「心霊研究」

1999年6月号掲載                                                                                 ピア・スピリチュアル

《心霊科学上の諸問題に関する哲学的考察》

                              以下*は筆者です。

*始めに、

 哲学は知識の確実性を問題にしますが、それが命題の真偽を調べるということ。科学では懐疑的という形を取る。そしてそれらすべての探究活動に言語が先行すると考えるのが筆者の指導霊で執筆責任者のLの立場です。なぜなら哲学にしても、科学にしてもそして宗教も、みんな言語によって記述され、活動するからなのです。これを言語批判と言います。宇宙の仕組みもそれに反映されているはずであるから、言語と諸事態の関わりを調べて行けばよい。それは心霊科学も同様であると主張しています。

 哲学をする上での言語のルールとなっているのが論理学で、科学もその論理学的ルールに従って理論を創るから、論理学上の誤りがあるとその理論はダメ。その誤りを正す作業が懐疑という訳。

 そう言う科学の論理学的ルールは20世紀の始め頃に確立されて、そのお陰で科学は大いに進歩できたのです。心霊科学はその既存の自然科学とは全く違う立場の科学なので論理学から考え直す必要が有るそうです。つまり心霊科学の為の論理学を見出そうと言うのです。

 それで、現代論理学の出発点はフレーゲの「概念記法」という著作。その成果が量化理論や記号論理学と呼ばれるもの。概念記法は数学の集合論や数論を論理学に持ち込んだ考え方で、現代の科学は数学言語とその中での論証や分析によって発展したのです。その典型が物理学の理論。ですから科学の中て使われている数学は記号論理学と見なされています。しかしこの文章の主題となる言語ゲームの発案者であるウィトゲンシュタインは、この概念記法は間違っている、カントールの集合論はおかしいと主張して、今までの哲学とは全く違った哲学を明らかにしますが、霊の先生方はこのウィトゲンシュタインの言語ゲームを心霊科学の論理学として採用しようと言うのです。

 言語ゲームの一つのポイントは家族的類似性というもので、これは今までの論理学を根底から覆す発見で、小山先生の物霊と深い関係が有るらしいです。

指導霊が替わるとまるで別の世界になってしまうので今度は心霊を哲学しようと言う訳です。調べて分かったのですが、この後期ウィトゲンシュタイン哲学は哲学の研究者でも難しいものらしいのです。それはやはり心霊科学の哲学なので、今までの科学の体系からはみ出していたから違和感が有ったのだと思います。霊の先生がとにかく心霊科学のことだけを考えろ、と言うのでそのように心掛けて受けたのですが、こう言う文章は文脈を追うのが非常に難しいので、間違えているとしたらそれは受け手の私の限界だと思います。その点はご容赦願います。

 

  ―感覚与件―

 私(L)は彼女に憑依しているのだろうか、彼女の感情を共有する。彼女と共に笑い、イライラし、時に子供を叱り付ける。そして彼女は私の心の中の思索内容を吸引して行く。私はその度に脱け殻のようになってしまう。私はどうなってしまったのだろう。私は彼女の脳内の中枢神経の一つになっているのだろうか、彼女からの下行性のシグナルを受けて反射的に興奮しているだけなのだろうか。彼女が私を知覚しているなら、これが感覚与件と呼ばれるものか。しかも彼女はそれらの感覚与件に類似したものを寄せ集めて勝手にLであると思い込んでいる。それにも関わらず私には自分であるという自覚がある。彼女がLであると知覚している私と、私が私であると自覚している私は同一の私なのだろうか。少し気を緩めるとこの様な錯覚に陥ってしまう。勿論この記述は間違えである。私が彼女の単なる知覚であるなら始めから何も語る資格は無い。

今、霊と呼ばれる者になって一層深く自分をみつめている。

 

一般的には、

命題、「私はLという霊が見える」は間違えだが、「私はLという霊を見た気がする」は正しい。ではここに綴られる霊信らしきものは何なのか、「〜と霊が言った感じがする」と文末に付け足せばば正しくなるそうである。

 

 彼女にとって私(L)という表現形式、これは一つの像であるが、私の像そのものと、その意味は一致していないのである。彼女の心の中では、私という表現形式を構成する要素の一つ一つはある家族的類似性を持って、これがLであると、一まとめにされているだけで、生身の私では無いのだ。であるから彼女は私を私としては現すことは出来ないはずである。彼女には私が私本人であると言う意味を与える何物かが欠けている。と言うのがウィトゲンシュタイン哲学の主張である。つまりこの様な意味に於いて、霊の存在を問うことは哲学上無意味であると言っている。

そして、それでもなお私は「自分は有るのだ」と主張するのである。如何にしてそれが可能なのか。

 核心とするところは、霊の存在を問うことよりも、それを展望し、使用する事なのである。私を展望し、使用することが出来るなら、私は新しい世界で有り続ける事が出来る。ウィトゲンシュタインはその可能性を否定しているのだが。

 彼女に欠けている何物かを、ウィトゲンシュタインは物理的対象に近いものと思っていたのだ。彼が発見した家族的類似性は、物事の物質的側面の限界を見極めた結果、発見したものなのだ。しかし彼はそこから離れることをしなかった、あくまでも物質の側から神を見ようとしたのだ。つまり、神と自分との間に家族的類似性と言う断絶したものを感じていたのである。だから語り得ぬもの(*神のこと)を知りながら展望できなかったのである。

 要するに頭を切替えよう、霊の立場から物事を考え直してみようと言いたいのである(他界しろ、と言っているのでは無い)

 では物事の物質的側面に縛られている私たちは、どの様にしたらそこから抜け出せるのか。語り得ぬものの側から世界を展望するとはどのようなことなのか。

 それは自分自身に問うことである。人間が自分自身を展望し使用することなのである。物理的対象としての人間に捕らわれてはいけない、私たちが自己と思っているものと霊は同じものなのである。これに気が付くなら、より純粋な言語ゲームの世界、類魂の世界が見えてくるのである。

 彼女が言うには、「もし自分がその器なら、神は必ず答えてくれる」そうである。

宜しい、それでは我々はその器になろう。

 

  ―「私」―

 物事を見極めようとするなら、先ず言葉の使用について考えると良い。諸々の事態の本質的所与が、私たちの使っている言語に反映されているからである。それなら心霊はどうであるのかである。

 言語としての「霊」の使用に付いて今まで心に止めた事は在るだろうか。「霊」を語るときに人は霊をどの様に理解して使用するのか。「霊は存在する」と言う時に人は「では何処にいるのか」と問う。この時「背後にいる」、「(部屋の隅を差して)ここにいる」あるいは、「私の腹中にいる」と答える。腹中にいるにしてもそれは、医師の診察に対して患者が自分の身体を指して「ここが痛い」と言うのと同じで、自分とは離れた所にある、自分とは別の何らかの実体と感じている。このような場合の「霊」という語の使い方は正しいのだろうか。

 人間の身長や体重、血液型、DNA配列などは物理的対象である。この人間の物理的対象となるものの一つ一つは人体のある状況を示すものである。“物理的対象”の場合は、例えば、「この現象の物理的対象となるものは速度である」のような言い方が正しい。「霊」なる語はどう使うと良いのか。

 そう、専門家と呼ばれる者でさえ無為に語の使用を誤り道に迷う事が多いのである。「神」「霊」「自己」等の語は、私たちにとっては重要な働きをするものであるから、使用方法を間違えてはいけない。

 いま述べた、言語「霊」は物理的対象に近いものであるという思い込みがあったのではないか。だから「それは何処に居る」と問えるし、それに対して「ここに居る」と答えてしまうのだ。ここで注意することは、物理的対象となるものは、ある全体の中から¨量¨となって抽出れるある一つの¨表示¨であって、現象の全てではないということである。無論、物理還元主義者はそれが全てであると信じている。

 命題は使うことによって意味を持つのである。無制限に真偽を問うことが¨正義¨であると言う思い込み同様に、世界のすべてが記述可能であるという幻想を持つ者が居るのだが、そういう者は自分の全存在が遺伝子の配列によって定められていると本気で信じているのだろうか。

 例えば彼女の場合、彼女が川崎久美子本人であると証明出来るものは何もない。家族が証言したとしても絶対に正しいという確実性は無い。全員が嘘を付いている事もあり得る。公的機関の身分証明書があっても、そこに記載されている事柄と本人である同一性とは別のものなのだ。今流行りのDNA鑑定にしても、それが一致したからと言ってDNAの配列が人間の全存在なのだろうか。

 人の証言にしても身分証明書やDNA鑑定にしても、それは社会のルールとして、それで身元を証明したことにしょうと決めただけで、自己の同一性を問うことは、哲学的にも科学的にも意味の無いことなのである。それは┌霊の身元を証明する┌ことも同様である。私たちは日常生活上の常識から、単純に自分自身の身元が証明できると信じ込んでいたのである。つまり人には、身体が示す「私」以外に本人が自覚する自分である「私」があるわけだ。その自覚する「私」が「霊」であると思い込んでいる事が心霊科学に混乱が生じている大きな原因であると思う。自覚する私とは目覚めている意識の事であろう。つまり知覚の統一体としての「私」なのである。この知覚は物理的因果関係によって外的対象と心像か結び付けられている意味での知覚なのである。かつて物理的に実在する外的対象と区別した心像を考えようとして、感覚与件なる概念があったが、これは哲学上の誤りである。それと同様の間違えを心霊科学も行っている。

 知覚の統一体としての「私」には実体性が無い。もし実体性があるなら物理的に記述できるはずである。私たちは何故かその知覚の統一体としての「私」に主体性を持たせたがる。そしてこの様な哲学的曖昧さの為か、それが霊なのだと結論してしまう。外的対象に由来する知覚を寄せ集めてみても、それに主体性があるはずは無い。であるから自覚する「私」を主体として自覚するのはおかしい事であるし、それに対して非物質的という意味での霊を認める事も正しくは無い。

 霊は物質の根本命題(*物霊?)であるが、非物質では無い。これは物質やそれを前提とした非物質、つまり一般的な意味での霊とは異なる、ある存在ということである。そう考えると、実は知覚の統一体である「私」が身体が示す「私」に存在の確実性を与えているのである。その場合前者の「私」を非身体とは言わないだろう。そしてこの様な事態を言語ゲームと呼ぶのである。

 一般によく耳にする唯物論や観念の概念も知覚や私、対象に付いての間違った見方によるものである。知覚の統一体としての私の根底には(感覚与件にしても)、外的対象と知覚内容が一致するという前提があるが、実体性の無い知覚を、外的対象と同一の論理形式を持つものであると考えるのはおかしいのである。

 外的対象の実在性を重視するのが唯物論、知覚内容の独立性を主張するのが観念であるが、何方も探究の出発点が正しく無いことがわかる。では霊をどう考えると良いのだろうか。身体の「私」にも、自覚する「私」にも霊は無いのである。「私」には霊は無いのだろうか‥‥。これが哲学の限界である。

以下は心霊科学的記述である。

 

  ―井の中の蛙大海を知らず―

 井戸の中のカエルはその狭い闇の中でじっと上方を仰ぎ続ける。そこから僅かな光が差し込んでくる。カエルはその光を見ながら、あの光は何なのか、あの光の所には何が有るのか、なぜ自分はここに居なければならないのか……と考え続ける。やがて何とか這い上がり、このカエルが井戸から抜け出し新しい世界を見渡す時、井戸の中の暗闇は消え去っている。もはや、哲学も科学も無用となってしまうのである。

 

 日本では伝統的に「代」、「台」なる言語が使用されているが、これは霊媒を示す言葉である。語「私」との関連はどうなっているのだろうか。「代」や「台」という事態での「私」は、先に述べた実在性や主体性の無い「私」の状況を顕著に現している。主体性が無いというのは道具になることであろう。これは言語「私」のもう一つの、と言うよりも正しい使用である。つまり霊に対する「私」は器としての私である。

 言語ゲームに於いてそれぞれの命題は、ある規則によって道具として使用される。それは霊と代の関係に類似している。であるから人を霊なる規則(根本命題)を乗せて動かされている道具と見なす。

 重要な点は、前述した身体の「私」や自覚する「私」を否定した後に、意味を持ってくるのが器の「私」なのである。

 知覚の統一体としての自覚する「私」と器の「私」は同じ記述内容(物理的対象)の身体の「私」を持つが、両者は同一の事態ではない。自覚する「私」が霊そのものではない事が分かると思う。

 概念とは概念記法により示される命題の主語のことであるが、言語ゲームに於いて概念を否定するとは、この主語の主体性の消滅を意味する。それは正に器としての「私」の事態なのである。そこで、概念を無くした「私」の使用は、

 「私は祈る」

 「私は奉仕する」

 「私は慈しむ」

 「私は労る」 等であるが、これは概念に翻弄されていない霊としての「私」なのである。今までの哲学ではこれらは単なる行為の表明であって、命題的態度と呼ばれていたのである。「私は〜する」の形ではあるが「私」が主体になっているのでは無い。この場合の行為は自分だけの為ではないし、自分一人で独立して行えるものでもない。それは、根本命題が「私」を通じて表出する行為であると主張するのが、心霊科学なのである。

 そう考えると、言葉の使用だけでは無く、人を命題として、類魂を人に所与する規則として、つまり一種の言語ゲームとみる事が出来る。とすれば心霊科学では人の行為そのものが問われるのである。例えば「人が苦しんでいる様だ」は知覚の心像として文字道理「苦しんでいる人が見える」のであろう。類魂の表出である言語ゲームなら、即座に「私はその人を助ける」なのである。

