これは、本居宣長の「あはれの哲学」を現代の哲学である言語ゲームから考えたもので、 ウィトゲンシュタイン霊による霊界通信です。 それから10年以上たち、高橋は心霊科学協会から退会し、心霊科学からも離れています。 心霊科学協会はこれ以上の発展は無いように感じます。 心霊科学そのものも、これ以上の進展は無いでしょう。 ウィトゲンシュタインの霊界通信は、心霊科学に哲学的根拠与えようとした大変意義のあるものですが、 このままでは意味の無いものになりますね。 心霊科学はどうなっていくのでしょうか? 20世紀の遺物になるのでしょうか? 2012年7月 記 日本心霊科学協会の機関紙「心霊研究」1999年12月号掲載 ―“あはれ”と言語ゲーム ― L(筆者の指導霊ウィトゲンシュタイン) 『とんでも本と呼ばれるジャンルが有るらしいが、私の論述はその中入るのだろうか もしそうであるなら光栄なことである』 K(筆者) 『ああ言う批判者から見るとL君が述べていることは、巧妙に論じられているれど、とんでも話には違いないんじゃない。 要するに霊、超能力、オカルトは反社会的と見なしているから』 L 『そう、あの批判者達にとって私たちは懐疑の対象なのである。 しかし問題はとんでも情報の提供者であるこちら側のとんでも事態の探究の仕方である。 非概念的事柄を記述科学の中で論じるからとんでも本として批判されるのである』 K 『そういえば社会心理学も心霊を敵視しているみたいね、ある本に書いていたけど、 霊や超心理学に興味を持つのはその人の心に闇が有るからですって、 でも心の闇は誰にでもあるから、心霊に興味を持つことが闇だなんて偏見だと思う』 L 『いや、偏見とは言えない。心の闇と心霊は非常に関係がある。 心霊科学は器の「私」を探究する学問であるから、心の闇を一言で言うと器の「私」の誤使用といえる』 K 『と言うことは、心霊科学は今世間で問題になっている心の闇を直接的に対処できるかも知れないのね』 L 『心霊の世界に居るので良く分かるが、現象の世界に在る宗教や倫理、道徳は限界なのだのと思う。 概念を幾ら操作して信仰や規則を人間に与えても、魂は救えないのである。 魂とは器の「私」と同義である』 K 『そうか、心霊を批判する人々も概念の中でもがいているだけだから、 その人達の言う事は気にする必要は無いのね』 L 『その通り、今度のテーマは信仰と規則の限界と言われる現代の社会に対して心霊科学は何が出来るのかである。 今話に出た心の闇と器の「私」を念頭に置いて先に進もう』 K 『ところで、ずっと気になっていたけど、L君は外国の心霊研究と日本の心霊科学を区別しているみたいだけれど』 L 『そう確かに区別している。私は心霊の世界の論理的背景を明らかにする為に言語ゲームによる探究を試みたが、それは他の国、特にイギリスの方が良かったのだろうか。 言語ゲームの研究者が居るから理解の手助けになったかも知れない。 しかし日本には何にも増して価値の有る遺産が在った。 言語ゲームという論理学を持つ心霊科学を生み出す為の基盤が既に出来ていたのである。 諸外国の心霊研究は記述科学と未分化のままである。 心霊をどうしても記述的に、量として自然から取り出したいならそれはそれで構わないが、 日本の心霊科学はその流れとは全く違う』 K 『つまり心霊科学以前の事?平田篤胤の霊界の研究かしら』 L 『対象が心霊であるのに、概念的に記述しょうとするのは正しくない。 霊界の仕組みに興味が有るのは分かるがね。 その事ばかりに眼が向くと先へは進めない。 日本の哲学思想の中で言語ゲームと境地を同じくするものが有るとすれば、それは“もののあはれ”と“あはれを知るこころ”(まごころ)である。 日本の心霊科学はこの境地を相続している』 K 『なるほど、そう言われて見るとそうかも知れない。 “あはれ”は言葉では直接的に表現出来ない、物事の奥深い所にある感動の様なものだと言うから、 要するに記述でき無い、概念として扱えないある存在という訳ね。 それに国学の歌の研究の仕方は言語分析に似ているのかも?』 L 『ウィトゲンシュタインは語りえぬもの(あはれと同義)を何とか示そうとして概念と記述の限界に向かったが、 つまり語りえぬものと、 記述出来るものの区別を明らかにしたが、其処で立ち止まってしまった。 国学の場合、その創始者は記述できるものである、概念の背景にハッキリと語りえぬものを観る事が出来た。 そしてそれを自分だけで無く他の人にも観せて上げたいと望み、 その手段として、歌の研鑽を行ったのだと思う。 語り得ぬものを和歌の器に入れて誰にでも“あはれ”を知覚できる様にしたかったのである』 K 『本居宣長の評価は国学そのものよりも国語学や文献学の方が知られている見たい』 L 『どうも現界に居ると事態そのものに目が向いてしまう。 “あはれ”にしても折角“あはれ”を発見できたのに、 和歌のテクニカルなところ捕らわれてしまい、ナマの“あはれ”を見失っている。 後世の研究者が“あはれ”と言うと芸術的、文学的意味の“あはれ”でしかなくなってしまう』 K 『宗教もそうね、後の世になると研究者が勝手に聖典の構造分析みたいな事を遣って、 神や創始者の本意が分からなくなってしまうから』 L 『本居宣長を哲学者として捉えると“あはれ”の価値が大きく成ると思う。 “あはれ”は歌の中だけにあるのではく、 世界の森羅万象全ての背後に在る、何らかの実在で、 私たちはそれを“あはれ”として知覚するのだ。であるなら国学は何を求めていたのだろうか? 国学の真意は何であったのか、私は国学の概念的な詳細は知らない。 しかし心霊科学的懐疑によって国学の在りままの姿を観ることが出来る』 K 『つまり国学から概念を取り去ると“あはれ”と“まごころ”が残る。 概念である天皇制国家論や文献主義は要らなくなると言いたいの? ウィトゲンシュタインが生まれる百三十年以上も前に既に言語ゲームと同じ論理的背景を持つ思想が、この日本に在ったのは驚きね』 L 『“あはれ”は器の「私」に生じている事態で在る。 そしてその器の「私」を“あはれを知るこころ”と呼んでいる。 またそれは、まごころとか誠とも言う。浅野、吉田両氏は霊媒の中に“あはれ”を観ようとして、 まことに殉じたのである。 霊媒の中にあはれを観るというのは、審神者の高い境地であろう。 後の人々には上手く引き継がれていない様だが』 K 『それが社会に向けて開かれると救済に繋がると言々たいのね』 L 『“あはれ”の境地とは、つまり言語ゲームの本態であるが、それは要するにシステムが外へ開かれている事態である。 元々閉じているのが概念で、何処かで閉じるのが志向性だろう。 “あはれ”の境地は日本の国土へ向けて開かれている。 つまり日本の国土のアフォーダンスの知覚なのである。勿論それは日本の国土を通じて世界へ開くのである』 K 『そうね、“あはれ”と“まごころ”は日本人だけのものでは無く、言語ゲームの世界で生きる全ての生き物のものなのね。 でも国学には歴史上の問題が在るから、外国の人に理解してもらうのは難しいと思う』 L 『“あはれ”と戦争責任と言う訳かな、大人と呼ばれる者達はそれは事実として真摯に受け止めるべきであると言っている。 “あはれ”に戦争の影が付きまとうとしても、私はそれをそのまま認めた上で先に進べきであると思う。 歴史的に科学や学問が政治に利用される事はよく在る。 ナチスがそうであるし、最近になってもアメリカには、白人は遺伝学的に優秀な人種であると信じ、その科学的根拠を探そうと研究する者が居るらしい。 差別や偏見を正当化するために、科学をもっもらしくこじつけるのである。 しかしだからといって科学そのものは悪では無いし、否定されたりもしない。 問題は、それを利用する人間自身の側にあるのだから。 だがしかし、心霊科学は心霊の世界を扱うのであるから、日本の心霊科学が世界に対してアピールするのであれば、 この問題はけっして無視は出来ぬのである』 K 『1945年にウィトゲンシュタインは言語ゲームの構想を本にした。 その同じ年に原爆が投下された。 只の偶然と言えばそれまでだけれど、原爆は人類が背負っている概念の極点みたいなもの。 その概念の極点を昇華する働きをするのが言語ゲーム。 言語ゲームと原爆が象徴的には合わせ鏡に成っている。 “あはれ”と戦争もそうだと思う』 L 『私は此処に救いの可能性が在ると信じる。苦しみの在る所には必ず救いの道が開かれている。 但しそこに“まごころ”があったならばである。 国学の創始者の様に概念の向こう側に“あはれ”が観えるのならば、である。 だから君の言う戦争責任もその様な事なのである』 K 『だとしても天皇制国家論は理解出来ない。 宣長は天皇こそがあはれとまごころの心となる“道”としたでしょ。 実在する人間をつまり概念の天皇を“道”としたのが違えだったのかしら』 L 『「概念の背景に在る“あはれ”を受入れよ、そして自からの“まごころ”を信ぜよと大人は言っている。 私は国学の主張する天皇を心霊科学的懐疑してみたい。 そうすると何が残るのか』 K 『L君参りました。 飽くまでも心霊科学なのね。 それでどう考えるの?』 L 『天皇から概念を取り去ると“道”が残る、と大人が言う。 天皇そのものが道なのでは無く、道こそがここで求められている本質なのであるから、 現象としての天皇を観つづけていては行けない。宣長本人にも後の人々にもそこに誤謬が在った。 私の見方としては天皇の背景に在る“道”とはキリストに近接すると考えられる。 ヨーロッパ人としてはその方が理解し易い。 但しこれは現実の天皇と歴史上の人物のキリストを同一視するものでは無い』 K 『やはりそこにも救済の問題が隠れていたのね』 L 『心霊科学的懐疑の必要な事態には必ず救済の道が開かれている』 K 『心霊科学的懐疑っていうのは、概念で固められて身動きが取れなくなっている状態から、少しずつ概念を溶かして本来の霊の姿に戻すのね。 でもずっと概念に埋もれて暮らしている普通人がいきなり“まごころ”を発揮するのは難しいから、身の回りの小さな事から少しずつ心霊科学的懐疑しょう。 そうすると段々“まごころ”が磨かれてきて“あはれ”も観える様になる。 先人の様に難しい学問をして悩まなくて済むし、しかも、もっと深く掘り下げる事も出来て、 心霊科学的懐疑、これほど結構なものは無いと言うわけね』 L 『まあ端的はそう言った所。ここで多少、神秘学的なコメントをして置く。 国学の創始者は日本の国土のアフォーダンスを知覚し“あはれ”と言った。 