意識と類魂

こんな質問がありました。

集合的無意識の内的な共同体空間ではの意識はどのように知覚されると思う?


言語ゲーム的に言えば、集合意識内の個、意識らしきものは、

集合意識のある一部分に注意を向けているだけのこと。

集合意識は刻一刻と変化している。走っている車の窓から見る景色のように。

人の意識はその風景の一部。

霊能者はそれを自分とは別の意識として、知覚できる。

霊視なり、霊聴なりで。霊能の無い人は、

自分の意識と集合意識内の別の意識との区別がつかない。

だから自分がそう思っているのだと錯覚してしまう。自殺願望はこの典型。

自殺の意識体(自殺因縁を持つ霊)を見ているに過ぎないのに自分が自ら死にたいのだと思

い込んで、実行してしまう。

彼もわかっているはずだけど、没入してしまった。宿業だと諦めたんだと思う。

つまり、これは類魂論なのだ。

意識は全体で一つの意識ではなく、たくさんの想念の集まりです。

想念の一つ一つは霊として独立できるのです。

人の心は、このような霊として取り出せる想念が集まって作られています。

集合意識といっても差し支えないでしょうけど、霊を強調して論じたいので、類魂ですね。

それに注目すべき点は、物霊の相補関係みたいなものです。

集合意識では協調作用がいわれますけど、

それは物霊の移動の結果のように見えるのです。

集合意識全体の物霊の移動を観察すると協調作用が理解できます。

これは純粋に数学的な関係です。

心理学ではそこまで踏み込まないです。

物霊の表れは法則的なものです。カルマの法則とも言われていますが、

科学の言う法則とは違います。

従う必要はないのです。物霊は姿を変えることができますし、逃れることもできます。

ですから、カルマの法則と言うのも正しくはありません。

小山類魂論をご存知の方はお分かりでしょうが、どんなに重い業があっても、

必ずしもそれを忠実に具現化する義務はないのです。

それは守護霊が総合的に判断して、その人の人生の道のりを決めます。

カルマや業がその人の人生を定めるのではありません。

類魂の長である、守護霊が決めるのです。


ピア・スピリチュアル