 

 心霊の世界では量化の意味は無い。量化の変項が存在なのであるから、存在は存在するのか。存在いついてどう考えると良いのか。全ての〜∀、ただ一つの∃!というのは間違えなのだ。心霊と言語ゲームの世界ではそのような意味での二項対立的な考え方はしない、みんな器の「私」なのだ。そしてそのすべてが私に与えられていると考える。であるから二項対立的世界でのコミットメントは無意味である。つまり類魂の世界では論理学は成り立たない。*言ってる意味が分かりません*

それはこう言う事である。人が霊魂を思い浮かべる時、丸くてフワフワしたものを想像するだろう。その場合エネルギーの固まりや人格の詰まったもの、幽体、霊体等と言う様に物質的な一塊の物がイメージの根底に在ると思う。その概念的先入観が心霊に関する全ての知識を捩じ曲げているのである。

 心霊科学で使われる命題は科学における記述命題や経験命題とは違うものである。その命題群を科学と呼ぶことは出来るのだろうか。なぜ心霊科学にはそれが許されるのだろうか。

 対象を任意に記述するのが科学である。しかし心霊の世界には任意という状況は無い。したがって哲学上心霊の科学は不可能なのである。しかしながらこの宇宙は類魂の所与によるものであるから心霊科学的立場が正しいはずである。科学とはある形式を持つ理論を創り、それによって現象をすくい取る。それで全てがすくい取れるとその理論は真となる。任意に記述するとはその様な事である。

 心霊は物理的対象ではない。既存の哲学や科学の形式によって、それを現象としていすくい取り記述することはできないのである。であるから、あの類魂のカタストロフィーなるものも心霊を記述するものでは無いのである。

 にも関わらず心霊の世界は、歴然とした秩序がある完璧に調和のとれた世界であることは周知の真実である。ここには別の姿をもつ科学があると確信するのである。…この確信は¨所与¨である。

 現界で今まで行われてきた哲学や科学には根本的な所で誤謬が在ったのだ。心霊的立場で言うなら、科学の理論は一つの発明品の様なものである。宇宙探査機と変わらない道具なのである。或る一つの理論を創る事で或る現象を記述し探索できる。それは〜主義や〜思想と言った精神的なものも同じらしい。これは他界してからはっきり分かったのであるが、人の心、想念、つまり自覚する自分も道具の一つであるのだ。

  核心とするところは、心霊に対する現象は全て器であるということである(正にそれが言語ゲームの本態である)つまり、心霊の器である特質の一つが物理的に記述できることなのである。であるから、心霊の科学的探究を考えた場合、記述可能な器の多様性を¨知る¨ことによってその内包的意義に於いて心霊を¨示す¨ことであるとすれば、その意味において心霊科学と言っても差し支えないのかも知れない。しかし知っての通りそれは旨く行かなかった。自然科学は内包を受け入れる事を躊躇している。

 科学の言語ゲームは語りえぬ者を認めない。しかし、洗練された言語ゲームは語りえぬ者の中に内包されている。概念をすっかり消し去ると何も無くなってしまうのが既存の哲学と科学である。心霊科学は、何もかも無くなったその後に沸き起こる息吹である。私たち心霊科学

を志す者はここで、アインシュタインにも似た意識改革をせねばならぬ。つまり心霊科学とは「私」の器としての使用とその根本命題の探究を目的とする学問であるといえる。こんな事は誰もがわかっている事である。そう私が述べている事柄は当たり前のことで、目新しい知識

は無い。そんな訳で、是非にとは進めないが、この記述が終わる頃には心霊科学のシルエットが多少は垣間見えるかも知れない、しかし見えるのは輪郭だけであろう、心霊科学には幾つもの姿が在るのだから。

 

懐疑、

 なぜ懐疑するのかと言うと、命題の真偽を検証するため、そして命題の検証とは、その使用である。正しく使用できるとその命題は真となる。つまり命題の正しい使用を見出す作業が懐疑と言える。であるから自然科学の懐疑とは理論の使用を妨げている疑似命題(自己、心、霊などに関するもの)を排除することである。

 では心霊科学的懐疑とは、それは言語ゲームを行うことである。言語ゲームを精錬して行くと概念を消去することになるからである。言語ゲームの論理学的展開とはこの意味に於いてである。

 私は論理学と心霊を混同しているのではく、論理学的に心霊を探究しょうとしているのである。学問上の諸問題と言うのは、新しい発見によって導かれるのでは無く、私たちが日頃慣れ親しんできた知識を組み立て直す事により解くことが出来る。

 私の仕事は、概念に凝り固まった私たちの思考を一度バラバラにして、今度は神へ向かう思考へ創り直す事である。

(哲学者は何に付けてもある論理空間を想定したがる。然る後でなければ神を認められない仕方の無い性分なのである。勿論神は論理可能性で在るはずは無い。そう思うのは神を世界の超越者と考え物理的に不可分であると無為に思い込んでしまっている事が根底にある)

 

  ―所与―

 

 ウィトゲンシュタインは言語ゲームの全容を明らかにするよりも、示す事に主眼を置いてた。彼にとって哲学的探究とは、枠で囲む事では無く開示する事であったからだ。その為に、他の人が彼の言語ゲームを完全に理解しようとするのを難しくしている。

 心霊科学の記述可能な部分はカタストロフィー理論で形式化できるが、心霊の殆どの部分である記述不可能な部分をどうするかが問題である。観測できる対象にだけ拘るなら自然科学と同じになってしまう。私は言語ゲームの成熟した姿が類魂であると考えている。であるから、言語ゲームの特質を明らかにする事で心霊科学を可能に出来ると信じるのである。これは飽く迄も心霊科学の為の言語ゲームの概要である。

 ・使用に着目した場合、各要素命題には共有する根本命題がある。それは命題の主体性の否定を意味し、要素命題が言語ゲームに使用されている事態である。人の場合は世界像として与えられる。命題は色々な場面で多様に使われる事で意味を持つ、類魂に所与される人間は生きることそのままが意味である。言語は使用されることそれ自体が全てである。ウィトゲンシュタインはその使用の多様性を文法と言っていた。心霊的に、使用されるとは、神の身体の一部となって神に与えられている事を意味する。であるから、ウィトゲンシュタインの言う「それは正に使用される」は要素命題が器になることを意味する。

 ・記述について、それは概念の否定。各要素命題には家族的類似性が有り、互いの繋がりは無い。これは実は¨よこの類魂¨の特徴を示している。よこの類魂は類似した者達の集まりであるが、守護霊は同一ではない。各要素の間には断絶があり連続性はなく、互いに孤立している。であるから、それらを「〜は〜である」という記述命題と同じものとして捉えてはいけない(*つまり=で結べないと言うこと)それを家族的類似性と呼んでいる。ウィトゲンシュタインは数も同様に家族的類似性があると考えて、数もそれぞれ独立しているので連続性は無いから集合論は正しくないと主張していた。彼は数も、文法的言語と同様の記号だと思っていたのである。確かに、集合論がそのままの意味で成り立つには記号とは違う何かが与えられなければならない。しかしながら現象の世界でそれを求める事は難しい。(*先稿に出てきた実在する近傍のことらしい)

 そこで以上の特質を持つ形態の中では、次の事が可能となる。

 “自己確認の可能性”

 「霊を見る」と「物を見る」とはどう違うのか、つまり物は見えるのになぜ霊は見えないのか、である。物を指し示すことを直示と言う。「これは〜です」と相手に教えることであるが、この場合、相手と自分の生活形式が同じでなければ意思の疎通は出来ない。そう、言語ゲームがあるから直示できるのである。自分自身に対して直示すると自己確認となる。これも私たちの日常では当たり前の事であるが、哲学的科学的には難しいものであると先に述べた。しかし、日常の常識とは言っても事実上は「私は〜である」と言うのは、身体の「私」を示しているに過ぎない。

 それでは霊を直示できないのか、である。

私と彼女と、彼女の家族とは同一の類魂内にあって、殆ど同じ内容の所与が有るにも係わらず、彼女には私が知覚できるが、他の者には出来ない、その差は歴然としている。家族的類似性の中では、各要素命題は互いに閉じている。つまり、それ自体ではなにも出来ない仮死状態の命題なのである。それらを機能させ使用するものが根本命題であるが、物を直示するとは、根本命題を共有するのではなく、逆に共有する要素命題があるから物を差し示す事が出来るのである。つまり人と人の間で直示する場合は、人が物に対して根本命題として働いて物を使用したのである。とすれば共有する要素命題があるから直示出来ることになる。そうであるなら、自己確認は身体の「私」しか示せない。おそらくこれが、「霊の証明」に関する本質で在ろう。直示に付いては、「霊」は直示できる要素命題ではなく「私」と同じ働きをする根本命

題なのである。そんな訳で、霊を直示する、つまり霊を実体の有る何かとして¨見せる¨等とはおかしな事になる。不可能と言うよりも、その要求そのものが無意味なのである。

 また、類魂の言語ゲームでの「私」や「自己」は現象学でのそれとは全く異なるものである。しかし言語ゲームに於いてこそ本来の自己を問える。器の「私」を認めることは、自我の「私」を消し去ることである。その後で無ければ人は互いに通じ合えないのである。

 人が人に直示するとき、それは物を示して「これは〜である」と言うが、これは「物」が言語ゲームの乗物となって人と人の間を行き来するのである。つまり「物」が命題となり器となって動かされている。その様な意味で物の背景となっている言語ゲームを物霊と呼ぶ。

 

 根本命題とは、検証できないがそれ無しでは私たちの

生存が成り立たない命題のことである。

例えば、「地球は百年前もあった」

    「私は死ぬまで人間である」

    「私は銀河の外へ行った事は無い」

などである。こう言う当たり前の事柄を科学は対象には出来ない。これは言語ゲームに属するものなのである。全人類が共有している根本命題の総体が私たちの言語ゲームの基盤なのである。(*L君はそれを世界像と言っています)

 

“アスペクト変移(知覚)”

 言語ゲームの世界、即ち主体性を消失した命題とはどんなものなのか、これは心霊科学であるからストレートに考える事が出来る。現象の世界に捕らわれていると中々難しい。しかし現象の世界にも類似した形態がある。それがアスペクト知覚であるが、やはり一つの関心事として、如何にして心霊を記述的科学と結び付けるのかである。そこで、アスペクト知覚をカタストロフィー理論と志向性の関連で彼女に説明させる。

*アスペクトについて、ウィトゲンシュタインの『哲学的探究』に沿って述べます。図・、これはウサギーアヒルの図と言います。良く見ると、うさぎにも見えるしあひるにも見える。この図を命題の一つとして考えると、記述内容は変わらないのに、人によってうさぎに見えた

り、あひるに見えたり、両方同時に見える人も居る。これは明らかに記述命題とは違う。つまり、この様な“見え方”については検証したり、真偽は問え無いことになる。このアスペクト知覚はその命題がある言語ゲームに属しているから認められる。『哲学的探究』にはそこま

でしか書かれていない、哲学だから当然ですけど。ではそれを心霊科学として考えよう。このアスペトの“見え方”の知覚は、視覚と思考が絡み合ってアスペクトのうさぎやあひるになるのですが、それを一般的に志向性と言っています。これは人の内的活動全体を差す言葉の様

です。志向性の研究をする最先端の科学が認知科学、人工知能の研究です。

  認知科学は志向性をどう考えているかと言うと。脳の中に外からの刺激がインパルスとなっ

て大量に入力されますが、中枢神経系はそのインパルス全部を一度に処理出来ないですから、

ある特定の情報に関連のある感覚に注意を向けます。その収束の数学的モデルが“ゆらぎ”

です。インパルスのゆらぎの中からある所に収束して、その収束が知覚となり、その知覚の総体が人の心になるのだと言う。ウィトゲンシュタイン的な主張ではこれはおかしい。インパルスの一つ一つは独立した記述命題なんです。図にすると波々になっていて繋がっている様に見えるけれど、実際には類似しているがバラバらのシグナルなのです。それを私たちは知覚として、何か纏まりのある、実体が在るように思ってしまう。この様なバラバらの情報を何故私たちは統一的に知覚するのか、何故私たちはバラバらの情報を扱っているにも関わらず、自己という意識に途切れがないのだろうか。L君はそれは器の私が働いているからなのだと言っています。行為を表出する器の私が自覚する私を一つに纏まった私として与えてい

るのです。

  つまり志向性に付いて、一般科学と言語ゲームでは見方が違っています。今までの考え方では行為にはそれに先立つ原因として意思の作用が在って、それは因果説なのですが、言語ゲームでは行為の原因としての何らかの実体としての精神は問題にしないで、行為するそれ事態

が志向性を実体化するものであるとしている。恐らくこの因果説的志向性と言うのは、超心理学の扱う精神の事だと思います。

 そして因果説的志向性はカタストロフィー理論につながります。数学のテクニカルな所は分からないですが、志向性のゆらぎがカタストロフィー的になって行く場合がある訳です。図・、そして図・。でもL君はカタストロフィーにはあまり好意的ではありません、示せと言わ

れたから説明しただけですって*

 

