奉仕としての所与


「歌は生まれるもの、生まれると言う事は霊界からの霊信の歌である」『心霊研究』・380 p46.

まったく同じ内容、同じ形の一つの歌でも人によって心像が違っている、和歌は命題のアスペクトの典型である。

霊能者というアスペクトする命題、サニワはそれを展望するのである。

言語ゲームのもう一つの特質的事態、それは“所与”つまり奉仕である。

記述できないこと、即ち言語ゲームに属する事を実体と錯覚し記述しようとする所に誤りが生じる。

それが哲学の全てであろう。同様の誤りが心霊科学を困難にしている。

心霊科学的奉仕の背景には、実は哲学上の問題である確実性が潜んでいる。

私は生前、死後の世界や霊に付いて私なりの理解をもって有ると思っていた。

他界して最も驚いた事は、心霊の世界は哲学上の問題の一つである確実性が問われない世界であるということだ。

この事態は何を意味するのか。現象の世界と心霊の世界は確実性に関して、全く異なる形式をもつのである。

霊になると人間の感情体験を自分のことの様に知覚する場合がある。その場合は確実性という言葉すらない。

その人間と私は一つになった感じがする。一つ言える事は、その人間と私はある言語ゲームに属していて、

それは私が生前分析したどの言語ゲームよりも、より一層言語ゲーム的なのである。

他の人の感情を体験するなど現象の世界では在りえない事である。

そのため当時は、E.S.P.なる語には否定的であった(それはある意味で今でもそうである)

人の内的体験が分かると言うことは、現象的にはその記述内容自体の確実性が問われる。

なぜなら「そんな筈は無い」と非難されるからだ。しかしいつの場合でもその確実性が問われるのは、

その発言の中に概念的響きがあるからである。そう、「霊は存在する」、「いや、そんなものある筈がない」である。

デカルトの確実性、絶対的原理を求めて少しでも疑わしいものは偽とした。

しかし思考の主体である自分を疑えば、世界の全てが失われてしまう。そこで「我思う故に我有り」とした。

しかしその「我」とは何なのだろうか。

ライプニッツ、フレーゲ、ラッセルの確実性、数学的真理によって導かれた法則こそが

人の思考に先立って求められる確実性である、と言っている。

ずっと言語ゲームの世界を観て来た私たちにとっては、この文は何を言っているのか分からない。

しかしいずれにせよ、確実性は人間の行動様式の基礎である事は理解される。

心霊科学の確実性とは、人の行為そのものを言う。

類魂による洗練された言語ゲームでは人の行為は世界像の表出であるから、真偽は問えないのである。

私たちは今まで確実性に対し、つまり科学的検証に於いては、確実性を求めることや得ることのみを考えてきたが、

命題が鏡になる状況とはどんなことか、それは互いに確実性を与え合う事ではないのだろうか。

人が行為するのはアスペクトの可能性を増やすことである。ここで言う行為とは、業の遣り取りを主体としたものではない。

心霊には本来、取った取られたの関係はないのである。そう見えるのはその人が概念の中に居るからなのである。

つまり「与える」、「奉仕する」は、洗練された言語ゲームに於いては最も本質的な事態なのである。

そう考えると心霊科学の確実性とは、私たちの生命の営みそのものを意味していることが判る。

それは他の何者によっても疑い様の無い行為する確実性なのであって、ここでは知識を体系化し、

唯一の原理を求めると言う作為は拒否されるのである。

言語ゲームは私たちにアスペクト変移の可能性を与えそれにより私たちは互いに鏡となって、世界像を映し合う。

それが確実性の正体である。であるから鏡となって照らされている側の私たちはその光、

すなわち、世界像を検証したり記述する事は出来無いのである。であるから私たちはひたすらに、世界像からの光を映し出すのみである。






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