概念としての因縁

「私は因縁が深い」を10回唱えてみよ。その後で君はどう思うか。「その通り自分は因縁深い者であるから、すべてを神に委ねるのだ」と言うのはまったく型通りの答えであろう。
しかしそれは人は何も出来ない幼児の様な者であると言う思い込みを前提としているのではない
のか。確かに概念としての創造の神に比べれば人間は細菌みたいなものだが、
類魂の大多数を占めている未発達の霊達にとっては頼るべき存在なのである。神に委ねて、そこで呑気にされては困る。

同じく「私は因縁が深い」を唱えてみる。私なら、一日中気が滅入ってしまう。それなら何故神は人間を創ったのかと訴えたくなる。
人が罪と業によって生まれてくるなら始めから人類など無い方が良かったのである。

「因縁」なる語には他人も自分も責める否定的な響きがある。私は、同じ地域に同じ時代に生まれた人間は、同じ世界像を与えられて活かされていると考えている。
それがよこの類魂と呼ばれるものであって、その様な意味で、神の前で人は皆平等であると言うのである。
それなのに「因縁」にこだわる者は確実性を概念に求めて、「私は因縁が深い」「あの人は因縁が深い」と発言してしまう。
この表現はすでに一般的であるが、心霊科学には全く無意味な命題である。


一生障害を背負う人に面と向かって「貴方は因縁が深いからそうなった」と言えるだろうか、少し心霊をかじるとその様うなことを平気で口走る者が多い。
この場合の「因縁」は差別用語である。心霊科学を志す者は「因縁」が実在するものであるかの様に発言する事は控えるべきである。
「因縁」なる語は私たちに何も与えてはくれない。そう、心霊は因縁で終わってしまっては行けない、それを見極めた上でそこから神へ向かうのである。

「先祖の悪行が子孫に報いる」と言う。言語ゲームの全ての事態に付いて言える事は、それが常に進歩的肯定的であると言うことである。
この「報い」の論理とは、今自分が苦しいのは先祖の悪行の為である、だから当然子孫の役目として先祖の悪行の被害者に詫びるという行をしなければならなくなる。
この論法が正しいなら生まれつきの障害を持つ者はどうなのだ、そんな人達は一生涯先祖とやらに詫びて生きなければならないのだろうか。
またこうも言える。自分が先祖の立場であるとして、今自分が悪い事をしても子孫がその罪を肩代わりしてくれると言う事だ。
もしそうであるなら子孫として生まれて来る事が罪になってしまう。人として生きる事自体が否定されかねない危険な考え方なのである。


身体の「私」に主体があると思うから、つまり自分を中心に置いて、「なぜこんなに苦しいのか、それは先祖の因縁だ」と考えてしまうのは非常に短絡的である。
現象の世界から物事を見るから、こんな「報い」の論法に行き止まってしまう。しかし先祖が苦しい姿を見せるのは事実である(そんな私もそうであったので人のことは言えないが)

私が霊の側から言いたい事は、人間がリードすべきであると言うことだ。人が苦しいときは確かに霊も苦しい
しかし、心霊科学を志す者はこの苦しみが霊障であると考えるのは間違えである。霊障という事態は存在し無いし、その原因としての因縁霊を想定するのも無意味なのである。
霊と人の関係を原因と結果という概念で結び付るならそれは心霊科学では無く“お告げ”になってしまう。 人は行為する確実性なのである。
であるから霊と一緒になって苦しがっていても仕方が無い。人が先に立って霊達を励まし、その苦悩の泥沼から救い上げて遣れば良いのである。


*行為する確実性とはこういう事だと思います。この文を書いていて気が付いたのですが、あれこれ考えるよりも書く事そのものが次に書くことを規定して行くわけです。
書くことで考えが纏まってくる。会話も話す事が次の会話を促します。そんな状況は確かに分かる。
だから
思考に行為の原因があるのではなく、話すとか書くとかの行為そのものがつぎの行為を生むという考え方です。
精神が独立して存在しているのでは無く、行為と分けて考えては行けないと言うことです。とすれば縁起思想との関係はどうなんだろうか。
どうも言語ゲームは縁起思
想とは違うらしいです*

ピア・スピリチュアル