 それは、人が生きているそれ自体がアスペクトであるからだ。類魂のカタストロフィーの様に三つの変数によって定まるものではない。類魂の数だけアスペクトがあるのだ、その多様性を論理を立てて記述することは出来ない。カタストロフィーはその最も単純な事態に付いて

示しているに過ぎない。

 因果的志向性は心ではなく、概念の塊である。言語ゲームはこの概念の塊を消失させる。その意味で心霊科学は超心理学とは違う立場にあるのだ。主体性の無くなった命題が、つまり命題自身がアスペクトするのではない。人の側にもともとアスペクトの心像が生じていて、命題を見ることでその心像が命題に投影されそれを知覚としてしまう。

命題の記述内容とは別に、自らが命題に与えた意味を知覚した、それはまさしく、“かがみ”ではないのか。私たちは命題に自らの鏡像を見た、それがアスペクトである。人で言うなら、彼女の場合、彼女はどこから見てもただの主婦だが、所与により使用の仕方が違ってく

る。彼女は私の所与によって心霊科学者としての執筆を行っている。これが人のアスペクト変移である。

 もし人間の全存在がアスペクトにより成るとしたらそれはどんな事態か想像してみよ。そう、それが器の「私」なのである。更に器に徹するなら、いま私が述べている心霊科学的探究も必要無くなってしまう。鏡として表出する事に専念すれば良いのである。所与されているので

あるから、人の浅知恵で、右往左往する必要はないのである。と言う訳で、類魂のカタストロフィーは、命題が¨かがみ¨になる事態を示している。それは物霊に因ってなのである。類魂のカタストロフィーを一つの複合命題と考えて、(x.a.b )の一つ一つが要素命題なのだ。根本命題である物霊aが活きている実体であることを示している。

(私は、神を姑息な論理の牢獄へ押し込めようとしているのかも知れない。もしそうだとしたら、巷の自称救世主と同じではないのか,…)

 

*アスペクトについてのL君のコメント、

「歌は生まれるもの、生まれると言う事は霊界からの霊信の歌である」『心霊研究』・380 46.まったく同じ内容、同じ形の一つの歌でも人によって心像が違っている、和歌は命題のアスペクトの典型である。

 霊能者というアスペクトする命題、サニワはそれを展望するのである。

 

 言語ゲームのもう一つの特質的事態、それは“所与”つまり奉仕である。記述できないこと、即ち言語ゲームに属する事を実体と錯覚し記述しようとする所に誤りが生じる。それが哲学の全てであろう。同様の誤りが心霊科学を困難にしている。心霊科学的奉仕の背景には、実は哲学上の問題である確実性が潜んでいる。

 私は生前、死後の世界や霊に付いて私なりの理解をもって有ると思っていた。他界して最も驚いた事は、心霊の世界は哲学上の問題の一つである確実性が問われない世界であるということだ。この事態は何を意味するのか。

 現象の世界と心霊の世界は確実性に関して、全く異なる形式をもつのである。霊になると人間の感情体験を自分のことの様に知覚する場合がある。その場合は確実性という言葉すらない。その人間と私は一つになった感じがする。

一つ言える事は、その人間と私はある言語ゲームに属していて、それは私が生前分析したどの言語ゲームよりも、より一層言語ゲーム的なのである。

 他の人の感情を体験するなど現象の世界では在りえない事である。そのため当時は、E.S.P.なる語には否定的であった(それはある意味で今でもそうである)

 人の内的体験が分かると言うことは、現象的にはその記述内容自体の確実性が問われる。なぜなら「そんな筈は無い」と非難されるからだ。しかしいつの場合でもその確実性が問われるのは、その発言の中に概念的響きがあるからである。そう、「霊は存在する」、「いや、そんなものある筈がない」である。

 デカルトの確実性、絶対的原理を求めて少しでも疑わしいものは偽とした。しかし思考の主体である自分を疑えば、世界の全てが失われてしまう。そこで「我思う故に我有り」とした。しかしその「我」とは何なのだろうか。

 ライプニッツ、フレーゲ、ラッセルの確実性、数学的真理によって導かれた法則こそが人の思考に先立って求められる確実性である、と言っている。ずっと言語ゲームの世界を観て来た私たちにとっては、この文は何を言っているのか分からない。しかしいずれにせよ、確実性は人間の行動様式の基礎である事は理解される。

  心霊科学の確実性とは、人の行為そのものを言う。類魂による洗練された言語ゲームでは人の行為は世界像の表出であるから、真偽は問えないのである。

 私たちは今まで確実性に対し、つまり科学的検証に於いては、確実性を求めることや得ることのみを考えてきたが、命題が鏡になる状況とはどんなことか、それは互いに確実性を与え合う事ではないのだろうか。人が行為するのはアスペクトの可能性を増やすことである。ここで言う行為とは、業の遣り取りを主体としたものではない。心霊には本来、取った取られたの関係はないのである。そう見えるのはその人が概念の中に居るからなのである。

 つまり「与える」、「奉仕する」は、洗練された言語ゲームに於いては最も本質的な事態なのである。そう考えると心霊科学の確実性とは、私たちの生命の営みそのものを意味していることが判る。それは他の何者によっても疑い様の無い行為する確実性なのであって、ここでは知識を体系化し、唯一の原理を求めると言う作為は拒否されるのである。

 言語ゲームは私たちにアスペクト変移の可能性を与えそれにより私たちは互いに鏡となって、世界像を映し合う。それが確実性の正体である。であるから鏡となって照らされている側の私たちはその光、すなわち、世界像を検証したり記述する事は出来無いのである。であるから私たちはひたすらに、世界像からの光を映し出すのみである。

*L君はキリスト教圏の人です。何度かイエス様に「娘はここまで分かりました」と祈っている姿をみました。そのL君が「鏡」と言ったので驚きました。これを書く前に厳重に約束したことがありますが、それは特定の神の名は出さ無い事、神学的にはならない事です。神

学はその学者が、実際に神に会った訳でも無いのにもっともらしい事を主張するので嫌いです。でも心霊科学は新しいスタイルの神学なのかも知れない。

 私は「鏡」は好ましくないと思ったのです。しかしL君は神道からは離れて、文字道理の意味で鏡を使ったそうなので読者の皆さんもその点は注意して下さい。でも確かに鏡以外にいい表現は無いですけど。*

 

―不安―

 志向システムとは、志向戦略によって、振る舞いが充分な信頼性をもって予測できるシステムのこと。人の振る舞いは言語ゲームの中で表出しているのであって、予測しているのでは無い。ある事態は事態そのものであって予測では無い。志向システムはシステムに主体性を持たせようとするが、言語ゲームにはそれは無い。そして心霊の世界には世界像が放つ光が輝くのみである。

 システムとは、関係し合う要素間の集合、要素間の制約仕合う関係、故に統一的な全体を構成している。またシステム内の複雑系は環境よりも低い。従って言語ゲームはシステムでは無い。

 内包や意味、志向性について根本的に誤解がある。内包や意味と因果的志向性を同義とするのは正しくない。全体がある一つの志向性を呈する事が内包では無い。それは、ある一時的な状況に注意を向けているだけであって、本来の内包や意味は言語ゲームに於いてでなければ問えないのである。

  初期の認知科学、人の行動を予測出来なければロボットは作れない、だからその様な体系になっている(フレーム問題)。そのロボット用に作られた理論で人を探究しても、人のロボット的側面しか見えて来ないのであるから、そのロボット的一部分を観て矢張り人は機械なのだと言うのはおかしい。ロボットは心霊的には物霊を人のより身近な所で利用して上げる点で意義がある。私は人間的な機械は必要だと思うが、逆にその体系に人を押し込めるのは正しくない。

 霊は結局は、過去の者たちで在る。志向性と言うならその過去のゆらぎが今に収束すると解釈する。それは業のことで在るのかも知れない。志向性はある情報=概念を選択する方式に名付けただけの事であってそれに主体性や意味を持たせることはおかしい(*つまりL君は志向性や業は心の正体では無いし、まして心霊では無いと言っているのです)

  何時も考えていることは、心霊科学に希望は在るのかと言うことである。希望とは確実性の事であろう。とすればそれは、私は自分自身に確実性が欲しかったのかも知れない。しかしそんな思いが我々を予言と言う袋小路へ誘うのである。

 現象の世界から離れられない私たちの心には、概念的態度が染み込んでしまっている。それは何かに付けて確実性を求める思考習慣である。そして人が自分に対して確実性を問う時は、特に今の時代はそうであるが、非常な不安を覚えてしまう。これはどんな言語ゲームなのだろうか。

 結局のところ予言とはその様なものである。それは滅びを前提とした救いなのである。自分自身の確実性に対する不安があるから、自分の身の回りの物事全てに確実性が欲しくなる。本当は自分自身が問題の元で在るのに他の者に確実性を要求する。それで何かとお告げを聞きたくなる。そしてそれにはいつも予言が伴うが、しかしそれで消して救われることは無い。救いの原動力とでも言うべき器の「私」に気付いていないからである。私たちは活きている命題なのである。私たちの自らの行為が自らに光を投げ掛けるのである。であるから心霊科学を志す者なら予言に耳を貸す必要は無いのである。*ある特定の未来があると断定するのは概念なのです。記述論理学の「〜は〜である」と同じ世界なのです*

 

 文法的言語「神」に惑わされては行けない。私たちは活きた言葉(命題)を使うのである。君は言語「神」に生命の響きを感じるだろうか。出来ないとしたら、それは「神」の使用を間違えているからである。神は最も多様なアスペクトを呈するのであるから、日常生活の至る所に神のアスペクト変移が見出されるはずである。私たちの目前にある日常の営みの中にこそ答えが在るのだ。

 私の言う神は、「神」と言う概念では無く、生身の神なのである。又それは、創造する神でも、君臨する神でも無い、その神は私たちの世界像の背景を照らす鏡なので在る。

 

 

     ―概念―

 「私は因縁が深い」を10回唱えてみよ。その後で君はどう思うか。「その通り自分は因縁深い者であるから、すべてを神に委ねるのだ」と言うのはまったく型通りの答えであろう。しかしそれは人は何も出来ない幼児の様な者であると言う思い込みを前提としているのではない

のか。確かに概念としての創造の神に比べれば人間は細菌みたいなものだが、類魂の大多数を占めている未発達の霊達にとっては頼るべき存在なのである。神に委ねて、そこで呑気にされては困る。

 同じく「私は因縁が深い」を唱えてみる。私なら、一日中気が滅入ってしまう。それなら何故神は人間を創ったのかと訴えたくなる。人が罪と業によって生まれてくるなら始めから人類など無い方が良かったのである。

 「因縁」なる語には他人も自分も責める否定的な響きがある。私は、同じ地域に同じ時代に生まれた人間は、同じ世界像を与えられて活かされていると考えている。それがよこの類魂と呼ばれるものであって、その様な意味で、神の前で人は皆平等であると言うのである。それなのに「因縁」にこだわる者は確実性を概念に求めて、「私は因縁が深い」「あの人は因縁が深い」と発言してしまう。この表現はすでに一般的であるが、心霊科学には全く無意味な命題である。

 一生障害を背負う人に面と向かって「貴方は因縁が深いからそうなった」と言えるだろうか、少し心霊をかじるとその様うなことを平気で口走る者が多い。この場合の「因縁」は差別用語である。心霊科学を志す者は「因縁」が実在するものであるかの様に発言する事はは控えるべきである。「因縁」なる語は私たちに何も与えてはくれない。そう、心霊は因縁で終わってしまっては行けない、それを見極めた上でそこから神へ向かうのである。

 

 「先祖の悪行が子孫に報いる」と言う。言語ゲームの全ての事態に付いて言える事は、それが常に進歩的肯定的であると言うことである。この「報い」の論理とは、今自分が苦しいのは先祖の悪行の為である、だから当然子孫の役目として先祖の悪行の被害者に詫びるという行をしなければならなくなる。この論法が正しいなら生まれつきの障害を持つ者はどうなのだ、そんな人達は一生涯先祖とやらに詫びて生きなければならないのだろうか。

 またこうも言える。自分が先祖の立場であるとして、今自分が悪い事をしても子孫がその罪を肩代わりしてくれると言う事だ。もしそうであるなら子孫として生まれて来る事が罪になってしまう。人として生きる事自体が否定されかねない危険な考え方なのである。

  身体の「私」に主体があると思うから、つまり自分を中心に置いて、「なぜこんなに苦しいのか、それは先祖の因縁だ」と考えてしまうのは非常に短絡的である。現象の世界から物事を見るから、こんな「報い」の論法に行き止まってしまう。しかし先祖が苦しい姿を見せるのは事実である(そんな私もそうであったので人のことは言えないが)

 私が霊の側から言いたい事は、人間がリードすべきであると言うことだ。人が苦しいときは確かに霊も苦しいしかし、心霊科学を志す者はこの苦しみが霊障であると考えるのは間違えである。霊障という事態は存在し無いし、その原因としての因縁霊を想定するのも無意味なのである。霊と人の関係を原因と結果という概念で結び付るならそれは心霊科学では無く“お告げ”になってしまう。 人は行為する確実性なのである。であるから霊と一緒になって苦しがっていても仕方が無い。人が先に立って霊達を励まし、その苦悩の泥沼から救い上げて遣れば良いのである。

