類魂的知覚論とアフォーダンス

今まで自然科学が対象にしていたものは記述出来る概念であった。環境には概念とは異なるある種の情報が含まれている。

人がその非概念的情報によって行為しているのなら、人は概念論の枠の中では語ることの出来ない「器」である事を意味している。

其処に心霊科学の可能性が在る。そして哲学や科学のどの学説でも根本的に問題となるのは、人の知覚と行為をどう捉えて行くかである。

そこで誤ると学問としては成り立たなくなる。
 自覚できるから知覚と言えるが、意識を失う霊媒の場合は別の言葉を用いるべきである。

つまり類魂論の構想を進めると類魂的知覚を考える必要がある事が分かる。


そして類魂による知覚は摂動(*カタストロフィー理論との関連?)では無い。類魂は“魂”とは書くが個ではない。類魂全体で一つの生命なので有る。

前世で述べた様に、ある一つの類魂だけを独立して取り出す事は出来無い。ある一つの類魂に注意を向けると、その類魂に続いて累々と宇宙の奥まで、

その類魂に関連する類魂が連なる。そして人が行為するのは、その次々と連なる類魂の表出なのである。つまりある行為が次に成すべき行為を促す。

行為と行為の間に途切れは無い。この意味の行為が途切れるという事は、そこで人類あるいは世界が無くなってしまう事を意味するが、それは有り得ない。


君達の言う滅亡や破滅は概念である。本来の意味の滅亡は類魂の言語ゲームの中でしか語る事は出来ないはずである。

しかし、類魂の世界には「死」や「滅亡」に対応する事態は無い。些か神学的ではあるがそれは既に述べている。


此処で君達は「人の運命と知覚を同じにするな」と言うかも知れないが、その批判はおかしい。

運命が有るとすれば、それは概念であろうし、そしてそれは自覚する「私」が語るものであるからだ。

しかし自覚する「私」の語りが可能であるのは、器としての「私」が類魂的知覚を眺めているからに他ならない。


生物本来の情報の構造、類魂は次の類魂に連なる。その類魂の連なりの中で、概念は概念を生み、行為は次の行為を促す。

即ち心霊科学の扱う知覚は、計算した結果の知覚では無く、行為に因り真に導く知覚なのである。それをギブソンはアフォーダンスの知覚と呼んだ。



*今までの常識的な知覚と制御の考え方を簡単に纏めてみます。人が行動する時はその行動のモデルがイメージ化されて大脳の中に在って、

そのイメージと大脳基底核や小脳の運動の中枢とが連合して運動の制御になる。そしてそれが何時も遣っている行動だと、

一々イメージして考え無くてもこれ等の下位の中枢に行動の回路が出来ているので無意識に行動できる。だから他の事を考えながら歩くことができる。

この様に、あくまでも脳に行為の主体があるとするのが今までの常識だったのです。


しかし実際に人の知覚と行動を観察すると脳中心主義では解決できない問題が出て来た。それをベルシュタイン問題と言う。

〈知覚→イメージ→制御〉を一つの単位として、それを一つ一つ記述しょうとする。つまり人の行動全てを再現しょうとすると、制御の為の情報が膨大に成ってしまう事。

そして“意味”の問題。同一の中枢からの同一の効果器への同じ指令でも、その時の身体の姿勢によって制御の結果が違ってくる。

手の指を曲げ伸ばしする場合、人に向かってそうすると何かの合図になる。腕が背中に在る時は背中を掻いている訳です。

アフォーダンスは脳だけが人の行動を制御するのでは無く、環境にも主体性を認めて、環境が人の行動を制御するという考え方。

言語ゲームでは人は世界像に動かされている騎なのです。知覚と行動に当て填めると、ウィトゲンシュタインの言う世界像とは、アフォーダンスでの環境となるようです。

私たちが受ける知覚情報そのものが私たちの行動を制御すると考えるのです。つまり知覚−中枢−行動という、閉じた系では無く、環境に対し開いた系を考えるのです。

でも人を取り巻く知覚情報の全てがアフォーダンスでは無いので、人は何度も試行錯誤して環境の中からアフォーダンスを見つけるのです*






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