないでしょうから、川崎が苦しみます。神道も神道哲学という分野は無いのです。神道の命題論理は何なのかなどとは、まともな人間は考えないのです。だからそれも川崎の苦しみです。霊界は神道と人智学をしっかりと結び付けたいのです。だって、ゲルマンと日本の天使さんの大元は同じなのですから、その霊的真実をまともに受けても壊れない、強固な霊学がほしいのです。だから、どうして日本の人智学者がやってくれないのかな、と感じています。

ゲルマンと日本の神さまは同源なのです。これだけは信じてほしいです。地元の利なのかどうか分かりませんが、日本の霊たちの方が強く出るのです。私はいつもドイツ人の味方です。神道にはカルマ思想がないのですが、それをどう克服するか悩みの種でした。日本の霊は「カルマは無い。迷っているだけだ」と言います。カルマを否定する哲学を持ってきて、ウィトゲンシュタインの言語ゲームなのですが、私の自我の中で論争するのです。それが半年位続きまして、参りました。どちらも正しいのです。人間の持つ二つの属性だからです。これを解決したのが、もっと厳密に理性に訴えるという仕方です。やはりそれは数学的に帰納演繹しなければならないということで、先生に話してもだめかな、

先に述べた、内部観測論やアフォーダンス理論は認知科学の最先端に関わる分野です。ドイツ人は新しくて、ハードなものが好きです。この調子で、ある先生と三ヶ月ほど議論したことがありましたが、突然その先生のご先祖様が現れまして、「もうやめいくれ」と抗議されました。それは、その先生が私と話しているうちに、ご先祖様の意向にそぐわない考えを持ち出したからなのです。でも、樋口先生の天使様は私に興味があるみたいです。

神仏習合を訳すとどうなるのでしょうか、またこれをヨーロッパの人に説明するとどういえばいいのでしょうか。ここは成田の隣り町なのですか、たまに成田山にいきます。そのときはドイツ人の霊も一緒に行って、きちんと参拝してきます。ドイツ人は神仏習合を私以上に深く理解いたしまして、その霊的秘儀は何なのだろう、と考えさせるのです。

ドイツ人はいつも居るわけではありません。今は、昨年末から居ません。向うに帰っています。

 

 




: 私が注目するのは聴覚による認知空間です。

 

シュタイナーによりますと、聴覚はその昔、大いなる感覚だったのですが、退化しつつある感覚であるということです。聖書でいうところの「はじめに言葉があった」というのは、誰かがそれを聞いていた、ということを暗示していると思います。一方、現在の思考は嗅覚から発達してきたので、よく気がつく人のことを鼻が利くと言いますが、これは世界的に通用する表現です。少なくとも、フランス人がそのようなことを言うのを聞いたことがあります。シュタイナーはショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」について、もし犬が「嗅覚の世界」を書けたとしたら、その方がずっと面白いだろう、というようなことを言っていますが、犬の散歩をしていると、確かにそうだろうなと思います。聴覚については、シュタイナーはインテュイションではなく、インスピレーションと関連づけていたと思います。インテュイションは人智学ではよく「霊的合一」と訳されます。

 

: また、日本語には物理的に音を聞くのほかに「香を聞く」

: という表現があります。臭覚なのに聞くといいます。

 

やはり、言葉は天才ですね。

 

: と言うわけで、「解かり」についての主張は私の霊的体験に基ずく、直観知なのです。 )^o^(

 

霊的体験というのは失礼ながらあまり健全なこととは思えませんが、それが聴覚という古い感覚に基づいているというのは興味深いですね。

 

 

 

私の言っているのは聴覚によってすべてを知覚すると言うのではないのです。聴覚が直観知を受容するといっているのではないです。感覚器官と私の言う認知空間は同じものではありません。失礼な言い方ですが、一般の方は、霊的な事象と物質的な出来事を混同して思考します。物を通して霊を見ようとします。直接霊を見ればいいのです。

それと、私から見ると人智学の方はシュタイナーの文献学に傾いているように思えます。神学者の聖書学のように。

私は素人ですが一応私なりに調べた上で述べています。

解かりやすく言うと、認知空間と言うのは人間の心の中に形成される、思考の形式なのです。ですから、思考の仕方というのはいくつもあるのです。でも今まではシュタイナー流の仕方しか知られていなかったのです。

