《創 造 神 話 》
 

・初発

 

今回から、指導霊を ルッキーと呼びます。

この人は20世紀を代表する哲学者なので事典類には必ず載っています。伝記も何年何月何日に何処で誰と何をしていた、と言うかなり詳しいものがあります。本人はそれには赤面しています。やはり故人となっても、プライバシーは守るべきなのでしょう。ルッキーは生涯独身で直系の子孫は在りません。家系も途絶えている。子孫に対する責任は無いらしい。つまり現世のしがらみが無い。しかし、一方で子孫が居ない場合は、霊界での目覚めが遅くなるらしい。私の所に来たときは、未だ意識が無い状態でした。四年前の春先でした。霊達が、白い布にくるまれた死体を、神様の部屋にゴロンと寝かせたのでした。

「この男はあんたの指導霊になるんだ。これから目覚めさせる」

それから四、五人で取り囲み、何度か印を結びました。霊達は外人にも術が通じたと言って喜んでいました。その後ルッキーも私も手さぐりしながら文を綴っていきました。

なにせお互い始めてのことなのですから。段々分かってきたのですが、この時来たのはルッキーだけではなかったのです。オーストリア人、親がケルト人のイギリス人やドイツ人。この霊たちはゲルマンなのです。ゲルマンの霊界と日本の霊界につながりが出来たのでしょう。

これは、始めから霊界が意図していたのです。それはゲルマンの神秘思想と、日本の心霊科学を結び付けたいというものです。はっきり言ってそれは、シュタイナーの人智学を日本の神道に向かわせる。

いつもそうですが、カタストロフィー理論や、言語ゲームや、始めにこうしたいと指示されると、余りにも荒唐無稽で、面食らってしまいます。どうすれば良いのか全く分からない、人間技では無理なのです。

シュタイナーの著作を読んで、私の霊達の主張してきた事はこの人に非常に近いと思いた。私は、本田親徳に習っていました。それは霊性の向上を重視して、霊性に関係のない教説や、迷信的な因縁や生まれ変わり説は退けていきたい。

親徳はそのために審神者の方法を開示し、鎮魂帰神を確立したのです。本田霊学はその後、大本教を経て浅野和三郎、協会へと伝わっていたのです。霊性に関係のない概念は排除して、ひたすら霊性を磨くという態度はシュタイナーと同様のものです。シュタイナー独自の科学的方法論は本田霊学の審神者と同じ意義を持つ。自分の内的世界に向かう場合、つまり霊視する時の問題は、そのビジョンが単なる思い込みの想像か、霊的に意味のあるものかどうかです。どの人の霊視もそうですが、その内容の全てが完全に正しいとは言えないのです。何よりもこの私自身がそうだからです。シュタイナーもそうだったと思います。

私は子供の頃、それを区別するのに少し苦労しました。人が頼ってくるので間違った事は口にしたくなかったのです。これを解決するには、理性によって自分を見張るしかない。詰まり自分自身を審神者すると良いのではないかと考えたのです。そして霊視するときだけでは無く、日常生活全般を審神者しなければならない。霊性を妨げるものからは心を離そうと努力したのです。シュタイナーはそれに、何らかの科学的手法が在るのではないかと考えた。更に一歩進んで、その内的知覚を育成できないのだろうかと考えた。

あの人の信条は、出来るだけ多くの人に霊学を伝えたい。そうであるなら、西欧の神秘学が隠している密儀の部分を科学的手法によって明らかにするということでもある。しかし私が思うには、その科学的手法を実行すると、マスターやスクールは個人を強制できなくなってしまう。神秘主義の伝統を破る危険があったはずです。シュタイナーが晩年、暗殺を仕掛けられる程に恨まれていた。その理由は、この真実を知っているライバルの霊達がけしかけていたからでしょう。その霊はシュタイナーと名乗っている。であるから、その霊に論述してもらいたかった。
しかし、「神に査定される身の上としては、何も語れない」と言うのです。それは随分と厳しい注文があるからのようです。ヤマト(向こうはゲルマンと名乗っているので、日本人のチームをこう呼ぶことにします)が指摘した、人智学の欲求不満な所を上げます。

@ 内的知覚を探究する為に、自身の科学的センスを駆使して努力したことは認める。しかし、霊が見えない眼鏡のレンズをいくら磨いても霊は見えない。シュタイナーは霊的真理に向かいながら、結局いつも目の前の実在に引き戻されている。そこにもどかしさを感じている。シュタイナーのビジョンは、一見壮大で無比の感を受けるが、実は近視的なのである。
A 我に対する認識が納得できない。シュタイナーは自我を解剖しようとしているのだろうか?霊あるいは霊的知覚として問題とすべきは“活きる自我”なのである。そしてまた、自我はカルマ的にヒエラルヒアを上昇するのではなく、弁証法的に神へ帰一するのだ。

B人間が何故神に祝福された存在なのか述べていない。イエスによって満たされなければならない、その必然に付いて語っていない。私は堕天使を言っているのではない。何故、人は霊性を高め進化しなければいけないのか、何故滅んではいけないのかについて、自身の本心とする所を述べていない。つまり、それは、人智学は人間存在の幽的、顕的統一性について洞察している。であるなら、何故宇宙にはそのような人間存在が必要であるのかに付いて。

 これは、つまり、人智学には逃げてる所があるとい言いたいのね。そして逃げのある所には誠はないのね。それはとても見当も付かない、人智学の狡さなんて。神道に向かうには誠が必要だから、人智学から誠を取り出して見せないといけないのです。それにはどうするのか、取り合えず、一端人智学を破棄して根源から懐疑していこうというのです。

 人智学の根源というのは、シュタイナーの哲学論文である「自由の哲学」にあると思うのです。この論文は、始めに論述していたウィトゲンシュタインの言語ゲームと共通する、ある論理的背景を持っています。それはゲーテの自然科学の論文にある、ゲシュタルトという考え方です。この点に付いて哲学的に探究し、シュタイナーの心に在った“自由の本質”を明らかにしてみたいと考えています。つまり人智学の外殻を切りとって、中身を取り出したら、それは神道哲学のいう誠で在ったということにしたい。これは心霊科学的懐疑なのです。それが達成されて、シュタイナーが内的世界に求めていたものがまことであると確認された場合、カルマ思想に付いての認識を改めなければならなくなるのです。シュタイナーが体系化した人智学が、ゲーテが見出したゲシュタルトを背景とするものだあれば、ゲシュタルトする系では、カルマの法則のような定型的な関係はないからです。

 それで、霊達が求めているものは、人智学からカルマ思想の部分を除いた、天使論とアカシックレコードを心霊科学の物霊論として組み入れたいというものです。人智学を世に出したのはシュタイナーただ一人によるのではなく、ゲルマンの霊界なのです。そのゲルマンの天使達は、仏教思想は使って欲しくは無かったのです。

「カルマの法則という表現は、アーリマン的で合理的に見えるけれど、実はルシファーであって、人間から霊的向上心を奪う恐れがあった」って言うの。インドの思想は皆そうだと思うけど。でも、人智学を世に出す時点では、他に適当な概念が無かったのです。それに、ゲルマンには特有の運命信仰があって、その為にカルマを受け入れてしまったそうです。

 天使論に付いて。ゲルマンのオージンは典型的な国津神です。大山津見神と大国主命を併せ持った性格の神のようです。そこで、人智学でいう民族霊は地主神、時代霊は天津神の図式が成り立ちます。私の神様にそれを確認したところ、それを実演してくれたのです。いつもお世話になっている近所のお宮の神様がゲルマンの皆を呼んで、神が神に対して行う鎮魂法を、見せてくれたのです。作法は本田流と基本的には変わりません。親徳の神界直伝だったのですから。

 地主神様は大勢いらっしゃるのです。その中の古い地主神様が審神者になって若い地主神様を鎮魂し、そこのお宮の祭神を降ろします。審神者の地主神様と降りてくる大神様は同じくらいの霊格です。大神様が降りると神域やその周辺の地域一体を浄化しますが、其の地域の一部の、あるレベルは、人智学的に言うと、あるヒエラルヒアにある天使が、この若い地主神様で、鎮魂し、降りてきた大神によって、土地も浄化できるし、若い地主神様も向上するのです。また,どうにもならない悪霊は宇宙の彼方に吹っ飛ばされます。それはその後、隕石のかけらや宇宙線にくっついて地球に戻ってくるそうですが、その時は細かい粒子になって霊的進化をやり直すのだそうです。