アフォードの一つ一つは記述的に表せないから神秘を感じてしまうが、しかしそれは特別のものでは無く誰にでも備わっている知覚である。 八百万神は日本の国土という環境のアスペクトを人々がアフォーダンスとして知覚し、日本独自の神を観たのである。 アスペクトする国土、それが日本の神々の根元の姿である。 山の神、田の神、河の神、辻の神等の八百万神は、神性とか神格等と言った特別な付加価値の無い、在りのままの霊なのである。 それは私たちを取り巻く環境がより精練された姿へアスペクトしたものなのであるが、概念に塗り潰されて暮らす人間がそのアスペクトの世界を記述しょうとすると、 記述的世界からは余りにも掛け離れているので超越した神を考えてしまうのである』 ―宗教と救い― K 『もう一度説明して欲しいの。宗教の救いと心霊科学の救いはどう違うのかしら?』 L 『君は宗教をどう感じていたのか?』 K 『はっきり言ってあまり良い感じはしていないの。L君みたいな信仰心は全然無し。 と言うのは私の知っている宗教は、みんな基本的には健全な身体を持った人間でなければ神へ向かう資格はないし、神聖でもないの。 つまり私の様な障害者が能動的に救われる教えは何処にも無かったの。 心霊もそうよ。 霊魂は不滅っていう、それは生まれ変わりでしょうけど、生まれ変わって良かったと思えるのは健常者だからでしょう。 それなら世の中の健常者は皆救われているのかしら。 生まれ変わる事自体には救いは無いのよ。 既存の宗教は健常者の為の宗教ね、仏教は健全な男子の為の教え、神道もそう、身体に不都合があると神の前には出て行けない。 神職は本当は眼鏡を掛けても駄目なのです。 キリスト教は弱者救済に見えるけど、奉仕の現場に居る人はそう信じているでしょうけど、 本当は違うものを感じる。 神から人間へ一方的に押しつけられると言うか「弱い者は従えそうすれば救ってあげる」と言っている。 私は別に、神と同じ力が欲しいと言っているのでは無いの、神にはどんな場合でも障害者と同じ目線に立って欲しいだけなの。 神を親に例えることが在るけど威圧的な親だと子供の心は段々と離れて行くものよ。 其処の所にとても空虚なものを感じている』 L 『そうだな、救いは待つだけの救いなら疲れるし何れ絶望してしまう。 自分で動ける事が良いのだと思う。身体も救いも。 君は多分、神と正面から向き合いたいのだと思う。 それは審神者に近い要求である。 審神者が神道の宗教行為で有るかどうかは分からないが、 審神者の活動そのものはどの宗教のカテゴリーにも入らない、心霊科学の本分とするところである。君は精神的にも肉体的にも身動きが取れなかった。 一方、君の接した宗教も君が自ら動くことを否定した』 K 『そう、なにも宗教だけでなく社会全体を息苦しく感じているの。それは心霊科学だってそうよ。 何かにつけて因縁霊とか浄化とかいうでしょ。 そんなことを尤もらしく言われると、「因縁の深い身障者は早く死ね」とて言われているみたいで、ずっと嫌な思いをしていたの。 要するに身動きがとれなくて多少神経質になっていたのかも知れない』 L 『その身動きの出来ぬ事態から解き放つ力が言語ゲームなのである。 類魂の言語ゲームの中で器となる場合、記述的には、詰まり身体はある否定的事態を呈していても、器として働いて居るならば、 其処には“まごころ”が用意されているのであるから、如何なる否定的事態であっても“あはれ”が所与するのである』 K 『L君の言う理屈は分かる。でも心霊科学で救われようなんて今一つピンと来ない』 L 『私はどうも、宗教を批判する事は気は進まない。 しかし器の「私」を認めると結果としてそういう事になる。 宗教も科学と同じく自覚する「私」が活動の場であるから、森羅万象の者を器として認める事の意味を端的に言うと、 人の意識が無い場合でも、その人が生きている限り言語ゲーム的価値は在ると主張するものである』 K 『脳死の問題に付いて言っているの?』 L 『いや、ここでは問題はもっと深刻に成っている。 宗教は脳死の状態で、意識の無い人間を救うことは出来ない。 意識が無いから信仰出来なくなるからね。 一方科学には、医療と言う大義名分があるので人の生死を難なく越えてしまう。 本来宗教は人の死に際して有効であるべきなのに、自覚する「私」のコミットメントがその活動の全てである為に、 実際の人の生死の場では何も出来ないという皮肉な事態となっている。 この様な訳で、君が先に批判した様に、現代人には宗教の救済に対して焦燥感や無力感が在るのだと思う』 K 『自覚する「私」が概念的に救われようとしても無駄ですって、L君に言わせると信仰も概念だから。それってとっても厳しいと思う。器の「私」は難しい』 L 『西洋の哲学は伝統的に精神に独立性を与えている。 その意味での「信じる者は救われる」なのである。 つまり神への信仰とは、主体としての精神が自分自身の力で信仰を行為すると考えるのである (キリスト教ではそれを罪という) それは正に自覚する「私」が信仰の場であるということである。 更に科学の言う脳死は、この哲学の流れを受け継ぎ、唯脳論を主張している。 つまり脳が死ねば後に残る身体はもう人間では無く、身体の諸器官の固まりに過ぎないのというものである。 そう確かにその通りである。 