私は感覚を述べているのではなくて、思考の仕組みを問題にしています。音を認知する仕組みと直観知を受容する仕組みが似ていると言うことなのです。だって、霊視も肉眼で霊を見ているのではないです。聴空間は聴覚そのものではありません。ご納得ののいかない場合は心理学事典を調べてください。認知空間は一般の方の場合外部の物理的刺激に

よって中枢神経のネットワークの中に作られます。

それらと、エーテル体に関わる情報によって形成されるのがシュタイナーがのべている12感覚だと思っています。

霊能者の場合は、それが霊界の目的に応じて天使が与えてくれます。私の所はそうです。聴覚や視覚を霊が与えるのではないのです。思考を与えるのです。そして、私には認知心理学が、聴空間と名づけられている構造をしている思考の形式が与えられたのです。

それは肉体の感覚器官とは直接関係はありません。

私はできるだけ、現代の科学の成果と霊的体験を結びつけて話していきたいと考えています。このような論じ方もその一つの試みなのです。

聴空間と視空間の際立った違いは、聴空間には死角が無いと言うことです。つまり、闇が無いのです。聴空間は自分の周囲180度すべてが認知の対象なのです。合一は天使の中に

人間がすっぽり入ってしまいます。たとえばその天使が

ヴィーザルだとすると、周りにいる霊にはその人間がヴィーザルに見えます。もちろん注意してみると人間であることはわかります。つまり、その周りの霊は視空間を使ってその人間を見たのです。だから初めはヴィーザルがみえて、人間は死角になっていました。では、ヴィーザルの中の人間はどうでしょうか、この人間が何かを認識したいと欲するときにこの人間の認知構造はどうなっているのでしょう。

この場合、ヴィーザルがこの人間に思考を与えます。この人間の体は物質の世界にあります。肉体は物理的刺激を受容し中枢神経のネットワークにある認知空間を利用して行動しています。ヴィーザルはこの認知空間に自分の思考を与えます。この状況下で人間が、物質世界に「解かり」を求めた場合は、ヴィーザルの思考を通じて認知するわけですから、死角がなくなるのです。合一してヴィーザルの中にあるからなのです。それだけではなくて、ヴィーザルはさらに上の天使と合一しているのです。そうやって次々と上の天使と合一し宇宙をすっぽりと包み込んでいきますと。もうどこにも死角はなくなります。

これが川崎の言っている聴空間的認知構造です。

それと、直観知はそんなに大それたものではないのです。

シュタイナーが高度に分析してしまったために、かえってむずかしくなったのです。スピノザの本心を知るべきです。

佐々木様、もっと反論してください、勉強になります。

でも、いじめられちゃったです。疲れました。

 




 

: それと、私から見ると人智学の方はシュタイナーの文献学に傾いているように思えます。神学者の聖書学のように。

 

 ということは、必ずしも一般的には言えないと思いますが、少なくとも、私に関してはそう言われても仕方がないいでしょう。シュタイナーがあまりにもすごいことを言っているので、それを追うのにせいいっぱいというところですから。ちなみに、家内(家外?)はどちらかというと実践家(シュタイナー派のアートセラピスト)でして、私がシュタイナーはああ言っているとかこう言っているしか言わないのでいつも非難されています。

: 佐々木様、もっと反論してください、勉強になります。

: でも、いじめられちゃったです。疲れました。

 

 川崎さんの言われることにほとんど反論の余地はないように思います。そうでなければ、のこのこ出てきません。今回の天使の話も常識的に考えて全くそのとおりだと思います。もちろん、言葉で表現するといろいろ誤解が生じる可能性はありますが、本質的な問題ではないでしょう。ただ、人智学をやっている人間は往々にして「霊的な認識を獲得したい」と思っているくせに、「自分は獲得した」という人が現れると、まず、うさんくさいと思う傾向があります。樋口先生は別にして、一生懸命勉強しているひとほどそうかも知れません。

 川崎さんは非常に興味深い(私にとっては最大限のほめ言葉なので、あまり疲れないでください)人だと思っていますし、このようなお話をさせていただくのは実に楽しいのですが、あまり掲示板を独占するのもよくないので、この辺でひとまずお休みさせていただこうと思います。

 

 

 




 

:神仏習合を訳すとどうなるのでしょうか、またこれをヨー

:ロッパの人に説明するとどういえばいいのでしょうか。

 

