「心霊研究」

1998年4,5月号掲載

 

 

          類魂論の考察

 

【1】類魂論のモデル化

 

       *始めに*

 この文章は心霊現象を科学的に探究してみたいというひとつの野望の現れであります。1960年にフランスのルネ・トムという数学者がカタストロフィ−理論を創始しました。これは主に、社会現象の科学的説明に用いられている理論ですが、私は心霊の仕組みをこの理論によってモデル化してみょうと考えたのです。今のところ私達は心霊現象を定量化し、科学的デ−タを求めるということは出来ませんがしかし、心霊に対し何らかの定性的に不変なものを見出すことができるのです。それが1980年以降に小山順司氏が「心霊研究」に発表された『類魂』です。

一般に科学と言うと定量化出来なければなりません 1.4 とか、40  とか実数で値が示されることです。それに対し定性的不変量というものがあります。これは数の順序構造のことで、AはBより大きい、イはロより右にある、等の様に、実数で示されていなくても物事の違いがはっきり区別出来ることです。(しかしながら、最終的には実数値によるデ−タが必要となってくるのですが、今は、それは叶わないので小山氏の類魂論を一般化します) 私の観たところでは、小山氏の『類魂』がこのカタストロフィ−理論に、驚く程、合致するのであります。言い訳になりますが、私は大学を出ておりません。ですから論文と言うものを書いた事も有りませんので、どの様に進めると良いのかまったく判らない状況です。只、素直に『類魂』とカタストロフィ−理論を心の中で一つにし、そして、心霊学の守護神、八意思兼神に祈りつつ進めて行こうと思います。

 まずモデル化の始めとして、問題になっている現象とは何かです。心霊科学というけれど、心霊現象とは如何なるものか定義出来るでしょうか、“霊によって起こる現象”という答えでは科学になりません。きちんと検証された仮定が必要です。心霊現象と一般現象の違いがはっきりし無いことが、霊魂の存在が証明出来ない理由の一つであると思います。小山氏の類魂論を、以後『類魂』ということにします。『類魂』を一読して判ることは、類魂と言うものの活動の舞台が人間であるということです。人間という現象は類魂によって成る、そして人間は神という高級霊と鉱物に宿る物霊との接点であると述べられています。つまり人間がここで問題となるべき現象であるといえます。そこで、人間という現象を『類魂』に基づいて“数”にしてみました。順序構造を考える訳です。地球大霊が起こす現象は天地創造でしょうが、人間が起こす現象は身体を使い行動することです。この行動の尺度を本文では、全機性と言っています。小山先生が好くお話なさっていらっしゃる奉仕のことです。この奉仕の行動を*全機性の手掛かり*のところで、数直線にしまます。とにかく、物事に順番を付けて数にしてしまうということが、科学の事始めの様です。そしてその行動は縦の類魂と横の類魂によって変化して行きます。本文では縦の類魂からの業を選択性と言っていますが、これは単なる業と言う意味では無くて、より肯定的な意味を持たされた仕組み(機能)としての業で、ただ消す為だけのものでは無いと言う事のようです。

 

     *自己の役割と類魂*

 自己の現れというものは、金が欲しいとか、人より頭が良く成りたいとか、もっと良い運が欲しいといった欲望を実現化することが目的ではありません。真の自己といえる心霊現象としての自己は、自己の本霊である御親ノ神の御心をこの現界に現すことであると考えられます。それが自己の現界に於ける重要な役割なのです。地球大霊の最大の目的は、この世界の全ての霊的存在を浄化するということで、人はその役割の一部を担っているのです。それはどの様なことかというと、前生や先祖の徳や業によって現れている今の自分の才能や知恵、財力、地位等といったものを世の中の為に役立てることです。つまり欲の結果として現れている自己の実体化したものを今度は、他者の為に現そうとすることなのです。ここでは、自分であると思っている現れを自我ということにして、それに対し自我に関わる類魂全体を自己と言うことにします。従って広義では他人は存在しないのです、他者であると認識した時はすでに自己に組み入れられています。

 

 『類魂』によれば、自己というものは多数の類魂が集まって出来ていてその類魂は、縦の類魂と横の類魂に分類されて縦の類魂は自分の霊魂の系統で、自分→前生としての守護霊→その前の守護霊──魂の親神へと連なります。横の類魂は家族、友人、社会、世界、といった自分を中心に身体を介して関わる類魂のことです。

 では、縦と横の類魂は自己の中でどの様に働き合っているのでしょうか。霊界にある霊があって、この霊格が上がろうとする時に、その重い部分、浄化してい無い部分が分かれて人として生まれ、浄化している部分はより神に近づき、現界に生まれた人間に対して守護霊となります。神は霊的存在を浄化しようとするときに、神に帰る部分と、浄化出来て無い部分に分けて、浄化してい無い部分を現象として現して消して行くのです。物質現象としての人間は守護霊にとっては消えるべき物なのです。自己というものは、人として生まれる前にこの様な、縦の類魂からの未浄化の部分を受け継いでいるのです。そして、横の類魂が自己の中に入って来ると、その横の類魂の持つ業に応じて縦の類魂の業が働き、家族やグル−プ、社会での人間関係あるいは病気等を現象として現し、業を消して行こうとします。縦の類魂が神によって嫁せられた業を消して行く為に自己の中に他者と関わる事によって、横の類魂の持つ業を入れて自我として現しているのです。

 私は浄化という意味について、それは神(守護霊)へ統一されること、帰って行くことであると考えています。浄化と言う言葉は、綺麗に対して汚い、悪いというイメ−ジがあるのであまり使いたく有りません。統一という方が、馴染みがあります。この未浄化で汚いものを業と呼ぶらしいですが、それは確かに、神へ統一しょうとするときに障害になるのですが、『類魂』の概念を広げて行くと、それは悪いもの、重いもの、という意味は無く、類魂と言う生命体の営みの中での新陳代謝の産物として生じたものであって、自然の姿であると思われるのです。

 神の目的は諸霊を自らに統一し、浄化することでありますが、それは自己を拡大することに他なりません。自己は生まれる時、前生からの業と、現界に成って直ぐに深く関わることになる横の類魂である両親からの業を背負うことになるのですが、もっと自己を大きくするということは、他の人々との交流によってその他者であった人の類魂をも我、自己として浄化することです。それはどの様なことかというと、愛であっても、憎しみであっても自己の関心が他者へ向けられることです。横の類魂が小さい場合というのは心の中に自分しか居ない状態であり、横の類魂が大きくなっていくと自分の関心が自分のことだけで無く、家族、友人、社会、と言う様に拡大してゆきます。自分の心の中に他者を置くこと、それが横の類魂を増やすことです。そして自己に入って来た人々に対してどの様な行動を採るかということが重要であり、その行動こそが、浄化の為のものでなければなないのです。自己は前生の現れであるから、自己に組み入れられた他者に対して、守護霊=自己が同行二人となって働きかけるのです。

 

   *類魂の全機性*

私の手元にある生理学の本によると、

 「個体が多くの器官から成り立つ統一体として自己を維持する機能は、その全体と部分の関係に於いて理解される。全体は単に部分の寄せ集めでは無く部分によって規制され、部分もまた全体によって規制されるという相互関係がある。機能面から考えてこの全体性を全機性と呼ぶ。」

 

私は類魂全体が一つの生命であると理解してこの全機性という機能が、類魂論に於いても当てはまると考えています。自己が有ってその中に前生からの良い心、悪い心つまり、業が投影され、その投影された心が横の類魂へ働きかけて行く。この良い心、悪い心は相対的なもので自己と横の類魂にとってより良い行動を考えるなら、善悪で考えるよりも、自分も他者も共に生かし合える行動、共に浄化し合える知恵ある行動が相応しいと考えられます。この共に生かし合える行動のことを、類魂に於ける全機性ということにしましょう。当然この全機性が大きいことは守護霊からのコントロ−ルが円滑と言えるし、逆に小さいことは低級霊の影響が強くなっていると考えられます。これは自己内での守護霊からのコントロ−ル機能にストレスが生じていて、それを業ということにしていますが、業は自己に於ける全機性ある行動を妨げてしまうのです。私達は自己を拡大する為に横の類魂としての他者を組み入れるが、その他者も独自の業を持っていて、他者との関わりが多くなればなる程、自己の中に入って来る業も大きくなりその業が大きくなり過ぎて扱い切れ無くなるとそれに対し自動的に縦の類魂からの業が現れて来て、横の類魂の中からある一定の範囲の一貫した業だけを選択して、その他の業は扱わなくなる。その働きを選択性ということにします(執着ともいう)。そして自己は速やかにこの一塊の業の部分集合が全部であると思い込んで行動してしまう。この様な選択による部分的業情報から成される行動は正しいものではありません。

