「宇宙創造概観」
古事記に依る 「宇 宙 創 造 概 観 」浅野正恭著  大正11年4月27日発行
はしがき

皇典古事記は、宇宙の始源、天地の大法則を、神話的形式を以て、人間に垂示された神啓である。

故に、これを真解することを得れば、世事人事百般に対し、惑うことなく、迷うことなき指針と為るのであるが、

其の神話的形式中より、天則、神意、哲理というようなものを求めることは決して、容易の業ではない。

のみならず、其の真解し得たとするところのものも、亦各人の分相応に過ぎないものとなるが故に、

必ずしも、一説を以て、他を律するという訳には行かない。そうであるなら、古来幾多の学者が、其の研鑽に従事したのであったが、古事記の真解は、これ以外に
  《一》霊と体

霊と体、其の正体は果して何なのだろう。霊と体という語は日常的に使用されているが、未だ具体的説明が付いていないようである。

私が、ここに此の研究を進めるに当たり、先ず第一に決めるべきものは、此の霊と体の定義である。

この定義を決めずに、私の研究は一歩も先に進まないのである。私は先ずこれを解決したいのである。


凡そ宇宙間に存在する森羅万象、万有一切は、千差万別、多種多様、ほとんど究極を知り得ぬ様相を呈しているが、

しかしながら、ある意味に於いては、これは机上に列記可能であると言える。

何故なら、宇宙の万有一切は、悉く八十余りの元素に帰着してしまうのであるから、

化学実験室の試験管は宇宙万有の根元を包蔵するものとなるからである。

地球以外の天体中には、地球上で求め得る元素の外に、尚幾多の元素があるかも知れないが、未だそれが発見されたと言うことを聞か無い。

そうであるのなら、宇宙に於ける一切は、八十有余の元素から成り立つものであると言える。

もし後日地球上から、あるいは他の天体から幾多の元素が発見されたとしても、

私は其の元素の数の多少に重きを置くのものではないので、私の研究を進める上では支障はない。

元素の数が増加すれば、私が今八十有余としているのを九十なり百なりと訂正すればそれで良いのである。


この八十余りの元素は、ラジウムの発見以来、電子より成り立つものであることが明らかになった。

この電子というものの組織は、陽電気を核とし一個あるいは数十個の陰電気がある一定の軌道を書いて、

非常な速度を以てこの核の周囲を回転している。それは宛かも太陽を中心として、幾多の惑星が、

その周囲を回転しているのと趣を同じくしているという。

元素、電子がこの様に決定されたところで私は思う、宇宙間の万有一切を、何らかの方法に依って悉く

これを元素に還元できたと仮定するときは、宇宙万有はその形を喪失し、

唯混沌とした八十有余の元素のみとなっていまうだろう。この元素を更に還元して、電子のみに成ったと仮定する時は、宇宙間には、

所謂物質なるものが皆無となり、ただ果てし無く、電子のみが満ちる空間となって終わるであろう。

つまり、この電子なるものは、陽電子+と、陰電子−とが結合するものである為に、この各種の電子は更にこれを還元して、

単なる+と−とに分解し得るはずである。この+と−とは、その性質が正反対である為に、+と−を生じさせるところの本体なるものが

必ず存在するに相違無いと推理できる。
この本体なるものは取りも直さず、全く正反対の性質を備えているのであり、

即ち+と−とを兼ね備える±でなければならないことは否定できない。

即ち宇宙は、その無始の始源に遡るときは、終に混沌中和の±、一元に帰着してしまうのだ。

以上の如く、宇宙は±の一元状態に根源を求め得たのであるが、これより此の始源状態を発足点として、

万有育成の順序を私は新たに考察しなければならない。

中和し混沌する一元の±が、発して万有となる第一段階はどうしても+と−との分離でなければならない。

相反する二性の対立であって、そしてこの対立する二性が相互に交渉するものでなければ、

何事も成り立たないということは明白な事実である。例えば、下なくしては上は有り得ず、右なくしては左は有り得ず、

悪なくしては善は存在しないと同様に、相反する+と−が無ければ、万有は成立し得ない。

この万有の発生に+と−との分離が過程の第一段階である。そこでこの+と−は如何にして分離するのであろうか。

それには二つの解釈を与えることができる。

第一は、一元である、±の統合した意志精神の発動する結果とするもの。第二は自然の志向性としてそうなったとするもの。

しかしながら、第二の解釈は解釈と言うよりも、ただ外面的に宇宙を観察したものに過ぎない。

例えば水素と酸素があり、それが化合して水となるのは自然にそうなったと言うのであれば何の答えにもなっていない。

ただその現象を報告したに過ぎない。私はこれは水素と酸素との意志精神、言い換えると水素と酸素との性状の発現が水となるのではないかと考える。

此処で述べている性とは。意志精神の特徴を指すものであって、凡そ物(物質そのをいうのでは無い)

