・類魂的アフォード

*人の行為に関して、それが物理的所与か霊的なものに因るのか区別するのは難しい。

電車に乗っていて、車体の揺れに応じて身体の姿勢を調整して転ばないようにする。それは一々考えなくても殆ど意識しないで遣っている。

逆に慎重に考えながら行動する事も在る。暗い中を手探りで歩く。揺れる吊り橋を渡る等の様に。これ等は環境のアフォーダンスの例。


心霊も無自覚に遣らされている事が多いと思う。何年か前ですけど、それまで全く寄った事のない古本屋に何となく入ったら平田篤胤の祝詞の本が在って、

直ぐに買ってしまったのですが、それから数カ月後に平田篤胤を調べる事になりました。それとは逆にこれを書いている
様に、

はっきり自覚が在って遣らされている時もある。環境による行為と類魂によって表出される行為とを見分けるのは難しい。

L君は将来的に心霊科学の不利になら
ない様に釘を刺して置きたいのです*


環境には類魂は有り得ない。それは何故かを考えればわかる。環境の中の人間。環境のアフォーダンスは人間にどう振る舞う事を要求しているのか。

環境の中の情報の全ては概念なのである。つまり、認知科学のアフォーダンス理論をそのまま心霊科学に持ってくると、

カントールの集合論と同様の誤りを犯す訳である。論理学的背景は同じでは在るが、

本来の言語ゲームとアフォーダンスは類魂に於いてでなければ語る事は出来ない。記述科学は概念しか認めない。

たとえ言語ゲームを用いた理論で在っても、それはただ有用であるから使用したのであって、

決して人の知覚と行為の真の姿を見極めたものでは無いのである。現象の世界に住む我々は、我々自身の知覚と行為を探究する事に

因ってしか世界の本質を知り得ないのである。だからこそ我々の日常の知覚と行為に関して心霊的と概念的を区別しなければならないのである。

もし環境が概念だけで構築されている世界であるなら、人はその中に身を置く事が出来るのだろうか。


つまり人が現界に在るのはどういう事なのか?環境は我々にある志向性を与える。我々はその志向性を探りながら行動する。

進化であるなら環境の志向性が生物の遺伝子を選択する。この様に環境が“提供”する身体に類魂が所与するとは如何なることなのか。

そう、身体の「私」と自覚する「私」は環境のアフォードによって造られた器なのである。

つまり此処では「私」の主体性を問うているのでは無かったのだ。「私」を通して環境と類魂が向き合っていたのである。

これは小山君の論述の反芻である。器の「私」を認める事は、環境と類魂に共有できる言語ゲームを与える、

即ち未発達の霊に向上の場を保証するという意義を持つのである。
そう考えると器の「私」は単なる霊媒では無いのだ。それは救済の場なのである。

生物は環境内の或る関連した事象がアフォードして身体という器が与えられたのである。

しかし元々、環境の中の情報は一つ一つ閉じた概念なのであるが、つまりウィトゲンシュタインの言う家族的類似性である。

それが何故、アフォーダンスの知覚として一つにまとまり、器の「私」を造るのだろうか。



ピア・スピリチュアル