概念の中に安住するのならば、である』 K 『心霊科学ではその答えはもう出ているでしょう。私たちにとっては脳や身体の死など、問題では無いでしょう。心霊の世界を認めているのだから』 L 『いや、違うのだ。「霊魂は不滅である」と宣言するだけでは、脳死の背景にある問題を解決することにはならない。 これは心霊科学なのだから人の生死に対してもっと踏み込まなければならないのである』 K 『今の社会で人の生死を真正面から語れるのは医学なのね、そして医学も科学なわけ。 宗教は確かに無力になっている。 でも脳死の人の救済なんて誰も思わないでしょうけど、人間はそういう生死の瀬戸際でこそ救いがあって然るべきだから、 イエス様ならきっと道を示して下さると思うけど、自覚する「私」の信仰は、これが信仰なのだと思い込んでいただけなのね』 L 『そう、ここで問われていたのは脳死移植の善悪では無く「其処にも救いがあるのか」なのである。 心霊科学はもちろん在ると断言する。こう考えられるのは此処が日本だからだと思う。 西欧では科学的合理主義が余りにも当然の日常なので脳死から信仰、そして救済へと思考を巡らせるのが難しい』 K 『どう言うことなの。日本の文化、西欧人から見ると日本人は非合理的だって言いたいのかしら』 L 『私は日本人が脳死に戸惑いを感じるのは、言語ゲーム的背景を持つためであると思っている。 脳死を人の死と認められない人々の心情は(脳に主体性が有るに対して)、身体に主体性が有ると考えているのでは無くて、 そこに横たわる肉親に対して、ある種のアフォードを知覚するのであろう。 だからこそ、この心情は合理的な理屈では語り切れない。 心霊科学は、脳死を人の死と認められない人々の心情に近いものであると言えるが、 その人々が知覚する言々尽くせない心情を認めるのなら、器の「私」は容易に理解できるのである』 K 『L君が言った意味は、脳死で、身体だけが生きている人に対して、その人の関係者は悲しみや惜別などの感情と言うよりも、アフォードを感じている。 つまり意識が無くて、行為も出来ない状態でも環境と人との間にはアフォードに関する情報が存在すると言いたいのね。 でもそう結論するには無理があると思う』 L 『これは、心霊科学には何が出来るのかに付いて述べているのである。 この宇宙には非言語ゲーム的なものは在り得ない。概念の中には必ず“あはれ”が隠されている。 人の生死の場であれば当然の事である。 それを示す例として脳死を上げたのだが、 脳死は人の社会にある極限の問題である、現代人の魂をどう救済するのかに深く立ち入る動機を与えてくれる。 私たちが犯した最も大きな誤謬は、神を信仰する主体は人の心にある。 つまりその神を信じるのは他ならぬこの自分であると思い込んでいたことである。 しかし言語ゲームを論理的背景にもつ心霊の世界では信仰は精神が行うものではなく、世界像からの表出なのであると、ずっと述べてきた』 K 『気がついたけど、それは浄土思想に通じるんじゃないかしら。 あれは何百回も念仏を唱えるから、いまL君が批判したように精神力で祈っている感じがあるけど、 そうじゃなくて念仏を唱えているのは業生の自分では無く、仏性なのよ。 つまりアミダの唱える還相の念仏を受けた、自分の中の仏性が、それに答えてアミダに向けて、 往相の念仏を唱える訳なの。 アミダと自分の仏性が互いに反射しあっているからこそ、業生の自分も念仏を唱えられる。 それは器の「私」のことだったのかしら』 L 『浄土教に付いては全く分からないが、この対話の中で語られる(つまり心霊が与えている)のだから恐らくその通りであろう』 K 『…浄土思想の仏が器の「私」ならお釈迦様の哲学とは乖離しているように思う。 後で心霊科学的懐疑してみよう。それで、器の「私」と“あはれ”を結び付けるのはどうしてなの』 L 『人は精神力によって救われるのでは無い。だから特別の儀式や修行は要らないし、一途に神に救いを要求する必要もない。器の「私」は何時も活動しているのだ。 だから私たちは人としての当たり前の行為(歩く、キャッチボールする、あるいは愛する、信仰するなどの日常の行為)ができる。 であるから、そういった器の「私」が表出する行為の背景にある “あはれ”や“あはれを知るこころ”は誰にでも分かるのである。 今までそれを救済に結び付けて考えなかっただけなのだ』 K 『だから、何故それが救済になるのかしら』 L 『つまり救済といえば現象の世界では、宗教がしてくれるものだと思われている。 私も生きていた頃はそう思っていた。 だから自分のような罪深い者にこそ宗教が必要であると信じていたのであるが、 こちら側から言語ゲームを探究する内に、本来の救いは宗教そのものにでは無く、心霊の世界に於いてこそ問えるものであることが分かった』 K 『信仰は自覚する「私」が造り上げる概念で、それとは独立して器の「私」が活動し救済の場を提供するという訳ね。 そうね、特に信仰していなくても立派な心根をもった人は居るから、そういう人は御先祖の徳や因縁がどうのこうのというよりも、 器の「私」がちゃんと働いて居るのね』 L 『概念の世界を言語ゲームから観ると、物と物、人と人は勿論、神と人の間にも家族的類似性が在るのだ。 この家族的類似性に於いては互いの存在を直接的に根拠付けることは出来ない。 