*行為する確実性とはこういう事だと思います。この文を書いていて気が付いたのですが、あれこれ考えるよりも書く事そのものが次に書くことを規定して行くわけです。書くことで考えが纏まってくる。会話も話す事が次の会話を促します。そんな状況は確かに分かる。だから

思考に行為の原因があるのではなく、話すとか書くとかの行為そのものがつぎの行為を生むという考え方です。精神が独立して存在しているのでは無く、行為と分けて考えては行けないと言うことです。とすれば縁起思想との関係はどうなんだろうか。どうも言語ゲームは縁起思

想とは違うらしいです*

 

「死後も個性は存続する」は何を意味するのか、実は何も意味していない。以下の命題もそうである。

「神は実在する」

「人は神の分霊である」

「宇宙は進化を続ける」

「霊魂は不滅である」

等、今までの考察で分かるようにこれらの命題は無意味なのである。それは概念に於いて語られているからである。概念の中ではいくら形而上学的主張をしても無駄なのである。

 同様に「運命と自由意思」について、これも主体としての「私」に於いて語られている。類魂の言語ゲームの世界では「私」に主体性は無いのであるから、それに依存する意味での運命や自由意思を問うのはおかしいのである。心霊は所与の世界である。全ての事態は類魂全体

そのままの表出なのである。

  死後に付いての素晴らしい告白があって人々が感動する話は沢山あるが、この場合も生前とまったく同じ本人が霊として生存している訳では無い。それは与えられた姿であったのである。その与えられた姿が滅びるということは、その類魂からの所与も無くなったと言うことである。であるから霊媒に霊が憑かる場合、ある特定の個人としての霊ではなく、その霊に関わる類魂全体が憑から無ければ成らなくなる。つまり「死後の個性」について、一般的な意味での「人格」が心霊の世界で存続している訳ではないのである。

 このように考えて行くと、当然「生まれ変わり」に付いても認識を改めなければいけなくなる。私は生まれ変わりを否定するのでは無くて、それ以前の問題として、ある¨態度¨が気になるのである。事実認識に関して言えば、同一の物理的対象を持つ人間が生まれる事と、私

は私であると言う意味での自己同一性を混同していると思う。もちろん生まれ変わるのは全く同じ人間ではないし、まったく同じ「私」でも無い。まったく別の人間、しかも生きている時代も、地域も違う人間を生まれ変わりという関係で結び付ける事にどんな意味が在るのだろ

うか。

 霊の私から言わせると、何故そんなに現象の世界に生まれる事にこだわるのか分からない。わざわざ肉体を持った人間に成らなくても善霊となって人を導いて上げる事で自己実現すると良いのである。そう、今私が遣っているように。人間として苦しむより、善霊として人の為

になった方がよっぽど生き甲斐がある。であるから生まれ変わりを望む人の気持ちが良く分からない。

 今までの一般常識として、自覚する私=精神=霊であると思われてきた。私はそれは違うと主張している。そうした場合心霊科学上の諸問題をどう考え直すと良いかに付いて述べているのである。であるから生まれ変わりや前世、業等の問題はこの自覚する「私」の正体に付いて見極めなければ展望出来ない。先にも述べたように自覚する「私」とは因果的志向性なのである。そして自覚する「私」の自覚は私だけの自覚であるから、自覚する「私」は易々と独我論の「私」へと移行してしまうのである。自覚する「私」は独我論の「私」の受け皿のようなものなのである。自覚する「私」が志向する概念を、唯一の実在者である独我論の「私」へと収束させる。

 生まれ変わりや前世、因縁といったものがこの独我に移行する「私」に由来するのてあれば虚構である。生まれ変わりは過去の「私」を今の「私」に収束させて、時代を越えて自覚する「私」を存続させると言うことになる。つまりこれは独我への志向性なのである。

「親の悪行が子に報いる」の因果応報思想と「生まれ変わり」はその根底に独我論がある。したがって心霊科学の言語ゲームとは相容れない概念なのである。ではこれらに付いて対応する現実の事態は有るのだろうか。もし有ったとしても心霊科学のカテゴリーには含まないので

ある。

 催眠術で前世の記憶を語らせるそうであるが、あれは科学的でも心霊科学的でもない、単なる語りであって飽くまでも心理療法なのである。あれは科学の実験では無いから、科学的配慮はされていない。あの状況で語られる前世が真実であるなら、人の記憶に関する科学的にも

心霊科学的にも正当な評価が必要になる。もちろんそれも成されていない。

 概念の場である自覚する「私」が生まれ変わるのでは無い。だから前世の記憶が無いのだ。何度も言うが自覚する「私」と霊を同一視しては心霊を正しく探究出来ない。生まれ変わりに関してもそうである。自覚する「私」、詰まり心というのは複数ある事は医学的にも明らかである。しかし常識として私たちは心は一つだと思い込んでいる。同様に「私」の霊も一つでは無く、無数の類魂より成る。その中のほんの一部が前世や因縁等と言う姿で顕れたとしても、どんな意味が有るのだろうか。

  現象というフィルターを通して見るから行き詰まる。心霊のナマの姿を見よ。現象にはただ類似性が有るだけで、同一のものは無いのだ。つまり類魂の境地に立つなら、敢えて生まれ変わりや報いを想定する必要はないのである。元々全てが内包されているのだから、どんな意味の「私」も存続させる必要は無いのである。類魂の中では生まれ変わる主体としての自我は無いし、また特定の過去の原因に由来する報いも無いのである。

 しかしそれにも関わらず、自分はある人物の生まれ変わりであると自覚する人が居る。その人は何故そう確信出来るのだろうか。類魂内のある特定の霊の所与を強く受けてその霊の生まれ変わりだと信じるのであろうか。しかし生まれ変わりは自分だけが中心に成されるのでは

無い。類魂全体を展望しなければならないのである。

 生まれ変わりというのは、本人が自覚する以外にその生まれ変わりを意味する事はできないのであるから、本人の確信に於いては確かに生まれ変わりであると思う。しかし、ある類魂全体で何人かの人間を表出するのであるから、霊と人を一対一で関係付ける事は出来ない。

 私自身の感想を述べるなら、私は守護霊に対して生まれ変わりを感じたことは無い(分霊の意味は理解しているが)年の離れた兄の様な感じがする。自覚の有る人が生まれ変わりを感じるのは、むしろ背後霊に対してであると思う。そして恐らくそれは「因縁」に関係がある。

 概念論的形式、それは記述する事であるが、「生まれ変わり」や「報い」はそれと同じ形式を類魂に強要しているのである。

 前世療法で語られる前世や、霊媒が語る因縁と言うものには、何ら実体性は無い。つまり今此処に在る事実では無い。と言う事は、物理的対象の様に現実に有った出来事だと考えてはいけない。私たちは人の行為の原因は精神であると常識的に考える。だから心の中のイメージ

と現実の対象が一致すると思い込んでいるが、それは違うと述べてきた。 因縁や前世を次々と語るのは、類魂内のその時その時の事態をアナウンサーの様に実況説明している、徒それだけの事なのである。業想念に捕らわれるなと言うのはこの意味なのである。類魂は生き物な

のである。我々と同じように活動し行為する。その類魂の営みのほんの一瞬の状況を前世や因縁として深刻に受け止めてしまう。それはナンセンスである。類魂全体を

展望すべきである。

 前世療法で体験する世界や霊媒の語る霊は確かに感動的で魅惑的である。しかし心霊科学は有り難いものでも感動するものでもなく、実践する科学なのである。そして学問的探究というのは純粋に人の側に許される行為である。神自身は探究の必要は無いのであるし、霊界にも学問上の新発見とか新説があるわけでは無い。人の側の人間的努力によってしかその道は開かれないのである。

*L君は前世を否定しているのではなくて、認識を改めようと言っているのです。前生は類魂全体を視野に入れないと駄目なのです。私が思うには、事態がカタストロフィー的になって行くと霊と人が対応関係になるのかもしれない。それが類魂の中に入って行くと成り立たなくなる。言語ゲームは意味の多様性を認める世界ですが、それ以上にもっと霊界の方が多様な世界のように感じます。L君の言語ゲームだけではカバー出来ない様に思うのです。

「因縁」に付いては、私は因縁の原因にされてしまう立場なのでL君に賛成です。因縁と供養の論理が通用するのは、その問題が解決する見込みが有るからだと思う。もし因縁による報いを避ける為にだけ供養するなら、どうにもならない状況になった時は、手を合わせる気がし

なくなるでしょう。逆に供養うされる先祖になって考えると、私は眼が悪くて盲学校の出身です。更に今は足の方が悪くて杖を付いて歩いていますが、そんな身障者は父方にも母方にも嫁家にも居なくて私だけです。その私が他界して孫子の代になって、その子孫の誰かが眼が悪

くなったり、足が悪くなったりして嫌な事ばかり続というので、拝み屋さんに見て貰うと、きっと眼が悪くて足も悪いおばあちゃんが居たよ、と言われると思う。それでお決まりのご供養になるのでしょうけど、それって何かカチンと来る。確かに私は高級霊では無いけど、災厄

の原因にはされたくない。私だけが悪いんじゃないでしょ。手を会わしてくれるのは良いけど、違うでしょ。供養は相手の霊が低級で、迷って居る事を前提にしていて、さあ供養したんだ今度はそっちが加護しなさいって強要している様な気がする。それに一日何回読経して、何

日で成仏出来ると言うけれど、その数字の根拠は何なのかしら、そういう信仰は概念的な訳で、心霊科学とは無縁なのです。それは漠然とは分かっていたけど、宗教関係の霊能者に実際にそんな霊が出たと言われれば反論出来なかったでしょう。それは心霊科学の哲学的根拠がは

っきりしていなかったからです。そうは言っても霊たちが「寿司が食べたいよ」とか「身体が痛いから何とかしてくれ」とか言って来ることも有る。私はそんな時は供養してやるんだとは思わないで、労りや感謝の言葉をかける事にしている。自殺霊みたいに落っこち過ぎている霊は別ですが、少し迷っているだけの普通の霊はそれだけで自然に向上してくれるみたいです*

 

 私は最も重要な事態と言うべき「不死」に付いて直接的には未だ述べていない。やはり始めに問題となるのは「不死」や「霊魂不滅」などの言語が正しく使用されているかである。自我の持続と言う意味での不死ならそれは間違えである。その意味の不死は概念論的である。

  ある枠組の中に在る、複数の個体が同一の特徴を持っているなら、それらの個体に普遍なものが内在すると言う主張。つまり人間が死んで他界する、その人間の生前の人間と死後の人間に普遍なものが在る。それが霊であるとする。そしてその事態を「不死」であると言ってい

る。しかしこの様な考え方は心霊科学本来の立場ではない。なぜなら、概念の場では不死も不滅も無いからである。ただ類似性があるだけで、一見同じ様でも両者は同一の者では無いのだ。しかしそれでも「不死」と言いたく成る。「私は死んでいない。こうしてここに居る」と言う発言。しかし一体何がそう言わせるのか。なぜそう言えるのか。「私」という器。それを命題と考える。その一つの命題が様々の意味を持つとするのがアスペクト変換である。

「私」は類魂によって与えられ、類魂の数だけアスペク

トするのである。その時に概念で語られる「私」、即ち自我を全て消し去ると其処には何が残るのだろうか。又その時「私」という命題はどのような意味を持って使用されるのか。

「私は死んでいない。こうしてここに居る」と言う発言。それは神によって与えられたアスペクト変換なのである。私たちは神に於いてこそ始めて「不死」を語る事が出来るのである。神から離れた「霊魂不滅」は有り得ないのだ。神から離れて何者も在りはしないのだ。

(心霊科学を進めて行くと神が益々身近に成って来る。それはそれで良いのだが、ある意味で私は心霊科学に困難なものを感じている)

 

 今までは、霊と超能力を区別できずにいた。その為に超心理学的に心霊を解釈しょうと試みていたらしい。

「意識は物質に作用する」と言う命題がある。これは意識と物質が共有する言語ゲームを示す事が出来なければ真とは出来ない。超心理学はこの点に関して何か語っているだろうか。言語ゲームを共有するとは、既存の科学で言うなら論理形式が同じという事である。物理の論理

形式に付いては分かっている。つまり命題「意識は物質に作用する」を真とするには、物理の論理形式を意識に強要する事になる。それは意識は物理的対象と同様に扱えるという意義を持つ。つまりそれは感覚与件という概念である。

 物理的対象は全体を最小単位に分解して記号化して扱う事が出来る。それと同じ事を観念に求めたのである。知覚の一つ一つを記述命題に見立ててその総体が心であると考えたのだ。つまり知覚を概念として扱うのである。

(*現代の哲学や科学はこの考え方が主流です。でも認知科学に言語ゲームを持ち込んだ、アフォーダンス理論と言うのが有ります。同じ言語ゲームを使っていてしかも人の知覚と行為が研究の対象なのです。心霊科学に関係が有りそうです)

 

今までの説明でそれは心霊科学的で無い事が分かると思う。ではE.S.P.なるものはどうか。私の感想では超心理学は全ての点に於いて事態を甘く観ていると思う。彼女は喧嘩を売る様な事は言うなと心配しているが、私は心霊科学と明確に一線を画したいのである。私の役目は