 つまり本当の鎮魂法は、人間が代になる場合のように単なる“お告げ”ではなく、霊性を磨く為の神業なのです。そして、これの規模の大きいものがキリストや天孫の降臨です。ヨーロッパでは現界に近い所でこれが行われることは余りないらしいです。これが出来る、お宮に相当する神域が限られているのです。日本の神社ではお祭りの他にも、境内に穢れが溜まり過ぎると、大神様にお出で願って鎮魂を施すわけです。これを見せられただけでもゲルマンの霊学が日本の神道を求める理由が分かります。

 

 あの人に始めて会わされた時に、なぜか、悲しみと絶望が押し寄せて来たのです。心の中に何も無くなって、悲しみの塊だけが転がっているのでした。どうしてなのだろう、他界後75年経っていて、言ってみれば一国一城の主で、自分の霊団と信徒をもって、神様のお手伝いをしているのに、何故、魂の底にある悲しみや憎しみをそのままにしているのだろう、私自身ショックでした。あの人にも私の気持ちが分かったのか、その後しばらく、私の側に近寄ってくれませんでした。

 Lの文章ができて、発表されていく中で、だんだん順番が近づいて来ました。Lは強制的に私の背後霊になったのですが、それはフリーで誰の背後でもなかったからです。シュタイナーは立派な霊人で、私の個人的な背後霊とは違うのです。私は、彼はこの話を拒否する権利があると思ったのです。それに私の背後霊として名を出すことで、折角の霊格に傷が付くのではないかと心配になったのです。

 そしたら、懐からチャームの様な小さな十字架を取り出して、私の掌に載せて「これが自分のすべてです」と言いながら手を握りしめたのです…、前置きが長くなりました。それじゃ、さっそくこの十字架を開陳してみましょう。

 私が開けても後悔しないのね、ルーディ?

 【川崎から一言、この文中のシュタイナーが本人であるか否かに付いて判定する手段はありません。また、私自身シュタイナーに関連する団体には属しておりません。もとより、人智学の専門家でもありません。従って文中のシュタイナーの真偽や、霊信の正当性に付いては読者の皆さんの判断に委ねるものであります】

 

 

      §ゲシュタルトする本質§

{1}「自由の哲学」

 ゲーテの自然科学の論文に『科学方法論』というのがあって、その中の〈自然―断章―〉の抜粋、

『自然!われわれは彼女によって取り巻かれ、抱かれている
―彼女から脱け出ることもできず。彼女の中へより深く入っ
ていくこともできない。頼まれもせず、予告することも無しに彼女はわれわれを彼女の輪舞の中に引き入れ、われわれともに踊りつづけるが、そのうちにわれわれは疲れ果て、彼女の腕から滑り落ちる。自然は永遠に新しいもろもろの形態を創る。いまあるものは、かつてはけっして存在しなかった。かつてあったものが再び来ることはない―すべては新しく、
しかも常に古いものである。自然のうちには永遠の生命・生成・運動がある。しかし彼女は先に進んでいくわけではない。彼女は永遠に変化し、一瞬も静止することはない。停滞ということに彼女は何ら理解を持たず、静止に対して彼女は呪いをかけた。彼女は決然としている。彼女の歩調はしっかりと定まり、彼女の例外は稀で、彼女の法則は永劫不変である。

人間は自然の法則に逆らうときもそれに服従し、彼女に反抗して活動しようと思うときにも彼女とともに活動している。自然は言語も話す言葉ももたない、しかし彼女はもろもろの舌と心臓をつくり、これらを通じて感じたり話したりする。自然の冠は愛である。愛によってのみ人間は彼女に接近する。彼女はすべての個物のあいだに間隙を設けたにもかかわらず、すべてのものは互いに絡み合おうとする。
彼女がすべてのものを孤立させたのは、すべてのものを引き寄せるためで
ある。愛の酒杯からほんの少し飲むだけで彼女は苦労にみちた生活の償いをする。私は彼女に身を委ねる。彼女は私を思うように扱ってもかまわない。彼女は私の作品を憎まないだろう。私が彼女について語ったわけではない。そうではなく、真実のことも誤ったことも、すべて彼女が語ったのである。すべては彼女の責任であり、すべては彼女の功績である』

これを読むと、ゲーテが霊能を持っていたと分かります。内的知覚を研ぎ澄ませて、自然と向き合った時の素直な実感を述べているのです。しかもこれは科学論文の冒頭で述べられているのです。
ゲーテの、自然に対する科学的態度がどの
様なものであったかが、良く分かります。ゲーテは自然に自らの魂を委ね、御心のままに自分を使役してくれといっているのです。これは“まこと”以外の何者でもありません。ゲーテの職業的研究者だったシュタイナーは、この部分を読んだときに霊能者として同じ境遇にあるゲーテを感じたはずです。そして、自分の霊能者としての魂にもまことを見ているはずです。これには論理的な説明は必要ないのです。でも凝り性のゲルマンは学問的な筋道を付けたいのです。これが私達のまことです。と、神に報告したいのです。

『ドイツ人は、現実に様々な姿をとって現れてくる存在を集約して示すために、形態(ゲシュタルト)という言葉を用いている。この表現を用いれば、生動し変化するものが拾象され言い換えれば、相互に作用しあって全体を形成するそれぞれが固定され、他との繋がりを断って一定の性格を示すことになる。しかしあらゆる形態、なかでも特に有機体の形態を観察すると、変化しないもの、静止したままのもの、他とのつながりを持たないものは一つも見いだせず、むしろすべてが運動して止むことが無いと言わざるをえない。〜、

したがって形態学というものを紹介しょうとするならば、形態について語ることは許されない。やむを得ずこの言葉を用いる場合があっても、それは、理念とか概念を、或いは経験に於いて一瞬だけ固定されたものを指すときに限ってのことである。

 ひとたび形成されたものも、立ち所に変形される。だから多少とも自然の生きた直観に到達しょうとすれば、我々自身が、この自然の示す実例そのままに形成を行える様な、動的でのびやかな状態に身を置いていかなければならない』
これもゲーテの形態学序説からの引用文です。シュタイナーはおそらく暗記するほど読んでいたと思います。このゲーテの自然に対する洞察を自分の手で哲学にしたかったのでしょう。

 「自由の哲学」初版は1894年です。その頃ベルリンの心理学界では、ゲシュタルトの心理学が研究されていました。それが世界に知られてきたのが1930年頃、そして人類学や医学に応用それたのが1960年代、戦争でアメリカに渡ったゲシュタルト理論からは、さらに新しい学説が生まれています。時代は進んでいます。霊達は自分たちも新しい事がしたいのでしょう。でも、どこから手を付けたらいいの?ちゃんとナビゲイトしてちょうだい。

 

―「自由の哲学」の中の、何処でもいいから“一元論”と記してあるところを“ゲシイュタルト”と言い換えてみなさい。
 意味が通じるはずだけど、

 

それじゃ、第15章一元論の帰結、始めのところ、

『本書で扱われている一元論は、世界解釈に要する諸原理を経験の中から取り出す。同様にまた行動の源泉を観察世界の内部に求める。〜一元論は、知覚と思考の前に横たわる世界の究極の根源を、抽象的な推論によって世界の外に見出そうする事を拒否する。体験できる思考的考察が知覚内容の多様性に統一性を与えるとき、それは一元論的な認識要求に適っている』(高橋巌氏訳)

これは確かにゲシュタルトを述べている。特に下線のところはそのものずばりね。しかもウィトゲシュタインの後期哲学の研究テーマとも一致しているようね。要するにゲシュタルトする系の一元論なのかしら。

ルーディ、「自由の哲学」でもっとしっかりとゲシュタルトを把握していたら、その後の人智学の在り方は、完全に違っていたと思うけど。

 

―君はゲシュタルトを動詞として理解している。ドイツ語ではゲシュタルトは名詞なのだ。だから、私はそれを、君が理解している意味での学  術用語としては考えていなかった。私は一元論という言葉をつかって、そのゲシュタルトを説明しようとしたんだ。

 