なるものが存在する以上、性の無いものは有り得ない。既に性があるのであるから、何らかの現象が起きないはずが無いのである。

この様にして、一元の±は、その意志精神の発動によって、+と−との二元に分離するのである。

即ち私は、いかなる場合も、現象が起きるのは第一の解釈に従うものであると信じている。

一つ例を上げると、ここに電池があって、電池の性によって電流が起きるが、その両極を接し無ければ、+の電流も−の電流も無論起きない。

つまり、電流は起きないが、+と−の電流を起こそうとする性は勿論存在するのである。+と−のまだ起こらぬ電池は、

一元の±と状態に在ると言うべきであって、宇宙の一元状態も、このようなものであろう。

即ち、宇宙第一次の意志精神は+と−との分離であって、私はこの分離された+を霊と呼び、−を體と呼称するものである。

そして宇宙万有一切は、霊と體との結合と調和に他ならないと結論するものである。

これを霊と體とに対する私が下す所の第一次の解釈である。此の霊と體とは他に陽陰、火水、男女等と称する事もある。更に言うと、

キリスト教で十字を用いるのは、キリストの磔刑を象徴するものではなく、私はこの十字なるものは霊と體との結合、即ち+と−との結合を意味していると考えている。

私達は便宜上、陽、火等を示す符号として+を使用するのであるが、この符号は寧ろ“|”を用いるぺきである。

此の|を+と表記するのは−との混乱を防ぎたいからである。

十字は+と−との結合する表象となる。そして又、十字は時間の表象である|と、空間の表象となる−との交差を示すもので、

人間は常に時間と空間との交差点に立たされているのであって、何人も此の交差点に立つことからは逃れられない。

右に行くも左に行くも、善を成すも悪を行うも、悟るも迷うも、一瞬の間や隙も此の十字から離れては有りえない。
 
以上の如く、ただキリスト教のみでは無く、私達はこの十字の磔刑を常に甘受しなければならないのである。仏教の卍もこの十字の変形である。

+と−とは常に宇宙の大根源を語るもので有り、宇宙の大真理はこの外には有り得ないと私は痛切に感じるものである。


《二》造化の三神


宇宙の森羅万象、万有一切は上述の如く、±の一元より分かれた+と−、霊と體との二元より成立するものである。

そうであるなら、此の+と−、霊と體とは如何にして森羅万象、万有一切となったのだろうか。

私が思うに、万有が既に生成して仕舞った末端の方から、科学のみを手段として少しずつ探究していくのでは、その精妙さに触れることは困難である。

故にその進むべき方向は超理性の高所から求めなければならない。そして超理性の指針は、古事記の研究に依って求むべきものであると私は思う。

古事記ははしがきにも述べた通り、神話の形式をとっている居るが、単に神話的記述でしかなかったとしても世界的には貴重な文学である。

しかし、その様なことは真価ではなく、その真価は別に存んする。私は及ばずながら此の方面の研究を志して以来、

宇宙の大真理が此の記録中に包蔵されていると信ずるに至ったのである。

古事記の含蓄が、この如く広大にして神秘である以上何人が其の説明を試みたとしても、その全貌を語り尽くすという事は望みようも無いことである。

それを初心の私が、しかも小冊子を以てこれに望もうとしているのであるから、無論多くの期待に答え得る訳ではない。唯、涓滴尚流を為すの、

少しばかりの誠至を尽くしここに卑見を述べるに過ぎない天地の創造は、古事記には次のように述べられている。


『天地の始発の時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神御産巣日神』

凡そ天地は剖判してから、始めて天地と成るのであって、未だ分かれていないときは勿論、天も地も無い。

分かれる以前の天地は、自ら分かれる以前の天地であるもので、特に説明の要は無い。故に天地が剖判するときを示すことによって、

天地が分かれる以前の事も判るのではないだろうか。それが古事記が天地始発之時より記されている所以である。

であるなら、ここに言う天地とは、宇宙と同義ということである。宇宙は無始無終であるが、その無始の始源に於いて成りませる神が、

天御中主神、次いで他の二神であらせられる。この三柱の神が所謂造化の三神であらせられる。

この三柱の神の成りませる高天原とは、そもそも何を意味するのだろうか、これ迄に幾多の解釈が成されて来たが、

未だ決着には達していないようである。

天地が未だ分かれる以前に於いては、宇宙は混沌としている。故に三柱の神の成りませる状況も、この混沌に於いてであったに相違無い。

そうであるのなら、造化の三神もこの混沌中の宇宙内に生じたものであって、決して宇宙の外に生じられたものでは無い。

この宇宙内に生じられた事を啓示されてあるのが、即ち高天原に成りませると記されている所以である。

高天原とは取りも直さず、宇宙そのものなのである。
高天原なる意義に付いて一言付け加えるなら、天地が分かれようとする時の宇宙其の物は、

三柱の神に他ならないのであり、宇宙即ち三神、三神即ち宇宙である。

故に“高天原に神つまります”と祝詞にあるのは、宇宙には神が隅々まで満々ちているという意味になる。

この意味が転化して、神の集合する地点を高天原と指称してしまったのである。

此処で言う高天原は、即ち私達が住むこの宇宙自身を指すのであって、その意味での宇宙の外を意識するのであれば、

其の宇宙の外に在るものは高天原では無い。
天地初発の時に当たっては宇宙は混沌状態で、天もなく地もなく、

日月星辰も無く、勿論、森羅万象の起こる以前であって、未だ+と−とが分かれていない状態を言う。