この非常に制限された事態の中で神を示すにはどうすると良いのか? それは根拠付けの必要のない根本命題として所与されるしかないという事である』 K 『それが信仰の前提となるコミットメントね。 神を信仰するには、その前に信者が無条件で受け入れなければならない信条がある』 L 『実は宗教だけてはなく科学の理論もそうなのだ。 根元ではコミットメントが必要になる。 ニュートリノや、空間の歪みは人が実際に見た訳ではない。 しかしその科学的事実を根拠付ける科学的原理に対して、私たち皆がコミットメントしている為に無条件に信じるのである。 つまり概念に囲まれた現象の世界では、他者を知る為には、どんなに厳密な根拠付けをしても、最終的には自覚する「私」のコミットメントが必要なのである。 しかし心霊の世界では言語ゲームが精練されているので家族的類似性が無用となっている。 其処では神を示す必要が無い、心霊科学が語る神は常に人の傍らに立つのだから。 家族的類似性の中での言語「神」と精練された言語ゲームの中での「神」はその表出が全く違う。 従って心霊の世界で活動する、有りのままの姿の「神」は、自覚する「私」の概念を受諾し得ないのである。 概念が求める神は超越者であるから、人間とは本質的に断絶がある。 だからこそ帰依やコミットメントを人間に強いるのだ。 君が宗教に押しつけがましいものを感じたのはその為であろう』 K 『そうその通りだと思う。私が宗教に失望したのは、概念に囲まれた中で神を見ようとしたのが行けなかったのね』 L 『現象の世界に居るとどうしても概念で心を曇らされてしまう。 神へ向かう真心も概念が閉ざしてしまう。 私は人の信仰を批判したが、自分自身の不遜を述べているようで、まことに心苦しい。 私は生きていた時、神を知ることは出来なかった。 つまり私は神にとって本当は不必要な人間なのかも知れないと想いつづけていた。 またそう思うこと自体が罪であるから、一生涯を私は、神と和解せずに過ごしてしまった。 この心境から救いを求めるとしたらそれは、次の様なことであろう。 私はイエスの信奉者であるので、私にとって馴染みのあるイエスの救済に付いて信じるところを述べる。 イエスの救いは与えたり下したりする救いでは無い。 審判と救済が表裏一体となるものである。 神の前で裁かれ、それと同時に救いがある。 人間はこの神理を文字道理に概念的に受け止めて、人間社会の裁判の様に考えてしまうが、裁判には救いは無いだろう。 神が問う罪と、社会の法を犯す意味の罪を同じに捉えては行けない。 “罪人”と表記するとそれが悪であって、排除しなければならない者の様に感じてしまう。 私たち人間は皆罪人である、というのは事実であるから、神に呪われても仕方がないと自分を卑下してしまう。 心霊の世界に在るなら、それは自覚する「私」が創り出した概念なのだと判るのである。 神に審判されるというのは、神の御前に、自覚する「私」が持つ概念を何もかも曝け出し、神の懐に入ることなのであって、概念的に罪を持つから審判が在るのでは無い。 私はこの審判と救済の形式をインフォーマルに実践するものが心霊科学的懐疑であると考える』 K 『…?L君、イエスの救済の説明が足りないって。救済の言語ゲームをもう少し述べなさいですって。 ということはイエスの救済を直接的に心霊科学的懐疑しなさいと言うのね、でもイエス様を直接知ることは出来ないでしょう、聖書を懐疑するのかしら』 L 『如何なる主張も、その主張の背景となる言語ゲームが示されなければ無意味なのである。 つまり、聖書が有意味であるのはそれが唯一の聖典であると信じられて居るからでは無い。 聖書の中にイエスが生きて其処に居る訳では無い。 聖書は私たち(心霊世界を探究する者)にとって何をも正当化できる根拠を示すことは出来ない』 K 『でも、現界に居る私たちが神やイエスを知るには聖書を研究するしかないでしょ。 聖書を否定したならお手上げじゃない。 だからといって今、L君の肩越しにL君の神様が見えるけど、ここで神様がこう言っているとしてしまうのは簡単だけど、 それだと只の霊信になる』 L 『私は言語ゲームを全うしなければならない。イエスの救いの境地とは何か。 それは聖書そのものの中には実在しない。 いわばそれは聖書のパラダイムとでもいうべきものである。 聖書の背景となっている聖書を成り立々せた人々は、イエスに何を求めていたのか』 K 『それが、聖書の語るイエスはどんな言語ゲームをしているのか、なのね。 ちょっ待って、それじゃ審判と救済と、“あはれを知る心”か同じものである と言っているのだから、だとしたら結局、聖書を心霊科学的懐疑するわけでしょ、そして最後に残る“あはれ”は何か、 でもこの探究の仕方は正しいのかしら、幾ら心霊科学の為でもね。 まあ、前稿ではお釈迦さまの教えを退けたわけだから…』 L 『心霊科学的懐疑とは、我々が我々自身を縛り付けてる概念からの解放を求める闘争なのである。 イエスはそれと同じ境地を持って戦いをしていたのである』 K 『だからどうしてそう言えるのか、根拠を示さないとだめよ… そうか、そう考えるから文献主義になるわけね。聖書で根拠付けるしかないから。』 L 『それは検証の原理の呼ばれるものだ。しかし、言語ゲームは行為する確実性を問う。 