Der Synkretismus zwischen Schintoismus und Buddhismusでいいと思います。説明は、相手がどのくらい神道と仏教の違いが分かっているかによって、いろいろでしょう。当たり前なことしか言えず申し訳ありません。

 

:でも、樋口先生の天使様は私に興味があるみたいです。

 

おおっと。まず、一応お断りしておきますが、私はまだ一度も、川崎さんが私の天使を本当に見たと信じると言った覚えはありません。金髪に青い目の姿と、日本人神父のイメージはドイツ語教師であり且つシュタイナーの秘教的キリスト教に関わる私の天使としては典型的で、気に入った!と言うわけです。でも、これは川崎さんが付与したイメージだと思っています。イメージのもとの存在が、果たして本当に私の守護天使であるかどうかも、前に書きましたように、検証しようがありません。

 

川崎さんという存在を、興味深いと思っているのは天使ではなく、地上人格の私ですが、それは、川崎さんの博識と霊能が同居している、その組み合わせがまず稀で興味ぶかいのです。博識で論を展開するだけの人なら、学問世界には五万といます。川崎さん的に、言いきり型の人もいます。霊能だけで、学問的な方面は守備範囲でないというタイプもいますね。しかし、この組み合わせを、そのまま受け取っていいのかな、ちょっと待てよという面もあります。霊能と主知主義の混合?川崎さんとの掲示板での会話も度重って、沢山書いていただいて、初めは不明だったことも少しはっきりしてき

ました。

 1.まず川崎さんはいろいろ読んでいて博識である。これは、掛け値なしにすごいと思う。そして、直観で、これだ〜と決めるタイプらしい。

2.それが、ときどき「決め付け」になるところが、玉に傷だけれど、むしろ人間的な面として、面白い。具体的には、ときどき勝ち負けへのこだわりや、相手をみくびったりの子供っぽさが出る。

3.ただ、真の覚者のアストラル体は、この人間的なものを昇華しているはずで、そうでないアストラル体でのアストラル視は、失礼ながら、それなりの限界や歪みが予想されてしまう。

4.川崎さんは、物質化の方向性をもつ心霊主義とは一線を画しているし、霊媒ではないと言っているけれど、指導霊と川崎さんの関係が、今ひとつ不明です。人智学では思考の自由に最大の重点をおいていると言ってもいいくらいですが、その自由があるのだろうか。

5.その指導霊だけど、川崎さんを「通じて」伝わるその傾向は、やはり民族的なこだわりがあるみたいで、真のキリスト衝動がもつ普遍性とは違うような気がする。

6.その指導霊が本当に人智学の淵源から、人智学についての霊言を1MBも伝えてきたのなら、それが川崎さんの人智学の知識を大いに深めただろうと考えられますが、どうも川崎さんが言及する人智学は、翻訳のあるものに限られていて、しかも用語の理解に決め付けがあるように見えます。Imagination,Inspiration,Intuitionについても、それを感じます。

7.その指導霊は、神道と人智学を統合しようというそうですが、ちょっと私の中では、それは方向として、どうかなという感じがあります。人智学は民族魂を越えた人類に普遍的なものを目指しているからです。神道の神を人智学の霊的ヒエラルキーに当てはめて見て、解釈するという方向性ならあると思いますが。お神楽などの音楽のささげものの対象はアストラル体が最低次の構成要素である大天使レベルの霊だろうとか、もっと上位の霊は…とか推測したりもできます。霊的認識の科学である霊学(精神科学)と、霊的関わりそのものである神道の間を結び付ける論理の場と言われても、その設定自体に無理があるように思えます。

自分のアルトラ体の不完全さを棚にあげていろいろ失礼なことを申し上げました。私は自分の不完全さを知っているので、このまま霊視が覚醒しないことをむしろよしとしています。歪んだものになりえるし、ルチファー的な霊とそうでない霊の区別もつかないだろうからです。太古には区別がついたが、現代の参入者には難しいとシュタイナーも言っています。

私は、このままの姿勢でシュタイナーの文献を読みながら、できるだけ倫理的に生きながら、危うい道を避けていこうと思っています。

 



 