 

 ・業情報・

  情報とは一定の選択の可能性が与えられているときにその選択を決定させるものつまり選択肢のことです。

まさに、自己にとって業は選択肢である、そこで業情報ということにしました。

 ・業は増殖する・

  私は、業は細胞分裂の様に増えると考えています。たくさん在る横の類魂の内、同じ業を持つ者だけがどんどん集まる状態で「類は類を呼ぶ」ということ。その結果縦の類魂も同じ業しか現れないことになります。それはより上位の守護霊からのコントロ−ルを障害(ストレス)してしまうと考えられます。これが、業が守護霊の加護を妨げる理由と言えます。

 

ここで今まで述べてきた事をまとめると、

一.自己は前生(守護霊)が消し切れ無かった業を現す場です。それは自己を拡大すること、即ち、横の類魂を自己内に組み入れることによって成される。

二.守護霊の自己に於けるコントロ−ルが円滑な時は横の類魂に対して常に全機性ある行動を保ことが出来る。

三.守護霊と自己との間にストレスが生じたとき選択性が発動し、全機性ある行動が取れなくなる。そのストレスは同じ業が増大し過ぎる為に生じる。

 

   *全機性の手掛かり*

私達は普段、守護霊や高級霊を認識することは出来ないしどの様にしてこれ等の霊達が私達に関わっているかと言うことも知らずに暮らしています。しかしこうして生きているということは間違い無く守護霊からのコントロ−ル(加護)を受けているからなのです。また、私達は守護霊を知ることは出来なくても、恐らくこれが守護霊からの高級な心なのだと考えて自分の意志というもので実行する事が出来ます。つまり一々これが守護霊さんの心なのだと確認しなくても、自分の意志でこれは善い事あれは悪い事と判断しながら多分これが守護霊の心であると考えられる行為を行う事が出来ます。この様に自分の意志で多分こうだと判断して行うことを、全機性の手掛かりということににします。


全機性の手掛かりについて例を挙げて説明しましょう。今ボランティアをしょうと思います。ボランティアは社会に対する全機性であり、守護霊からの愛ある心の現れです。しかし同じボランティアを行うにしても人それぞれ、心の有り様は違っているはずです。それを適宜に大小を考えて図1の様な数直線にしてみますが実際にはもっと多くの思いがあります。この心の一つ一つが前生からの業で少しずつ自我の中に出てきます。私達はこれ等の心の中であれこれ迷いながらも社会的に考えてボランティアは善い事だから、取り合えず行うという心に重さを付けます。

自己はまず図2の様な全機性(ボランティア)を判断する心である、前生の業によって、色々な行動の手掛かりに関する確率分布Pを作り上げます。



図2でxに対して確率がP(x)であるということは、ボランティアしよう(全機性ある行動)という心がx0である確率は、縦の類魂が受容された横の類魂に対し作用した結果P(x)の値になるということです。そして自己内の下方中心(自我より少し低い心)が直ちにこの業情報を統合しこの分布の極大を与える点X0を選択します。この値X0は次にすぐ、自我へ全機性ある行動の見積もりとして伝えられる。ここで次の二つの事柄が行われていることが判ります。

  

(一)業によって重みを付けられた心は図2の様な確率分布Pとして示される。  

(二)その後図2は統合過程によって分布の極大X0が見出される。

 

もしここに背後の整理が出来ている人がいて、類魂内に守護霊の全機性を妨げるものが無いとすると自己の全機性ある行動と、横の類魂の拡大との関係は図3の様になります。横の類魂が拡大されればされる程、自己の全機性も大きく成って当然と思われます。

この状態を判り易く言うと心の在り方が広くなって心の中に思う人が増えて、それらの人々の為に何か役に立ちたいと思うこと、愛ある心になることと考えられます。また、全機性が小さくて横の類魂も小さい場合は心は狭いが、邪気が無く赤ちゃんの様な状態といえます。

 

 

   *選択性 1*

 自己を拡大するということは霊的存在の目的ですが、それは横の類魂である、他者というものの数を増やすことです。婚姻や誕生によって家族や親族が増えたり、社会的活動などを通じて友人との交流を深めて人と人との繋がりを増やして行くことです。つまり自己の中に他者を組み入れるのですが、その入って来る人々はそれぞれ独自の全機性を持って自己の中に入ることになります。自己を拡大する為に受容した他者なのですが、その他者自身が持つ全機性が小さ過ぎると、それが自己にとってストレス(守護霊のコントロ−ルにとって障害)となってしまう。自己は横の類魂から入って来る全機性の手掛かりの、全ての集合をXで示します。守護霊からのコントロ−ルが上手く行かなくなるとXにある全ての手掛かりを扱うことが出来ないので選択性が働いて、手掛かりのある一貫した部分集合Aを選択してこれだけを自分の考えであると思い込んで受け入れますが残りの部分であるAの補集合Bには全く関心を持たなくなってしまいます。この様に全機性の手掛かりの集合Xは二つの部分集合AとBに分割されてしまいます。Xを最も簡単にAとBに分けるにはどうするとよいか。図4の様に三つの可能な場合が考えられます。

 



イでは全機性の手掛かりが小さい方へ、全機性の手掛かりが大きな方よりもより多くの注意が与えられています。ロでは逆に全機性の手掛かりが大きい方に注意が多く与えられています。ハは中位の手掛かりに注意が与えられています。この三つの中でちょっと考えるとハが良いと思われますが、しかしハとロでは集合AとBの境の点が一つであるのに対し、ハには二つの点があります。自我の下方中心が即座に行動しようとするなら、ハはイ、ロに比べて二倍の手間が必要なので、より楽な方を選びたいということでイかロが選択として適していると考えられます。

この様な訳で図4の確率分布は、イかロの選択性によって左か右へ図5の様にずらされるのです。つまり図2で極大はX=X0にあらわれますが、これが図5でX1かX2へとずらされる。


この図5二つの実線のずれている分布を一つにすると図6になります。これは自我の下方中心で業情報が自動的に統合された結果なのです。この統合の過程には二つの段階が有ります。

 

〔一〕自己内に入って来た類魂(業情報)の集積と重み付けそして同時に選択を行います。  

〔二〕この二つの極大X1とX2とのどちらか一つを選びこれを行動の手掛かりとして自我へ伝える。

 

 

しかし

X0=b(守護霊のコントロ−ル下にある正しい行動)

X1<X0<X2

なので、X1とX2のどちらを採っても守護霊から見ると間違った行動であると言える。

今、守護霊が横の類魂bを救いなさいと自己に組み入れるとします。自我は、X1を取ります。X1は図4でイのAの部分にあたります。ですからその行動の手掛かりは全機性が小さい状態なのです。この状態は心の中に自分しか居ないのですからそこに他人が入って来ると、独善的で自己中心的行動を採ってしまいます。という事は守護霊がa0を助けなさいと要求しても正しく対応出来ないことになります。「私が絶対に正しいのだから、私に従うなら面倒を見てあげる。」と支配欲が出てしまいます。それでも更に守護霊がa0を救いなさいと厳しく要求するとa0が助かるまで、無理に行動を起こそうとします。当然その時のa0に対する行動は実際にはX1>X0となっています。


逆に自我がX2であったならこの場合は、心の中で「どうして私だけがこんな人の面倒をみなければならないのか、損だ」と思いながら嫌々行動している状態X<X0であるので突然何も行わなくなってしまいます。

これは守護霊から与えられた修行を放棄してしまう事なのです。ボランティアは他の人の為に無心になることですがそれに選択性が働いた時、我が出てきて、その過大行動とは他人が、自分よりも低く見えてしまう、つまり他人を過小評価して独善的行動を採ること。過大行動とは逆に他人の方が自分より良く見えて過大評価し、被害者意識を持った責任転嫁的行動を採ってしまう事にします。(ある状況の元でこの過小、過大と、現象が両極に分裂する事がカタストロフィ−理論のポイントです)