つまり、「ここにも救いがあるのか」と問われているのは、イエス本人なのである』 K 『その問いは神から離れているからなのだから、L君がキリストを認めているのならおかしいと思う』 L 『聖書は記述された、もう活動できない命題を集めたた遺骸なのである。 その意味ではここに記述されている事柄も同じ身分である。 聖書は行為しない。 行為するのは人であり、イエスその人でなければならない。 であるなら「ここにも救いがあるのか」の“ここ”とは何を指すのか! 「私が居なくても社会も家族も支障は無いだろう、だから出家して精進したい」 ―ここに救いはあるのか? 「人は業を背負い、苦しくて当たり前の人生。それならもっと苦しくて良いから早く死にたい」 ―ここに救いがあるのか? 「後は焼かれるだけの死体を、我々は故人の善意を生かし資源として有効利用するのだ」(移植医の発言) ―ここに救いがあるのか? 「医学は生きる者の為に技術を提供するのだ。予後の無い者を何時までも生かす必要はない」 ―ここに救いがあるのか? 「2050年には野性動物が全て絶滅するというデータが有る。 それなら全生物の遺伝子を保存しておくと良いのだ。いずれ蘇らせる事が出来る」 ―ここに救いがあるのか? これは破滅の言語ゲームなのだろうか…』 K 『私はみんな正しいと思う。その通りなのよ。この発言に救いは無意味なだけ。 こんな事を考えている人の心の中には自分しか居ないのよ。だから出家したくなる。 自分の思い込みだけで出家しても何の修行にもならない。 そんな僧侶に救済なんて出来る訳ないもの。その次の死にたくなるのは私のことかしら。 死ぬ生きるというより、とにかくもう現象にはうんざり、 その意味では家族にも社会にも隔たりが在るから、私の心の中には自分しか居ないのよ。 それを人に話すと母親だから子供が在るでしょって言われる。 でも後10年もしたら出ていくだろうし、夫はもっと当てにならないでしょ、 家族と言えども全くの他人には変わりないけれど、それが分かった上で助け合うのが理想なのよね、でも現実には足の引っ張り合い。 この日常に因縁論を持ち込むともっと遣り切れなくなる。 他の三つも似た様なものね。 それぞれの専門分野で自分の遣っている事が唯一の正しい道だと思い込んでいる。 だから破滅的な発言をするのよ』 L 『君はさっき言っただろう。同じ目線に立つのだ。心の闇に真正面から向き合うのだ』 K 『要するに、地獄に落ちてみなさいと言っているのかしら、心の闇に向き合うにはこちらも地獄に落ちないと駄目なのよ。 でも私たちは当の昔に地獄に居ると思うけど…、L君の心の闇は深すぎる。 それって不成仏霊って言うのよ』 L 『私は自分が不成仏霊であると認める。であるならば浄霊を求める。 そして、ここにも救いが在るのか、と問うものである』 K 『だったら、とっとと送られて仕舞えばいいのよ。このややこしい哲学といっしょにね。 まあいいか、イエス様の事になると弱気になるのね。 L君の思っていることは、つまり生身のイエスにここへ来て、直にL君の手をとって助け起こして欲しいということね。 「ここにも救いはあるのか」のこことは、私たちが今居る心の闇、自覚する「私」が作る概念の地獄なのね。 そして救いに来るのはイエス本人でなければいけない。 しかしそれは出来ない、何故なら聖書に語られているイエスも、人々が信じるイエスも概念だから、器の「私」に於いては無意味になる。 でもこれって、科学だけでなく宗教も敵に回すことになるのよ。 宗教も科学と同じ概念の塊に過ぎない。 心霊科学的懐疑の前には跡形も無く吹き飛んでしまう。 そして、それでも尚残っている、有りのままの実在を心霊科学は我が身として摂取し、成長するのね』 L 『聖書の語るイエス、そして人々の信じるイエス、その概念の作るイエスに私たち(心霊科学を志す者)は何を観るのか。 そう、“あはれ”であるはずだ。では何故それ等の概念のイエスに“あはれ”を観るのか。 それは私たちとイエスの間に断絶が無いからである。 言い換えれば、私たちとイエスの間にはアフォードに類似する情報か存在しているのだ。 だからこそ概念に過ぎないはずのイエスに対し、「救ってくれ!」と叫ぶのである』 K 『つまり救済は、聖書にも神学にも無い、言語ゲームに属しているのね。 それじゃ、イエスの救済の言語ゲームとは何なの』 L 『聖書の記述で目に付くのは、イエスの心霊治療であろう』 K 『言葉は悪いけど、それははっきりいって教団の営業だと思うけど。 色々な団体が有るけど、何処でも共通してるのはおかげ話よ。 それで信者を増やすのよ』 L 『それなら、この心霊科学協会が行う心霊治療も営業なのかね。 心霊治療には如何なる意義が在るのか。心霊治療で疾病が改善されて、その後どうするのか。 社会復帰するのだろう。ただ病気が治って有り難いで終わるのでは無いだろう。 社会人として今まで通りに生活できなければ、治ったとは言え無いだろう。 イエスがあの時代に行った心霊治療は只のおかげ話では済まなかった。 現代とは社会的背景が違うのだ』 K 『イエスは悪魔憑きや癩病患者をひたすら治しつづけて、地方を廻っている』 L 『イエスが反逆者とされたのは神の名を語ったからではない。病気治しをしたからなのだ。 