私の霊視内容の発言について、お気に召さなければ、忘れてください。私、本当は宇宙人の話しがしたかったのです。

でもその前に受けて立ちます。でも遣ってるぞ、と思うといいものがかけないです。

.それは当然、女ですから、女は気分で決めます。それと先生が博識と皮肉っておられるのも、観です。論文を組むときは別ですけど、その場合は、決め付け型と言われないように調べ尽くして書きます。それ以外はいつも観で話しています。そんなわけで勉強したことはなにも覚えていないのです。こなん私なのに専門家の方がよく相手してくれるなと思っています。

.これも女の駆け引きです。腹を探っただけです。

.ゆがんでいるのも当然です。私は覚者じゃないです。歪んでいるためか、高次のもの以外のお付き合いが出来ます。

天使さんは近づけない、霊的存在ともコンタクトできます。それには注意を要しますが、いまのところ日常生活に支障はありません。

.Die Philosophi der Freiheit』について論じるなら、それだけで本になります。ここで述べられている自由を人智学者はどう考えているのか逆に質問したいです。まず一般的に言えるのはランダムの自由とは違う、これは解かります。私は文献学的に研究するのは嫌です。佐々木先生にも申し上げたのですが、で、観で話します。

私の自由を説明します。どれでもいいですから、フォルダを一回クリックしてexplorerを開いてください。すると分枝図が出てまいります。それで、「〜人の霊体の進化を辿って行った。それは列車の窓から

景色を眺めるかのようであった。そして終着駅には、イデアの光が在った。私はその光から生まれ、その光によって活かされているのだと感じた。これが完全なる原型だと確信した。だからこそカルマ思想を受け入れる事が出来た。"思考"という列車の窓から観える景色は段階的に変化する。森が序々に開けて草原になり、集落が出来て、やがて大きな町になっていく。私にも霊的世界がそう観えた」

この文の出自については申しませんが、ゲシュタルトを描写したものです。訳語について、私は哲学事典を標準にしています。研究者によって使い方が違うからです。それと、人智学にへつらうつもりはないので、かならずしも、人智学の方好みの表現にはなりません。その点はお互い様だと思いますが。私は『Die Philosophi der Freiheit』はゲシュタルトをこのexplorerの分枝図のように語っていると思うのです。また決め付けと仰るかもしれませんが、色々な決め付けを探すと、もしかするとそれから新しい道が開けるかもしれないのです。『Die Philosophi der Freiheit』は100年前のものです。更新してもいいでしょう。人智学が学問なら、新たな進展があってもいいのではないでしょうか。

シュタイナーを信仰すると駄目です。大きなお世話ですか、

このフォルダの分枝図は実は分枝図ではないのです。入れ子構造になっているのです。それを二次元的に描くと分枝図になるのです。佐々木先生へ述べたものの合一のところを参考にしてください。この哲学上の違いは結構大きいのです。哲学上の違いと言うのは思考形式の違いでもあります。思考というのは霊的ファイルを自我にエンコードするためのプログラムのようなものだと考えています。ですから、このエンコーダーはいくつかあるのです。シュタイナーは一つしか示さなかった、それも不完全なのです。

航空操舵は1度でも狂うと一時間後には何百キロも違ってきます。思考も同じなのです。だから、高次に向かうときは高度の集中力と統一力を要求されるのです。しかし、その思考のプログラム自体にパグが在ったらどうでしょうか、これはシュタイナーの揚げ足を取ることにもなるので、シュタイナー信者の方には申し訳ないのですが、『Die Philosophi der Freiheit』にはパグがあったのです。それが現代の哲学で明らかになっちゃったのです。ゲシュタルトの分枝図のイメージは唯物論なのです。先に述べたゲーテとシラーの対話にもあったのですが、原型なのですが、ゲーテはそれが唯物論的であることに気が付かなかったのです。それは違うとシラーに指摘されたのです。ゲーテは生命を観たのですが、それを語るときに唯物論との混乱があったのです。詳しくかけないのですみません。これはウィトゲンシュタインの研究に抵触するものです。現代の哲学ではゲシュタルトの分枝図のイメージを全体視野と言います。これは唯物論の仲間なのです。私が決めつけ

ているのではなくて、哲学者が研究していることで、詳しくお知りになりたいのでしたら、netで検索してみましょう。

この間いってみましたが、霊のレの字も無いバリバリのサイトです。霊的になぜ問題かといいますと、それを使って観想するからです。唯物論の危険をはらんだ世界樹のイメージを思考の形式に選んでいるからです。

