釈迦の悟り解説

釈迦の悟り解説

<これは平成11年6月頃にあった、仏陀を名乗る霊からの霊界通信ですが、
当時は、大川氏の霊界通信などもあり、バッシングを避けたかったので、
公開はしませんでした。哲学はわからないので、真偽のほども不明です。
ウィトゲンシュタインの霊界通信の過程で出てきたものです。
霊界通信はダイレクトにくるのではなく、発信する霊と台の間に中継ぎの霊が存在します。
そのため、情報に誤差が生まれるようです>



 先ず、インド的世界の業、因縁思想と小山類魂論の業や、因縁の相違点ですね。
つまり同じ言葉を使っていて、意味も類似していますが、
それぞれの背景となっている世界が全く違っているのです。
同じ言葉を用いていても、その意味を成す背景の違いは、それを無視したまま行を進めると、
結果に重大な過ちを生じるのです。

 一つの解決策として、認知論的に考えて見るのはどうでしょう。
認知は人の思考活動や生物の行動を、知的機能を持つシステムとして考えていこうと言うのです。
そしてこのシステムを、認知主体といいます。ですから認知主体とは人や、動物、
コンピューターを指すのです。そして、私の認知主体は自我であります。

 そこで悟りの過程を洞察しましょう。

自分は「我は有る。では我とは如何に」を常に思考しておりました。
それは、現代ではオッカムの剃刀というそうですが、自分もそのように心得ていました。

過程1.人は互いに他者の我を知ることは出来ない。
    逆に言うと我は、他の我と区別されることに因って我となる。
    であるなら他の我と我はどう区別するのか。それが因縁なのです。
    因果の結び方で個々の我が区別されるのではないのかと思ったのです。

過程2.単純に考えて目覚めている時が「我」である。
    眠っている時は、我は自覚しないのであるから。
    それの意味する所は、目覚めている我の中で正に
    「世界が起きている」ということである。
    人は今自分が眼ざめているこの瞬間に体験する世界しか、知り得無いのです。

過程3.インド独特の世界観では、世界の全てのものは輪廻転生するのです。
    過程1と2によって、因縁が個々の我を区別し、
    そしてその我の中に世界が有るのです。
    だから輪廻転生もその我が舞台となる筈です。

 更に、インドでは生まれ変わりは日本の罪汚れのように悪とされておりました。
この世に生まれるのは本質的には悪なのだと信じられたのです。
ですから単純に、自我を悪の舞台としないこと、輪廻を必要としない境地を求めました。

このような思考過程でもって、諸法無我、一切皆無の結論にいたります。
しかし他界後、多くの先達に教授され、同時に、自分の後進の様子を観察し、
生前の自分の思考が不足していたことに気がつきました。
自分は、物質を注視しすぎていたようです。世界の一部しか見ていなかったのです。
ニュートンの格言と同様に、私の目の前には真理の大海が、依然として無限に広がっているのです。
宇宙は、霊の世界です。霊は、簡単にいうと多次元立方体のような構造をしています。
その全体は類魂と呼ばれています。つまり、構造的に考えて、魂には奥行きがあるのですが、
自分はその奥行きを思考できなかったのです。自我と魂を一元的に捕らえていました。

第一は、始めの出発点である認知主体を自我にしたことです。
 類魂の場合は、認知主体は何なのでしょう。
 自我だけでは無いでしょうが、システムを考えると、
 類魂の長である主霊(守護霊)だけに全権がある訳ではないようにも思います。

第二にインド哲学の欠点で、業を持つのは悪だと決めつけるところです。
 自分はそれをそのまま踏襲しました。類魂論では業を持つのは悪ではなく、
 むしろ肯定しています。もっと向上するために業を持たされるのです。
 この違いは何故なのでしょうか?
 始めに述べましたが、古代インドの世界観と、
 実際の霊の世界は本質的に違っているのです。


 インドでは業を持つのは悪ですが、類魂の世界では救済の為だと思います。
ですから生き物の、この現世の生に対する認識が対照的なのです。

 過程1と2は今の哲学では独我論と呼ばれています。
独我は、この世界には自分だけしか存在していない。なぜなら他人の心を直接知ることは出来ないから、
というものですが、これはそのまま事実なので、何処か常識的にはおかしいけど、
論理的に否定できなかったのです。

 しかし、ウィトゲンシュタインは言語ゲームの立場で否定しました。
だが現界のプロの研究家はこの二人は反対ではなく同じ境地だったのではないか、と本に書いてあり、
そのために高橋は、この通信が理解できないと言います。

 心霊研究では、仏教の言葉が使われていますが、本質的には仏教のそれとは異なる。
それではその本質は何かというと、有機体なのです。生物は生きるために行動します。
当たり前ですが。インドではその当たり前のことが悪だったので無になろうとしたのです。
そこから離れようとしたのです。(特に私は性文化が苦手でした、今は否定はしていませんが)
生き物はストレスが加えられても直ぐに普通の状態に戻して生きていこうとします。
それは恐らく類魂の救済のシステムが生き物の身体に反映しているからだと思います。
類魂は少しずつ物霊を取り込んで成長しますが、生物が、環境から種々の情報を受容して
生きて行くのとイメージが重なります。この考え方をホロンというそうですが、
まだ勉強しておりません。




   ピア・スピ



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