「遠野の世界と精霊たち」幸せのしくみ



−本来、自然は危険に満ちているはず−



神様の気持ちになって考えたとき、神様ならどんな人間が好きでしょうか?

もちろん神は平等に考えるでしょうから、意味も無く人を差別することは無いでしょう。

でも、神にも感情があるとしたら、どんな人間に好感をもつでしょうか?

私は「幸福の提言」で触れた、盲学校の先輩カップルと思うのです。


人は、自分に覚えの無い出来事が起こると、他人の所為にします。

お年寄りの物忘れで、自分でしまったことを忘れて「嫁が盗んだ」と思い込む義母や。

切れやすい性格の人に多いのですが、自分の感情が爆発するのを相手の所為にしたり。

それを震災と同じに論じてはいけないかも知れませんが、テレビのインタビューで、

津波で流された街を見て「神様なんて居ない」と言っていた被災者が居ましたが、

それは違うと思うのです。人知を超えた部分に対してそう感じたのでしょう。


しかし、神様の有無と天災は関係ないのです。

天災は自然の営みの中で法則的に起きていることですから。 神様から見ると

「神様なんて居ない」と言われると、「勝手なことをいっているな」と思うでしょう。

神様は人間の都合で存在していないので、逆で、人間が神のために作られているのですからね。

人は、神に代わって、より幼い霊たちを助けるという役目を負っています(イザナミワーク)

それ故、神はいつも人間に寄り添い、人間と苦しみを分かち合っているのです。


私の母の実家は北海道の漁師の家系です。今も親類に漁師がいます。

漁師は10年に一度は海の事故に見舞われるそうです。つまり、同僚の誰かが亡くなるのです。

だから漁をする時は「次は自分かも知れない」と、いつも心の隅では覚悟があるそうです。

同じように、炭鉱の作業員もそうです。私は夕張の側に住んでいましたが、

子供の頃はまだ炭鉱があり、炭鉱も大変危険な職場なので、皆さんは覚悟して仕事をしていました。

炭鉱のおじさん達は「あれは危なかったな、今度は死ぬかもしれん」

と言いながら居酒屋で談笑していました。「死」という言葉が日常の何気ない会話に出てくる。


漁師や炭鉱労働者は、自ら危険に向かって行くのですから、震災被害とは違うものですが、

行き成り多数の人命が失われるというのは、意味としては同じことだと思います。

でも、漁で遭難して亡くなる人も、炭鉱事故で亡くなる人も「神なんて居ない」とは言わない。

危険と隣りあわせで生きているということを自覚しているからです。

震災で、壊滅した街を見たとき、大変に衝撃を受けましたが、ふと思ったのは、今お話した、

漁師さんや炭鉱夫さんのことでした。同じなのです。

街で平和に暮らしていると忘れていますが「危険」はすぐそこにあるのです。

人間は自然の中で間借りして暮らしているのです。自然の中では何時何が起こるかわからない、

それは極当たり前のことなのです。


人間の営みは、本来は危険に満ちているものなのです。安全な生など何処にも無い。

それを冷静に受け止めて、覚悟して生きること。スピリチュアルの側面では特に求められています。




−パワースポットの担い手は精霊たち−


パワースポットがブームになり、安易に聖域を荒らす人間が増えましたが、

「行けば取り合えず何かご利益がある」と思っているのでしょうか?

自然はそんな簡単なものではないのです。自然は、人間の慰安のためにあるのではありません。

貴方が聖域の精霊だったら、やってきた人間をすべて歓迎できるでしょうか?

パワーを与えるに相応しい人間と、来て欲しくない人間があるはずです。

ところで、パワースポットから何故パワーをもらえるかご存知ですか?