 この様に行動が過大になったり過小になったりする現象は、いま自分が行っていることが類魂b0の近くにあるとその手掛かりが広く分布して選択性が働き易くなります。つまり守護霊がa0を救うことを厳しく求めれば求める程、顕著に現れてくるのです。選択性が働いていると(これは縦の類魂からの消えなければならない業なのですが)、本当はもっと思いやりを持って行動しなければならないと思っていても、「嫌、私が見たところもうこれ以上手を貸す必要は無い。」という一人よがりな気持ちが出て来ます。でも守護霊は助けなさいと要求するので心の中で葛藤している状態なのです。これに反して自己内に入って来る類魂が明らかに少ない場合は,対応が楽になるので行動は過小状態で独善的行動をとっても差し支えはありません。助ける人が少なくて楽に対応出来るのでそれでは面倒を見て上げましょう。と高慢にはなっていますが、選択性を働かせて無理に行動を起こさなくても、充分に自らをコントロ−ルすることが出来て、一つの極大を正しく選択します。同様に横の類魂の数が多き過ぎる場合も、明らかに自分の手には余ると考えて、行動の手掛かりは、迷わず過大を示します。

以上の説明をまとめたものが図7です。これは守護霊との間にストレス(横の類魂業の増殖によって限られた縦の類魂の業だけが繰り返し現れる為に、より上位の守護霊からのコントロ−ルが及ばなくなる状態)が生じて選択性が働き、全機性ある行動即ち自他共に生かし合うという守護霊からのコントロ−ルが充分に出来なくなった状態を示しています。またこの図7は守護霊からのコントロ−ルが円滑な状態の図3に対応しています。横の類魂が守護霊によって嫁せられたb0の近くにあるときの手掛かりの分布は図6ですがX1とX2の二つの極大を持っています。

これは図7の通りb=b0の近くでは二つの値X1とX2がその手掛かりになっていることを示しています。

X2のある曲線は過大行動の線で、そしてX2ある線が過小行動の線です。


またこのグラフでは関わっている横の類魂が非常に少ないか、多過ぎるときにはその手掛かりは一つの値しかないので、図3の正比例のグラフに近い形になるのです。

守護霊の命によって助けなければならない横の類魂は、自分とはそれ程離れた人ではありません。多くは家族や友人であり身近に接し過ぎる為に、怠け心が出てしまい「この程度で良い、大目に見なさい。」と、その様な心の迷いがこのb0付近で起こります。選択性である縦の類魂からの業が働き易いからこそ家族になっているのだから、先ず家庭に目を向ける事ですが自分の身近に居る人だとかえって我が出てしまものです。だからこそ障害を持った他の人の方がボランティアし易いのかも知れません。

 

 

 

   

 

*選択性2*

 

 守護霊と自己の間にストレスが生じて選択性が働きますが、このストレスに付いての考えをまとめると、地球大霊の目的は全ての霊的存在を統一することです。その為に自己は横の類魂を取り込みますが、この横の類魂達もそれぞれ選択性を働かせます。この選択性は他者の前生の業が統合されたもので、それが自己の中で段々増えてしまいます。同じ業が増えると、それに対する自己の行動も同じ事が繰り返されることになります。同じ事ばかりやって満足していたのでは、より良い全機性を行う事は出来ません。そこで守護霊との間にストレスが生じてしまうのです。(増えつつあるときは業でそれが守護霊との間の障害になるとストレスと言います)

 

 横の類魂が入って来る

    ↓

 業が増えてストレスが生じ、守護霊のコントロ−ルが障

 害されてしまう

    ↓

 縦の類魂が持つ業が選択性となって現れて守護霊のコン

 トロ−ルに代わって行動しょうとする

 

自己の中での縦の類魂と横の類魂の関わり方は大体この様になります。次に自己に於ける業は如何にして形成されるのでしょう。これまで述べたことをまとめてみます。それは三つの段階が考えられます。

 

〔1〕前生から分かれるときに人間は業を持たされる。縦の類魂の持つ業、それが選択性の本態と考えられます。

〔2〕人間が現界に生まれるときに前生から下された業に応じて現界の両親が選ばれますが、この選ばれた両親は人間として生まれた自己が組み入れる最初の横の類魂であり、この両親が抱えている類魂の持つ膨大な量の業情報も入って来る。その業情報に選択性が働いて誕生する時の境遇が決まる。

〔3〕人間が成長して自分の意志で自己を拡大するときに横の類魂としての他者によって入って来る業。

 

これ等、三つの各段階を通じて注視しなければならない事は先に述べた様に、業は増殖するという事なのです。社会に於いては同じ業を持つ者が集まるし、個人の心の中でもクヨクヨと同じ事ばかり考え続けてしまいます。これは業のコピ−、増殖です。同じ業ばかり増えるとそれに対応する縦の類魂も同じレベルの縦の類魂しか現れなくなってしまい、御親ノ神から自己へ通じている全機性の流れが妨げられてしまいます。カタストロフィ−で選択性が働くとき、その選択には二つの法則があります。一つはマックスウェルの法則と言われるものです。図8、9をご覧ください。


図の中の矢印がX1かX2の何方か一つをしめしていますが、これはX1かX2の何方か類魂の数が多い方の行動を採るという意味です。

もう一つはおくれの法則です。図9をご覧下さい。

この図の矢印はX1とX2、二つとも示していますが、これは類魂の数の多さに関わらずX0の谷を境にしてX1かX2の行動を採るという選択です。横の類魂によって入って来る業は、同じ者が急速に増える性質がありますが、これはおくれの法則に一致するのではないかと考えられます。それは、自己内に業が増殖する初期の段階でX1かX2の何方か自分に近い方、つまり楽な方を採って行動するのですが、やがて業が増えてくるとマックスウェルの法則に従って何方か一方の最大値を与える方に向かうのです。その状況の変化は突然起こるのでカタストロフィ−・ジャンプと呼ばれています。これは始め、自分の望むままに事が運んでいたのですが、一方で相反する業も溜まっていて一度に付けを払わされたという状態です。

 

 

*選択性 3*

 人間は守護霊が修行し切れ無かった未浄化部分、つまり前生が持っていた増殖した業の塊が実体化したものでありますが、この業を消す為に人は生まれて来るのです。自己を構成する類魂の数は膨大なものです。何しろ宇宙が始まって以来の業の集積なのですから(この宇宙の奥の奥からやって来る業が物霊と言うそうです、これは後で説明致します)

選択性は縦の類魂によって下された業をさらに増殖させる様な業を持つ横の類魂を選ぶ働きがありますが、それがおくれの法則です。またこの現界では業はある限度に達すると突然状態を変えるという性質があって、それがマックスウェルの法則です。霊界ではおくれの法則が強く働くので、浄化した者はひたすら神へ向かい、未浄化の者はただ落ちて行くだけで交わることはないのです。マックスウェルの法則による業のやり取りが必要なのです。その場が人間です。類魂達にとって人間は現界そのものと言えます。この様に選択性という存在はただ単に業を増大させるだけでは無くて、最終的には類魂全体、宇宙全体を浄化し統一する目的を持つと考えられます。

 今一度、選択性が働いている人間の様子を詳しく見てみます。全機性は判り易く言うと、他の人を思いやる心ですからそれが損なわれる事はその反対のこころである利己的で独善的な心を持ってしまうこと(選択性一で述べた、過小状態)です。独善心のままの人に、守護霊が横の類魂b0を助けなさいと嫁したとします。B0が自分の言う事を聞いている間は優越感や支配欲(これは縦の類魂からの下級な業の現れ)が満足出来るので喜んで手助けをします。

やがて序々にb0自身が持つ業が現れるので、この面倒をみる事が嫌になってきます。それでも尚、守護霊はb0を助けなさいと要求し続けるので、自我は業の現れである支配欲をもっと強くしてb0を抑え込もうとします。さらに「私はもっと沢山の人を救える立派な人間なのだ」と、自己顕示欲も強く出てしまうのでb0だけでなく、もっと手の掛かる類魂にまで独善心を向けてしまう。その行動の手掛かりは図7の点Qでしめされる。

しかしX0で示した点より、まだ手掛かりは独善心のままです。
その為に縦の類魂からどんどん下級な業が出て来るので、もっと独善的行動を採ってしまいます。B>b0になると確率曲線の極大は一つになります。

これは図6で説明したシステムが直ちに行われて一気に点Q`を行動の手掛かりにしてしまう。

 