正しく思考するというのはとても重要なのです。命が掛かるときもあります。だから、実際に運用するときに少しでも問題があると、ユーザーとしては使えないのです。おおげさと思われるかもしれませんが、行を間違えて死ぬ人は沢山居ます。つまり、私にとっては『Die Philosophi der Freiheit』の示す思考は自由とは言えないわけです。では、私の言う思考=自由ですが、それは佐々木先生への答えで書きました。その合一は入れ子構造になっていまして。ゲシュタルトのもう一つの思考なのです。シュタイナーもそれを見ていたと思いますが、それを出力するときに、当時の人間社会の学問のレベルでは入れ子構造という考え方が無かったので、『Die Philosophi der Freiheit』になったのです。

.内は日本の霊が強いです。神道の大人です。でもそれは悪いとは思いません。

シュタイナーだってゲルマンなのですから。神道だからと言ってイコール民族主義というのはおかしいです。人智学者だって皆さんそれぞれ考えをお持ちでしょう。神道も色々あります。でも物事には裏と表がありまして、日本の霊の中で一番偉いのは仏教の僧侶です。前面に出てくるのが大人なのです。それとキリスト衝動ですが、内は天孫降臨と神仏習合を、キリストの密議と絡めて論じようとしています。はっきり言って、シュタイナーは日本を視野に入れていなかったと思うのです。その所はどうなのでしょうか。

.送って来た霊信は、人智学関連ではあるけれども人智学そのものではありません。ですからその中には人智学者の気に触る部分もあります。だからこそ意見を伺いたいと思ったのです。翻訳物に限られているというのはそちらが翻訳物しか知らないからです。そこで私が「シュタイナー霊がこういっていました」といっても信じてはもらえないはずです。なぜなら先生は翻訳物しか知らないはずですから。先生は霊媒が潜在意識を介してアカシックを語るものと同じだろうとかんがえたのでしょうが、そうではないです。もしそうなら『Die Philosophi der Freiheit』の揚げ足は取れません。やはり哲学の指導霊にサポートされたから解かりまた。

.誰しも一種の中華思想を持っています。自分が立派なのだと思うのです。私はもう一度根本に立ち返って考え直したいといっているだけです。結局大天使が動かなければどうにもならないのです。日本の霊は人智学は未完成だと評価しています。というのは、ヨーロッパは日本の様に天使が物質界まで降りてきていないからです。だから国土に降りるといいました。まずそのステップを踏まないといけないのです。天使の拠点となる国が必要なのです。もっとも最近出来たのがイスラエルです。あの国も拠点になります。

人智学者はヒエラルキーを問題にしますが、これは自由の哲学と同様のパグです。合一すると意味がなくなります。むしろヒエラルキーを区別するのは邪魔になります。佐々木先生にも申し上げましたが、どうも皆さんは物から入るのです。

ですから、神道と精神の科学も上っ面から見ていきます。これはすでに解決しています。何が大事かということです。精神の科学のもっとも重要な要はなんなのでしようか、それをよーく思考してみてください。でも人智学者の思考と、私の思考は違うかもしれませんが、樋口先生、先生がこんな方だとは思いませんでした。ここに来てよかったです。

私何というか、余されていたのです。変なおばんって、もっと沢山話したいことがあります。でもあんまりハードな話しなので他の皆さんはしらけているんじゃないでしょうか。もう一つ、私って、先生にとって危うい道なのでしょうか、

 

 

 

佐々木さんへのご返事を読んで、川崎さんが「Imagination」や「Intuition」にこめた意味が分かって、ああそうかと納得しました。そして指導霊との関わり方も、それなりに理解できました。同じ言葉を使っていても、こめる意味が違うと理解しにくいものですね。私は別にシュタイナーべったりではないつもりでしたが、いわば外国に行った日本人が、嫌でも日本人であることを意識させられるのと同様、今回のやりとりでは、意識させられました。