物事を根本に於いて批判する事であるので、超心理学で使用されている「知覚」の意味が問題である。

 概念化された知覚は感覚与件である。E.S.P.が有意味となるには、現実の対象と知覚が同一、一致しなければならないと言う。つまり超心理学は現実の対象と同一の記述内容の知覚を「私」に要求している。それは何を意味するのか。これは我々にとっては感覚与件以上に危険な考え方である。それはつまりこの様な事である。このような意味でのE.S.P.が真であるとしたら、人の知覚内容と現実の対象とが一致する事が立証された事になる。現実の対象とは無論、物理的対象である。それは物理的対象と人の知覚が同じ本質を持つ物であることを意味する。

 つまり、今まで超心理学は超能力という事態の検証では無く、感覚与件の実在を立証しょうとしていたのである。感覚与件は概念である。概念を幾ら探究しても精神の本質を求める事は出来ない。私は人の知覚は、物理的対象と概念論によって結び付けることは出来ないと主張

して来た。それが心霊科学の立場であるなら、超心理学と全く違う世界にあることが分かるで在ろう。

*これに付いて別の日に述べたものを載せておきます*

超心理学は心霊を否定する立場にある。それの論述。フィルムの直上に光が湧く様に、E.S.P.は視覚野に直接刺激する。であるから想像表象に近いものだと言える。つまり超感覚と名付けているが、実は感覚では無くて、想像表象のある状態なのである。想像表象の場は「私」に有る。テレパシーも記述的知覚の内容を述べているのでは無く、想像表象が判るのである。

 E.S.P.は想像表象に「見る」を強要する。その結果として「見え」が有ったのである。つまりE.S.P.カード当

ての言語ゲーム、あれは「見よ」と命じていたのではない、「想像せよ」と言っていたのだ。見る事と、想像する事はシステムが違っている。「見る」が当たったのではなく、想像内容が現実と一致とたのである。そう考えると念写と同様のものである事が判るであろう(*前塙

を参照)であるから、カード当ても心霊現象の一つであって、心霊を示すプランで有る事が分かる。

超心理学が既存の科学の一分野であると言うのなら、当然のことであるが「霊」「私」などの語は使用しない。E.S.P.や超感覚等の語を使用する事は、「霊」を否定する結果となるのは明白である。

 

 

 

   ―審神者―

 要するに神は即戦力になる人霊が欲しいのである(他界しろと言っているのでは無い)つまり、生きていてもそうであるが、他界して直ちに背後霊として働ける者が必要なのである。新しい時代になって宇宙を開発するそうである。と言うことは、その宇宙の資源と共に物霊が

人の社会に入ってくる事を意味する。今までは地球の中の事で済んでいたのである。そうなれば人の社会は増々未成熟な人霊が増えるのは間違いない。更には遺伝子産業の全盛である。これは医療や人口問題の為とか言うが人の痛みや苦しみを楯に、その影で巨額の資金が動く。

技術というものは、本質的には人の欲望を満たす道具なのである。

 宗教的、道徳的批判は別にして、心霊科学的に考えるなら、人の遺伝子を操作する事は人を家畜と同様に扱うことを意味する。それは人のレベルを動物に迄下げるのであるから、当然人の社会に未発達の霊が入り込み易くなるということである。つまりそれによっても物霊が増

えてしまう。勿論人間は未発達の霊を助けるのが責務なのであるから、それはそれで良いのであるが、余りにも物霊が増えすぎてしまうと人の霊界だけでは浄化出来なくなって仕舞う。もしもそう成った場合に付いて、私は想像する事は出来無い。

 今ここで君達が心霊科学の真実の姿を自分のものとして行う事が出来れば、それは君達だけでなく人類の未来を開く事になるのだ。心霊科学を志す者が他界してから因縁霊とやらになっていては困る。他界したならば、後に残る者達を導いて遣らなければ行けないのだ。そんな

心霊科学が世紀末とか滅亡とかに脅かされているのでは問題外である。我々は、そうした否定的概念を受けて立つ側なのである。

  よく人は「罪も無い人が何故こんな災難に遇うのか」と言うが、では災難とはどんなものなのか。動物達が人に殺されるのは災難では無いのか。彼らにも犠牲者という言葉を使う権利は無いのだろうか。災難や犠牲者という概念は、現象の世界の対立的構造にすっかり染まり切って居るから感じるのだ。心霊の世界には災難も犠牲者も無い。ある一つの類魂の中で起き

ている動的な状況であって、因果論的に関係付ける事は無意味である。その意味での“全てが自分”なのであって、これは以前から言われて来た事であるが、つまり災難を与えるのも自分だし、受けるのも自分なのである。

しかし、心霊科学としては正しく理解されていないと思う。私がこれまで批判してきた事柄の背景には、業思想という一種の態度がある。業は心霊科学とは相容れない概念なのである。それをあたかも心霊科学の専門用語の様に使っていた為に、学問上の混乱が生じていたのであ

る。

 

 原因と、その結果としての人間という関係で心霊を観るから先に進めない。人は結果では無い。そうだとしたらこんなややこしい結果なら始めから原因が無かったら良いのにと思ってしまう。それでは完全な自己否定になってしまう。人は諸々の事態の結果(*業生?)では無くその類魂全体を表出するアスペクトする命題の一つなのである。そう考えると縁起思想で全ての事態を語る事は出来なくなる。

 私は宗教は批判したくない、しかし心霊科学の周辺にある哲学上の問題であるなら別である。

「因縁生起」が集合論の形式を持つものであるなら批判の余地はあるし、さらに自覚する「私」と霊を混同し、器の「私」を否定するなら尚のことである。あの方が宇宙をどう観ていたのかその胸の内が知りたい。*縁起では世界像は幻だから器も認められない事になる

のかしら?尚、L君はお釈迦様のことを求道者だと思っています*

 縁起思想は物事の成因について探究し、その結果それは無いのだ、という主張をする。つまり「縁に依りて」とは言うが、事態を原因と結果で捉えている事には変わりない。それを否定すると確かに主体の「私」は無くなる。行為が行為を生むこと、「私」に主体性が無くなることに付いて縁起と言語ゲームは同じ事を言っている様に見えるが、しかし両者の背景となっている言語ゲームは全く違っている。という事はそのゴールも違うのである。あの方は恐らく独我としての「私」を分析したのだと思う。だから結論として無になる。言語ゲームを認めない独我は何にも語る事は出来ない。その様な意味での無我の境地なのである。

 もし私の見方が正しいのなら、縁起の言語ゲームというのは命題を無力化すことなのではないか、つまり死んだ命題にしてしまうのである。それ以上何も出来なくしてしまう。ある意味では記述命題よりも融通が利かない記述命題には記号としての意味があるから。この事態を悟りというならそれはそれで良い。私が問うのは心霊科学にとって意義が有るかどうかの一点である。あの方の生きていた時代は今の世の中の様に、オカルトや迷信が氾濫し得体の知れない団体が蠢いていていたのである。あの方はそういった輪廻や業に由来する妄想を打破したかったのである。輪廻思想は独我論の一つの形態なのであるから、それに伴って主張される前世や報い、因縁などは独我の「私」が作る幻なのである。それと闘うには徹底的に「私」という概念を消し去るしかないのである。

 あの方はこの様に独我論の幻を見て「無」と言った。それは記述出来るのだと錯覚されている内的体験の事であり、更にそれに対応するとされる現実の事態のことである。であるならこの内的体験とは感覚与件のことであろう。あの方は超能力を否定したと言うがこの感覚与件

に関する限りは超能力はあり得ない。言語ゲームの見地からも実在するかの様な内的体験や感覚与件の考え方は間違っている。あの方にはこの哲学上の問題が分かっていたのかも知れない。

 

人は因縁に従うのではなく、神と共に歩むのである。

人は因縁を受けるのではなく、神が行為を与えるのである。

すなわち人は因縁によって生まれるのではなく、神によって生かされるのである。

 

 検証することが審神者であるなら、この文章を読む君達が私の主張する心霊科学を審神者することを望む。

 

*私はサニワは、した事もされた事も無いのでわかりません。霊と対話する中でその霊の境遇を洞察し、状況を良い方向へ持って行くということでしょうか。でも対話する前にどんな霊か分かるし、霊の方もこの人間には分かる見たい、というので、大抵は「あっち行け」て終わっ

てしまう。手強そうなのは背後霊が何処かへ連れて行ってしまうので、私自身は直接霊と対峙することは無いのです。ですからサニワに付いては何も言えないです。L君はサニワとは、霊の真偽を判定する事だけでは無いと言っている、そうかそれが心霊科学的懐疑なのかしら?

 

 そう、私がこれまで述べてきた概念を否定する姿勢は全て、その心霊科学的懐疑だったのである。これなら心霊の問題だけではなく、人種問題や社会的弱者への差別なども心霊科学的懐疑の対象となる。また私たちの日常生活の諸々の場面で使える。例えば一般的なもの、子供

の教育問題や金銭、対人関係や人生上の問題等も心霊科学的懐疑をして道を探せば良い。

 今までは社会通念として直接に宗教を批判する事は禁じられていた。しかし、器の「私」の見地、つまり心霊科学的懐疑によって、宗教もそれに依存する信仰もその内容の多くが概念である事が判るのである。神は尊く高貴であるが、人間の信仰態度はそうとは限らないと言う

事なのである。器の「私」から観ると、宗教も科学や哲学と同様の体系なのである。

 私の主張する審神者は霊が憑かるときだけではなく、私たちの暮らしの中で、何時でも使える審神者なのである。そうでなければ審神者は一部のエリート霊能者だけの言葉に終わってしまう。これが科学であるなら誰もが審神者に成れなければ意味は無い。心霊を探究するのに

垣根を作りたくはない、その為の心霊科学なのである。

 

 審神者の必要な者とは結局のところ救いが欲しいのである。とすれば、心霊科学的懐疑が審神者であるなら心霊科学の本質は救済であると考える。

 ここまで述べてきた「霊」「私」「因縁」等は多分に概念的であったので分析哲学的態度の余地は有った。しかし「救い」はとても及ば無い。何故なら、私こそがその審神者を必要とする者だからなのである。救われる側の者が救う側を論じる事は出来ない。それ故哲学者は深

淵を語ることは出来ないのである。

*L君その弱腰は何?お釈迦様を分析したくせに今更何んなの、あぁそうか、それがキリスト教の神と八百万の神の決定的な違いなのね。イエス様の神をサニワする訳には行かないもの。キリスト教の神をサニワするなんて不可能だもの。でもサニワするってそういう事なのよ。

それが概念的なら全てが心霊科学的懐疑の対象になる。だからイエス様でもお釈迦様でもそれが概念ならサニワしなければならない。同時にそれはこちら側の信仰や信念といったものが試される事でもあると思う。サニワは相手をサニワするだけでなく、自分自身もサニワしなけ

れば行けない。

 L君は自分のやっている哲学は心霊科学の本来の学問としての完成度に比べたら足元にも及ばないから、今自分か遣っている事を神様に見せたら失望させてしまうだろうと思っているの、だから真面目な信仰家のあの人としては、少し慎重になっているみたい。他の霊達は心霊

科学を皆のものにしたいと言っています。霊能が有っても無くても誰もが出来る心霊科学にしたいのです。この論述がその為の叩き台になれれば良いと思っています*

 

 

 心霊を探究して行き詰まる時は類魂に戻る事にしている。私の論述で類魂と言っているのは、小山君の類魂論である。私は小山類魂論を全面的に信頼している。というのは小山君の類魂論には人間的苦闘の痕跡があるからである。人間的努力や人間的苦悩を感じられない学問は全くの不毛である。であるからこの私の論述が神の御心に沿うものであるかどうか疑わしい。

*L君、落ち込んでる暇は無し。もう少し書く事が有るし、次のテーマの資料も探してるところでしょ、今、心霊科学は待った無しなのよ*

 

 問題は私の様な者をどう救うのかである。私は悪霊では無いと思う。悪霊なら神が処置するのであるから。私の様に自ら道に迷いながら気付かぬ者が君達の周りには沢山いると思う。心霊科学を志す者はそんな善良な者達の力にならなければ行けない。

 

*哲学の域を越えたから後は心霊科学者が遣りなさいですって。そんなぁ、ここでリタイアするなんてずるい。それなら自分が心霊科学に転向すればいいのに。

 L君とこれを書くように成って分かった事は、指導霊になるのは結構大変なものだという事です。L君はずっと偉そうな事を言っていますが、実はそう大してレベルは高く無いらしい。私の知っている限りで二度倒れています。背後霊がそうなるのを見るのは始めてだったので

驚きました。どうなるかと言うと、身体が固まって彫刻の様になって全く応答しなくなるのです。要するに落ち込んでいるらしいのですが、一端落ちると、どん底迄行く見たいです。人間だと酒でも飲んで寝てしまえば良いんでしょうけど、霊だとそんな訳に行かないのでかなり

きつい見たい。L君はこれを書く役目があるからか、すぐ他の霊が助けてくれますが、恐らく普通の霊がそうなると正気が戻るのに何十年も掛かるのかも知れない。それが因縁霊とか言うものかしら。L君は1951年に他界しているのですが、これで標準的な霊なのかも知れない。

そんな感じで学問する以外は只のおじさん霊なので私は少し顔を大きく出来るのです。

  L君が遣ろうとした事、それは心霊科学の一般化なんです。哲学的に言うと、心霊科学の確実性。例で説明すると、電卓が有りますが、あの中身がどうなっているかは分からないけど正しく操作すると正しい答えが出てくる。私たちはその答えが正しいかどうか疑ったりはしませんよね、こちらの操作が正しければ答えは必ず正しい。これは電卓の確実性。そんな絶対間違え無しの電卓を私たちが使う前に、それの研究者が全ての確実性を確かめて間違えの無い電卓を作ったのです。だから電卓は研究者が研究し尽くして間違えの無い物であるから、私たち