当時のユダヤの支配者は、病気は神に呪われている証であるとして,法律が定めた病名によって病人を差別し、社会から追放したのである。 そんな病人にイエスは真正面から取り組んだ。支配者にとっては反逆者に見えて当然である。 そう考えるとイエスは今で言う解放運動をしていたのである。 イエスが心霊治療をして放浪したのは奇跡を見せつける為では無く、 解放運動の最も効果のある手段として心霊治療を選んだからなのである』 K 『イエスの救済は、復活して神の国に入ることというよりも、差別に対して戦ったところに原動力が在るのかしら』 L 『イエスは自らの霊能を社会運動までに高めたのである。 そして当時の人々の意識を根底から変えてしまった。そうでなければ只の祈祷師だろう。 二千年たった今でもその名が讃えられるのは、私たちの社会に強烈なアピールをしたからなのだ』 K 『つまり、救済は心を癒すとか、病気を治すだけでなく社会にも影響を与えて然るべきなのね』 L 『救済という言語ゲームに属する活動が人の社会に表出されると、それは正にあらゆる差別との戦いなのである。 奇跡やおかげ話は概念である。 病気が治り、有難く思うのは、痛みが無くなる以上に、日常の暮らしに戻れるからである』 K 『その解放運動の意味ではお釈迦様も同じね。あの時代の厳重な身分制度による差別と戦ったのね。 その最も効果的な戦術が“無”の主張だったのね』 L 『私は、心霊科学に何が出来るのかに付いて述べている。 心霊科学を志す君たちが古代の先人達の後に続くことが許されるように祈っている。 解放運動は、自分の人権だけを主張しても事態は一層否定的になって仕舞う。 互いの人権を認め、尊重し合う事で解放への道が開ける。 そう、これは言語ゲームそのものではないのか。 であるなら、言語ゲームを論理的背景に持つ心霊科学の職分は明白である。 心霊科学はどんな場合でも、今ここに生きている者達の側に立々なければならない。 神は元々、在りのままの実在なのだから弁護したり、擁護したりする必要はないのである。 何故なら、人が生きている時は類魂が所与し、そして人が他界して類魂に入れば、今度は類魂として人に所与する立場になる。 これは生きている者であるところの“器”がこの世界の確実性を保証することを意味している。 つまり神自身がこの世界を創世したのではないのだ。 それは結局、心霊科学に人が在るがままの人霊としての解放を求めているのだ』 K 『一見、観念論に思えるけど観念論は自覚する「私」が作る概念だから違うのね。 器の「私」を解放し在りのままの人の霊になれば“あはれを知るこころ”を持っているのだから、在りのままの神を知ることも出来る。それは神の解放にもなるのかも知れない。 私たち皆が“あはれを知るこころ”を持てば神と人の間の概念の壁を取り除くことになるから』 L 『そうだね、宗教は人と神の間に概念の壁を何重にも張りめぐらせて、神を隔離したのだ。 しかし“あはれを知るこころ”はそんな概念の壁など物ともしない。だから人は生きていられる。 もし本当に神は絶対者で人と本質的に異なっていたなら人間は始めから存在していないはずである。 神と人は言語ゲームを共有している。 でなければ人が“あはれを知るこころ”を持っているはずがない』 K 『なるほど、“あはれを知るこころ”を解放するのが心霊科学の直接の役目なのね。 だとしたら、“あはれを知るこころ”を差別するものは何なのなしら』 L 『差別は全く根拠が無くして、意味嫌う言動をする。 根拠の無い行為という事は言語ゲームに属するのだ。 しかしそれは、他の「私」を排除する「私」の為のみにある言語ゲームなのであって、「私」が「私」を差別する。 つまり器に対する差別であるから、人の霊性そのものを排除するものである。 それは、因縁論的差別、霊媒蔑視、最後の審判、選民思想、独我論的生まれ変わり、愚像崇拝蔑視等である。 心霊科学は勿論、遺伝子信仰、知能指数偏重等の一般的差別とも戦えるが、器の「私」はそれらの解放に対して法や道徳、倫理よりももっと確実な根拠となるはずである。 法や道徳、倫理は一般的差別と同様の、自覚する「私」に属する概念なのであるから、概念と概念がぶつかり合っても魂の解放には程遠いのだ』 K 『何時も感じるけど、大変な事を異とも簡単に言ってしまうから付いていけない。 これだと宗教の存在自体が霊に対する差別になる。それって言い過ぎじゃないのかしら。 説明しなさい』 L 『その神を信じなければ救われない、と言うのであれば、それは人間の霊に対する差別である。 それは分かるだろう。言語ゲームの世界では自覚する「私」が信じようと信じまいと、器の「私」が在るなら救いの道は常に開いている。 であるからこの器の「私」を拒否するなら差別以外の何者でも無いのである。 しかし、その中に身を委ねている人の在りのままの姿を観るときに、私は何も批判は出来ぬのである。 信じなければ救われない、という神は人には語る言葉を持たぬ。 それにも関わらず人は、その神に信仰を持とうとする。 であるなら信仰は言語ゲームに属するのだ。人の信仰心と教義や信条は別である。 人は思弁や規則によって神を信ずるのでは無い。 信仰とは、今この瞬間に神を知る事である。 それは器の「私」が人に語っているのである』 K 『その“人”はL君なのね。