川崎さんが御自分の独創的な切り口で、霊的世界を理解しようとしているのは新鮮で、ああ、こんな考え方もあるんだという驚きもあって、刺激になりますが、でも違うじゃないかとも思う。シュタイナーの思考法にも、ニュートン力学的な限界はありますが、だからといって、川崎さんの論が正解とも思えない。それでは、古来からの霊的叡智の大部分を捨てることになるからです。川崎さんをとりまく、入れこ状の聴覚的霊的認識構造はうまく表現してあって、そうか!と思いました。でもシュタイナーもIntuitionで高次霊の内部にまで認識するといっています。それは「見る」のではない。また「霊視(Imagination)」でもない。Intuitionまでいかずとも、Inspirationを「霊聴」と訳す場合もあるように霊的認識状態には段階があります。こうした段階は、人間の構成要素のアストラル体、エーテル体、物質体への働きかけと対応しているし、これらの構成要素は、高次霊の構成要素とも共通しているものがある。というふうにシュタイナーは言いますが、こういう段階的「視覚化」は、物質界の人間の理解に供するための捉え方であって、本来はそのものを直接表わしているのではない。別の捉え方があってもいいと思います。でも、捉え方から逆に規定される場合もある。新しい捉え方で認識しようとしてみた挙げ句、大事な霊的叡智も取りこぼしてしまうなら、その方法論が完全ではないのだと言えると思います。でも、川崎さんはそれが正しいと思っている。そうすると何が大事な叡智かということになりますね。

危ない霊ともコンタクトできるという川崎さんの考え方は、私にとっては、やはり全面的に受け入れることができません。川崎さんに、樋口がそんな人とは思わなかったといわれても仕方ないです。

 

 

 

無理に私を理解する必要はまったく無いです。

人はそれぞれ持って生まれたものが違いますから、

でもそうやって割り切りすぎちゃうと人生がつまらなくなりますが、

「こんな人と思わなかった」というのは肯定的な意味です。「ずいぶん活きがいい人だな」と思ったのです。

劇的な出会いであったかどうかは解かりませんが、少しクールダウンしましょうか。

私が霊体論や宇宙進化論を語らないのはまだ全体像がつかめていないからです。宇宙人はその絡みがありますから。まだ人智学者と議論できる段階ではありません。

20年程前に「アカシャ年代記」を読みました。そのときは中身の要点はわかりましたが、アカシックレコードそのものが理解できなかった。

私の今遣っていることは、単純に霊界からの請負仕事だと思っています。地球の進化のためとか人類の救済のためとかは考えていないです。あんまり真剣になると何も出来なくなりますから、

でもどうせやるならいい仕事がしたい。

この話しが霊界からあったのは2年前です。気の遠くなるような話しで、困難だと思った。一番決定的だったのはシュタイナーと私の霊視内容の違いです。だって、霊視内容をたどって高次に至るわけです。霊視内容が違うということはゴールも違うのです。でも霊界はそれでもゴーサインを出しまして、「失敗しても責任は問わない」というのです。それで、誤差を知ろうとした、違いを明らかにすれば克服できるのではないか。

私はやはり霊能者なので、その特権を使わせてもらうことにしました。

合一してみたのです。その結果、互いに補い合うものであることがわかりました。それで決心がついたのです。

これはOSをアップググレードするようなものだと考えます。現代の他の学問の水準に対応できるように、だと思います。今までのデータはそのまま使えるというわけです。もし古代の叡智がエラーになった場合、

私は、いくら責任は問わ無いと言われても、天使さんに顔向けが出来ません。ということはやっぱり責任は重大なのかな、

「アカシャ年代記」でかたられているものは、日本チームの中では物霊論と呼ばれています。これは比較されるものではなくて、同じものの別editionなのです。これが一つの突破口になるらしい。物霊論はすこぶる

数学的で、物理的なのです。これをつかって「アカシャ年代記」を再読み込みしようとも考えています。今の段階ではそこまで行っていませんが、

ヒトゲノム計画がありましたよね、私、似たようなことを高次に対してやるみたいです。データ化して扱えると言うことです。そうすれば霊視能力の無い人でも、そのデータをもとに高次を思考することが出来ます。

これはすごくアーリマン的です。自分でもこの強引さにはあきれます。

私は子供の頃から、エーテル体を消耗するのです。霊能を優先するためだと思います。あるとき母が急に倒れまして、急性胃炎とのことでしたが、

どうもそれは、霊たちが母からエーテル体を取って私に回したためらしいのです。どういう理由かはわかりませんが。

それから気を付けてみていましたが、家族や知人の霊体を操作していることが解かりました。

で、なんとなく私としては釈然としないので、やめるように頼んだのです。

私のゆがみと言うのはこれなので、むずかしいらしいです、完璧な霊能力者を作るというのは。

エーテル体不足を解消する究極の解決策。堕天使さんなんです。悪魔とか魔王とか、天狗とも言いますが、そいつをくっつけることにしたのです。そいつはもちろん悪事はしません。浄化されつつある堕天使です。ですから、浄化されると、また別の堕天使が来ます。私と行動をともにして、霊的仕事に関わることで浄化されるようです。私のアーリマン的な強引さはこれからきているのでしょう。