はそれを使う度に、この電卓本当に間違え無いのかしらなんて疑ったりはしない。もし答えが違っていても、それは電卓では無く、使うこちら側が押し間違えている訳です。そういう事を学問の確実性と言うらしい。その学問の確実性が確立されて始めて、社会に貢献できる様に

なるのです。それじゃ心霊科学もそれをやろう。

 救済、浄化、向上等は信仰や教えならそんな面倒な事はしなくても良いのです。只信じれば良いから。でも学問や科学なら別で、避けて通れない儀式みたいなものです。それでL君が主張したのが、言語ゲームに基付く心霊科学的懐疑。それを行うと霊能者じゃなくても、自動

的にサニワが出来てしまう。言い換えるとサニワの確実性の事で、L君は其処までは出来た。でも、サニワの意義を考えた時、或いはサニワを究めて行くとどうなるのだろうか。それは救済なのではないのか、としたら今度は救済の確実性を探究しなければ行けない。ここで問題

にしているサニワは、霊の言葉を正しく伝える為だけではなくて、その仕組みを私たちの日常の生活に応用しようという意味でのサニワです。

 L君の分析哲学は対象が概念だから出来るのです。概念だから分解できる。しかし、救済や浄化は概念では無いのです。後で説明しますけど、それは類魂のアフォーダンスの知覚と言うもので、私たちは類魂からの所与として、概念として捕らえずに、そのまま行為して現すのです。だから行為そのものは概念では無いので哲学にはならないと言うのです。ですからそれは厳密に言うと確実性も問われない訳です。そのまま行為すればいいのですから。それを行為する確実性とL君は言っていました。それはこう言うことだと思います。

 自分が意識不明の寝た切りに成ったとします。そうなって仕舞うと何が出来るでしょう。勿論身体を使って何かは出来ない。臓器提供はその後、死んでからですし、考える事が出来ないから科学や哲学も出来ない。それに宗教も、意識が無いから信仰活動が出来ないでしょう。他

界を認める宗派ならもう委ねなさいという事になる。つまり学問も宗教も自覚する「私」がその舞台となっている。それは概念なのだという事になる。

 意識不明の寝た切りの人間、心霊科学ならこう断言出来るのです。「いや、それでも貴方は生きている限り救済しているのだ」と、それは類魂を考えるからそう言えるし、器の「私」だからそれが出来る。サニワを探究すると其処まで行ってしまう。心霊科学は絶対肯定である

と同時に非常に厳しい世界なのです。この所見は私の知ってる限りの他の学問や宗教の追随を許さないと思います。L君に指摘されるまでは私も其処までは分からなかった。心霊科学は物凄い可能性を秘めた学問なのです。そういう訳でこれは日本だからここまで出来たと思うの

です。サニワも物霊も日本にしか無かったから。そこにL君達が言語ゲームとカタストロフィー理論を持って来て、何だか上手く噛み合って来たのです。ここで安心しては行けない。心霊科学の救済の確実性を確かめないと駄目。小山類魂論からの説明をしてそのあとL君がまた

哲学するそうです。

 小山類魂論が発表された年はまだ私は女の子だったので、『心霊研究』の殆どの記事は頭が痛かったのですがお正月のお年玉で会費を払って小山先生の論述を読んでいました。

今は年を取ってお姉さんに成ったのですが、小山先生、勝手に先生の理論を使わせて頂いて御免なさい。でも小山理論だから此処まで出来たと思う。

 それで「言語ゲームに基付いて小山理論の救済の確実性を確かめよ」なのです。L君流の遣り方だと、先ず概念的な所が問題。小山理論の中の不要な概念というのはカルマだと思う。元々カルマは要らない体系なのですから*

 

 嫌、その論じ方は違う。それだと科学の理論と同列に扱う事になる。分析は要らない。小山理論を一言で言うなら、救済の確実性である。類魂全体を救う方策に付いて示唆している(ここで私は、心霊科学の一つの方向を示唆する為に、類魂論を認知科学へ繋げなければならな

い)。小山君の最も重要な発言は、自我が感じられなく成った時に本来の意味の奉仕が出来る、と言うものである。

 小山君は、人をその場とする業の遣り取りと、その時の類魂の状況に付いて詳しく示し、そして結論として取った取られたの世界から離れて無心に成れば救われるのだと述べている。其処で、自我が無くなる時、無心になる時に、何故本当の救いや奉仕が出来るのかである。つ

まり小山理論の背景となっている何者かを明らかにしなければならない。それが恐らく小山類魂論に於ける救済や奉仕という行為に確実性を与えているのだ。何者かとは神と言いたくなるが、そこを少し堪えるとして、その何者かを語るには次の論述が必要となる。

 

    ―アフォーダンス―

「客観的に事実である」とか「絶対に間違えの無い事実である」と言うのは互いに言語ゲームを共有していなければ言明は出来ない。現象の世界は家族的類似性の為に確実性は全くあり得無いのである。にも関わらず「科学的事実は確実である」と主張する。それはある科学の原

理という言語ゲームに属する事柄であるから確実性が有るのであって、その科学的事実自体が絶対的な事実という訳では無い。確実性を主張する場合は、その科学的事実の背景となっている科学的原理を明らかにしなければ成らない。

 現象の世界の家族的類似性は、現象の側に居ると想像が難しいが、心霊の側から観るとはっきり分かる。事態は一つ一つバラバラで、事態の間には結びつきは無い。何と言うか、フィルムの一コマ一コマの様に互いに独立していて、しかもごちや混ぜのジグソーパズルの様な状

況に成っている。このまま現象として表出すると家族的類似性となる。

 しかし宇宙には諸々の言語ゲームが存在していて、曖昧な言語ゲームから、類魂のように完成された言語ゲームまで多様な言語ゲームの世界が展開している。それらの言語ゲームによりバラバラの事態が繋ぎ合わされて次第に意味を持ってくる。それ故宇宙には、家族的類似性

を有しながらも、確実性が在ったのである。

 結局のところ、確実性とはデカルトの言う「我思う故に…」なのである。問題はその我である。今まで述べた事に因れば「我」は無いのである。では一体何が「我」を思わせるのか。その「我」を思わせる何者かと、小山君の言う救済や奉仕の確実性の背景になっている何者か

は同じ者なのである。勿論、1951年以前の言語ゲームではこれを正当に論ずることは出来ない。言語「私」に付いての認識が足りなかったのであるから、あの頃のウィトゲンシュタインは「私」と言うものは、人類の歴史を世界像として、重荷や呵責の様に背負わされていると感

じていた。だから「私」が生かされているのは義務と考えていた。発見者でありながら彼は言語ゲームの真実の姿を観ていなかったのである。

 言語ゲーム論は所謂、哲学の概念であったが、人の視覚に付いては解明され、科学的事実に成ったそうである。

 

*認知科学と言うと、アルゴリズムとかチュリングマシン等のイメージが強かったです。つまり人間を計算する機械とする見方。そうでは無くて人の行為を主題にした考え方がアフォーダンス理論です。階段を昇ったり物を掴んだり、昆虫の動きをしたり、たまにテレビに出てく

るロボットが有りますが、ああいった人や生き物に近い行為をするロボットの為の理論なのです。それは計算する機械とは全く違った考え方なのです。アフォーダンス理論は1980年代から研究されているらしいですが、霊の先生が認知科学の勉強をしなさいと言うので、手当たり次第に関係の本を調べてこれに行き着いたのです。提唱者のキブソンははっきりとは言っていませんが、間違えなく言語ゲームの影響を受けていると感じました(アフォーダンス理論で超能力や気を考えると面白い結論になるかも知れない)

 それでアフォーダンスとは何かと言うと、人が環境から受容する言語ゲーム的情報じゃないかと思います。ギブソンはその情報の内、視覚と行動に付いて科学的に明らかにしたのです。この勉強をしている途中で浅間先生のものを読めと言うのです。浅間先生の主張は恐らく環

境と進化に関するアフォーダンスなのではなかと思います。その観点でブルーバックスの論文を書き直すと環境のアフォーダンスと進化に付いての重要な示唆になるのかも知れない。まだ漠然としていますが、何となく点が線に成って行く様な感じです。類魂と人の進化、行為とアフォーダンス、霊と念等が言語ゲームによって一つに結び付いて来たみたいです(嫌、言語ゲームだけが全てでは無い。と誰かが言っている)

 この後L君がアフォーダンスから類魂を述べるので参考の為、言語ゲーム的が明らかな所を抜粋します。J.J.ギブソン著『生態学的視覚論』サイエンス社p.110111.

「事象の入れ子構造:生態学的事象の流れは、相互に入れ子構造になっている自然の単位から成る。つまり上位の出来事と下位の出来事というふうに、出来事の中に出来事がある。単一の出来事を何にするかは選択の問題であり、測度の単位により決まるのでは無く、適切な開始と終結に依存する。・・・・・連続的事象の入れ子構造になっている階層の最適な例は動物の行動に見出されるが分けてもはっきりしているのは人間が作り出す事象、つまり会話、音楽、演劇等である。もし我々がこれらの入れ子構造になっている一連の構造を理解出来れば、事象の成り行きは事象の始まりにすでに暗黙の内に示されていることが分かる。つまり如何に終わりは事の始まりに存在しているかが分かる。そこで観測者は始まりを見れば終わりを予測する事が出来る」

 この予測は科学的ではなく、言語ゲームの中で生じる“分かり”で、何時何分に何が起こるという様な概念的予測ではないのです。ですから観測者も観測では無くて“展望”なのだと思います。事象の入れ子構造に付いては、行為が行為を生む事だと思います。視覚と行為は一体のもので、だから“見え”が次の“見え”を生じさせる。つまりそれは事象の始めと終わりは繋がっているということを意味するのです。この言い方は常識的には変ですが、今までの科学の根本的態度は事象は始めは始めで独立して存在していて、終わりも独立して存在していてというもので、だからこそ何時何分何秒に何が起こると正確に予測できるのです。しかし私たちが物事に連続性を感じるのは、私たちが言語ゲームの中で生きているからなのです。だから良く、どうして私たちの時間は一つなのかという問いが有りますが、それはこの宇宙の本質が言語ゲームだからではないのかと思います。

「事象のアフォーダンス:ある事象は場所や、対象や他の動物と同じように、私が動物に対するアフォーダンスと呼んだものを持っている。また、別の事象は場所や対象、たの動物のアフォーダンスににおける変化を含んでいる。火は寒い夜るには暖かさをアフォードするがまた、火傷させる事もアフォードしている。近付く対象は衝突を伴わない接触をアフォードするか、衝突を伴う接触をアフォードするかのいずれかである。例えば軽く投げたリンゴは一方の場合であり。槍は他方の場合である。古代の人間にとって近づくウサギは食べる事をアフォードした一方で、近づくトラは食べられてしまうことをアフォードした。これらの事象は刺激では無い。心理学者がそれを刺激と呼ぶのは馬鹿げている。問題はこれらの事象がどの様にして知覚され得るかに照らして、どんな情報が有効かという事である」

下線部分は、言語ゲームであるなら当然の事なのです。L君の超心理学の批判でも分かる様に、私たちの扱う知覚は刺激とは違うシステムなのです。刺激とそれに対する結果としての行為は概念なのです。刺激の後に反応が起こるのは常識ですが、実はそうでは無く、人や動物はアフォーダンスの知覚という今まで知られていなかったシステムによって行動するのです。アフォーダンスはウィトゲンシュタインの言うアスペクト変移に類似するものだと思います。環境のアスペクト変移がアフォーダンスの知覚なのです。

 更にP.145 の「アフォーダンスを知覚する事は対象を分類する事ではない」のところでウィトゲンシュタインの名を挙げて、アフォードは概念では無いと述べています。ですからギブソンは言語ゲームを知っていたはずです(言語ゲームを認知科学に使ったのはよくやったと思

います。L君は心霊科学にしょうとしているけれど)

*時代の流れは非線形なのでこのアフォーダンス理論も複雑系の物理に向かっているらしい。前述してますが、類魂の世界は複雑系ではないのです。カオスやフラクタルを新しい科学として持て囃しているけど心霊科学はその数学では無いのです。非線形は物質の世界の本質で、

それを言語ゲームでは家族的類似性と言っている。私たちは物質の中で暮らしているからどうしても複雑系を見てしまう。アフォーダンスも提唱者のギブソンの時点では言語ゲーム的だったけれど、結局は現象の世界の学説で終わってしまうのでしょう。でもL君が言うには環境が人にアフォードする仕組みと、類魂が人に所与する仕組みは同じだそうです。だから類魂に関して論じる時は類魂のアフォーダンスと言って良いのかも知れない。それで、アフォードと類魂をどうするのかしら*

 

 アフォーダンス理論は言語ゲーム的ではあるが、この理論によって人の行為の全てが解明される訳では無い。何よりも問題なのは自然科学の理論の全てが集合論を基盤に置いている点に有る。認知科学もシステムという集合論が出発点になっている。しかしアフォーダンスという言葉は使えると思う。漠然とした概念に名を付けて新しい道が開けることがある。物霊の様に。