波動とか、気と言いますが、その荷い手は精霊なのです。

その場所で「気を感じる」という表現をしますが、その陰では精霊が活動しているのです。

一精霊一ご利益というか、精霊が人間に憑くことでパワーとなるのです。

自然界の生命の欠片が、長い時間を掛けて個性を持ち、精霊となります。

自然に宿るツクモ神のようなものだと思ってください。精霊達は、無邪気で繊細な性格です。

精霊は自然界のいたるところに棲んでいますが、パワースパットといわれるところには

たくさん居ます。だいたいそんな所は、精細で美しい場所です。

人間は、綺麗な風景に感動しますが、それは、ただ単に景色の良し悪しの問題ではなく、

精霊の存在を人間の魂が受け取るからこそ「ここは綺麗、すがすがしい」と感じるのです。

精霊達が「ここに居るよ、楽しいよ」という波動を人間に発し、

それをそのまま人間が受け止めているから「パワーをもらった」と感じます。

ほとんどの人間は、オーラや気の変動としか感じていないようですが、

精霊が動いて初めて「気」が分かるのです。精霊達は、人間から見ると霊としては

未熟で幼い霊ですが、神の端くれであることには間違いありません。

そして、精霊達の純粋な波動は、楽々と神に通じてしまうのです。




−生きることの覚悟 遠野、再び−


3・11で被災したお年寄りが

「この世の地獄を味わった。自分の寿命は長くないが生き残ったから生きていくしかない」

と語った。この老人は、テレビの前で話すことで、生きることの覚悟をしたかも知れない。

福島原発の放射線被害で、避難せずに家族と残っている母親が、

「福島に残るも地獄、避難して出るのも地獄」と言っていた。

それは、福島に居ても、福島から出ても全く見通しが立たず、絶望と不安の中で

それぞれの道を選択しなければならないという、生きることの覚悟の言葉です。


震災という極限の体験でなくても、人生の中で生きる覚悟をする場面は幾つかあります。

例えば、出産の時は、子供を産み育てていくという覚悟。

癌等の大きな病気をして、その治療やリハビリに向かうときの覚悟。

母親が子供を連れて離婚するとき、など。

人生を掛けて取り組む生きるための覚悟は、普通の暮らしの中にも在るのです。

『生きるための覚悟』は、霊性を豊かにするためにはとても大切な心的状態です。

震災によって、多くの皆さんの魂がそのときを迎えようとしているのかも知れません。

何事も無い、のんびりできる日常が平和が、正しい社会であると勘違いしている人が居ますが、

リスクの無いものはありません。だから保険に入ります。

震災でなくても、事故や大病を経験した人は分かるでしょう。一日一日が大切だということ。


ところで、ここ6年くらい、毎年東北へ行っていました。主に青森県内の神社めぐりですが。

恐山も年に何度も行っていて、あそこもお稲荷さんが奉られています。

東北の海岸線の道路の側には、小さいお社が点在していて、お稲荷さんと八大竜王が多いです。

国道を走っていて見え隠れする赤い鳥居は良い風情でした。

車を止めて境内に入ると、小さな精霊くんが木陰からこちらを覗いていました。

そのお社たちは、津波で流されているのでしょうね。山の上の神社は大丈夫でしょうが。

テレビを見ていると、土台さえも残さず、跡形も無くなった神社が出ていることがありますが、

気になるのは、その神霊さんたちです。みんなどうしているのでしょうか。

被災した人間、福島の原発避難区域に取り残された動物達、命ある者はみんな心配です。

そして同じくらいに、被災地域の精霊たちの動向が気がかりでした。

すると、ウチのお稲荷さんの高橋くんが、

「上の神様は避難しているけど、精霊たちは人間のところに居るよ。
 
 ボランティアさんたちと一緒だよ」と、稲荷は得意げに語ります。

「天の神様は現場の仕事はしないけど、精霊は里の住人、人間と一緒だよ。

 ボランティアの人たちにくっついて全国から集まっているよ」なるほど。。。

精霊は軽い性格なので、厳しい場所には居ないと思っていましたが、被災地に留まっているのです。

人間を支援しているのでしょうか?