堕天使をスタッフに迎えて、悪魔の生態というのが少し解かりました。

よく「魂を売る」と言いますが、それは悪魔がグラールを食べてしまうのです。悪魔は霊だからお食事の必要は無いですが、人のグラ‐ルは一種の強壮剤のようなものらしいです。グラ‐ルを補給すると元気になるんです。一番効果のあるグラ‐ルは霊界参入者のグラ‐ルです。でも天使が降りてしまうともう手が出せなくなるので、霊界参入者予備軍の人間を狙うそうです。思った以上に執念深い。何百年でも何千年でも付け狙って、おとしまえをつけるチャンスをうかがいます。それが民族紛争とか宗教戦争なのでしょう。天使と悪魔が一対一の時は断然天使が強いです。天使の一撃で悪魔を粉砕してしまいます。だから悪魔は集団で行動します。一人に見えても必ず仲間が控えています。守護天使レベルだと悪魔の集団にはかなわないです。蟻が群がるように天使にたかって袋だ抱きにしてしまいます。天使は死なないけれど、しばらくお仕事が出来なくなります。そしてその人間はグラ‐ルを食べられてしまいます。

悪魔は隠れるのがうまい。因縁霊がありますが、ほとんどは雑念なのでしょうが、これの振りをして居座っていることがあります。もっとも厄介な隠れ場所は

時空です。時間の光の潮流と保護色になっているのです。つまりアカシックレコードなのです。『Die Philosophi der Freiheit』は学術論文なのです。だからいくらでもケチをつけていいのです。シュタイナーだってそのつもりで書いたのでしょうから。でも「アカシャ年代記」は違います。

「アカシャ年代記」にノイズが含まれている可能性があります。

でもここまで来たらなんだか虚しくなりました。涙がこぼれてきました。

これ以上先には進めなくなりました。

 


 

:劇的な出会いであったかどうかは解かりませんが、少しクールダウンしましょうか。

 

私もちょうど、泥仕合になりそうだから、ここらで議論はお仕舞にしましょうかと書き込もうとしていたところです。十分劇的な出会いだったと思います。敵ながらあっ晴れという感じ。川崎さんのIT化された文章表現や、高度に抽象化された思考力に、アーリマン的なものの影は見ていましたが、ー アーリマンは思考に作用します 、御自分で意識なさっているというのはつらいことですね。

 『自由の哲学』は、私はそれほど拘泥しません。弁護しようかとも思いましたが、まあいいやというところ。

 

川崎さんと私のやりとりは、多くのHP読者が見ていたと思います。川崎さんが最後にさりげなく垣間見せた、悪霊とのコンタクトのイメージは、読者の意識や意識下に滑り込み、少なからぬ影響を及ぼしたようです。

悪魔的存在とのコンタクトは、人智学の光に向かう方向性とは決して相容れぬものです。このコンタクトは川崎さんの描写から言って、必ずしも妄想とも言えない迫真性がありました。川崎さんを包み込む霊的存在が、真に正常な進化上にある高次霊なら、そのようなことは決して放置しないはずです。大変な博識と霊的言語を操る川崎さんですが、私は正直言って、川崎さんは、危険な道を歩んでいると思わざるをえません。いい刺激ももらいましたが、違った種類の影響も大のようです。

現在、私はネットの可能性のマイナス面に直面した思いです。掲示板や、このHP自体の今後も考え直さなければならないと思っています。川崎さんには、その悪霊との関わりがなくなってから、この掲示板に来ていただきたいと思います。

 

今回の書き込みを読みながら、エノクの書に記載がある大天使 Phanuelが、秘儀参入者の守護天使であることなども思い浮かびました。悪魔に魅入られた人を助けるのは、エクソシストでしょうか。生身の人間の手に負えることでしょうか。

アーリマンとミカエルの戦いも続きます。でも、この議論はもう止めましょう。

 

真と善と美の力が、闇の力を追い払うことを願っています……。