私は神には其処まで有り難くなれないの。 なんというか、私は神には何も用事は無いのね。否定しているのでは無くて、神に対しては人として生きる義務以外には何も必要はないと考えているの。 しかもその義務は私にとっては納税の義務に近いものだから、信仰心なんて少しも起きない。 素直じゃないのは分かっているけど、L君の心は良く分かるの、でもだから何なのって言々たくなる』 L 『君は、君自身の器の「私」に言葉に耳を澄ましたことはあるか。 在るはずだ。霊能者なのだからね。私は不適格ではあるが指導霊として君に委ねられたのだ。 勿論、神によって。それは君の器が立派に機能しているからである。 それに気付かないのはおかしい』 K 『…それはやっぱり、意思と器は別だということね。 私が好むと好まざるに関わらず器の「私」が働いてしまう。 これを書いているのだって、ある日突然L君が連れて来られて、否応なしに遣らされているもの。 そうか、意思と器が噛み合っていないのは統一が取れていないからね。 私は今まで修行なんてしたことないし、精神統一もしたことないからどんなものか分からないの。 それでずっと遣って来たから必要を感じなかったけど、心霊科学を実践するには不可欠なのね。 自覚する「私」と器の「私」が連携できていないと心霊を正しく認識できないし、実践することもできないのね。 私は霊の姿や霊の世界が見えても“あはれ”が観えていなかったのかも知れない』 L 『君もやっと心霊科学が分かってきた様だね。 心霊科学の先達はずっと精神統一の重要性を説いてきたが、正に今君が言った事なのだ。 どんなに優れた霊能力でも、其処に“あはれ”が無ければ救いの道は開かないのだ。 霊能力というものは“あはれ”が表出されなければ全くの無意味なのである。 君が今まで思っていたように、神なんて要らない、になってしまう。 そんな訳で、心霊科学の先達はここで述べられて居る込み入った論理は知らなかったと思うが、全くその通りの事を実践して後に残したのである。 自覚する「私」が概念的に知らなくても、器の「私」との統一が成されていると正しく行為できるのだ。 このように、心霊科学は行為する確実性の表出を積極的に利用し社会に貢献するのだ。 以上を纏めると、霊能とは何か、それは器の「私」を発揮し、目前の概念を越えて、行為する確実性を与え合うことである。 その本質とは、身体や意識とは独立して言語ゲームに実在する“あはれ”なのである。 であるなら、その本質に向かう姿勢、即ち“あはれを知るこころ”こそが心霊科学的救済なのではないかと主張するものである』 K 『本質としてのあはれであるなら、一般に言う本質と意義が違っていると思う。其処を確かめたい』 L 『良い所に気付いたね、本質概念は研究者によって観方が違うが、 一般には現れている事態に対してその事態の中に隠されている普遍的な実在を本質と言っているのではないだろうか』 K 『それは人に例えるなら、今L君の言った本質概念というのは、人の本質は現れている身体に在るから、身体を最小単位になまで切り刻んで調べようというわけね。 だから科学は人間の全てが遺伝子に在ると言っているのね』 L 『では、言語ゲームはどう考えると好いのか。 言語ゲームの中では事態を切り刻むことは無意味である。 事態の一つ一つは独立しているので、幾ら切っても構わない。 しかしそんなことをしても本質とは対面できない。 既に分かっていると思うが、本質は事態の中に在るのでは無い。 言語ゲームの本質概念とは事態は生き者であって、その全体は有機的に活動する。 であるからその意味で事態の活動を記述することは可能(ウィトゲンシュタインはそれを展望という)である。 ビデオで撮影するようにね。 それを切り刻むのなら、映像を限りなく駒落としして見るようなものである。 こんな観方をしてたいのでは何時まで経っても先に進めない。 人々はこの映像を楽しみたいのであるから』 K 『L君以外の霊に、心霊科学と物理を結び付けるのはホワイトヘッドの有機体の哲学だと言われていたの、 でも言語ゲームから有機体へ向かうにはどうしたら良いか分からなかったの。 なるほど、類魂の言語ゲームを展望するとその全体は有機体になっているのね』 L 『そう、それも遣らなければならない。なにせ心霊科学は問題山積だからね。 あれもこれもだと流石に参ってしまう。其処で心霊科学を大きく三つに分けようと思う。 T審神者論、心霊科学的懐疑によってあはれを知るこころを磨こうと言うもの。 これは社会学へ向かう可能性を持っている。 U心霊科学的認知論、霊能や霊感等の霊的知覚に関する認知であるが、今までの論述では不完全であるのでもっと詰めて行かなければならないが、 最終局面では脳内ではどうなっているのか、になるだろう。 V類魂論、ここで有機体の哲学が要求されている。物霊の解明が大きな鍵になっている。 言語ゲーム、有機体、物霊を展望する道を探究しなければならない。 以上を言語ゲームを論理的背景として統括していく。 西洋の学問はギリシャ哲学以来、二千年の伝統が在るが、心霊科学は今やっと基礎研究の段階に来ている。 類魂内の知恵を総動員して、一歩でも他の学問に追いつきたいものである』 日本心霊科学協会の機関紙「心霊研究」1999年12月号掲載 |