+と−に分かれていない一元の±となる宇宙其の物が、即ち霊體一如が、古事記の天御中主神であらせられる。

天御中主の天とは、天と地とが対立する天の意味では無く、宇宙其の物を言う。

そうであるなら、天地未開の時の第一神、独一神が天御中主神であらせられる故に、其の天とは、天地が対立するところの天では無い

と言うことは自明の理である。又、御中主とは、中心主宰の意志精神なのであるから、天御中主とは宇宙及び宇宙の統合精神と言うことになる。


しかしながら、この一元の±が分かれて+と−とに成り、天地剖判して、万有が鬱生する今日に至っては天御中主神は、

その存在わ失ってしまったかに思われるが、決してそうではない。

±が分かれて+と−とになり、+と−とが種々の電子となり元素になったとしても、+と−は依然として+と−として存在するのであるから、

それはそのまま天御中主神であらせられねばならない。

±、一元の混沌状態に於ける天御中主神は例えるなら、あたかも両極を接する前の電池のようなものであると推測できるのである。

そして森羅万象を鬱然として蒸生させる、元宇宙に於ける天御中主神は、電池の積極と消極とを接続して、

諸々の現象を生起させる電池の様なものであるのなら、其の未だ両極を接する前と、其の接する後とでは、勿論その働きを異にしている。

そこでこれを区別する為に、天地剖判以前の天御中主神を静的天御中主神、剖判後を動的天御中主神と申し上げることにしょう。

剖判以前の、±、一元の混沌の状態である静的天御中主神を、+と−との記号で表象するのなら図1のようになると考える。





この静的状態より、動的様態に移行する起機は、前にも述べた様に、静的天御中主神の意志精神の発動に他ならない。

そして、その動的となられる第一次は高御産巣日神、神御産巣日神の二神として顕現されるに始まる。

私はこの二神の御活動は、御神名によって髣髴し得るものであると思う。

即ち、神御産巣日神の神あるいはカとは、密やかなる幽玄、隠微なるものの意であって、結局は宇宙の内面を示している。

また、産巣日とは結合、うん醸、発酵、生産という意義がある。

故に、神御産巣日とは、結合及び生産が内面的に遂行されていることを意味している。これらの意味に於いて、±の一元が分かれて+と−になったのは、

単純なる+と−とになったのではなく、其の中に+と−との結合、即ち産巣日が内包するところのものでなければならない。

そしてその結合が内面的であるということは、能動的である+が受動的である−よりも内面に存在することに外ならない。

これに於いて、神産巣日の結合は+と−とによって表象するときには、凡そ次の様な類型を成すであろう。図2。





しかしながら一方に於いて、科学者は物質元素を研究する結果、元素は電子より成り、その電子は+を核として−がその周囲を回転している

と説明しているが、科学者は物質の研究に依って、我が古事記の、神産巣日の類型の正体を突き止めたということになる。

次に高御産巣日の高あるいはタとは顕著であることを示すが故に、+と−の結合である産巣日が外面的に遂行されつつある事を意味している。

即ち高御産巣日は、神産巣日とは表裏内外正に相反するものでなければならない。其の表象は必然的に図3のようになるであろう。


産巣日のこの様式は、単に物質を分析還元しただけでは決して得られるものでは無いから、所謂物質主義者は承知しないとは思うが、

しかしながら、既に神産巣日の様式を認めている以上、これと相反するところの結合である、高御産巣日の様式を認めぬということは、

あたかも−を認めて+を認めない様なものであるから、それについては大きな誤りが在ると感じざるを得ない。


私は古事記の記述に依って、学術界の探究が今後必ずこの方面を開拓し得るに違いないと確信する。

即ち学術界は今や物質の究極に到達し得たのであるから、正に霊的方面に突入すべき時機でなければならない。

先学の士は恐らくこの点に着眼しておられることと察せられる。それ故、高御産巣日の探究に対する私の憶測は、未だ具体性には乏しいと言える。


一元であるところの天御中主神が、動的状態に移られる第一次は高御産巣日神の霊と、神産巣日神の體との二元となり、

霊體結合、うん醸し万有ここに並び起きるに至のである。



《三》天地の剖判


混沌であり中和する±の状態から、+と−とに分かれるのと、やがて天地の剖判となるのであるが、これはただ第一次の段階に過ぎないのであって、

+と−とに分かれる事のみでは、天地の剖判という訳にはいかない。此処に於いて、霊と體であるところの高御産巣日神、

神産巣日神は更に複雑なる産霊をとげなければならない。古事記に記されているところは次の通りである。





『國稚く、浮脂の如くして、久羅下那洲多陀用弊琉の時、葦芽の如く、萌え騰る物に因りて成りませる神の名は、

宇麻志阿斯訶備比古遅神、次に天之常立神』

此の二神は共に、高御産巣日神、神産巣日神の結合、親和、産霊の結果であることは勿論であって、

其の結合の組織は、まだ極めて幼稚である。しかし、幼稚ではあるが、既に霊と體とが結合する以上、

醗酵うん醸して何らかの生産的萌芽とならざるを得ない。

醗酵うん醸は外面的にも、内面的にも、やはり高御産巣日神、神産巣日神に於けるが如くに行われる筈である。

其の外面的うん醸の行われる無辺の辺際の範囲内が、宇宙其の物であって、この無辺の辺際内は、

故に、一の恒久不変體と称すべきものであろう。體なるものは既に述べた通り、内面的うん醸の生ずるところのものであるが故に、

ここでは簡単にAを以て高御産巣日神を表象し、Bを以て神産巣日神を表象すると、宇麻志阿斯訶備比古遅神、

天之常立神は図4のようになるであろう。


      