でも「自由の哲学」には、素人の私が見ても哲学的に混乱しているところがあるように思う。ゲシュタルトは言語ゲームの世界を示している“相”なの、この相に付いてだけに進化論を持ってくるのは良いと思うけど「自由の哲学」は内的世界を問題にしているのだから、相そのものにこだわってはいけない。それはゲーテもいっている。これは天使論のヒエラルキーにもいえるのよ、どうも、進化論的一元論に関して、シュタイナー自身がまとを得ていないのかも知れない。それに分からず屋の哲学者が相手では仕方ないかも知れないけど、要らない説明が多すぎるみたい。

 
―「自由の哲学」は過去の記念碑なのさ、過去を分析して後戻りはしたくない。あらゆる点を考慮して、私は許されるのなら生まれ変わりた   いと思っている。

―神々の意志としては、人智学と神道哲学を結びたいのだから、全部捨ててしまう必要は無いですよ。取り合えず「自由
の哲学」がゲーテ   からゲシュタルトを継承しているということははっきりしたのです。「自由の哲学」の主張するものは、世界にも人にも内的世界が実在して  いて、外的世界と同等か、それ以上の、存在に関しての権利を有するということを、正当な方法によって論証したいというものです。いま   それを遣りましょう。そしてまた同時に、ヤマトの要求にも答えなければならない。つまりそれは、「神社神道神学入門」小野祖教著、によ  れば世界の内面は八百万神々の坐まう世界であって、まことの輝きが満ち溢れる世界なのです。あなたのビジョンは世界の内面を知覚  するものなのでしょう、そしてその知覚によって、さらに自分自身を内面世界の高みへ導くのです。それは“自由の道”であって、神道神   学に従えば“まこと”であるはずです。人智学はまことの学びなのです。それを鮮明にするためには、人智学の出発点に帰って、そのとき  人智学の創始者は、世界をどう理解し、何を為そうとしていたのか、いま一度確認したいのです。それと、あなたは望まれて此処に居る   のです。何も気づかう必要はないのですよ。

―つまり、ゲシュタルトする世界には因縁論的なカルマの形式は無いのに、何故カルマを観ていたのか。そしてそのカルマとは何だったのだ  ろうか、ということなんだね、宜しい、
 私は、ヤマトが指摘した「シュタイナーのビジョンは眼の前の事実に戻ってしまう」についてずっと考えていたんだ。それと、どうしてヤマト   にはカルマが無いのだろうって。これは多分、西欧神秘学とヤマトの、内的世界への探究姿勢の本質的な違いだと思う。

  …、それ以前に、西欧人がカルマを全く知らなかったというのではない。カルマに類似する考え方はゲルマンの世界にもあるんだ。ノルン  という女神がいて、彼女が世界の一切の存在の運命を定めるんだ。この定めは、たとえオージンでも従わなければならない。一端生じる  と、変更不可能な志向性なんだ。私はそれを、運命の女神ではなく、人間自身の行為が定めるとしたのだ。その方が理に適っていて、科  学的で、説得力がある。過去の行為が今の人生を定める。つまり原因と結果の方程式だ。その因果の方程式が多数組み合わされて、   世界の中に人間存在がある。と考えた。

  つまりヤマトが私に問い正していたのは、志向性に付いての見識だったのではないだろうか。そのビジョンは本当に志向性(カルマ)だっ  たのであろうか、ということですね。

―カバラっていうのがあるでしょ。その生命の樹、あんたはそれに志向性を見ていたんじゃないの?

 わしらは其処から古事記に持っていこうと思うんだ。西欧の学びは伝統的に、唯一の実在である神から、その属性である人間への絶対的 志向性を前提に構築されておるだろう、あんたはその神の特権を人へと委譲したのじゃな、その目の付けどころはなかなかいいよ。

 でもね、宇宙の様相はカルマ的志向性だけが全てではない。それはあんたも分かっているだろう。それなのになんでカルマを強調してしま ったんじゃ。あんたが何故それほどまでにカルマ思想に心酔したのか、それをはっきりと説明せんとね。生命の樹に志向性を見て、それか らカルマになったとして、それが本当に正しいのであれば、わしらの試みは失敗する。

 

…世紀末、ベルリン、付き合っていた彼が居た、ウソーしかも自殺させちゃった?なんなのこれ、誰の話なの。

 

―これは“セイズ”なんだ。……呪いなんだ。つまり、カルマ論とはそういうことなんだよ。

 

あんまり奥が深すぎて、あなたの心が見えない。そのセイズには絶望とか恥辱の意味が感じられるけど、

 

―私は、他の霊達もそうだか、アストラル体によってコミュニケーションしている。私の想念が君のアストラル体の中に表出(あるいはこれは  ゲシュタルトであろう)されて、君の内的知覚になるという訳だ。霊の側に心理的に後退する要素があれば、アストラル体がその場となって いる為に、内的知覚には得体の知れない感情が伴ってしまう。セイズは相手の霊媒体質に付け込んで、思いのままに操る呪術なんだ。私 は君に、ある想念を与えた。すると君は幾つかの日本語を並べ、否定的な心理状態になってしまった。この内的知覚を人に話すなら、君は どう説明するのだろう。

 

ここまでの議論ではカルマの正体は分からないけど、私の経験では、カルマや因縁を神経症的に気にする人が居るでしょ、そういう人は、依存心が強くて、何でも他人のせいにする人が多いのよ。何でこんな事になったんだって、いつも後悔していて、誰かが悪いんだと責めたてたいのだけど、その責めを負ってくれる相手が居ないから、前世に矛先を向けるの。それは自分自身の魂に対する自虐的行為だと思う。カルマを分析しても何も未来は見えて来ない。

例えば暴力夫に悩む妻が居るとする。殺されるかも知れないと10年以上も怯えながら暮らしているの、この妻にそれは、あなたが前世で夫を蔑ろにして裏切りつづけたふしだらな女だったからだと主張しても問題は解決はしない。この奥さんは、その前世の話を鵜呑みにし、信じてしまって「夫が暴力を振るうのは、私が前世で悪いことをしたからなのだから、今はその償いをしているのだ」と思い込んで、それなら死んで償おうと、自殺を考えてしまったの。これは実際にあったケースなの。この場合はカルマはまったく余計な戯れ言「今度旦那が暴れたら、近所の民生委員さんのお宅に逃げなさい」と言ってあげるのが正解よ。

私の感想としては、カルマや因縁をとやかく言っている人は、まだ人生に余裕があるからよ。常にどん底の人生にあると、カルマ的分析をすると死にたくなってしまうの。今生は早いところ遣り過ごしてしまいたいって思ってしまう。

あなたもどん底の経験をしてきているのでしょう、ベルリンで、それなのにどうしてカルマ論の虜になってしまったの?

 

―すまない。これではヤマトに非難されてしまうね。人智学の語るカルマの正体を明らかにする為には、私自身の内的知覚を懐疑しなけれ  ばならない。しかも一方で、それはゲシュタルトの哲学とどう関係しているのだろうか…、つまり、私の観ていたものがカルマではなく、ゲシ ュタルトだとしたら、何がゲシュタルトしているのだろうか、そしてカルマが語る前生とは何だったのだろうか?