この様に受容する横の類魂の範囲がb0になるまでは、手掛かりは過小状態、即ち独善心の線に沿って連続的に増大しb0になると突然、点QからQ
´へカタストロフィ−ジャンプして今度は過大状態の線に沿って行動します。このジャンプは図6で述べた統合過程、〔1〕選択機能、〔2〕行動の手掛かりとして自我へ伝える、という機能が共に即座に起こる為に、突然行動を変えてしまう。自我はb0になるまでは本来の意味の奉仕でないにせよ、何とか他者の面倒を見ようとします。Qになる直前では、選択性が強く縦の類魂の業がどんどん出て来ます。業は自己主張の塊なので自分の非を認めると言うことはありません。その現れである自我も自身を反省する事無く、自分に従わないb0達が悪いと考えて責任転嫁してしまい、もっと選択性が強いときは被害者意識も出てくる。そこでQからQ`へジャンプして過大状態になり自信を失って、人を助けることを突然止めてしまうのです。そして守護霊によって嫁されたb0を放棄してb0以下に下がってしまいます。

しかしb0はまだ助けられていないので守護霊は「しっかりしなさい」と催促するので、すると行動の手掛かりはRから

R´へジャンプして「ああこれではいけない、しっかりしなければいけない」と、また人助けをする事を考えて始めの心境にもどります。実際に日常生活でこの様なことはよくあることです。疲れている時や時間が無くてイライラしている時など¨早くこれを済ませないといけない、でも面倒だから嫌、だめだやはり早く済ませよう¨と心迷ってしまう。選択性が働いて類魂の業が出て来る為です。

この様に選択性が働いて行動に迷いがある状態では、QからQ´へ、RからR´へ、そして又Qへと、同じ事を繰り返してb0をきちんと助けられない事が判ります。

選択性が働くと業が次々と出てくるのですが、その都度、守護霊からの全機性を強くして統一して行く事が人間の勤めなのです。今まで述べて来た事を考え合わせて、図3と図7を一つにすると次の図10になります。

 

 

 

 

*類魂現象の仮定*

ここで、仮定を定理と出来ないことは残念です。定理となるには実数によるデ−タが必要なのです。

 類魂現象の仮定を数学的にきちんとのべましよう。自己の全機性ある行動の手掛かりxのカタストロフィ−は横の類魂bを平常要因とし、その選択性aを分裂要因とするカスプのカタストロフィ−で与えられる。(平常要因、分裂要因というのは,現象の原因となっているもののことでコントロ−ル変数とも言います。その結果が一つのものが平常要因で、二極に分かれるものが分裂要因です。xの結果に相当するものを行動変数と言います)

この仮定は図10の様になります。横のb軸は横の類魂を示す軸です、a軸は選択性です。手前の断面図はa=一定としたときの、自我の行動のグラフで、図7のことです。

図のひだの様な部分は、カスプと呼ばれるところで選択性が強く働いているので、行動に迷いがある状態を示しています。このカスプの原点のb座標は先に述べたb0と考えられます。

カタストロフィ−理論は、数式を使って考える数学ではなく、図形を見て一目で現象の全体像を理解しようとするものです。その主旨に甘えて数式を避けて来ましたが、ここで少し述べてみましょう。図11の様なひだのあるものをカスプのカタストロフィ−と言うのですがこれは、

 

この曲面Gは関数 式1

 

を微分して

 

このMは曲面全体のことで、それから図の斜線の部分を取ったものがGになります。(斜線のところはカタストロフィ−には関係ないので省いてしまいます)式Tの霊的意味は、自己を構成する類魂全体を示していることです。その類魂全体の中で人間として現象を現しているものがGなのです。Gは人間に直接作用する類魂によって形作られたものです。

それは「心霊研究」・398のp19『類魂』の第3図で¨人間の心の動く範囲¨に一致す

るものであると思われます。

 

【2】モデル化に当っての基本的考察

 

*数学の理論を用いる事について*

 前述したように、心霊にカタストロフィー理論が使えるのではないかということが判りましたが、それにはいくつかの重要な考察が必要となります。本論の目的は、霊とは何かを言明することにあります。一般に霊魂の不滅という問題は明快な解決をみていませんが、心霊学徒は常にできるだけのことをしなければなりません。そうでないと、その時に至って速やかに対応することができなくなってしまいます。その時がいつかは判りませんが、その時のために準備すべきなのです。つまり学問として体系づけ、サイ科学や超心理学などの周辺学問との独自性を明確にする必要があるのです。

 先ず旋問に思うことは、現時点で物理的実証を伴わないのに、数学の理論を使うことにどれはどの意義があるのかということです。私達は体験や霊能者の話等により心霊についてそれなりの認識をもっていますが、心霊現象とはいかなるものであるか言明することができません。例えば、トリックのない霊の物質化現象があったとして、それが人の形をしているからといって、本当に霊によって起こされたものなのか、あるいは霊自身なのか断言しにくいでしょう。つまり、物質化現象があったとしても、それは単に不可思議な現象が起きたことを証明しただけであって、霊魂の実在を証明したことにはなりません。なぜなら、心霊現象とはどういうもので、なにをもって心霊現象というのかはっきりしていないからです。私達は心霊科学といいながら、研究対象である心霊についての科学的基準を持ち合わせていないのです。にもかかわらず、漠然とした希望的観念論によって五十年やってきたのです。これは現象としての事実と、その裏にある本質としての事実を見極めずに、思い込みで結論を求めてしまったことに原因があります。霊魂の存在が証明できないことを、物理学の定義域だけのせいにしてはいけません。

 科学者がある現象についてデータを集積し仮説を立てる時に数学を用いる理由の一つは、それが有用な道具になるからです。数学の理論を使うと、複雑な思考作業を回避して少ない労力で問題の解法を予想することができるのです。もう一つの理由は、現象の予想だけでなく、人類共通の言語になりうるということです。数学者は宇宙でも通じると考えています。宇宙のどこかに宇宙人がいて考える力を持っているなら、きっと私達と同じ数学的認識を持つと主張しています。

 集まったデータを数学的に解釈することを数学言語を使うといいますが、数学言語の使用は自然科学だけの特権ではないと思います。

 

 

   *数学的存在を認めることと類魂の槻念*

 私達は過去を思い出す時や、何かを覚える場合、いつ、どこで何が起きたかを手掛かりに、記憶する事柄を整理しますが、これは現象界に住む人間の思考習慣です。現代科学の認識方法もこの延長線上にあります。物体の何らかの現象を観測する時も、位置と時間の組み合わせによって行います。これが座標系(x,y,z,t)であります。

 科学では、この座標系で表記し区別できるものが物体であり、実在していると認識して、この座標系で表記できない物ものは存在しないということになっています。つまり、この座標系によって表記できない「霊」は実体ではないので、科学の対象にはならないと決めつけられているのです。したがって、私もこの座標系で表記され区別できるものを「物」ということにします(物理的実体)


もし「霊」が座標系(x,y,z,t)で区別できるとするなら、物理的実体と同義であることになります。つまり「霊」は否定されてしまうのです。では、なぜ「霊」はこの座標系で表せないのでしょうか。今一度、根本的なことを考える必要があります。現象の連続性についてです。

ビッグバン (これは物質の始まりであって、霊の創始を意味するものではなく、また物質と同時に歪も始まったということも意味しない)以来、宇宙は途切れることなく続いているといわれます。しかし、なぜかという問題は検証できないので考えられないそうですが、単純に考えると、現象の連続性が保証されているのは近傍という数学的存在が実在しているからであると考えられます。物理学者は「数」は単なる記号であって実体はないといいますが、私(筆者の指導霊) は数や、集合、式等の数学的命題は存在すると認めています。つまり、実数の連続性は近傍が存在するからなのであり、実数によって記述される現象も、数を記号のように使っているからではなく、近傍が存在するからこそ現象の連続性が保証されていると考えます。                        

 座標系(x,y,z,t)では、近傍は物体が占有する場所にしか存在を認められていません。近傍が存在すると積極的に認めた場合、この座標系を使う理論は不完全であるといえます。この近傍は類魂と同義であると考えています。霊の存在を証明するなら、近傍の存在について検討すべきです。「霊」は宇宙の最も根元的本質ですから、従来のような霊媒偏重の研究方法を考え直す必要があります。

 

 

                   近傍と連続性について

 点0から出る光によって、点Pの影が点Qに写ったとします。これを 写像といいます。この時、点Pだけが点Qへ写っただけでなく、その周りの点も同じ順序を保って点Qを含む円周上へ写るはずです。これを近傍を定めるといいます(図11)

