地球霊の司配する地球

テクノロジーは人が物霊を利用して上げる事で、宇宙の向上に一役買っている。であるから技術が進歩するのは大いに結構な事である。

所でこの協会には科学技術の守護神が居られるそうだが、そう言った意味でこの協会は物霊と深い関わりが在るらしい。


私はこの論述の中で「低級霊」を使わぬ様にしてきたが、それは言語「低級霊」はある特定できる一個の低級な霊が此処に居る、と言う印象を与えるからである。

しかし類魂論によればそうでは無い。「高級霊」や「低級霊」は類魂のある状況に対して名付けている様に思う。

とすれば「低級霊」の状態とは、物霊を沢山抱えている類魂を指しているのであろう。しかし議論の対象を宇宙全体に広げてしまうと、

物霊の量で霊を区別するのは無意味になる。何故なら宇宙の奥の院に鎮まる最も高貴な神こそが最も多くの物霊を保有しているからである。


初期の類魂論では、物霊は鉱物の霊であると述べていた。確かにそうである。そして、遣り取り出来るものでも有ると言っていた。

更にカタストロフィー理論での数学的解釈もある。問題は説明よりも、如何にして「物霊」を日常の中で使用するのかである。

物霊に関して、現象の世界で表出される、物理的に記述可能な志向性を探究のテーマとするのが自然科学であるなら、心霊科学は逆にその志向性から物霊を解き放す。

であるなら物霊は概念その物では無い(*概念は解くと全く無くなる)つまり神は物質の背後霊という訳では無い。

小山君は地球霊としての神は鉱物の世界を司配しているが、直接的に鉱物を救うことは出来ないと言っていた。

それは、私たちが一般的に考えている意味の背後霊とは違う所与の仕方をするからである。言い換えるなら神は直接的に物霊を使用する事が出来ないのだ。

だから司配しても救済できないのである。それを例えるなら鍋の中の煮物である。私たちは鍋ごと煮物を運べるが、煮物そのものは熱くて触れない。

神は類魂全体を操作するが、その中の物霊を“摘む”事は出来ない。
地球霊の司配する地球、即ち環境のアフォーダンスは生物を行為させるだけではない、

長い年月の内に私たちの進化にある一定の志向性を仕向ける。この場合、遺伝子に主体性を与えるのは無意味である。

この所見は科学的事実に成りつつある。それに対して心霊科学はこう考
える。結論を言うなら、環境が私たちに仕向ける志向性の正体は物霊であると思う。

つまりそれは今まで私たちが知っていた、物質や霊とは異なる、ある種の新しい実在である。

私は非常に危うい発言をしている。環境が人にアフォードする情報と類魂論の物霊を同一視しょうとしているのだ。

その根拠は何なのか、出来るだけ筋道を立てて述べたいが中々難しい。弁解になるが心霊の世界には「説明」は無用なのだから。


人は類魂によっても、環境によっても行為を与えれる。そして両者は言語ゲームという論理的背景を持っている。恐らくこれは、

心霊科学と記述的科学の最も注視すべき接点である(もしこれを類魂か環境の何方か一方に還元しょうと考えるなら、それは概念論である)


アフォーダンス理論で知覚する事柄は、その知覚の中に既に行動の指令が含まれている。知覚は自覚する「私」がその場になっている

(自覚しなければ知覚とは言わない)。知覚の中に行為の元が在るのなら、それを仏教的に考えると、アフォーダンスの知覚も業と言える。

しかしこのアフォードによる業は、所謂想念とは異なる。

概念にならない業なのである。業の一つの形態では有るが因縁生起のサイクルには含まれないのである。



今、君に目掛けて石が飛んで来たとする。この石はぶつかる事をとアフォードした、君は咄嗟に避けて怪我をせずに済んだ。

この状況を因縁であると考えるなら、石が飛んで来たのを因とすると、この場に居たのは縁で在ろう、もし怪我をしたなら報いと言う事になる。

良いか言語ゲームの世界はこじつけや言い訳の世界では無い。こんな説明はナンセンスである。核心とする所は、その行為の理由では無く、

石が飛んで来たらそれを避ける、その当たり前の行為そのままが真なのである。



 類魂の中での物霊とそれに伴う救済や奉仕こそが心霊の在りのままの姿であって、一般的に言われている、

現界の思考習慣から抜け出せない心霊現象は概念的であるから真では無い。とL君は言いたいらしい*






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