 

 心霊科学上の問題は概念の場で論じる事は出来ない。救済もそうである。概念的に救済を考えるなら、どう遣って救うとか、誰が救われて誰が落ちるのか等と無意味な思いに至ってしまう。所で、低級霊と呼ばれる者と高級霊と呼ばれる者の本質的な違いを考えた事は有るだろ

うか。人霊で有りながら何故低級霊に成ってしまうのだろうか。それは小山君の説明で充分であるが、私は知覚と行為の観点から考えて見たい。

 私たちは物理的情報を知覚して行為するが、同様に類魂の所与によっても行為出来る。であるなら、類魂による行為に関しても知覚と言っても良いのだろうか。しかし、類魂による知覚と物理的情報による知覚をどう区別すると良いのだろうか。霊能者と呼ぶ者達はそれを日常

的に、即座に出来る様である。何故、霊能者にはそれが許されるのだろうか。それは霊能者が救済の道標てあるからだと思う。霊能者が物理的情報と類魂を区別する構造と心霊科学的救済の確実性には類似性がある。

 自分でこう発言して置きながらでは有るが、これは非常に難しい論点である。これは心霊研究とそれから連なる日本の心霊科学の出発点である。ここで誤れば、今まで先達が果たして来た心霊に関する知識の全てを崩壊させてしまい兼ねないのである。

*また少しL君はスランプです。今私はSpeedを聞きながら遣っているけどこれは物理的知覚。お腹が空いて何か食べたくなってきたのも物理的知覚。これは内的たなものでしょうけど血中の糖の濃度を調べれば客観的に分かるから物理的です。そしてL君のスタンバイを待

つのは類魂的知覚だと思う。

 所で、L君の母国語は英語では無い、でも生前は使っていたと言う。私の心の中にはミイラ化した受験英語しかないのですが、それでもL君の生の声が聞きたかったので英語で試みようとしたのですけど、やっぱり駄目でした。私の英語に付いての概念が不完全だったからだと

思う。つまり器として充分に耐えるだけの英語の概念が無かつたのです。でも、英語の器は無くても他の器は有る。神や心霊に付いての知識とか、科学や宗教に対する認識とか、それにそう言う知識は直ぐに勉強する事が出来る。これ等の知識も言語で組まれているものだけれど、それに関する類魂の言語ゲームの、共通の世界像が、L君と私には有ったのです。でも外国語だと概念的に習得するのに時間が掛かる。だからこの仕方になったのだと思う。L君も私も互いに相手の母国語を習う必要が無くなったから、それは楽なのですが、お陰で私は専門書の山と

格闘しなければならなかったのです。それでこれが類魂的知覚であるならどんな事なのかしら*え、『吉田正一論文集』を読め。「おもいみたま」、「ことみたま」から入れ。ですって*

 

 彼女が今述べた事は“意識をズラス”だけでは説明できない。彼女の今の状況は吉田君の言った意味での精神統一では無い。しかし特別の霊能では無い。我々が日常的に無自覚に経験しているものである(科学は事態を我々の日常に連れ戻すのである。心霊科学は心霊を我々の

目前に開示させる)

 おもいみたまのズレが浅いから意識が有るのでは無く自覚する「私」が器となっているから意識が有る。霊媒は身体の「私」が器となっている。ではその場合何故、意識が無くなる精神統一が求められるのか。

 自覚する「私」は身体の内外からの情報を受容して成り立っている。その身体を他の者に使用されてしまえば意識も無くなって当然で有ろう。霊媒は意図的に自覚する「私」のスイッチを切って身体を霊に使用され易く出来る。それは純粋に技術的な事であるので、訓練しなけ

れば普通人には出来ない。其処で私が問題にするのは、霊媒とは逆に自覚する「私」を器にする場合であって、それが今彼女が行っている事である。実はこの様な霊能の方が一般的なのだ。意識下の霊信や自動書記等は自覚する「私」を器にした方が遣り易い。

*自動書記を遣っていて、字が出ている途中で何が言いたいのか文全体がパッと一度に分かる時が有る。また易をする時も、さあ立筮しょうという時に、もう心の中に風沢中孕とか火雷噬盍とかが浮かんで来る。そういう事かしら*

 今まで自然科学が対象にしていたものは記述出来る概念であった。環境には概念とは異なるある種の情報が含まれている。人がその非概念的情報によって行為しているのなら、人は概念論の枠の中では語ることの出来ない「器」である事を意味している。其処に心霊科学の可能性が在る。そして哲学や科学のどの学説でも根本的に問題となるのは、人の知覚と行為をどう捉えて行くかである。そこで誤ると学問としては成り立たなくなる。

 

 つまり小山君の類魂論は“霊媒”の理論では無い。自覚する「私」をその場にしている。自覚する「私」には自由意志が在る様に感じる。しかしそれは概念と一体となっている類魂が動いた結果その行為が表出したのである。小山君の説明は、人には心が無いとしながらも、類魂内での向上する霊と途上に有る霊との摂動の中から、自分の意志でその行為を選択することになっている。だが、この説明は非常に概念的である。小山君は類魂の世界を示す事が役目なのだからもっと類魂の世界に踏み込むべきであったと思う。

*重箱の隅を突っ付く様な事は言わないの*

 

 自覚できるから知覚と言えるが、意識を失う霊媒の場合は別の言葉を用いるべきである。つまり小山君の構想を進めると類魂的知覚を考える必要がある事が分かる。

 そして類魂による知覚は摂動(*カタストロフィー理論との関連?)では無い。類魂は“魂”とは書くが個ではない。類魂全体で一つの生命なので有る。前世で述べた様に、ある一つの類魂だけを独立して取り出す事は出来無い。ある一つの類魂に注意を向けると、その類魂に続いて累々と宇宙の奥まで、その類魂に関連する類魂が連なる。そして人が行為するのは、その次々と連なる類魂の表出なのである。つまりある行為が次に成すべき行為を促す。行為と行為の間に途切れは無い。この意味の行為が途切れるという事は、そこで人類あるいは世界が無くなってしまう事を意味するが、それは有り得ない。

君達の言う滅亡や破滅は概念である。本来の意味の滅亡は類魂の言語ゲームの中でしか語る事は出来ないはずである。しかし、類魂の世界には「死」や「滅亡」に対応する事態は無い。些か神学的ではあるがそれは既に述べている。

 此処で君達は「人の運命と知覚を同じにするな」と言うかも知れないが、その批判はおかしい。運命が有るとすれば、それは概念であろうし、そしてそれは自覚する「私」が語るものであるからだ。しかし自覚する「私」の語りが可能であるのは、器としての「私」が類魂的知

覚を眺めているからに他ならない。

 生物本来の情報の構造、類魂は次の類魂に連なる。その類魂の連なりの中で、概念は概念を生み、行為は次の行為を促す。即ち心霊科学の扱う知覚は、計算した結果の知覚では無く、行為に因り真に導く知覚なのである。それをギブソンはアフォーダンスの知覚と呼んだ。

*今までの常識的な知覚と制御の考え方を簡単に纏めてみます。人が行動する時はその行動のモデルがイメージ化されて大脳の中に在って、そのイメージと大脳基底核や小脳の運動の中枢とが連合して運動の制御になる。そしてそれが何時も遣っている行動だと、一々イメージして考え無くてもこれ等の下位の中枢に行動の回路が出来ているので無意識に行動できる。だから他の事を考えながら歩くことができる。この様に、あくまでも脳に行為の主体があるとするのが今までの常識だったのです。

 しかし実際に人の知覚と行動を観察すると脳中心主義では解決できない問題が出て来た。それをベルシュタイン問題と言う。〈知覚→イメージ→制御〉を一つの単位として、それを一つ一つ記述しょうとする。つまり人の行動全てを再現しょうとすると、制御の為の情報が膨大に成ってしまう事。そして“意味”の問題。同一の中枢からの同一の効果器への同じ指令でも、その時の身体の姿勢によって制御の結果が違ってくる。手の指を曲げ伸ばしする場合、人に向かってそうすると何かの合図になる。腕が背中に在る時は背中を掻いている訳です。

 アフォーダンスは脳だけが人の行動を制御するのでは無く、環境にも主体性を認めて、環境が人の行動を制御するという考え方。言語ゲームでは人は世界像に動かされている騎なのです。知覚と行動に当て填めると、ウィトゲンシュタインの言う世界像とは、アフォーダンスでの環境となるようです。ではアフォーダンスとは具体的に何なのかです。それが分かると類魂のアフォーダンスを理解する手掛かりになるらしい。

 スポーツ選手はイメージトレーニングをしますが、あれは以前の考え方でしょう。何度も脳の中でイメージする事で下位の運動中枢との統合を上手くして、その結果身体を思い道理に動かすという。野球のバッターは飛んで来る球を瞬時に良い球か悪い球かを見極めると言う。

達人になると、飛んでくるボールが止まって見えるらしい。私は、これはアフォーダンスの知覚だと思う。動体視力がどうのと言いますが、ただ見て識別するだけでなく、瞬時にバットを振ってホームランにしてしまう。その仕組みは知覚−イメージ−制御では説明できない。それだと情報を処理するのに時間が掛かり過ぎてしまう。其処でボールの視覚情報の中に元々、ホームランになる為の制御の情報が含まれていると考えます。だから脳の中で情報を統合しているのでは無いので、知覚と同時に即座に行動出来るのです。何度も練習してその運動の神経回路が出来ているから、即座に行動出来るのではなく、私たちが受ける知覚情報そのものが私たちの行動を制御すると考えるのです。つまり知覚−中枢−行動という、閉じた系では無く、環境に対し開いた系を考えるのです。でも人を取り巻く知覚情報の全てがアフォーダンスでは無いので、人は何度も試行錯誤して環境の中からアフォーダンスを見つけるのです*

 

 テクノロジーは人が物霊を利用して上げる事で、宇宙の向上に一役買っている。であるから技術が進歩するのは大いに結構な事である。所でこの協会には科学技術の守護神が居られるそうだが、そう言った意味でこの協会は物霊と深い関わりが在るらしい。

 其処で小山君的アフォーダンスに付いてで在る。小山君と私を比べた場合、小山君は何方かと言えば構造論的で、宇宙全体を神の目線で眺めた立場のもので在ると思う。しかし出所は同じなので、小山君ものと私のものとは互いに補い合うと考えている。

 私はこの論述の中で「低級霊」を使わぬ様にしてきたが、それは言語「低級霊」はある特定できる一個の低級な霊が此処に居る、と言う印象を与えるからである。しかし類魂論によればそうでは無い。「高級霊」や「低級霊」は類魂のある状況に対して名付けている様に思う。とすれば「低級霊」の状態とは、物霊を沢山抱えている類魂を指しているのであろう。しかし議論の対象を宇宙全体に広げてしまうと、物霊の量で霊を区別するのは無意味になる。何故なら宇宙の奥の院に鎮まる最も高貴な神こそが最も多くの物霊を保有しているからである。

 小山君は物霊は鉱物の霊であると述べていた。確かにそうである。そして、遣り取り出来るものでも有ると言っていた。更にカタストロフィー理論での数学的解釈もある。問題は説明よりも、如何にして「物霊」を日常の中で使用するのかである。物霊に関して、現象の世界で表出される、物理的に記述可能な志向性を探究のテーマとするのが自然科学であるなら、心霊科学は逆にその志向性から物霊を解き放す。であるなら物霊は概念その物では無い(*概念は解くと全く無くなる)つまり神は物質の背後霊という訳では無い。小山君は地球霊としての神は鉱物の世界を司配しているが、直接的に鉱物を救うことは出来ないと言っていた。それは、私たちが一般的に考えている意味の背後霊とは違う所与の仕方をするからである。言い換えるなら神は直接的に物霊を使用する事が出来ないのだ。だから司配しても救済できないのである。それを例えるなら鍋の中の煮物である。私たちは鍋ごと煮物を運べるが、煮物そのものは熱くて触れない。神は類魂全体を操作するが、その中の物霊を“摘む”事は出来ない。

 地球霊の司配する地球、即ち環境のアフォーダンスは生物を行為させるだけではない、長い年月の内に私たちの進化にある一定の志向性を仕向ける。この場合、遺伝子に主体性を与えるのは無意味である。この所見は科学的事実に成りつつある。それに対して心霊科学はこう考

える。

結論を言うなら、環境が私たちに仕向ける志向性の正体は物霊であると思う。つまりそれは今まで私たちが知っていた、物質や霊とは異なる、ある種の新しい実在である。私は非常に危うい発言をしている。環境が人にアフォードする情報と類魂論の物霊を同一視しょうとしているのだ。その根拠は何なのか、出来るだけ筋道を立てて述べたいが中々難しい。弁解になるが心霊の世界には「説明」は無用なのだから。

 人は類魂によっても、環境によっても行為を与えれる。そして両者は言語ゲームという論理的背景を持っている。恐らくこれは、心霊科学と記述的科学の最も注視すべき接点である(もしこれを類魂か環境の何方か一方に還元しょうと考えるなら、それは概念論である)

 アフォーダンス理論で知覚する事は、その知覚の中に既に行動の指令が含まれている。知覚は自覚する「私」がその場になっている(自覚しなければ知覚とは言わない)。知覚の中に行為の元が在るのなら、それを仏教的に考えると、アフォーダンスの知覚も業と言える。しかしこのアフォードによる業は、所謂想念とは異なる。概念にならない業なのである。業の一つの形態では有るが因縁生起のサイクルには含まれないのである。