 
次にxからyへの写像を考えてみます。Xからyへの点X0での現象が途切れず連続することを説明すると、正数mを取り、点f(X0)のm−近傍(f(X0)−m,f(X)+m)作ります。

このmに応じて正数nを少し小さく取りX0のn−近傍(X0n,X0+n)を作ると、集合xの点xがX0のn−近傍にあるとxのfによる写像f(x)はf(X0)の時、n−近傍に含まれます。この時、y=f(x)はX=X0において連続するといいます。つまり、近傍の存在を確認することで現象の連続性がより確実に保証されているといえます(図12)

(『現代数学小辞典』岩波書店)

「霊」も類魂の概念を明確にすることによって、同様の説明ができます。「心霊研究」誌一九八〇年五月号の「類魂」第4図は、転化によってしだいに大きな霊になってゆくことを示したものですが、霊を一つの集合と考えますと、類魂の一つ一つは部分集合となります。そして、各類魂の部分集合の中にもたくさんの類魂の部分集合があり、無限に続いてゆくのです。すなわち、ある霊の中には類魂の部分集合が隙間なく詰まっていて、どんなに鈍い刃物で切っても必ず一つの類魂にぶつかる状態とたとえられます。この様相は、実数の連続性に符合しています。霊の中の類魂は、実数における近傍と同様の意義を持っていると考えられるからです。

 物理学といえば数学のイメージが定着していますが、数学は物理の道具ではなく、もともと存在論なのです。私達の心もそうですが、心霊というものは観測者に対立する者としての運動者ではなく、存在者なのです。心霊科学は存在者を扱う科学なのですから、それに採用される理論も存在者を認めるものでなければなりません。

 以上述べてきた事柄によって、前述のカタストロフィー理論に近傍の存在を積極的に認めることにより、私達は存在者(心霊)のための数学理論を手に入れることができたのであります。             (以下次号)

 

   

*類魂の本質についての留意点*

 図10(前号)の段階では、霊とは何かをはっきりさせることができませんでしたが、数学的存在を認めることによって、少しその輪郭が見えてきました。これまでの考察から、近傍が存在すると積極的に認めたカタストロフィー多様体を「霊」と定義することができます。そこで、この「霊」を基に図10での仮定を考え直してみます。

すなわち、人は二つの要因、横の類魂と縦の類魂によって近傍を定められ、それによって行動できるということです。行動する以前は「物」であったと解釈できます。定義により近傍が実在すると認めたカタストロフィー多様体は「霊」なので、「物」も「霊」になることができるのです。

 更に、近傍を定めるという意味は憑依することです。類魂が人に憑依して行動させます。同様に「物」にも憑くことができます。神霊が御神体や御弊に依り憑くことや、因縁霊が物品に憑いている場合などです。従って、行動変数xは人の行動のみを示すわけではなく、類魂全体の現象の場としてのxなのです。

 霊の中には、いろいろな類魂が始めから全部存在しています。私達は、物事は少しずつ大きくなって最大になり、その後しだいに小さくなって終わるという固定観念のようなものをもっています。しかし、心霊は始めも終わりも無い常に存在するものなのです。その霊という存在者の中に行動変数xとしての自我が現れるのです。私達が自分だと思っている意識である自我は、多様体内の類魂の中から、ある一貫性を持って選択されたもので、自我は類魂によってコントロールされているのです。

 

 このようにも考えられます。「霊」(カタストロフィー多様体)を守護霊とすると、行動変数xは人間で、それに作用する要因がいかに複雑に働いても、人は常に守護霊の統一的支配(全機性)を受けていることになります。行動変数xをまとめると、一つは、人の行動は「物」を含めたたくさんの類魂達によって現され、もう一つは、その行動は類魂全体からみると常に統一的になされている、ということです(これは存在者の本質といえます)

 ところで、物質化現象というものがありますが、これを物理現象と同義ととらえてはなりません。心霊は存在論であって物理現象ではないのです。物質化現象はお化けが出る程度の意味でしかないようですが、行動変数xとして解釈すると、類魂という「存在者」が物質化した現象考えるべきです。

 

 私達は仏教用語の業という言葉をよく使いますが、心霊科学として業をどのように解釈するか考えてみます。私達は前世の業とか、先祖の業が子孫に及ぶという言い方をしますが、このような使い方は業に力があって、過去、現在未来を結びつけています。つまり、既に存在していない過去と、まだ存在していない未来を実在のものとする考え方(輪廻)です。これは仏教思想というよりも古代インドの思想で、行為が行為を生むとして行為を中心に考えられ、厳密には霊と関係がありません。仏教はその行為である業を否定しています。

 心霊科学は、行為(業)は類魂によるものであると認めます。未来の業を生むという意味で、類魂も業と解釈することができます。ですから、横の類魂が増えるということは、業の量が増えると考えてもよいでしょう。横の類魂は自己を中心にした人間社会での広がりで、人と人との繋がりが大きくなると、それだけ行為のやり取りも多くなります。それは行為が行為を生むのではなく、類魂が行為を現すからです。

 古代インド思想や仏教での業は、現象を業と考えることで現象に近傍を見いだしていますが、仏教の場合は現象の構造論にとどまり、また霊は現象の一部であるとして否定しています。行為を生むという点で業と類魂は同じと考えて良いのですが、心霊科学での業と仏教での業は明らかに違います。仏教の業は、物体の占有する部分しか近傍の存在を認めない座標系の考え方と同じものではないかと思います。つまり仏教思想と座標系(x,y,z,t)での物体は、それが存在している瞬間、瞬間にしか存在できないのです。以上の説明を簡単にまとめると

 

・行動変数xの゙行動゙とは、存在者の物質化現象であるととらえられる。

・二つの要因と業は現象においては同義であるが、本質的には異なる。
二つの要因が近傍を定めることにより「物」は存在者として行動できる。

 

前世である、縦の類魂からの業としての選択性については、物霊との関係があるので、項を改めます。

 

【3】類魂論のカタストロフィ−理論による考察

ここでは、地球や宇宙の類魂のカタストロフィ−を考えながら、物霊や人間の役割に付いて明らかにして行きます。

 

   *誕生した初期の頃の地球大霊のカタストロフィ−*

地球創世の初期に於ける物質界と幽界の形成及び、類魂の浄化に付いて考えて見ましょう。

 人間を行動変数xとしたカタストロフィ−の平常要因である横の類魂、つまり人の現象の範囲は人間社会全体、国家や民族あるいは、文化や歴史等の二義的なものも含まれます。同様に地球大霊の横の類魂を考えると、この地球全体の霊的存在(近傍を認めたカタストロフィ−多様体)が現象の範囲となります。その選択性は、地球が出来る以前の宇宙の業となります。では地球大霊の行動変数xとはどの様な事でしょう。地震や天候などの自然現象とは違います。これ等はあくまでも物理現象なのです。「いや、それは竜神様がなさっているのだ。」とお考えの方もおいでの事と思いますが、それは霊的と物理的とを混同しているからです。心霊研究ではこの霊的と物理的を区別する事が重要なポイントです。

(筆者記、一言で言い切る事(言明)が理論を進める上で大切な事ですが、地球の行動変数xが好く判りません。言葉が思い浮かば無いのです)

 そこで地球が誕生した時の事を考えます。地球が出来た始めの頃は、大きな大きな岩の塊でした。岩、岩、岩…、…、で、岩と言う業だけが物凄い量集まって居たのです。前章でお話しましたが、業は細胞が増殖する様に同じ業だけが増える性質があります。これは選択性が働く為ですが、業が集まり過ぎると守護霊と自己の間の全機性が障害されてさらに選択性が強くなります。

 地球は始め大きな岩の塊でした、その為に選択性が働いてそれと相対する業が形成されて行くのです。それが幽界です。地球大霊の中で選択性が働くと現象は、物質界と幽界に分裂するのです。選択性が働くと業情報を限られた範囲で処理しなければ成りません。ですから、物質現象が起こると言う事は、自己の中で物質現象=過小状態の所にだけ注意が向けられる事になり、他の類魂は無視される事になるので、これは無視した類魂に対して「借り」を作ると言う意味を持ちます。

 物質界が形成されるには、物質現象として現れていないより多くの横の類魂からの「借り」によって成されるのです。この「借り」を物質界に対し幽界と考えます。人間に当てはめると「徳」 になります。