霊と體とが結合うん醸して、萌え騰るものがあるということは一方に於いて、自然に沈滞するもののあることを示している。

萌え騰って無辺の辺際である天が定まり、沈滞して所謂地を成す。此処に言う所の地とは、天に対する地であって、日月星辰それ自身も、

また一つの地であることには外ならないのであるが、我々人間としてはこの天に対する地を差し当たり地球に限定する方が便宜であろう。

そして、此の地の地球は如何にというなら、これはまた霊體結合の結果に外ならないことは先に述べている。

その霊と體とは、國之常立神、豊雲野神に外ならないのであるから、地の万有一切はこの二神の結合に因らぬものは無い。

國とは組織の意味、常立とは不変の意味であるが故に、國之常立とは恒久不変の組織を意味することになる。

この恒久不変の組織とは霊の別称である。

雲野とは組織の意味、豊とは豊富を意味するのであるから、豊雲野は多種多様の組織體の意味となる。

即ち國之常立は霊、豊雲野は體であり、この霊と體の組織は高御産巣日神、神産巣日神、比古遅神、天之常立神の結合親和の結果、

生成せられた神であって、地の万有一切の始源となられたのである。そこで前例に依り+と−を以てこの二神を表象するときは、

図5の通りとなる。Cは高御産巣日神系の組織、Dは神産巣日神系を示す。


物質の元素を還元すると電子となるということは前述の通りであるが、その電子は陽電気を核心とし、

陰電気がその周囲を回転するものであるが、その陽電気と陰電気は普通の場合に於いては、Cのごとき複雑なる組織を有し、

陰電気はDの如く複雑な組織を有するものであろうと私は考える。即ち物質を還元して得られるべき電子なるものは、

この豊雲野の組織に達するに過ぎないということになる。従って霊の霊の基本組織なるものも、

この國之常立であらねばならないことに帰着する。

ここで述べている神々に付いて、其の性質を一応解釈する必要がある。この点に関する古事記の記載は甚だ簡単である。

『天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、此の三柱の神は、並獨神成りまして、隠身也』とあるに過ぎない。