私は、3.11の津波が襲い社殿が無くなった地域は、しばらく神は居ないのでは、

と考えていました。というのは、以前、阪神淡路大震災があったときのことです。

当時は成田に住んでいましたが、近所の神社内に神戸の生田神社と同じ祭神の、

稚日女尊を奉る神社がありました。 成田のこの神社は全国のワカヒメ様が集まる聖地で、

神戸のワカヒメさまも降りていました。 近くの好で、何かとお参りに行っていましたが、

境内に入ると、いつもこの女神様たちがニコニコして出迎えてくれました。

それが、ある日突然、ワカヒメ様たちの気配が無くなったのです。

姫神たちだけでなく、境内の精霊さんも静かになりました。

神社の神霊を感じなくなることはたまにあります。 社家や氏子に不幸があるときや、

神社の隣の敷地にビルが立つとか、台風がやってくるときなど。

でも、たいていは二、三日で戻ってきます。神社に誰も居なくなることは無いはずなので。

しかし、その時は一ヶ月経っても二ヶ月経っても神霊の気配はありませんでした。

境内全体が喪に入ったようでした。「何か重大なことが起こるのかな」

と心配していた矢先、阪神淡路大震災が起きました。私は、

「ワカヒメは震災で霊威が傷ついたのかも知れない、そのため身を隠したのかのだろう」

と考えていました。 ですから、3.11でも、被災地の神様はしばらく居なくなるのではないか、

と予想していました。


稲荷は「ボランティアと一緒に全国から精霊さんが集まっている」と言っていますが、

どんなことなのでしょう。 そこで霊的な観点から、3.11とボランティアについて調べましたが、

興味深いことが分かりました。 それは「遠野」です。


柳田国夫「遠野物語」は有名ですが、最近NHKの新日本風土記で遠野をやっていました。

「遠野物語」の精霊の世界は今でもひっそりと残っているようです。

今はすっかり有名になり観光客が殺到する中、集落のお年寄りが

屋敷神や座敷童子の伝承を守り伝えています。 実は遠野地域だけでなく、

東北全域に、まだ精霊が住んでいます。 明治の初めまでは、日本全体が精霊の国でした。

精霊の国、というとのどかなパラダイスの感じがしますが、先のも述べましたが、

「覚悟をして生きる」所に精霊が棲みます。 東北に精霊が残っているのは、

自然が厳しい地域だったからです。


「遠野物語」に出てくる河童は赤い顔をですが、

それは口減らしのために川に捨てた赤ん坊の象徴だそうで、座敷童子も、

闇に葬られた子供を表立っては供養できないので、座敷童子という妖怪に見立てて

お奉りしたのが起源らしいのです。「遠野物語」のファンタジーの世界は

生と死が隣り合わせに生きていた東北の人たちの、苦悩の物語でもあるのです。

江戸時代の頃は、二、三年起きに飢饉があり、苦しい生活が続いています。

そのギリギリの暮らしの中での神霊との交流だったわけです。


天の神(天照に代表される天津神)は、人間の苦しみの現場に直接降りることは出来ません。

それは、穢れがあるからです。通常でも神に会うには潔斎が必要ですよね。

神社のお参りは、直接祭神が出てくることは殆どありません。

眷属の神霊が人間の用件を神界に取り次ぐのです。災害の現場や、飢饉などで

たくさんの人間の苦しみの想念が渦巻く場所には、神は降りないのです。


では、神様は何もしてくれないのでしょうか? そう、現象的には何も出来ないのです。

(西洋では、キリストが天使と聖霊を引き連れて現世に降りますね)

結局のところは、人間は自力で立ち上がるしかないのですが、しかし、

神霊は人間に「元気」や「勇気」「喜び」は与えてくれますね、その荷い手が精霊たちなのです。

神が人間に与えるこれらの力は「愛」と言われています。

精霊たちはその神の「愛」を人間に運ぶ手伝いをしています。野の花が咲く草原に立つと

「気持ち良い」「癒される」と感じるでしょう、それは野の精霊が貴方の魂に

土地の神の霊力を分けているからなのです。 精霊の力を受け取らなければ、

ただ単に綺麗な場所だったな、で通り過ぎてしまいます。


このように、精霊は神の愛の力を人間に伝える役割を持っているのです。


神は、人間を取り巻く環境の至る所に精霊を配置していますが、しかし、東北は

3.11の津波で沿岸部は流されてしまい、精霊が宿るための自然や場所がなくなりました。

精霊は機械を嫌うので、復興の工事中は戻らないでしょう。

(神社の精霊たちは車のエンジンや発電機の音、電気の配線が苦手のようです)

それではしばらく被災地には精霊は戻らないのでしょうか?

先にお話しましたが、高橋くんが言うには、全国の精霊たちがボランティアの人間に憑いて

被災地に入っているというのです。ボランティアの人たちが、被災者と交流することで、

全国の精霊の力を東北に与えているらしいのです。


そこで、遠野が出てくるのです。被災地を支援するにはその中心となる拠点が必要ですが、

それは自治体の社会福祉協議会が担うのですが、3.11では、市役所や役場も壊滅してしまい、

機能できなかったのですが、隣の地区の遠野は全く被害が無く

東北のボランティア活動の拠点となっています。震災から一年ほど経ち、被災者に寄り添うという

活動の在り方が求められていますが、遠野に相応しい役割であると感じました。

遠野は柳田国夫により、精霊の里として世に知らしめられましたが、

そして今、震災によりその霊的使命がより一層明確になったのです。


東北の神々は、古くからの日本の国津神です。妖怪の姿をしている神もあります。

それは、何にも飾らない自然体の精霊の姿です。

国津神は、太古に生まれた精霊が神界で成長して神の域に達した神霊です。

その神霊を起源とする精霊たちと共に生活する日本人は幸せであるはずです。

では、どのようにすると精霊たちと暮らせるのでしょうか?


それは、貴方が精霊たちの魂の里になるということです。


つづく






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