審神人

人は因縁に従うのではなく、神と共に歩むのである。
人は因縁を受けるのではなく、神が行為を与えるのである。
すなわち人は因縁によって生まれるのではなく、神によって生かされるのである。

検証することが審神者であるなら、この文章を読む君達が私の主張する心霊科学を審神者することを望む。

(私はサニワは、した事もされた事も無いのでわかりません。霊と対話する中でその霊の境遇を洞察し、状況を良い方向へ持って行くということでしょうか。
でも対話する前にどんな霊か分かるし、霊の方もこの人間には分かる見たい、というので、大抵は「あっち行け」て終わってしまう。
手強そうなのは背後霊が何処かへ連れて行ってしまうので、私自身は直接霊と対峙することは無いのです。ですからサニワに付いては何も言えないです。
L君はサニワとは、霊の真偽を判定する事だけでは無いと言っている、そうかそれが心霊科学的懐疑なのかしら
)

そう、私がこれまで述べてきた概念を否定する姿勢は全て、その心霊科学的懐疑だったのである。
これなら心霊の問題だけではなく、人種問題や社会的弱者への差別なども心霊科学的懐疑の対象となる。また私たちの日常生活の諸々の場面で使える。
例えば一般的なもの、子供
の教育問題や金銭、対人関係や人生上の問題等も心霊科学的懐疑をして道を探せば良い。
今までは社会通念として直接に宗教を批判する事は禁じられていた。しかし、器の「私」の見地、
つまり心霊科学的懐疑によって、宗教もそれに依存する信仰もその内容の多くが概念である事が判るのである。
神は尊く高貴であるが、人間の信仰態度はそうとは限らないと言う
事なのである。器の「私」から観ると、宗教も科学や哲学と同様の体系なのである。

私の主張する審神者は霊が憑かるときだけではなく、私たちの暮らしの中で、何時でも使える審神者なのである。
そうでなければ審神者は一部のエリート霊能者だけの言葉に終わってしまう。これが科学であるなら誰もが審神者に成れなければ意味は無い。
心霊を探究するのに
垣根を作りたくはない、その為の心霊科学なのである。
審神者の必要な者とは結局のところ救いが欲しいのである。とすれば、心霊科学的懐疑が審神者であるなら心霊科学の本質は救済であると考える。

ここまで述べてきた「霊」「私」「因縁」等は多分に概念的であったので分析哲学的態度の余地は有った。しかし「救い」はとても及ば無い。
何故なら、私こそがその審神者を必要とする者だからなのである。救われる側の者が救う側を論じる事は出来ない。それ故哲学者は深淵を語ることは出来ないのである。




ピア・スピリチュアル