 私は単純に、内的知覚を研ぎ澄ませれば、世界の内なる世界へ参入するものと考えていた。それは確かにその通りなのだけれども、そこ で完全に見落としているものがあった、ウィトゲンシュタイン的に言うなら、“人は行為する確実性である”ということだ。内的知覚を理解でき なくても、真っ当な人生を過ごす人はいる。つまり、内的知覚と、人として生きることは必然ではないのかも知れない。問題は内的知覚その ものより、人として生きるにはどうしたら善いのか、そしてそれが誠なのだと思う。ヤマトには私が、何かにつけてビジョンの中に逃避する臆 病者に見えたのかも知れない。そうなのだ、私のビジョンのあり方は、逃避だったのかも知れない。君はビジョンにカルマを観ても、それを 論理的に否定する確信を持っている。今の場合、私は故意にカルマ的霊視を君に与えたんだ。

これはただ言葉を並べただけの単純なビジョンよ。それを精神的に受け身の状態のときに、文学的に解釈してしまうとカルマ的分析になってしまうと思うの。つまり、心の持って行き方でカルマは消えてしまうのよ。私は、カルマ的分析はある種の言い訳に過ぎないと考えているの。だって人間は沢山の人生を持っているのでしょう、それに背後霊等の霊的存在がある。一人の人間には何百万もの霊が類魂としてかかわっているのよ。だからその中には、人殺しや聖人、金持ちや政治家、あらゆる人生がぎっしり詰まっているのよ。つまり好きなストーリーが組み立てられることになる。それがあなたの言うセイズなのかしら。

始めて会わされた時から、ずっとルーディを観察していたの、私とどう違うのかしらって。どんなビジョンの世界にいるのか興味があったの。あなたの霊視内容は印象派の絵画の様なの。柔らかな光が溢れていて、とっても繊細な世界、でもこれはつまり鑑賞なのよ、霊視内容を鑑賞しているの。だから内的知覚に引き籠もってしまうと思う。私は鑑賞はしないの。日常のありふれた景色と同じなの。

内的知覚を鑑賞するっていうのは、それはつまり、接神なのでしょう?私は身体に霊が入っても、体の状態にそれほど変化はないの、だから神様が来ても特別な感動はないのよ、職場の上司みたいで「何しに来たんだろう、まだ何かあるのかしら」って感じ、勿論、人間の一人として感謝はしています。

あなたは、神様の前では言いなりになってしまう。強烈に感応されて、押さえつけられてしまう。それは、あなたの霊的感覚器官が発達しているからだと思うけど、現界でお仕事するには大変じゃない?相手が神様ならいいけど、悪霊だとめちゃめちゃにされてしまう。分かっているでしょうけど。

 

―私も同様に、君を観察していたよ。私は人の側に立つとき、この人は私をどう知覚するのだろうかと、いつも気になっていた。私の姿がどう 見えているのだろうか…、人によってはキリストに見えたり、天使の様に神々しいシュタイナーを見たり、また、姿は知覚しなくてもアストラ  ル体の中に、私がそこに居るのだというリアリティーを与えることは出来た。

 いずれの場合も、私はその人には善いビジョンを与えたいと努めた。常に心を集中して、善なる心を持つことを義務としていた。騙すつもり は全然ない。ただ、出来るだけ善いものを与えたいと思っているだけなんだよ。しかしこれは、私が相手のアストラル体に形成させた想念  の外套なのだ。相手はこれを内的知覚して、神の様なシュタイナーをビジョンしていたのた。これはセイズと同様の呪術なのだよ。

 …そう、立場を逆にすると、生前の私が観ていたカルマは、自分の自我に形成された相手からの想念の外套だったのだ。それを分析しても 意味は無かったのだ。私がビジョンを与えた人間は皆、神秘学的鍛練をつんでいる者達であるから、私と同様の体の作りをしている。つま り、カルマ幻視者なのだよ。私はその体の作りに付け込んで、故意に善いビジョンを与えていたのだ。セイズなんだよ。ヤマトから見ると私 は卑怯者なんだよ。“まこと”であるはずがないのだ。

 でも、私のセイズは君には通じなかった。失礼な言い方だが、人間なのに何ぜ私の本心が読めたのだろうと思った。それは、霊格の違い、 霊界の違い、確かにそれもあるが、最も顕著な違いは、体の創りだと思う。これは男女の違いではないよ。君は一見すると普通の人間な  んだ。霊体も普通人のものとそんなに変わりない。むしろ貧弱かも知れない。ただ、注意して観ると異様な気配を感じたんだ、もしそこにお 使いの天使が居なければ、この人間は悪魔に取りつかれているのではないのか、と考えるだろう。

 …ごめん、

 

私の霊体はそれぞれ独立した個性をもつ霊らしいの、アストラル体はおそらく七福神や白兎神等のハッピーな精霊さん、エーテル体は不動明王や鬼神みたいなハードな霊だと思う。今迄自分の身体の内的世界はビジョンはしたことないから、良く分からなかったの。私のような人間は真柱っていうらしい。真柱には余りビジョンは必要ないの。何もしなくていいから、ただ生きていればいいんだって言うの。人間として現界に居ると、私の背後霊として霊達を纏めていられるでしょう。ゲルマンもヤマトも霊界で出会うことは難しかったと思う。でも私が生きていることでその場を提供しているでしょう。それが真柱の役目だって。

 

―真柱って、神と直結している人間なのだろう、君はまったく自覚していないけれど、とても重大な事なんだよ。私達が霊学を志すのは、最  終局面で神との合一を懇願しているからなのだから…、その方式を接神とよんでいる。人智学の目指すところも接神なのだ。ただこの言  葉は、私の著作の中では、直接的には使われていない。

 伝説的に語られているが、接神には内的にも外的にも過酷な苦が伴う。あの方式を普通の人間に課すのは不可能なのだ。それでは一般 生活をする人間がその日常の中で接神に至る方式はないのだろうかと考えた。苦は業が浄化する過程で現れる(その時の業はたての類 魂から降りてくる。下に居る自我から見ると、前生に見える)そして苦が有れば、そこには霊性があり導きがある。接神も、命がけの苦があ り、神との合一がもたらされる。つまり、日常の生活に於いても、少しずつ苦を浄化していけば、霊的に向上できるという理屈になって当然 だろう。だがしかし、前生のビジョンにカルマを観るとき、私の自我は萎縮していたのだと思う。その事柄に理由は要らないのだ、人はただ ひたすら導きに従うしかないのだから。それなのに、やはりカルマ的関係を観ていた…、そうなったのは何故なのかと、その物事の成り立 ちに疑問を持つことは日常生活でよくあることだね。物理的対象の成り立ちに疑問を持ち、分析するのは正しいのだか、同じ仕方でビジョン を分析するのは間違えだったのだ。

―そうじゃな…、シャカは苦から解脱し、無になっておるらしいが、それならわしらの世界に居ってもいいんだろうが、わしらから見ると、結局 いつまでたっても苦の中にい続けておる。シュタイナーのカルマ論と同じで、苦を象徴にして、苦の世界に参入しているからなんだ。当然、 苦の虜になる。一つの苦を無にすると、また一つの苦が現れる。そうやって次々と現れる苦を線で繋いで、カルマと呼んでおるんじゃ。

苦に目を向けても、迷いに陥るだけだよ。言語ゲームの世界を受け入れるのじゃ。先に接神があってもいいんだよ。業は神と共に浄化すれば いい。シャカもシュタイナーも、なんですんなりと神の懐に飛び込まんのか…

人間が「前生の悪行が酬いて不幸になる」と考えるのは、わしには全く理解できん。自分の意志に逆らって悪い事が起きるから、不可知の 原因があると思うのかな、そんなもの有るはずないよ。人が行為する一瞬一瞬は結びなおされる、自我は中今なのじゃ。中今にはカルマは 無い。人間の魂が歩む霊的環境は、人が外を歩くときの様に、少し頭の向きを変えると、たちまちその風景が変わってしまう。つまり自我に 結ばれる行為のゲシュタルトは断えず変化しておる。だから人の行為や、人生の霊的原因は一義的に示すことは出来ないんだよ。

例えば、暗い部屋の中で出口を探す場合、あちこち手さぐり、足さぐり、試行錯誤しながら戸口を探すが、これは出口を探す一連の連続的行 為なんじゃ、行為のある部分と、ある部分を原因と結果の形式にあてはめるのは無意味なんじゃ。つまりある一つの霊の霊的成長過程に、 原因と結果の因果性を与えることは出来ない。人間の霊のカルマ的表出は赤ん坊のよちよち歩きと同じなんだよ。赤ん坊があっちに転び、 こっちに転んで歩くのはカルマではない。赤ちゃんだからじゃ。あんたの「自由の哲学」は、この出口を求める哲学だったんじゃないのかな。 そんなら始めから出口を観れば良かったんじゃ。閉ざされた部屋の中でカルマに捕まっておってもしかたあるまい。

―そうです。自我が体験する内的知覚が世界の内面、つまり霊的存在(ここでは天使の意味)から由来するものであるのなら、始めからカル マには捕らわれなかっただろうと言うのですね。私は他界して自分がビジョンされる立場になって良く分かったのです。

