神の想念と徳

B神の想念と徳の関係はどうなのでしょうか。
神の想念が在るから徳が在るのか、徳が在るから神の想念が降りて来るのか。神の想念「まこと」であるとして(だとしたら「まこと」の意味するところを考えなければならない)、もしまことと徳が同じなら、まことは物霊との
相補関係によってでしか認められないことになる。業や徳はある状態であって、神そのものではないから神の想念はコントロールする情報だと思うのです。だから徳と業を旨く操作して類魂全体を向上させようとする想念が「まこと」と考えました。ですから神界に徳があってそれが具現化しても、それ自体には「まこと」は問われないのです。そういう御利益は、例えば学者になりノーベル賞を貰う、政治家になって大臣になるなのでしょうが、その人々はただ徳を表出しているだけで、「まこと」をもつかどうかは別だと思うのです。どんなに立派な人物でも、どんなに優秀な霊能者でも、そこに「まこと」か無ければただの業生だと思います。

B魂の救済はその魂の持っている業が大きければ大きい程、上位の類魂の協力が必要になってきます。類魂は魂の救済のシステムであり、魂の救済を行う事によって大きな上位の類魂(6図で言えばDからF、FからG)の徳になり、全体が救済されて行く訳です。(類魂5・類魂の対流現象参照)つまり救済ということが類魂の大使命ということになります。自己が徳を持ち高級になると霊柱を上り(6図ではD霊の上辺に昇ります)自己が業を重ね低級になると霊柱の底辺に落ち(6図ではD霊の底辺に行きます)ですからその霊柱の高級の部分では神の想念が多く低級は少なくなります。(類魂5.第9図参照)

低級霊を浄化して徳を増やせばその霊から派遣されている人間の運命は当然上のランクに入ってきます。つまり自分に徳を持てば神の想念の一杯ある所へ行けるので、そのランクの徳を貰え、当然ノーベル賞とか大臣になることも可能でしょう。しかし徳というのは使えば無くなってしまうもので、霊界の通貨みたいな物で霊界の貯金を下して大臣になったとしても霊界では貧乏になってしまったということです。その為やがて運命も下降し、徳の貯金を遣らせられます。それは新たな救済が始まるわけです。しかし地位と名誉が無ければ積めない徳も在ります。人間は休む暇がありませんね。

神の想念の一杯ある所には高級霊が居て、その霊が作りだす徳と同時に自分もそこに居るので、そこで作り出される徳を貰うことができます。「まこと」はその通りと思います。


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