 今、君に目掛けて石が飛んで来たとする。この石はぶつかる事をとアフォードした、君は咄嗟に避けて怪我をせずに済んだ。この状況を因縁であると考えるなら、石が飛んで来たのを因とすると、この場に居たのは縁で在ろう、もし怪我をしたなら報いと言う事になる。良いか言語ゲームの世界はこじつけや言い訳の世界では無い。こんな説明はナンセンスである。核心とする所は、その行為の理由では無く、石が飛んで来たらそれを避ける、その当たり前の行為そのままが真なのである。

    類魂の中での物霊とそれに伴う救済や奉仕こそが心霊の在りのままの姿であって、一般的に言われている、現界の思考習慣から抜け出せない心霊現象は概念的であるから真では無い。とL君は言いたいらしい*

 

 心霊科学は正にこの当たり前の行為を探究の対象としているのであるが、それを論理だの哲学だのと弄る方がナンセンスなのかも知れない。

 認知科学のアフォーダンス理論は勿論、類魂は必要としていないから、人は環境からアフォーダンスを与えられるだけの、行為する機械である。其処から類魂に向かうとはどの様な事であるのか。将来、アフォーダンスの研究が進んで人の日常的行為が科学的に解明された時、間違えなく人の本質である心霊にも及ぶはずである。論理形式が同じであるから、通常は記述科学に還元されてしまう、そしてやはり心霊は無かったのだという事になってしまう。我々は、科学を利用はしても飲み込まれてしまう訳には行か無い。

 其処で私は、類魂論とアフォーダンス理論を区別した上で包括的に捉えなければならない(それで心霊科学の道が開くのかどうかは分からないが)

類魂も環境のアフォーダンスも自覚する「私」にその場がある。先に述べているが霊能者はこれを日常的に区別している。そして進化に関わるアフォーダンス、それも環境のアフォードだけでは説明できない何かがある。

 

*浅間先生はそれを念と言っている?結局の所、それが究極の問題である。精神と心霊の区別を付けることだ。知覚の総体が精神というなら、精神は自覚する「私」である。自覚する「私」と心霊を同一視すると因縁論に陥ってしまい、其処から小山君的救済に

向かうのは難しい。私もそうであるが、心霊を探究する研究者が霊能を良く理解しないで先に進もうとするから行き詰まってしまう。

 

*人の行為に関して、それが物理的所与か霊的なものに因るのか区別するのは難しい。電車に乗っていて、車体の揺れに応じて身体の姿勢を調整して転ばないようにする。それは一々考えなくても殆ど意識しないで遣っている。逆に慎重に考えながら行動する事も在る。暗い中を手探りで歩く。揺れる吊り橋を渡る等の様に。これ等は環境のアフォーダンスの例。

 心霊も無自覚に遣らされている事が多いと思う。何年か前ですけど、それまで全く寄った事のない古本屋に何となく入ったら平田篤胤の祝詞の本が在って、直ぐに買ってしまったのですが、それから数カ月後に平田篤胤を調べる事になりました。それとは逆にこれを書いている

様に、はっきり自覚が在って遣らされている時もある。環境による行為と類魂によって表出される行為とを見分けるのは難しい。L君は将来的に心霊科学の不利になら

ない様に釘を刺して置きたいのです*

 

 環境には類魂は有り得ない。それは何故かを考えればわかる。環境の中の人間。環境のアフォーダンスは人間にどう振る舞う事を要求しいてるのか。

 環境の中の情報の全ては概念なのである。つまり、認知科学のアフォーダンス理論をそのまま心霊科学に持ってくると、カントールの集合論と同様の誤りを犯す訳である。論理学的背景は同じでは在るが、本来の言語ゲームとアフォーダンスは類魂に於いてでなければ語る事は出来ない。記述科学は概念しか認めない。たとえ言語ゲームを用いた理論で在っても、それはただ有用であるから使用したのであって、決して人の知覚と行為の真の姿を見極めたものでは無いのである。現象の世界に住む我々は、我々自身の知覚と行為を探究する事に因ってしか世界の本質を知り得ないのである。だからこそ我々の日常の知覚と行為に関して心霊的と概念的を区別しなければならないのである。もし環境が概念だけで構築されている世界であるなら、人はその中に身を置く事が出来るのだろうか。

 

*つまり人が現界に在るのはどういう事なのか?環境は我々にある志向性を与える。我々はその志向性を探りながら行動する。進化であるなら環境の志向性が生物の遺伝子を選択する。この様に環境が“提供”する身体に類魂が所与するとは如何なることなのか。そう、身体の「私」と自覚する「私」は環境のアフォードによって造られた器なのである。つまり此処では「私」の主体性を問うているのでは無かったのだ。「私」を通して環境と類魂が向き合っていたのである。これは小山君の論述の反芻である。器の「私」を認める事は、環境と類魂に共有できる言語ゲームを与える、即ち未発達の霊に向上の場を保証するという意義を持つのである。

 そう考えると器の「私」は単なる霊媒では無いのだ。それは救済の場なのである。生物は環境内の或る関連した事象がアフォードして身体という器が与えられたのである。しかし元々、環境の中の情報は一つ一つ閉じた概念なのであるが、つまりウィトゲンシュタインの言う家族的類似性である。それが何故、アフォーダンスの知覚として一つにまとまり、器の「私」を造るのだろうか。

 既存の科学は閉じた志向性を扱ってきたが、アフォーダンスは開く志向性(*この言葉は使えないかも知れない)なのだ、そしてそれが物霊である。物霊が特異な実在なのはこのためである。概念に見えるが開く志向性を持っている。

 アフォーダンスは開く志向性に名付けたものである。類魂の様に次々と事象が連なり、途切れ目は無い。概念は閉じていてバラバラだから、ある一つの物を特定して取り出す事が出来る。アフォーダンスではそれは出来ない、ある一つを掴もうとすると、芋づる式に次の事象が連なる。つまり概念の世界である環境が、器の身体を形成(生物)する、それは環境内のある関連したアフォードを知覚できる器であるという事だ。環境は何故その様な身体を志向するのか。否、そうでは無い、概念がアフォードするのではない、元々環境の本質は言語ゲームだったのだ。生物はその一部の情報をアフォーダンスの知覚として与えられるのである。そう考えた方が理解し易い。私は心霊科学的救済の確実性に付いて述べているので在る。

 心霊科学的救済は、身体の「私」や自覚する「私」を救う為のものではない。身体は医学に任せると良いし、精神は信仰にせよ癒しにせよ、結果的には満たされると良のである。そして器の「私」には心霊科学的洞察が不可欠である。

 生物の身体は物理的対象としての身体ではなく、器として観るなら、アフォードする環境も含めて器として考えられる。つまりアフォーダンスする環境の中から生物の身体だけを取り出す事は不可能なのである。

 環境が生物にアフォードし、進化を促したと言うよりも、環境それ自体が生物という器を造る段階にまで成長したのだと解釈できる。地球環境がそのアフォードを知覚する生物を創造し、終には人間も出現した。それは地球環境の“成長”なのである。

 環境はなぜ器の「私」を造ったのか、今この論述で言える事は、地球は物理的に記述する物では無く、私たちにアフォードする活きている環境であるということだ。私たち器が出来たのは地球環境の成長の証なのかも知れない。であるとしたら、地球環境の成長の証である人間

は何を求められているのか。

 そう、“物霊の浄化”であろう。しかし物霊とアフォードが一致する事について説明が不十分である。環境のアフォーダンスに関して生物には主体性は無いつまり、生物の為に環境が在るのでは無い。環境が自分自身の為にアフォードし、それによって私たちは行為し、進化する。このアフォードと物霊が同じもので在るとしたらどの様な意義が在るのか。

 人の社会のアフォーダンスを考えると、金銭や地位、人脈等は社会環境のアフォーダンスの知覚という事になる。金銭なら金に関するアフォードを上手く知覚して行動できると金持ちに成れる。それがよく言われる「想念の法則」なのである。人の社会をアフォーダンス的に観ると、社会環境のアフォーダンスの知覚を一早く受け取る者は、世渡りが上手く願い事が叶う。しかしそれは馴染みの言い方をすれば、業が増えると解釈できる。小山君の論述ではそれが物霊で在った。

 物霊が無くなると物が不足してしまう。身体は病気になるだろうし、社会的には貧乏に成るだろうと言っている。人の社会に関してはアフォーダンスと物霊は同じであるとしても良いのではないだろうか。そうなると環境と類魂をどう捉えて探究するかが問題となる。これは言

語ゲームの範囲を越えるので次回、心霊の世界に対し別のアプローチを試みてみる。

 「想念の法則」も一つの確実性である。しかしアフォーダンス的には、その主体は社会に在る。社会的に成功する事が救いであると思っているのなら、それはそれで良いが、私たちの主体は類魂にあるはずなのだ。では類魂に於いて救われるとはどんな事であるのか、それはずっと述べているが中々納得できないで居る。私の心の凝りと言うのは、環境の確実性と類魂の確実性は一致していない、寧ろ対立している様に見える点である。こう見えるのは私が未だ向上していない為かも知れない。

 小山君の説明では、環境即ち現界の確実性が与えられていると物質的に豊かに成るが、一方霊的には徳が減ってしまう。全くその通りであるがこの論法をそのまま進めると因縁論に行き止まってしまう。祖先の悪行が子に報いると言うものである。その論理の中には救いは無いと既に示している。仏教の信奉者はだから解脱するのだと言うであろうが解脱そのものの心霊科学的信憑性が明らかでは無い(解脱は自覚する「私」が解脱するのであるから、概念の形態であって心霊科学的懐疑の可能性がある。しかしそれが心霊科学に利用出来るかどうかは分からない)。

 類魂の中では被害者も加害者も無く、類魂のその時々の状況を現象として表出しているだけで、ただ人は無心にその役目を果たすのみで在るという事は理解するが、今一つ説得力に欠ける。私は、如何に正当な理由であっても、否定的事態を肯定したくは無いので在る。類魂の中で物霊を放し向上する事は、社会環境に於いては不幸になってしまう。この考え方の何処かに誤りが有ると感じる。環境の確実性と類魂の確実性は対立するかの様に見える。だから救済の構造を探究する上で迷ってしまうのだ。小山君はどう考えるだろうか。

 もし霊的向上のみを考えるなら、人類全員が身障者になり、不自由な人生を強いられれば良い事になる。しかしそれでは未発達の霊達を救えないので、物を使う。物が動くと物霊が動き、其処には未発達の者達が居る訳で在る。未発達の者達を救う為に物霊を操作し、その結果物質的には豊かになるが、霊的には落ちてしまうと言うシステムで在る。そうシステムである。システムとして捉えていたのが間違えだったのである。救済はシステムではない。アフォーダンスなのである。どうも現世的思考習慣が抜けない、ストレートに心霊を観ることが出来ない。此処で結論を出そう、余り長々と論じていては行けない。

 

 私たちは行為する確実性であった。私たち自身の人生の中では行為する事が次の行為を促す。そして私たちが今生き続ける事が次の世代の生を保証する。その私たちの生きる営みに絶対的な確実性を与えるものが類魂のアフォーダンスなのだ。更に環境、環境のアフォードは私たちに物霊を提供する。類魂の世界は何故物霊が必要なのだろうか。物霊をより多く利用できる「器」を持つ、つまり進化し、高度の情報処理能力を持つ身体を与えられるという事は、それだけ環境に対して開かれた自己で在ることを意味する。物霊と進化には密接な繋がりがある。この様な事態の中で「救い」とは何で在るのか。一言で言うなら、器として今此処に在る、それ自体が救いなのである。今この世界に在るという、只それだけで救いの道が開かれている。アフォードする開かれた世界では、鉱物の様な霊とは言えない物も其処に存在するだけで救済の資格が在る。この世界では如何なる説明も論理も必要無い。只、生き続けよ、在り続けよとアフォードするのみである。

 

この論述は一応終了する。しかし哲学的に問題の有る所を先走り過ぎてしまっている。他の者は心霊科学的にはこれで良いのではないかと言うが。次回は言語ゲームで探究しきれなかった部分、存在のプロセスに付いて述べて見たい。恐らく其処で守護霊や神を観る事になる。それには些か時間か必要で有る。そこでと言っては何であるが練習問題を上げて見る。

 

課題1;次の発言内容を心霊科学的懐疑してみよう。

 a,「どうして人を殺してはいけないの?」

 b,「私が生きていても世の中どうなる訳じゃないし

    生きるのも自由なら、死ぬのも自由じゃない」

 c,「自分で自分の身体をクローンするんだ。他人を

    傷つける訳では無いから良いではないのか」

 d,「先天的に障害の有る者はもう治らないのだから

    福祉や教育に税金を使う必要は無い」

 e,「私は霊媒体質なの、何時も受けてしまうの」

 f,「同じ生きるなら頭が良くて金持ちの人生が良い

    誰だってそれが本音である」

 

課題2;課題1を踏まえて、君たちが日常的に接する身

    近な人達に何をして上げられるのか各自考えて

    見よう。それが心霊科学的救済の要点である。

 

                       完

 

参考文献

「哲学・思想事典」 岩波書店

「ウィトゲンシュタイン全集

 第八巻哲学的探究、第九巻確実性の問題」大修館書店