因縁と志向性

因縁はそもそも何なのか、霊が自殺の因縁を持っていると自殺霊と呼ばれる。つまり過去の行為が或る形でそこに実在する事を意味している。そしてそれは既に完結した行為ではなく、これから表出しょうとする志向性でもある。何らかの志向性を与えるのなら、それはだだ単に記憶と言うよりも行為を制御する情報なのです。先生の背後の先生方は記憶を明らかに、完結した過去の出来事としてでは無く、制御の情報としての記憶を考えている。コンピューターでいえば、自殺ソフトな訳。ソフトは記憶と制御の情報(志向性)を兼ね備えている。そしてそのソフトを構成するプログラム言語の一つ一つが物霊と考えられるのかも知れない。自殺霊が居て、その人が自殺すると、その人が自殺ソフトを受け継ぎ自殺霊になる。それを転化というならどうして人間はそんな行為をしてしまうのだろうか。釈迦のように無になっていてはいけないのだろうか。これは此処までにしておきましょう。まだ私も結論が出ていないので。

これは何を遣るのかと言いますと、物霊の言語分析なのですって。とにかく良く分からないものは分析して正体を確かめるのだそうです。人間が自分自身を心霊科学的に分析していくと最後にのこるのは器の「私」なのです。器は身体だから物質で出来ている。それが類魂の中で使用されるから器となる。つまり器は物霊てもあるはずです。であるなら小山類魂論の物霊の論理的形態と器の「私」が同じであれば、物霊と器を同義としてもよいのではないのか。科学はそういうやり方をして幾つかの考え方を統一していきます。その過程で緻密な分析をするのですが、私はいま一つ良く分からない。L君の本を参考にしていますが、余りにも専門的なので私の手にあまっています。いつも最後は「君が判断しなさい」になってしまう。日本人の霊はおおよその事は分かるのでどんな本を調べると良いかや、考えの方向は教えてくれますが、細かい事柄は分からないのです。一つの文章が出来た時に、これはこれでよいのかになると、日本人チームははっきり断言出来ない。それでL君はというと日本語がまるっきり駄目。それで結局想念を受け取る私の判断ということになる。だから本で調べるしかない訳です。同じ言葉でも心理学、物理学、哲学等の各分野で考え方が少しずつ違っているので、私なりに出来る範囲で二重三重のチェックをします。それでも心霊は全く未知のものなのでどうにもならないのです。現界の学問がまだそこまで行っていないのです。だからやはり私の判断になってしまう。
小山先生の類魂は全体的で解剖学的傾向が強いと思います。だから物霊がよく分かるのです。物霊は類魂の隅々まで形を換えて浸透しているので、類魂を外から眺めないと観察できないのです。L君の言語分析は類魂と類魂の関係を詳しく調べた上で、類魂の仕組みを解明しょうとするものです。ですから人間の眼の前に在る現象から入っていきます。どうしても人間中心になるのです。しかし科学の観点に立つと、これが科学であるならこの類魂論がどんな人にも利用できるものにしなければならないのです。その為には哲学的論理学的基礎を固めて置かないと駄目なのです。一端基礎が固まれば、先に進むときに迷わずに済むのです。その基礎から離れなければ良いのですから。つまり特に霊に聞かなくても人間が自力で判断して類魂の立場に立てる様になるということです。私の霊たちが目指しているのは、霊能のない人でも、自分の意思で判断して類魂的生き方が出来るようにしたいと言うことなのです。私は先生が御存命の間に道を示したいのです。先生が他界されると後には只の文字しか残りません。文字に小山先生が居るわけでは有りませんから。これはL君の好きな言葉なのです。その文章の中にそれを書いた人が生きて住んでいるのではないから、いくら文献を研究しても本当の姿を知ることは出来ない。所詮はただの印刷物に過ぎないからそれに捕らわれてはいけないというのです。生身の人間が良いのです。



ピア・スピリチュアル