 
図13は地球大霊のカタストロフィ−のグラフです。地球大霊は、地球が誕生した周りに在った沢山の低級な横の類魂(岩石達のこと)を取り込んで統一し、みんなイからロの状態に持って行きたいのです(地球大霊にとってこれは宇宙への奉仕です)イ
ロの道のりは選択性が働か無い滑らかなコ−スで、常に大霊への統一が成されている状態です。始めの段階では低級な横の類魂達は大きな岩の塊だけの物質界を作る事しか出来ません。つまりハに向かうのです。又それと同時に宇宙の高級な横の類魂からの「借り」(徳を貰う、物から見ると徳は借りになる)が幽界を創りニに向かいます。この様にして地球大霊に選択性が働いて物質界と幽界が形成されるのです。でもこのままでは物は物、幽は幽とただ果てし無く増大するだけで、ロの状態に類魂達を持って来る事は出来ません。ロに持って来るにはどうすると良いのでしょう?それはカタストロフィ−・ジャンプするαの道のりを辿ると良いのです。

 地球の創造が一段落すると、もう岩が集中して集まって来る事は無く成るので物質界はこれ以上増えませんが、選択性が強く働いているので幽界の方は、増大します。そこでハからニに一気にジャンプして、幽界の方が物質界よりも断然大きく成ってしまうのです。

 この時の地球の幽界は宇宙からの「借り」の塊なのですから、地球はこの「借り」が大きくなったと同時に、それを返さなければ成りません。岩の塊でしかない地球がその借りを返す方法は、やはりその身を削る事でしょう。それが天地創造と言われるものです。地殻変動が地表にひびを入れ、地球内部から出てきた水蒸気が海を作って大規模な浸食を行い、正にその身を削って借りを返すわけです(「借り」の返し方は、太陽系の他の星や宇宙全体との関わりが在って複雑なので、簡単な説明にしました)

その様にして長い時間かけて、「借り」を返すことを繰り返して行くと、徐々に選択性が弱くなり類魂達はニからロに向かう事が出来て、イ→ハ→ニ→ロというαの道のりが完成して、イの状態に在った未発達な類魂達は何とかロに辿り着いて地球大霊に統一されるのです。始め地球は、ハ=物質界とニ=幽界に分裂しその後イ→ハ→ニ→ロの道のりが出来上がるともう、宇宙から徳を借りる必要は無くなるので地球大霊は自力で類魂達を浄化して行く事に成ります。

 
この図14は図11の、下の方のa軸とb軸に囲まれた面で、コントロ−ル平面と言います。これは曲面Gが投影されて出来たもので、カタストロフィ−を説明するときにGを一々描くのは面倒なので、このコントロ−ル平面を使う事が多いのです。図15は1980年 3月号の『類魂』第2図を上下ひっくり返したものですが、これは現在の地球大霊のコントロ−ル平面と考えられます。

 
この図から判る事を少し説明します。これには二つの極大が在って、鉱物霊と地球神ですが宇宙同様に地球もおくれの法則が強く働いて居るのでこの二つの極大が交わる事は難しいのです。どうしても鉱物霊が地球神の所へ行きたい、つまり『類魂』第2図のド−ナツの穴を越えようとするなら、その身を滅ぼして幽に帰るしか無いのです。しかしその度に滅んでいたのでは、地球は何時までも地殻変動が激しく混沌とした時代を繰り返すだけです。

そこで小山先生の言う転化です。転化は地球を滅ぼさないためのシステムなのです。転化は相手を利用して上げる事で徳を与えるものです。鉱物の様な魂の小さな類魂は、量は多いけれども、業の種類は少ないので自ら行動して徳を増やせ無いので自分の身体を犠牲にして奉仕する、つまり人間に利用される事で徳が増えて行きますが、その分の業は人間に向かってしまいます。それが転化です。また更に人間も神に利用されて徳が貰えます。と言う事はこのグラフの極大は神に向かっているのです。これは一つの極大を目指すので、マックスウエルの法則となります。人間は今のところ、物質進化の最終点と言えるのでそれだけ多くの業情報を持たされて居ます。その為に人間は自らが選択性を働かせて大霊の意志(奉仕)を行う事が出来るのです。だらこそ、人間がその役目を果たす限り地球は滅び無いでしょう。

 動物や植物等の未発達の類魂達は地球大霊のおくれの法則に従って生きて居るので、その限りに於いて、自力で救われる事は困難なのです。そこで人間のカタストロフィ−の中に入り人間の選択性によって転化される事で、より速やかに神に統一されると言うシステムがこの地球には出来上がっているのです。

ここで仮定をきちんと述べて置きましょう。地球大霊の行動変数xのカタストロフィ−は、取り込んだ横の類魂bを平常要因とし、その選択性aを分裂要因とするカスプのカタストロフィ−で与えられる。その時、人の場合の、過小状態の領域が物質界に成り、過大状態の領域が幽界と成ります(図13 )

 

 

 

    *物霊と宇宙のカタストロフィ−*

 物霊とは何なのでしようか。それに付いて、これまで述べてきた、カタストロフィ−のシステムによって宇宙の一部

が出来ている事を考えながら説明しましょう。私は先に類魂全体を一つの生命であると考えていると述べましたが、宇宙の始めの時はどうだったのでしょうか、その時類魂は在ったのでしょうか。もし宇宙の始めの時に生命では無かったとしたら、類魂も無かった訳です。宇宙が物理的物質から始まったとしたら、この私達も物理的物質であると結論付けられてしまいます。仏教思想は宇宙をその様に認識した為に霊魂は存在し無いと考えてしまいました。私達はこの宇宙の全ての者は霊的存在であると言う仮定の上で話を進めているのです。つまり宇宙は始めから霊なる者であって一つの生命である

から、当然類魂によって形成されていると結論するのです。

地球は宇宙の縦の類魂と周辺に在った横の類魂によって生まれました。人間の場合と同様に考えると宇宙の縦の類魂は、宇宙の前生となり、宇宙の過去の業がこの地球を誕生させる原因になっているのです。では物霊は何時どの様に発生したのでしょうか。私達は心霊学徒として宇宙はその始めの時から霊的存在であると認めるものであります。その霊的存在とは、先に述べました近傍を認めたカタストロフィ−多様体のことですが、近傍を認めるだけでは霊的存在とは言え無いのでありまして、カタストロフィ−にならなければ霊とは言えません。そしてカタストロフィ−を特徴付けているものが、選択性となって働く分裂要因ですが、それは前世からの業(守護霊が浄化仕切れなかった業、それを人間が選択性として受け継ぐ訳です)が現れたものです。それが物霊の本態なのです。

 大霊の目的は諸霊を統一し浄化する事ですが、宇宙の始めの時、既に大霊は存在していたのです。言い換えると、宇宙の霊的側面としての類魂のカタストロフィ−は始めも終わりも無い不滅のシステムなのです。そのシステムに於いて業を再構築し、統一するのです。ですから宇宙の選択性を考える時、宇宙の前世は当てはまりません。人間は守護霊が在って自分が在りますが、宇宙全体を観た場合、宇宙は始めから一つの存在者であって、そして活きているのです。

 

 選択性は自己にストレスが生じ、統一ある行動が出来なくなった時に働きますが、宇宙の場合も同様に考えて宇宙もストレスが生じると選択性が働くと思われます(唯一の存在者である宇宙大霊には、厳密にはストレスはありません。自ら意図して選択性を働かせるのです)この宇宙の選択性が物霊として人間に作用するのです。小山先生は、物霊は「物に付く気の様なもの」、「物に宿るもの」、又「神の心と力が一つになって物質になり、その物質を創る力を物霊と呼ぶ」と仰っていらっしゃいますが、私は宇宙全体の類魂の浄化と言う観点から物霊を捉えて行きたい、それが転化です。

鉱物、植物、動物、人間がそれぞれ利用し合う事で未発達霊を浄化して行こうとするものです。この転化をカタストロフィ−で考え直して見ましょう。これまで述べた事を思い起こすと、物が沢山集まると(それを集めると言う行為と解釈して、業が増殖すると考える)、選択性が働くので行動の範囲が限られるのであるから、その中で物が集まるのですから逆に足りなくなる所が出来てしまうのです。そうすると又足りない所に物が集まって、今まで集まって居た所は少なく成ってしまいます。ですから物が出来るとそれに相対する業も形成されているのです(おくれの法則)。そして転化とはマックスウェルの法則なのではないでしょうか、類魂が鉱物→植物→動物→人間→大霊へと、大霊と言う一つの極大に向かって統一されて行くのです。