 生前私は、心霊術の霊媒の霊視能力は全くあてにならないと思っていたが、霊が人間にアピールするのは大変難しいことだと思い知らさ れました。だからせっぱつまると、霊能が低くても高くても、そんなことはどうでも良いから、とにかくこちらの想いを伝えなければと焦ってし まう。霊になって、導く立場の私でさえもこんな状況なのに、それを受ける当の人間はどうなのだろう…、人間の自我は私が考えていた以 上に、傷つき安く、脆いものだったのです。これに関して私は深く反省しています。自分で自我の霊学を掲げておきながら、後進の人々に  は申し訳ないと感じています。人が神を焦がれ、求めるとき、そこには苦が横たわってしまうのです。神を愛すれば愛するほど、苦は生々し い現実となって私の魂を貫くのです。その苦を無視して、神と一つになるなんて、とても考えられない。

 その苦の正体は、前生の業なのですから、自分はどれほど神から離れた存在であるのか思い知らされてしまいます。それゆえ自我は極  度に萎縮して、苦という現実に眼が向いてしまうのです。神がすぐ側で御手を差し伸べているというのに…

 だからシャカと同様に苦の分析をしてしまう。苦の連鎖なのです。苦や不幸を前提とした人生や日常生活はおかしい…、それは良く分かっ ているのです。苦を感じるのはこの自分なのだ。つまり自分だけ不幸になっている。人間の思考習慣として、それは何故なのだろうと思い を巡らしてしまう。そう、自分を中心に霊的背景を求めると、カルマ的関係を観てしまうのです。だから、結局、私はいつも目前の実在に視  線を戻されてしまいます。それはセイズ(相手がとらわれている苦にとらわれる自分)だったのでしょう。世界全体のゲシュタルトを観たとき に、カルマの様に見えたのは、人間がその言語ゲームを閉ざし、苦に陥ろうとしていたからなのです。私はビジョンを鮮明にしょうと努力し  たのですが、結果的に、セイズを受け入れ安い身体を作り上げてしまったようです。もし本当にそうだとしたら、私の精進してきたものは無  意味になってしまう。

―あんたは、恐れておるんじゃ。だが、人間が独りで背負える業は限られておる。どんなに酷い悪行を積んでもせいぜい二、三百年地獄で  苦しめばいいんだよ。人間なんて楽なものさ。何を隠そう、このわしもな、地底のマグマの風呂に漬かってたことがあるぞ、一万年もな、神  の許しが出なくてな。そうだな…、ここに 600万人殺した独裁者が居たとする。この人間のカルマはどうなるのか。実は 600万人分の業を 全て、この人間が一人で持たされるわけではない。というのは、この独裁者はこの者一人でこの世に生まれてきたのではないからな。
 ある霊団(類魂)の一員であるはずた。だから、始からこの類魂の長が責任を持っていたんじゃ。さらにこの独裁者は、その国の元首なんだ から、その国の民族霊も責任を持って当然じゃ。神の責任なんじゃ!すべてな。

 それで、分かるのはこの 600万人殺した独裁者には、陰では高次の天使が付いておったということだよ。つまり、ある一人の人間の業を  仲間の霊みんなで、少しずつ分担して引き受ける。逆に、ある一人の高次に達した人間が、皆の業を引き受けることもある。イエス殿みた  いにな。そうなると、直線的なカルマの関係は成り立たない。ある一人の霊が向上するというのは、同時に霊界全体が向上しておるんじゃ 。だからな、あんたが落ちるときは、神も一緒に落ちてくれておるのさ。人は助け合って生きるというじゃろう、霊界も重すぎる業は分け合っ て、助け合って、宇宙全体が速やかに向上できるように調整しているのさ。わしが今言ったことが正しいとすると、それは霊の世界がゲシュ タルトしておるからなんだ。類魂の様相は断えず変化して脈動しておる。そしてその類魂の長がその様相を、もっとも良い善なる様相を保つ ように統一しておるんじゃ。(それをライプニッツは予定調和と呼んでおるらしい)

 

ルーディ、ヤマトが何か言うと、落ち込んじゃうの。私のアストラル体の精霊さんを分けて上げるから、もっとハッピーになろうよ、もう背後霊と人間の関係なんだから、他人じゃないんでしょ、その重荷を私に降ろしてもいいのよ。他の霊もそうしている。その替わり守護の天使と一緒に私をサポートするの、霊的ギブアンドテイクの関係よ、もっとお気楽にやろう。人間の苦しみが理解できない、ノー天気なヤマトなんて気にしなくていいのよ。

 

―大丈夫、十分に楽しんで遣っているから。シュタイナーは、人の体には、四つの構成要素があるといつも言っていた。
 物質体、エーテル体、アストラル体、自我である。これ等は、元々は一つの存在であった。君達はそれを物霊と呼んでいる。それが進化し て現代の人間になった。その進化の過程で、悪魔的な力である、アーリマンとルシフアーの作用を受けて現代に至っているが、それは物  霊の関連で、数学的に形式化して扱えることがわかった。これはユッグドラシルとアシカビの項目で詳しく述べよう。アストラル体は内的世 界の感覚器管なんだ、そして其処に自意識を置くとビジョンが知覚される。だからそのアストラル体の機能を高めれば、もっと鮮明なビジョ ンが得られる理屈になる。人智学ではそれ以上の探究はなされなかったが、これを物霊論から考えるともっと深い洞察が得られる。

 人体の物霊がエーテル体であるのは、容易に想像される。この物質世界から物質を寄せ集めて人体が出来ている、その集められた物質  の鋳型が物霊であって、エーテル体となる、そしてまた、エーテル体は肉体を通じて得られた情報も記憶されている。それはセンスデータ、 外的世界の物理的対象に応じて、所与されるものだ。つまりいずれにしても、人体のエーテル体は物質世界の霊的鋳型を人間に与えてい るといえる。そしてエーテル体は、人体という実体があるからプラスの物霊と呼んでも良いだろう。この物霊に関する限り、エーテル体は業 の場なのだ。エーテル体に形成される記憶は、ヤマトの意見では後天 の原気だと言うんだ。ということは先天の原気もエーテル体に形成 されるのではないのか、と考えられる。エーテル体にもっと深く入り込むと、肉体の記憶の向こうに、それを越えた記憶があるのが分かる。 私はそれが前生だと思っていたのだけれど、それもエーテル体に未発現の記憶として保持されている。ヤマトの話ではこれらの物霊が原 気となり、少しずつ体にわき出てきて生命力になり、健康を維持したり、逆に病気にさせたりするという。

 私が知るエーテル体もそのような仕組みをしていると思う。アフリマンとルシファーの発現も、経絡の虚―平―実の形態に一致するように思 われる。

 一方、アストラル体も物霊の一種であると仮定した場合、鋳型であるアストラル体の中に入る実体というのは、想像や、インテンションなど の内的知覚になるだろう。これは物質的実体ではないからマイナスの物霊と言えないだろうか。

 そう、これは君達の言う“徳”なんだよ。アストラル体はエーテル体から供給されている。つまり、エーテル体の業を、肉体が徳に変換して、 アストラル体がそれを摂取する。しかしアストラル体にならない徳は、また業として肉体に記憶されるか、あるいは現象になって現れてくる  のだろう。また、徳は前生(たての類魂)からも形成される。エーテル体が、外的環境に関する業を記憶するのに対して、アストラル体は精 神的な業である徳を記憶する。徳は物質を持たない物霊なんだ。この徳に物が形成されると、願望が叶うということになる。潜在意識を利  用して思い通りの自分になる、とかいうのはこれなんだ。つまりこの場合の潜在意識は、無尽蔵の秘力ではない。徳はいずれ無くなってし まう。だから物質体を操作して捻出する。カルマが苦の連関であったのに対して、この徳と物霊は欲の連関なんだ。そしてこれらは表裏一 体のものなのだ。エーテル体と物質体とは別にアストラル体のある一部が異常に形成していくと、その部分の徳は肥大し、欲望となってい く。もちろんこれは閾下の知覚であって、普通は自覚できない。そしてこの徳と呼ばれる隠された欲望は叶えられないままに肥大すると、  苦になってしまう…

 

ルーディ、この次の霊学編で論じる浅野正恭の「宇宙創造概観」や物霊論に結びつけようとしているでしょう。それと東洋医学。難経とキリストの密議を関連付けると言うけど、あれはもう完成されている治療体系なのよ、それ以上どうにもならないにね。ゲルマンのウルフが猫かぶってただけなのね。