次に、宇麻志阿斯訶備比古遅神、天之常立神、この二神も、いずれも皆、獨神成りまして隠身也と記されてある。

獨神隠身という語が各所に記されている意味は、つまり其の獨神隠身の程度の差を示すもので、

その程度の差を表示するのに他に適当な方法がないため、同一の文字を使用したと察せられる。

何れにしても以上の神々は獨神であることに於いては同様なのである。獨神とは独立に存在する意味であって、

即ち高御産巣日神は霊として独立に存在し、神産巣日神は體として独立に存在活動し得るのである。

言い換えると、末端の所謂霊と體の関係の如く約束、羈絆を超越しているというのである。

比古遅神、天之常立神も然り、国之常立神、豊雲野神も然りであり、ただ、上述した如くその程度を大いに異にしているに過ぎない。


以上の諸神を私は便宜上、霊と體とに区別したのであるが、それが直ちに霊と體であると言うのではない。

それは、遡って、霊と體とを成すべき始源であるという意味である。即ち、+を霊、−を體と呼んだのであるが。

−そのものが、直ちに體であるというのでは無い。物質の元素なのであるから、末端の方を立脚点とする時は、

この體と称している−もまた、これを霊と言々得るのである。つまり第一段階で始源的に属するものは、

これを便宜上霊と言えるのであって、単なる+と−は勿論の事其の始源的組織である、国之常立神、

及び豊雲野神に至迄は一列にこれを霊と呼んでも差し支えないだろう。獨神隠身が、前述のように別記されているのは此の所以である。

また隠身とは、定形の個體を成さない意味であって、単にその眼識に触れぬ事を隠身と言う訳ではない。


以上述べて来たことを纏めると、上記の神々を遡ると霊と體とを成すべきものであるが、その始源的組織に在っては、

體を成すものであっても一様にこれを霊の神と称する。これは即ち獨神隠身である。そしてこの獨神隠身中にあってその最も始源的なもの、

これもまた霊と體と相持つところのものであるが故に、霊も體も、結局程度の差に依り、呼称を別にしている場合が認められる。




《四》万有の発生


獨神隠身である神々の次に成りませる神々は、男女一対の諸神達である。

男女対神と言うことは、其の體なるものに男女の別があることを示す外に、やはり生成には霊體相持つという原則を示している。

霊と體とが互いに求め合うところに、所謂力なるものが生ずる。電池の霊なる+が、

體なる−と相通じて電流という力を生じるのと趣を同じくしている。

+と−の外に電流という力があるのでは無いと同様に、宇宙間には、霊と體との結合の外に、力なるものが別に存在しているのでは無い。
 

かくして宇比地邇神、須比智邇神、角材神、活材神、意富斗能地神、大斗乃辨神、淤母陀琉神、阿夜訶志泥神等八柱の神

は霊體結合の力の代表神となる。力とは動、静、引、弛、解、凝、分、合、の八力を言う。

この力なるものは、始源的霊體の結合、即ち単なる+と−との結合にあっても、なお生ずることは勿論であるが、

霊の基本である国之常立神、體の基本である豊雲野神生成の後、これ等力の八神が生じるとする記述の仕方は寧ろ妥当であろうと思う。

霊と體が相合して力を生じ、この力が繰り返し霊と體を誘引し、互いに拠り所と仕合って元素となり、

化合物となり、次いで生物ともなったのである。これを伊邪那岐、伊邪那美二神の生成的活動と言うのである。

二神の活動の成果は、古事記には可なり詳細に記載されているが、今私はこの概念だけを記述するに止めて。

後日若しくは、世の識者に譲りたいと思う。


伊邪那岐神は霊系の神、伊邪那美神は體系の神であって、この二神の親和活動ということは、霊と體との結合を意味し、

霊體結合して此処に生物が生じる。つまりこの二神の生成された国土、山野、河海、風雨、草木、魚鳥等、

生物である意味に於いては皆同一である。此処で私が生物と言うのは、個體に相応した個體霊が存在するという意味であり、

此の個體霊が存在しないものを死物と言う。もともと生物というのも、死物というのも、體としては元素であることに於いては同一であって、