 つまり物霊の意味は、業の集積、それに相対する業の形成及び転化と言うシステムが一つになって物霊となる訳です。これは正に選択性そのものです。従って物霊は、宇宙全体の類魂の浄化を考えたとき選択性として働く要因であって、この現界の現象全てに作用する、隠れた力であると言えるのです。物(鉱物)は情報量が少ないので、それだけその働きが単純な為に物霊の特性が判り易かったので、「物に付く霊」として理解出来たのです。

 

 宇宙は始めから一個の生命であったのですが、その宇宙が自己を拡大し諸霊を統一するということはどの様な事なのでしょう。活きている個体の最も顕著な特徴は生命現象を自ら引き起こす能力を持つ事です。それは全機性の意味でもありますが、他の物理現象にも当てはまる様に言い換えた言葉が自己組織現象です。宇宙は活きていると何度も繰り返しているのは、宇宙は、この自己組織現象によって自ら生命現象を起こしているからです。宇宙の霊的側面から観た自己組織現象とは、類魂という情報を自ら創りだす事で自己を拡大する事であると考えられます。

 この自己組織した類魂の量が平常要因bになります。図16は宇宙のカタストロフィ−のグラフです。宇宙は元々一個の生命として完成していたのですから、状態はロの状態に在ります。ロは選択性が働いていない完全に統一のとれた状態ですが、ここに止まって居たのでは大霊の崇高な欲望である自己の拡大は果たせません。

 宇宙自身には業は無かったのですから、bの拡大する類魂達も業を持って居ないのです。それならロに居るだけで良いのではないかと思われますが、bの類魂の一つ一つは独立した生命でも在るので宇宙がロの状態を保つなら、イの所の未発達の類魂達は永久に赤ちゃんのままで生き続ける事になります。そこで、未発達の類魂達を統一し救い上げる為に、下への自己の拡大を試みるのです。


ではどの道を辿ると良いのでしょうか。イからロへの道のりは想像を絶する程遠いものでそれは殆ど不可能なのです。一番簡単な方法は選択性を強くして、ロ付近の類魂を沢山自己組織して「幽」の領域の業を増大させるのです。そうすると、もっと選択性が強くなって「幽」の部分が極大になり、行動変数はイからハへカタストロフィ−・ジャンプするのでイに居た未発達霊達は、そっくりそのまま幽界に入ってしまいます。(図16)しかし依然として選択性は強いままなので、相対する業である「物」の領域も段々大きくなり、行動変数は「幽」の領域になり統一された様に見えますが、それは一時的なもので、選択性が強いのですから「物」の領域が極大し、ロからニへジャンプしてしまいます。このロ
ニの変化は物質化を意味していて、物質の最小単位や宇宙創造の元になる熱が一気に生じるのです(一般に言うビックバン)。小山先生の言う物霊は、この時の物質の最小単位と宇宙の選択性を合わせて考えたものです。しかしこの物質の最小単位は自分自身の力で、救われる事が出来ないのです。

 

 

宇宙は既に完成されている一個の生命だと述べましたが生命とは、存在者とは、全機性を保ち、自から生きる為の情報を創り出す自己組織能力を持つ者のことです。イの所の宇宙の最下級の 類魂達はこの様な力を持たないのです。物質の最小単位なので、その情報量も最も少ない為に、自分の力では増殖する事は出来ません。ですからおくれの法則が現れ無いので選択性が働か無い、つまりニの極大を維持出来なくなりまたイに戻ってしまうのです。ジャンプの道を辿ってハに行く事が出来ないのです。また「物」の最小単位は地球の場合の様に、身を削って借りを返す事も出来無いので、このままの状態ですと物質の最小単位達は自分の力では、選択性が機能出来無くなり、何時までもイの状態のままなのです。(図17)

ではおくれの法則を働かせるにはどうしたら良いのでしようか。そこでまた、先に述べてきた様に業を増殖させることを考えます。宇宙で最も下の類魂は物質の最小単位なので自身では増えることは出来ません。それでも増殖を考えるとしたら、どんどん集まり固まって大きくなると良いのです。自からが増えなくても同じ物同志が集まって増大すると言う方法です。そして状態は、イが少し増えると、又一気に増大して図16の状態に戻りますが、これは新たな物質化を意味していて始めの段階で救い切れなかった、宇宙で最も下の類魂達を救う為に業の再構築をするのです(この業の再構築は再生に関係するそうです)

そしてこの過程で地球が創造されて、地球大霊のカタストロフィ−が始まります。ニの所は「幽」に対して、物質化すると言う意味があります。宇宙が統一されたロの状態から「幽」を大きくしてジャンプし、「物」を創造するのです。この時の「幽」は大霊がその御心を大きくしたものなのです。それに選択性としての物霊が作用して「物」が出来るのです。

 大霊の御心とは全ての霊的存在を浄化する事で、その為に自己を拡大しょうとするもので在ります。ロからハ、ジャンプしてニという道のりは「幽」から「物」へ物質化が起こることだけでは無くて、自己の拡大という意味に於いて下への自己の拡大と言えます。ロは宇宙で最も上の類魂です。そこからジャンプの道のりを辿って宇宙で最も下の類魂イへ向かい、そして今度はイを出発点にここの類魂達をロへ統一し救い上げるのです。 それではこの項をまとめましょう。

 

・始め宇宙は統一のあるロに在りましたが、一気にハに極大する事でイの未発達の類魂をハにジャンプさせる(図15)・選択性が強いので「幽」に対して「物」の領域が大きくなり、ニにジャンプする。この場合はビックバンに相当する 物質化と考えられる(図16)

・しかしこの時出来た物質の最小単位は、自ら行動出来ない為に選択性が弱くなってしまう(図17)     同じ「物」同志が集まる事で選択性を強くして、又ニに極大し、この時地球が生まれる(図16)

そこで、宇宙全体の類魂の浄化を行動変数xとしたカタストロフィ−は自己組織した類魂bを平常要因とし、その選択性である物霊bを分裂要因としたカスプのカタストロフィ−で与えられる。

 

 

 

    *物霊と人間、霊成る者*

 もう一度、ハの「幽」の領域に付いて述べますが、業と言う観点から考えますと、ここは宇宙の高級な類魂の業である“徳”が実体化している状態なのです。高級な類魂であるロは自己の統一が成されていて、全機性の働きが完全なところです。それが業として増殖すると“徳”になると考えられます。宇宙創世に関わる類魂達の持つ徳は、人間の様に自己犠牲的行為に因って与えられたものでは無く、言わば、奉仕への渇望と言えるものです。この宇宙の「幽」の領域の“奉仕への渇望”が私達の守護霊や高級霊達の愛の原動力となっているのです。その愛の力がはち切れてニへジャンプします。その時出来る物」は物質の最小単位ですが、この大きな愛の力と共に宇宙の選択性aによって形成されます。選択性としての物霊は、この様な「幽」の領域の愛の力と「物」の領域の物質の最小単位との相対関係を考えることで理解できます。

 先に述べた宇宙のカタストロフィ−の仮定で、宇宙の類魂の浄化を行動変数xとしましたが、これは宇宙の存在者(近傍が実在するカタストロフィ−多様体)としての行為は、類魂の浄化であると言う意味です。宇宙は浄化と言う行為をする、その為に物霊が働いて「幽」=徳の部分と「物」=物質の最小単位の部分に分かれます。

 霊成る者とは即ち、行為である訳です。宇宙はどんなに未発達で、ちっぽけで、生命とは言え無い類魂でも統一して救い上げたいのです。その為に選択性としての物霊を働かせて行動する事を与え、霊成る者へと導くのです。

 人間は現象の一側面しか見ようとし無いのですが、物霊の働きを考えると現象には常に隠れている、「幽」の部分がある事が判ります。私はこの様な働きをする物霊こそが心霊の本質であると考えています。「物」のみを見るなら物は何処まで行っても「物」であって、「物」から霊は生まれ無いのです。本論で述べて来た宇宙のカタストロフィ−的側面によって、心霊現象の全体像を把握しなければならないのです。

 心霊は生命の源である全機性そのものなのですから、生命を否定し「物」だけを追求する現代の物理学では霊の存在が否定されて当然です。もし肯定されるなら、あくまでも、物理現象の特異な場合として例外的に認められるだけであって、霊魂不滅の証明には至らないはずです。私達は心霊学徒であります。数学や物理学等の周辺学問は私達にとっては道具なのです。これ等の道具を使う事で宇宙の真理を探究して行くのです。