 

―お誉めの言葉と受け取っておこう。ここで重要な点はある物霊の鋳型によって、それに対応した実体が形成=ゲシュタルトするということで ある。つまりゲシュタルトではなくして、ゲシュタルトしていくのだ。しかもその鋳型は、それ自体も変化しているのだ。プラトンのイデアやプ  ロティノスの一者のように、不変の定められた形ではなかったのだ。宇宙も神も、完全ではあるが不変ではない。それゆえゲシュタルトは常 に変化し、止まることはないのだ。

 なぜ気が付かなかったのだろう。私は、生きていて活動する鋳型があると分かっていながら、その中に形成される物質しか見ていなかった のである。ヤマトが批判した「シュタイナーのビジョンは目前の実体に戻ってしまう。近視的である」というのは、正にこれであろう。私は先に 述べたように、内的知覚の“視力”を良くすれば霊性にも良いのだと簡

 単に考えていた。善いものを知覚すれば善い行いも出来ると。しかし、私が考えていたビジョンの視力を上げるとい

 うのは、解析画面の解像度を上げたに過ぎないのだ。つまり、私のビジョンは、今まさに活動し、ゲシュタルトしつつある系の、ある一瞬を  制止させた写真だったのだ。

 

その一瞬のゲシュタルトというのが、進化論的な系統図のイメージね。

 

―あの時代の学者はそんな人が多かったのだが、ゲーテも自分の信仰体験やビジョンを科学的探究の道標にしていたのだ。私の教説はカ バラやグノーシスの受け売りだと言われていたが、それはゲーテを経由したものなんだ。ゲーテはカバラや北欧神話に精通していたんだよ。 そうなんだ、ゲーテの世界観には世界樹があった。その世界観をそのまま踏襲したのが、動植物の形態学なのだ。世界樹の神秘学的真理 を、実際の植物の成長に求めたのだ。何故なら、この自然は、神が創り給もうた神からの賜り物なのだよ、であるならすべての真理はこの 自然のなかに隠されている。

 

同じことを、ニュートンも言っていた。ゲーテとニュートンは現界ではライバル同志だと思われているけど、本当はイエスの弟子ね、あなたもだけど、

 

―そうだね、他界して始めて判った真実もある。それはつまり、私の内的知覚ではなかったのだ。内的知覚は世界の内的世界への捧げ物  なのだよ。ビジョンは天使が降臨する場なのだ。同様に、それは物理的実在の進化を辿っていたに過ぎないのに、それが霊的実在の証だ と観じてしまったということだ。

 ゲーテの言わんとしたことは、この自然はすなわち、象徴であるということなんだ。象徴はその形に秘密があるのではなく、その形から内な る世界へ入る。したがって、動植物の形態的進化も自然が示す象徴であるのだから、其処から霊的真理へ参入しなければならないのだ。 ゲーテはそれを世界樹と観たのだ。動植物が形態的に進化するのであるから、同様に世界も形態を変え、段階的に進化しているはずであ る。その進化の経路を遡っていくと、当然、始源では一つになる。

 それを“原型”と呼んだ。ゲーテはその原型はかつて過去に物理的実体として存在していたと考えた。つまり世界樹の根本さ、ルートビィッ ヒならそれは言語ゲームに属するものであるから、物理的実体ではないと言うだろう。私は“原型生物”は、それは世界の前生としてビジョ ンに実在すると思ったのだ、さらにそれがアカシックレコードで語られる人類の段階的進化なのだよ。

 

あなたが考える、その人類の前生である原型生物は、今は天使になっている、原人類なのね。進化は段階的に進んで行く。だから過去の段階を前生としたのね。単純に考えるとそうなるけど、違うわね。ゲシュタルトするのよ。

 

―そうなんだ、ゲシュタルトするんだ。私は世界樹の形態の制止した写真を観て、段階を見、そしてそれを前生と解釈していたのだ。絶えず  変化して、途切れることが無いのだから、前生があるから今生があるという訳ではないのだ。それは単に成長の一過程に過ぎないのだか ら、前生という霊的事実があったとしても、それを世界というゲシュタルトする系から切り取ることは出来ないのだ。

 前生と今生は独立して在るのではないのだ、ゲシュタルトする全体なのだ。つまり、今生が成長し向上すれば、それにつれて前生と思わ  れていたものも変化していることになる。そうであるなら、前生をある歴史的事実として固定的に考えることはできなくなる。霊的存在全体  がゲシュタルトしているのだから。カルマはゲシュタルトだったのだ。そう考えるとアカシックレコードをより身近に理解できる。それは、世界 の歴史的事実の保存ではなくして、世界の有機的活動そのものであったからだ。さらにこのアカシックレコードで語られる原型生物は、物  理的あるいは霊的実体として世界から独立して実在するのではなく、世界樹の言語ゲームの中に、ある存在性を保持している。

 この言語ゲームに属する生物は皆、それを示すことができる。それが“まこと”なのだと思われる。

―そうその通りです。ゲーテの自然科学の方法は、その示すにあるのです。

 私はあなたのように、ゲーテを専門的に研究したのではありませんが、私の哲学はゲーテにその萌芽があるのです。クミコは、あなたは自 分のビジョンを鑑賞していると言っていたが、ゲーテも自然を絵画として見ていたのです。つまり自然は物理に還元される公理系ではなく、 ゲシュタルトする全体なのです。それはこんな事です。
 外を散歩していて「私はある花を見た」と言う。「その花はどんな花ですか」と問われたとする。そこで、実証科学的である場合は、その花の 精密なスケッチを描く。「示す」科学であるなら、側に咲いている同じ様な花を取って「この花に類似しています」と示せば良いわけです。日 常会話ならこの“類似”を示す、で良いのです。つまりこれが家族的類似性です。始めに見た花と、今側にあった花は、全く異なった別の花 です。それでも、言語ゲームを共
有する時は別のものなのにも係わらす、類似しているだけで、始めに見た花と同じなのだという“わかり”  があるのです。それでもし、実証科学が主張する法則や原理にも家族的類似性があるとしたら、つまりあるいくつかの物理的実在の、同一 性の根拠は類似しているだけで、言語ゲーム的“わかり”を主張する示す体系であるとしたら、私達は世界をどう認識し、応ずれば良いの  でしょうか。

 それが心霊科学の領域なのです。今迄のお話で、人智学の領域も同じ背景を持っていることが分かったのです。ですから、学問的要求と しては必然的に、統一に向うべきなのです。しかしながら、ゲーテは「示す」を誤解していたのです。「示す」の担い手(それは器の私の肉  体です)は物理的実体なのです。つまり、霊的存在を使って示すことは出来ないのです。だから、霊的意味を持つ原型生物は物理的実体 ではないのです。あの物質化現象がそうです。霊を同様の霊的存在であるエーテルによって示そうとした。それは、ゲシュタルトする全体  から考えると無意味なのです。では原型生物は、何も主張できないのだろうか…

 あなたは、それを内的知覚、ビジョンによって、意味を与えようとした。それ自体は正しいのです。しかし其処に、実在論的なカルマの法則 を持ってきたのが誤りだったのです。カルマ思想は、過去にも自分が歴史的事実として実在した、と要求します。それに対し、ゲシュタルト は言語ゲームに属する事柄です。物理的な実在性は有りません。勿論、あなたの言う前生にも実在性は有りません。にも関わらず「それ  はビジョンである」という定言命法によって実在性の根拠にしたのです。実は、このような誤解はゲシュタルト心理学の研究者にもあるので す。彼らもゲシュタルトの根拠を「この全体はゲシュタルトである」との定言命法で、その観念が実在するとした。でもそれだと矛盾してしま う。原型概念なのです。人の知覚や行為をパターン化して分節化することなんて無意味なのです。