其の元素は、霊の+と體の−とより成立する事は既に述べているが、厳密な意味に於いては宇宙間には死物は無いとも言える。

しかしながら、私達が普通言う所の生物死物は、此のように厳密な意味に於いてでは無く主として、個體に相応した個體霊の存否に依って、

生物又は死物を区別するのである。一般に言うところの生死とは皆この意味に他ならない。

生物死物に対する前述の定義は、伊邪那美神が火之神を生むことに因って、遂に神避りましたとあるに依って明らかにされて居ると思う。

火之神とは所謂霊である。霊が體より分離するときに死の現象を生ずる。これを生物死物を区別する鉄案であろうか、否神約である。


伊邪那岐神は腰に帯びたる十拳剣を抜き、迦具土神を切られたのであるが、その流れ出る血より八柱の神、

並びにその身體の各所より八柱の神が生まれられた。八柱とは多数と言うことであって、必ずしも八柱と限定した訳では無い。

即ち、伊邪那岐なる霊の神的作用は、その霊を多数に分割してこれを生物に賦与し得るのである。

又其の伊邪那美神を黄泉国に訪ねるとき、一火を燈して行かれたのである。凡そ體には一つの火、即ち一の霊を注入するときは

これに生物がなるのであるという原則が、この條を見て察することが出来る。

そうであるなら、これとは全く反対に伊邪那岐神が、伊邪那美神を辞去して後、筑紫の小戸に禊ぎされた時には、十四柱の神の生成となった。

禊ぎとは洗い濯ぐことであって、水とは、火なる霊に対する身であり體であるが故に、伊邪那岐神なる霊が、

身即ち體を得る事によって生成を成し遂げ得るという天則が此処に示されて居ることになる。

この様に霊が主となり體が従属となり生成すると言うのが原則中の原則なのである。それは天照大御神を始め奉り、

三貴子がこれによって得られたとあるでたやすく説明できるからである。

伊邪那岐神は、其の神功を遂げられた時後に、天に登られ日の少宮に留まられたということが日本書紀に載っている。

これは何を意味するのか。霊なるものは活気生き生きとして、恒久に存在するというに外ならない。

私が前に恒久不変の別名である、と言ったのは此の為である。


以上記述してきたところを要約すると、万有の生成は総て霊と體との結合に因るものであって、霊體の結合はこれに力なるものが生じる。

活物の心性というものも、要するにこの力に対する別名に過ぎない。活物より霊が脱出するときに死の現象を生じる。

しかし、霊が脱出する、所謂死せる體もまた一段始源的に属する霊體の結合であるが故に、決して元来の死物というものでは無い。

個々の體を形成するものに霊が加わって、此処に生物を生ずるのが、神約天則なのである。

伊邪那岐、伊邪那美二神の活動に対する古事記の記載を研究すれば、尚幾多の重要なる神律を伺うことが出来る。

男は左を司り、女は右を司り、夫は唱え婦は随う、過ちを改めるに、ためらうことなかれと言う事も、其の一つとなって居るのであるが、

この記述の目的は、これ等の問題に立ち入るべきではないので、今はこれを略する。




《五》世界の統治


霊體相分かれて天地剖判し、霊と體とが結合して森羅万象と成り、万有一切が鬱然と蒸生するに至ったのは前述の通りであって、

森羅万象、万有一切の基本となる霊は国常立、體は豊雲野に帰す。この基本霊と根本體とが相親和して力を生じ、

霊と體と力とが更に複雑な関連と交流を結び、霊が主となり體が従となって、ここに基本的個體を有する理想體が生成されたのである。

換言すると、男霊女體の理想神が生成されたのであり、それは言うまでもなく天照大御神であらせられる。




この理想神が高天原の主宰神となられたのである。高天原とは前述した通り、宇宙其の物である。

古事記は、その筆を天地初発の時に起こしているのであって、その記述が、極東のこの日本に極限されると言う偏狭な記録では無い。

意図して視野を狭くし、偏見に捕らわれる人間でない限り、其の宇宙的記録は必ずや肯定し得る筈である。