 人間はやはり霊的にも特別の位置に在ります。それは動物や植物より偉いと言うものでは無く、霊的役割に於いて責任が重いと言う意味です。類魂論での選択性は明らかにある意志を持って働いています。地球や宇宙のカタストロフィ−でも判る様うに、常に類魂全体の進歩、向上を求めてその為に最も善い道を選ぶと言う働きが、類魂論に於ける選択性なのです。

 前項で業の再構築と言いましたが、宇宙は宇宙の選択性aを働かせて、鉱物霊等の未発達の類魂達を集めたり解き放したりして物質化を繰り返し、この未発達の類魂達を統一しょうと試みるのです。「物」は物霊によって受動的に動かされないと、自分自身では浄化出来ないのです。「物」は集まり、それを滅ぼす事で「徳」が与えられますが、この滅ぶ事さえも、物霊が働かなければ出来ないのです。

 人間は宇宙の業の再構築の最終点であると考えます。人間が誕生する以前は、集まった「物」がジャンプして浄化する時に大きな破壊が伴っていました。惑星その物が無くなってしまったり、地球上では大規模な天変地異が起こる等、宇宙では地獄のような光景が長い間続いていたのです。人間が誕生してからは、転化と言うシステムがこの地球に出来上がりました。判りやすく言うと人間は地球の大難を小難に代える役目を負わされて居ると言えるのです。

 図18は地球大霊のカタストロフィ−のコントロ−ル平面です。ここでイの鉱物霊からロの大霊への道のり、αβを考えて見ます。αは鉱物霊と大霊を直接結んだ道で、βの人霊と守護霊を経由する道よりも、カスプの幅が広く成っています。カスプの幅が広ければ広い程、大きな変化が起こります。つまりαの道よりもβの道を選ぶ方がそのカタストロフィ −(破壊)は小さくて済むと言う訳です。βの道のりは鉱物霊等の未発達霊が人霊に転化して、人霊と一緒になり、そこでジャンプして幽界の守護霊を経て大霊へと統一されて行く過程を示したものです。

 これは人間の肉体が死ぬ場合とは道のりが違い、精神統一によって出来た道のりなのです。人間は、岩の塊である地球と違って精神統一をする事が出来ます。それによって一々、死という破壊をする事無くカスプを通過し高級神霊に統一するのです。精神統一が出来る人間と言う存在は、この様な意味に於いて重要なのであります。心霊学徒は自からの為にだけ精神統一を行うのでは無く、自からでは認識し得無い宇宙の霊的存在の為に精神統一を行うのであります。

 “精神統一する人間”、それこそが人間の霊的存在理由なのです。宇宙の大霊は物霊を働かせて、未発達の類魂に存在者として行為することを与え、霊成る者へと導きますが、人間は精神統一することでその手助けをしているのです。そしてその様な人間の創造を意図したのも物霊なのです。つまり人間は物霊(宇宙の選択性a)により霊成る者と成り、更に統一行によって未発達の類魂達を霊成る者とするのです。

  この守護霊に直結する統一行の道が常に保たれて居ると善いのですが、通常、人間は霊的自覚が無いので図19の状態となっています。おくれの法則が働く為に守護霊に極大を維持出来なくなり、どうしても低級霊が強くなるので、「物」と「徳」の間を振り子の様に行ったり、来たりするのです。「物」の領域にある時はその付近の低級霊が現れて来て、怒りっぽくなったり、落ち込んだりします。ずっとここに止まったままだと病気になったり、死ぬ事もあります。しかし選択性が働いているので、また守護霊の力が強まるので、振り子は「徳」の領域に入ります。そこで透かさず統一の状態になって、守護霊と結び付くと一緒に憑いて来た低級霊を救い上げる事が出来るのですが、殆どの人間は上手く統一出来ないので、また振り子は「物」の領域に揺り戻ってしまいます。この様な振り子の揺れを人間は一日に何十回、何百回と無く繰り返して日々を過ごし、その度に低級霊が憑依するのです。

 

   

 

 

 

 

  *心霊科学として成すべき事*

 心霊科学として成すべき事、それは、霊の存在の証明に他なりません。とにかく、一歩でも半歩でもいいから前進したいと言う思いで本論を進めました。本論はまだ、机上の空論ですが心霊科学に於いて一つの方向を示すものであると確信します。心霊科学は実践の科学であります。一般の科学は物質に対する実践として実験を行いますが、心霊科学は人間の全人生が実践の場となります。心霊科学が一つの学問として完成されるなら、それは人類にとって掛け替えのない財産と成るでしょう。私達の手で、この心霊科学を掛け替えの無いものに育てて行こうでは在りませんか、その為に今一度、霊とは何か、如何にして霊の存在を証明するかを、考えようでは在りませんか。その証明と言うのは、一般科学のようにただ観測出来た確認出来た、だけでは駄目でありまして、理論物理学で言う宇宙論的展開がなければなりません。心霊は宇宙の根源なのですから、当然の事であります。ですから今までの霊媒を使う物理的心霊現象の様な、お化けが出る、出ない程度の実験では到底満足出来るものでは無いのです。今の段階でこれ以上述べて行くことは出来ませんが、一心霊学徒として心霊科学の未来を信じるものであります。

 

     ・筆者後書き・

 昨年(平成8年)の11月頃の事と思うのですが、フェルマ−の最終定理が証明された、というニュ−スがありました。それを聞いた私の背後霊が「あの栄誉は日本人が貰うはずだった、人間がちゃんと動いてくれないと百年の努力も水の泡だね」と意味深長なことを言うのです。続けて「でもあれはクイズみたいなものだよね、霊の証明の方がよっぽど意義の在ることだよ」と言うのがきっかけでこの文章が出来てしまいました。今この後書きを書いていても、まだ騙されている感じがしているのですが、始めも信用していなかったものですから、【一、類魂現象の仮定】は講談社の「応用カタストロフィ−理論」を参考に書きましたが、確かに当てはまって行くので、霊の言う事は正しいのかも知れないと少しは納得出来ました。しかし、【二】、【三】は一部補足説明したところはありますが、全て指導霊によるものです。カタストロフィ−理論で霊を説明する事もそうですが、数学的存在と類魂が一致すると言う様なアイディアはとても人間には考えられません。少なくとも私には考えられそうに無い、前人未踏のお話です。

私は以前、心霊治療や相談事をやっていましたが、今は辞めています。一番の理由は責任がとれないと言うことです。ですからこの文章を発表するかどうか、とても迷っていたのですが、何かの足しになるかも知れないと思い、出すことにしました。

 この文章には出てきませんが、近傍が存在すると言うアイディアは「光速度不変の原理」から来ているのだそうです。指導霊は「宇宙は毎秒30万kmで近傍が定められていると解釈して、その様な宇宙を厳密に想定すると、類魂のカタストロフィ−になる」と言うのです。指導霊の言っている事の真偽の程は、私には判りませんが、少なくとも小山先生の類魂論に数学の鎧を着せることは出来たと思います。数学の理論が出来ると一般的には、次は証明しようと言うことになりますが、指導霊はまだそこまでは話してはいません。多少漏れ聞いた所では、やはり「光」だそうです。「光」は物理的にも宇宙では特別の存在だそうで、その光に関わる心霊現象と言えば、念写の事と思います。念写は光の自己組織化であると考えるのです。そうすると福来先生のお考えにマッチするようです。その自己組織化現象のことですが、一般的には自己組織化現象と言うと、今流行っているカオス理論がそうなのですが、霊が言うには、「カオスとカタストロフィ−は親戚の様なものだけれど、哲学が違う、心霊現象はカオスでは無い」との事です。

 と言う訳で、とにかく判らないの一言に尽きるのですが、どうして私にこれを書かせたのかも疑問です。なにも判らない素人の方が操り易かったのかも知れません。疑いながら受けたせいもあると思いますが、所々不正確だったり、文のつながりがおかしいところも在る事と思いますが、何分宜しくお願い致します。

                                            完

  参考文献

 「心霊研究」1980年・・・・月号『類魂』小山順司述

 「生理学全」山形久美編著 医道の日本社

 「応用カタストロフィ−理論」野口広著 講談社

 「カタストロフィ−」野口広著 サイエンス社

 

 

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