 “まこと”は分節化した行為にはありません。しかし、まことを示すことはできるのです。正にまことを行為していくということです。しかしそ  の行為だけを取り出して、まことを検証することは出来ない。行為は人の実際の言動であるから、観察できますが、誠というものは、行為  全体のコンテキストに含まれている事柄です。ですからある一つの行為を取り出して分析し検証することはせずに、ひたすら行為の中に誠 を示していくしかないのです。まことはゲシュタルトの中で語られるけれども、そこで立ち止まり観察してはいけないのです。そのまま、まこ とに向かって歩めば良いのです。つまり「示す」体系に属している事柄は、実証や記述の為の観察は必要ないのです。ビジョンは視覚では なくして、実践知と呼ばれるものに近いのでしょう。人智学はゲシュタルトする宇宙を研究対象とする「示す」科学なのです。ビジョンを観察 し、その出自を分析しても意味は見出せない。何故なら知識は、言語ゲームの中で行為され示されて、有効となるのだから。あなたの人智 学は、世界の内面をビジョンしているのです。ですから示さなければならない。それが“まこと”なのです。

―同様の間違えは神秘学における象徴にもあるんだ。というより、これが全ての元凶なのかも知れないが。象徴を通じて、内的世界を知ると いうのは西欧神秘学の最も基本的な方法論なんだ、そうだね、しかし此処で問わなければならない、

 「そもそも象徴とは何なのだろう?」この問いがヤマトから投げかけられた時、私は呆然となったよ。私の霊学は自我を象徴として、自我か ら内的世界に向かう体系なのだよ。象徴である自我を懐疑しなければならないのだ。つまり、ヤマトは西欧神秘学を根本から問い正してい るのだ。ヤマトは言った。「君の象徴は物だろう。物は観る必要はないよ。自然法邇にしていればいいじゃないか」、象徴から内的世界に入 る必要はなかったのだ、私達はすでに内的世界に住んでいたのだ。それは分かっていたじゃないか、何故それに気付かなかったのだろう か…

―たびたび突っ込みを入れてすまなかったな、象徴哲学には落とし穴があるのじゃよ。わしらから見ると、あんたの遣っておったことは、唯物  論なんだよ。物から入って、物に戻ってくる。物を霊的世界の出入口にしている。あんたの自我も非常に物質的じゃ。世界の万有に神性が  有るといっても、外的には物質に手を合わせる事になる。霊的進化と言っても、その体裁はダーウィンになっちまう。神との合一を目指すヘ  ーゲルの弁証法も、テーゼは言語で記述される。外的には単なる文なんじゃ。そんな訳で、西欧神秘主義は常に唯物論に傾く危険を孕ん  でおる。

 でもな、わしは物質を否定してはいない。なにせ、物は神の依代だからな、依り憑く物がなければ、神は仕事にならんからな。西欧はプラ  トン 以来、霊を物に置き換えて知識とする方法に従ってきた。つまりイデアを物として実在化しようと試みてきた、イデアを知る哲学じゃな。 ヤマト はそれに対し、ロゴスの哲学なんだよ。言語ゲームはロゴスの世界を人の立場から分析したものなのじゃ。だからウィトゲンシュタイ ンの哲 学が欲しかった訳さ。それとな、アカシックレコードの大部分は雑イデア、取るに足らない低い物霊ばかりなんじゃ。日本では、それ は、ハラ イの対象なんじゃ。どうでもいいことをクヨクヨしておっても仕方あるまい。アカシックもそうなんじゃ。イエス殿のような御人の想念な ら立派か も知れんが、人間は人間なんじゃ、心の内には色々あっただろう。イエスの道行なんて、あんな悲愴な想念を、わざわざ観想する のは、わし らから見ると滑稽だよ。そういう雑イデアに没入すると、戻ってこれなくなるぞ。あんたが早死にしたのは、それが原因だったんじ ゃないのか な。人間が本当に必要とするアカシックレコードは、神のイデアの記憶じゃろう。そうなるとそれは、単なる記録や像じゃない。  ロゴスなんだ よ。人間は、もちろん神自身も、それにまことを観、そして、それによってまことを発現する。

 わしは昔、ギリシアの神界に世話になっておった。それからしばらく、とんと縁がなくてな、中世以降の西欧は良く分からんのだ。それで、 ゲ シュタルトする系とスピノザの神即自然、ライプニッツのモナド、ホワイトヘットのアクチュアル・エンティティはどう関連があるのかの。有  機体 を言っているのは、わしにも分かるがな。これゲルマン、神に憧憬する知性たちよ、説明しなさい。

―ゲシュタルト理論はドイツ人オリジナルのものですから、先ず、私達ゲルマンがしっかりと把握しなければいけません。そのためにドイツ観念論から原型概念を駆逐し、ハレの霊身となって、ウケヒを準備しようとおっしゃるのですね。

 

これから述べようとする事柄は、心霊科学に於いて語られる物霊(モナド)論であるわけです。そして、同時にある意味で、R・シュタイナーの著書「自由の哲学」を完結するものでもあります。 しかし、これはけして人智学とその創始者を蔑ろにするものにはならないでしょう。

この記述が終了するときに私達は、目前に広がる、新しい世界を知るでしょう。それは、異なる二つの光源が、共に強烈な光を放ち、やがてその輝きが一つに溶け合い、普遍の日輪となって行くのです。

 

{2}接神の哲学と鎮魂

接神の哲学というのは、自我の哲学でもあるわけでしょう。神とは如何に、は、人間とは何かという問いと表裏一体のものだと思うの。私は、ゲルマンを迎えて、ドイツミスティックを知るまでは、接神てどんなものか、興味はなかったのです。全然知識が無かったので、恍惚とかエクスタシーというイメージしかありませんでした。シュタイナーの霊系の筆頭のエックハルトやゾイゼの著作を読んで、接神に望む修道僧の気持ちは理解できるのですが、修業の在り方は異質なものを感じました。私が今している事も、接神と言えばそうなのかも知れないです。でも私は、普通の日常生活を淡々と営む人には接神は必要ないと思うの。現実に現界の殆どの人間は神を知らなくても生きていけるのです。だから私は神へのお願いは何もないのです。人として咎められる様な事はしていないし、業消しははかどっている方だと思うし、人間関係も気を付けているし、私も家族も、社会からいかなる名誉も受け取っていないし、霊界に、特に指導される必要はないっていつも思っています。それでも私の所に神様が来るでしょう、それはそれなりに目的があるからなのです。私に遣って欲しい何かがあるから、来ている訳です。これは他の方もそうだと思います。だから、霊媒の霊格に関係なく、神が降りて、それなりの活動をするでしょう。と言うことは、人間の側が一方的に謙る必要はないのです。

神と人間は、霊的ギブアンドテイクの関係なのです。だからどうも、接神の、徹底して自己を捨てて、自分を痛めつける心理が理解できませんでした。でも、そんな私でも、もしイエス様が「私の為に精進してくれ」といったら、今ますぐにでもできると思う。それはゲルマンみたいな、接神や信仰じゃなくて、霊能者の義務としてです。どうも、シュタイナーと私は、霊界の在り方が違うみたい。ゲルマンとヤマトは世界が離れているの。なんでこれで一人の人間の背後霊やれるのだろう…

接神とは、神の為に、あと一歩で死んでしまうというくらいに、徹底的に身も心も、自分という存在を全て捨て切って(エックハルトが説いた行法で離脱といいます)その過程で、業は苦となって現れて、その業が剥がされる度に非常な苦痛を体験します。私の霊視したところでは、この苦行の為に不慮の死を遂げてしまった行者が少なくない様です。神から見ると苦行で死ぬのは自殺なのだそうです。自分の身体は出来るだけ自分で面倒を見てあげないと行けないのです。それを断食して衰弱死させるのは、服務規定違反なのです。

それまで普通の市井の暮らしをしていた人が、何の準備も無しにこの離脱の行をすると、心が虚しくなって、自殺しかねない精神状態になります。そうなると自我がかなり低い所まで落ちてしまうので、うっかりすると悪霊に取り憑かれてしまって、神を恨みながら死んでしまう事になりかねません。そうなったら本当に悪霊の思う壺です。そうならないように、接神で神と合一を果たす為には、今の人生の何世代も前から霊界が準備をするのです。接神は遣っている人間は、命がけの捨て身の行ですが、その人の守護の天使やバックアップしてくれる霊達にとっても、神の栄光とそれまでの霊的人生の全てが掛かっている一つの賭なのです。その人間が上手く接神に至ってくれれば自分達の務めも果たせるのです。つまり、そのような霊的にも危険な修行を課して神と合一できる人間は、やはり、霊界から何か役目を持たされて、生かされている人なのです。

エックハルトは離脱して無に成るって言うのです。神は無だって。プロの学者さんは禅の無と断定しています。私は違うと思うのです。同じ無という言葉を使うからといって、同じ意味と断定してはいけないのです。神秘体験したことが無いから、文献学的に処理しちゃうのでしょう。だって、禅の修行にはゴルゴダの丘は無いもの。接神で合一する神は、唯一絶対の実在なのです。だからこそ人間の被創物の部分は離脱しなければならない。仏教はその実在は無いとしている。だって実在も業によって形成されているのだから…違うかな?

