・霊の立場で考える

一般的には、
命題、「私はLという霊が見える」は間違えだが、「私はLという霊を見た気がする」は正しい。ではここに綴られる霊信らしきものは何なのか、
「〜と霊が言った感じがする」と文末に付け足せば正しくなるそうである。


彼女(当サイトの管理者)にとって私(L霊)という表現形式、これは一つの像であるが、私の像そのものと、その意味は一致していないのである。
彼女の心の中では、私という表現形式を構成する要素の一つ一つはある家族的類似性を持って、これがLであると、
一まとめにされているだけで、生身の私では無いのだ。であるから彼女は私を私としては現すことは出来ないはずである。
彼女には私が私本人であると言う意味を与える何物かが欠けている。

と言うのがウィトゲンシュタイン哲学の主張である。つまりこの様な意味に於いて、霊の存在を問うことは哲学上無意味であると言っている。
そして、それでもなお私は「自分は有るのだ」と主張するのである。如何にしてそれが可能なのか。
核心とするところは、霊の存在を問うことよりも、それを展望し、使用する事なのである。私を展望し、
使用することが出来るなら、私は新しい世界で有り続ける事が出来る。ウィトゲンシュタインはその可能性を否定しているのだが。

彼女に欠けている何物かを、ウィトゲンシュタインは物理的対象に近いものと思っていたのだ。彼が発見した家族的類似性は、
物事の物質的側面の限界を見極めた結果、発見したものなのだ。しかし彼はそこから離れることをしなかった、あくまでも物質の側から神を見ようとしたのだ。
つまり、神と自分との間に家族的類似性と言う断絶したものを感じていたのである。だから語り得ぬもの(*神のこと)を知りながら展望できなかったのである。

要するに頭を切替えよう、霊の立場から物事を考え直してみようと言いたいのである(他界しろ、と言っているのでは無い)
では物事の物質的側面に縛られている私たちは、どの様にしたらそこから抜け出せるのか。語り得ぬものの側から世界を展望するとはどのようなことなのか。
それは自分自身に問うことである。人間が自分自身を展望し使用することなのである。物理的対象としての人間に捕らわれてはいけない、
私たちが自己と思っているものと霊は同じものなのである。これに気が付くなら、より純粋な言語ゲームの世界、類魂の世界が見えてくるのである。


彼女が言うには、「もし自分がその器なら、神は必ず答えてくれる」そうである。


ピア・スピリチュアル