尤も、これを極東日本に限られた記録と解釈するというのも多少根拠とする所が無いわけでもない。

それは、伊邪那岐神が国生みをされた、其の国々が現日本の国々と同一の名になっているから、この点のみを考察するときは、

日本の記録の様な感を、免れ得なかったのであろうと思われる。これについての論及は別の機会に譲る。


さて、高天原が宇宙其の物であることが以上の如く決定され、其の高天原であるところの宇宙の主宰神が、

天照大御神であらせられることが納得できれば、私の論旨を進める上に於いては充分である。

天照大御神はすでに高天原の主宰神たる事が決定されているのであるから、今順序として、其の御神容を伺い賜わねばならなくなった。

畏くも、天照大御神の御神體は前章にて考察するところの神産巣日より豊雲野に至迄の、始源的體體であらせられるべき故に、

體の類型であるEであらねばならぬことは自然の結果である。そして此の類型的體が最終的には、

物質的元素なるものに化して仕舞うのかどうかは、尚考量の余地があるが、この所謂始源的なるものが細胞であるところの

個體であられた事に付いては、些かの疑いもない。そして其の個體が、人間の眼識に映り得ないと言うものであることも、

また疑いの余地は無い。このような體を有される個體に、高御産巣日より国之常立に至る所謂始源的霊の宿るものが、

即ち天照大御神であらせられると拝察するのである。この様な霊體を有される神は、他にも尚多数生成することは、

古事記に見て明らかであって、ただ其の神々中の霊と體共に純粋のものが、るのが天照大御神であらせられる。


以上述べている様に、霊と體とより成れる神々を、私はこれを龍神と申し上げる。須佐之男命も、

また龍神であらせられる点に於いては天照大御神と何等相違が無いのであるが、ただ霊と體とが男女相反している。

天照大御神と須佐之男命の宇気比によって、三女神、五男が生成されたのであるが、

この八柱の神も又、龍神であらせられることは、争う余地が無い。しかしながら+と−とが結合して電子となり、

原子となり元素となり終わりに人間の五官に感覚し得る物質となる様に。

三女五男の神の龍體は、天照大御神に対し奉るときは、人體化の傾向に一歩進められたものとなれることは、推考する難くない。


此処で五男神中の天忍穂耳命は、高木神、即ち高御産巣日系の神霊と結合されて、日子番能邇々藝命がお生まれになり、

人體化の傾向は更に一段と歩みを進め、天照大御神より、豊葦原水穂国は、汝知らざらん国なりとの御詔勅を受けて、

後に天降りますに至ったのである。此の邇々藝命の御延長が申すまでもなく、我が日本の天皇陛下であらせられるが故に、

日本天皇が、世界の一君として地球上に君臨せられるべきことは、議論の余地のないことである。


古来の学者は豊葦原水穂国を極東の現日本の国土の意味とするのであるが、宇宙の主宰神であらせられる天照大御神が、

一島国に過ぎない現日本のことのみを問題にして、地球全土に対しては全く無関心であると言う如きは常識を以ってしても、

辻褄が合わないのである。豊葦原水穂国は現日本では無く、世界全体を示すものであることは、益々明らかであると言える。

日本の臣民であるなら此の一大記実を否定するものは居ない筈である。日本歴代の天皇が、治世の宝典とされるところの古事記が

虚偽の記録では断じて無い。日本臣民はおろか、世界人類の総てが、此の事実を認めない訳には行かない時機が早晩到来すべき事を、

私は信じて疑わない。


鳴呼、古事記は、宇宙創造の神の覚書である。万類発生の順序録である。天地太道の原則的規約である。

世界人類の等しく遵守しなければならぬ宝典である。この宝典中、現日本特有の記述と認められるものは、

わずかに神武天皇東征以降にある。この様に、天地宇宙の大いなる記述が、やがて日本特有の記録と変遷して行くところに

私は、量り知れぬ興趣を感じるものである。世の古事記を研鑽する諸君、願わくば軽々見過ごすなかれ。



《六》余 論


日本書紀に拠れば、天孫瓊々杵尊が御降臨に成ってより、神武天皇御東征まで、一百七十九万余歳であるという。

これを人文の歴史のたかだか、六七千年の間に比べれば、随分と悠久なる年数である。

又地質学研究の結果は、我が日本国土の随所に散見する岩石は、その成り立ちは少なくとも数億年は経過しているという。

いまこれ等の説を承認し、これより推考するときは、天地開闢の様な出来事は、幾百億年前であったのか、想像することさえ出来ぬが、

この想像も付かぬ時代に、簡単であって、無にも等しき陰陽が、今の複雑な万有と成ったのであるから、

その手順を推し量り想定してみたとしても、或いは全くの見当違いとなるかも知れない。

しかしながら、天地開闢以来の経過を研究することに由って、宇宙の意志、精神、神の意図、及び其の為に必要とされるところの

制約と言うべきものを、此の理より求め得るのならば、人類の世界に生息する意義、使命というものを会得して、

天意神則の達成に、応分の力を致し得ることとなる。それ故にこの茫漠の感のあるを免れ得ないこの研究も無駄では無いことになる。

況んや我が日本には、古事記その他の旧記があり、其の大体の見当をつけ得る様に恵まれているのであるから、これを世界に発表し、

この指導に委ねることに躊躇するべきでは無い。私も非才を顧みず、この大問題に触れた所以は、日本国民の一員として、

全くの微力ながら、その自覚し思惟するところのものを、捧げようとしているに過ぎない。

何人も知る通り、古事記は神名を列記した記録の様なものである。此の神名録が日本の宝典たるのである。

更に、日本国土の全體は、官弊社、国弊社、村社、郷社、そして各家の氏神に至るまで、殆ど神社に満たされている。

この意味も日本は神国で在らねばならない。


この神国日本に於いて不思議の感に堪えないのは、人々が神と言う言葉を口にしないことである。

そればかりか、甚だしきに至っては神を九とにするのは一種の恥とする風潮さえあるようになった。

偶神を言う者があるとして、迷信家扱いされる程である。そういう訳で。元来神に縁遠く、物質主義の本家である欧米に於いて、

近頃少しずつ、心霊とか霊魂とかいう声が大きくなって、神に接近しようとする傾向となって来た。

私が先に述べた問題から観ると、この霊魂と言うものは、距離は遠いものではあるが、しかし此の霊魂もまた神には相違ないから、

心霊とか霊魂とかを研究すれば、終には、私の説くところの神に到達し得ると思う。


霊魂研究の第一段に於いて、精神作用、心理現象、暗示催眠術と称するところのものがある。

しかし、これ等にのみに関心を向け過ぎると、心霊の本質、延いては神の問題に到達することは困難であろう。

私には、神の本源を究めずに、ただ末端の小事に煩わされている様にしか見えないのである。

宇宙万有一切は、今迄数々述べてきた通り、生物死物、有機物無機物と言ってもこれを分析還元するときは終には、

+と−とに帰着してしまう。心理作用、精神現象等と称しても、つまるところは+と−との結合の力の発現に外ならない。

この+と−との結合は、やがて漸次複雑となり、終に個體を成すところのかみとなり、延いて霊魂なるものを生じるに至るのであるが、

霊魂に対する意見は、また別に扱うとして、ここでは只単に霊魂の存在ということを肯定して置くに止める。

世の学者には今尚霊魂の存在を否定する者が在る様だが、霊魂の否定は物質までも否定することになるのであるから、

私は世の学者に、更に一段の研究を加えられる事を希望せざるを得ない。


宇宙は広大無辺にして、果てしが無く、神霊霊魂の世界は密やかにして幽玄な、人には測り知れない世界である。

故に、私がこの問題を此処で述べてみたところで、大海の粟の一粒にも当たらないだろう。

だからといって興味本位でこれを世に公にするのでは無い。ただこの問題が識者の一考を得れば、今の所はそれで足るものとしょう。(終)











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