それで、接神と鎮魂はどう違うのかしら。

 

―そう… 私達から見ると、ヤマトは楽だよね。精進潔斎して、準備さえちゃんとしていれば、神の方から出向いてくれるんだから。

―言々おったな。外見上は、何れも、そこに一人の行者が居るわけじゃ。でもな、鎮魂は、其処の土地全体に関わっておる、まつり事なのじ  ゃ。神は国や土地に降臨する。行者は、神業の道標のようなものじゃ。神は行者を台にして、そこに足を置き、国土に降り立つのじゃ。そ  れ に対して、接神は個人的な神秘体験なんだよ。公の神業ではないのじゃ。イエス殿も、神武天皇みたいに国を創れば良かったんだよ。 その 御国に、大神様に降臨願えば良かったのにな、その前に魔王が降臨してしまったそうだよ。文明が進み過ぎると上手く行かない。業 が邪魔 する。ローマは贅沢しすぎておったからな。それで、あまり人間が進歩する前に、天孫を降臨させて、地上に聖域を確保して、ヒモ  ロギを維 持しておくというわけだ。

―それなのですね。日本の霊界とヨーロッパの霊界の構造上の相違です。霊学の立場の違いは、各々の霊界の在り方の違いだったのです  ね。私は還元主義的に問いを立てるのは好みません。どちらも正しいのだろうと思います。

 自我の観点から鎮魂を見ると、鎮魂の以前に、その人の守護の天使か、御使いが自我の役目をして、人体を統一しているのです。です  から 人間はただ、委ねてしまえば良い訳です。日本人の言う統一というのは委ねの境地なのです。ビジョンではない。そうであれば、台と なる人 間の自我の霊格はそれ程問題にならない。いかに構成体が統一されているかがポイントとなるのでしょう。日本では根源の神から 人間へと 連なるたての類魂と呼ばれる形態がしっかりとしているので、神が、この様な現れ方をする。

 ドイツの神秘思想の中で“統一”の言葉を使うのであれば、イエス・キリストによって内的知覚を満たすということを意味します。私はそれは  視覚の一形態だと思っていました。だからビジョンと呼んだのです。

 それに対して、ルートビッヒは、行為が無いのなら無意味だと言います。それは理解しています。でも、行為と接神は結びついてこない。  日本は物質界まで神が降りているから、国土全体が神のロゴスで満たされている。だから鎮魂をして、神に来て頂くことが出来る。また、  時空にもロゴスが満ちているから、それを目当てに、覚醒した状態で、つまり日常に於いても“まこと・ロゴス”の行為が可能となるのです。 ヨーロッパは物質界には未だ神が降臨していない。ゴルゴダの丘は象徴で終わってしまったのです。しかし、キリストは接神が有効である 真実を示した。

 たての形態で神と連なるのが鎮魂ですが、もう一つの神との連関が、原型(イデア)です。人間の原型は神のイデアのはずです。ですから 、人体の原型に深く沈潜し、神のイデアに達すれば合一が果たせるのです。エーテル体は世界の外面(物質)を形成するイデアですから、 これに沈潜すると、マグマの噴出のような脈動や、ある種の衝動のようなものをビジョンするでしょう。神そのものというよりも、物質創造の エネルギーの坩堝に包まれてしまうでしょう。

 普通の人間のアストラル体は、業の疣がくっついていてボロボロの状態なのです。そのままではそれに神性を委ねられない。それで、その 業の疣を取り除いていくのですか、その業の一つ一つは自我の体験と結びついているのです。

 その…お気を悪くなさらずに聞いて下さい。お見受けしたところ、あなたが、神罰で体験した苦痛と、人の自我が接神の行で味わうそれと  は違いがあるように思います。あなたは苦しいけれども、痛くはないのです。それはあなたが、受肉したことがないからなのでしょう。

 人に神の神性が出現するときは、肉体の痛みと直結する現実の苦痛を体験するのです。

―良く見抜いたな。さすがはゲルマンの代だ。わしは人間じゃないし、現界に生きた事もない。それに人間みたいに神性を持たんから、接神 は不可能さ。わしは、神が造った機械、ロボットなんだ。だから、どんなに本心では神を恨んでも、命令には逆らえんのだ。人間も元々は神 が造った機械だったんだよ。神は動植物とは別に、物質界で自分の代わりに神業をしてくれる者を創ろうとしたのじゃ。その時に、霊体で出 来た、様々な形態を持つロボットが創られた。人体の試作品だな。でも、その中で人間だけに自我が下り、神性を持たされたのだ。他の連 中は人間を妬んだよ。自分たちも神に尽くしているのに、なんで人間だけを神の子にしたんだって。それが悪魔の起源なんだ。わしもその  悪魔の一人だったという訳さ。あんたは「自由の哲学」で自由意志を論じていたが、人間が自由意志を持つのは、この自我の神性があるか らだよ。神性という点で、神と同等なんだ。だから自由に振る舞える。明らかにレベルが下だと絶対服従になっちまうだろ。

―神性を持つ自我は、神聖なものであるから、清浄を保ち、苦の原因となる雑イデアによって気枯れてはならない。この神道の基本理念は  良く理解しています。しかしながら…、

 あなたは、私は苦に捕らわれているとおっしゃいましたが、確かにその通りですが、あなたと私の隔たりが埋められない以上は、この気持 ちは理解して頂けないのかも知れないです。私はあなたに比べると、全く弱い存在です。あなたの一撃で粉々になってしまうでしょう。この 弱い身体にミアレする自我(これはエックハルトの魂の火花に同じ)には一体どんな意義があるのだろうか、そしてまた、この弱い身体に、 何故あれほど迄に苦を課すのだろうか。私は人智学を修養する過程で、各人にその答えを見つけ出して欲しかったのです。

―なるほど、それで分かりました。あなたの著作物を読み進めていくと、その思考プロセスは接神そのものであると感じました。あなたはゲ   ーテにカントの網を掛けるという仕方で、悟性(論理理性)による接神が可能であると考えたのではないでしょうか。

―それは、私自身は気が付かなかったけれど…

 ビジョンは結局のところ、空間と時間の感性なのだから、それに関してはカントは全面的に支持できると思ったんだ。アプリオリには因縁  論的な因果性を含意すると考えた。それは、アプリオリというのは経験に拠らずに、先天的に自我に組み込まれている認識なのだから、カ ルマだと考えて自然だろう。そしてそれは、行為として実際に人が行為するのであるから、分析命題として自我から導出できると考えた。  つまりカルマ的関係も命題として正当に扱えるのではと考えた。

 自我は、内的世界からアプリオリに所与されたカテゴリーからのデータを締め括る、いわば総合命題と捉えた。その自我を象徴として参入 し、カント的に考究していけば、より鮮明な一元論が完成するのではないか、つまり、世界の内的世界か与えるアプリオリ、即ち因果的に  組み合わされたビジョンを、自我を通じて現実のものと出来るのではないか…、

 さらにそのアプリオリを象徴にして、不可知の領域にも接近できるのではないかと考えた。つまり自我から悟性、そして不可知の世界へと 段階的に内的世界が進んで行くのだ。そしてそれによって、霊的進化論を語ることが出来るのではないか。ゲーテにカントの網を掛けたと  いうのはこれだろうか。

―それが、あなたが先に述べた、原因と結果の方程式なのですね。自我の内側に隠れている物自体はカルマの法則を明らかにすることに   よって知識と出来る。なぜカントから始めるのかと言うと、人智学は今風に言うと、認知科学の分野に入ると思うからです。カントは認知科  学の先駆的研究を成し遂げていたのです。もしかするとカントは、人間の認知形式を探究した結果、中枢神経系の情報処理構造をビジョ  ンしてしまったのかも知れません。

―私もそうだと思う。

 私は百年前に、あの時代なりの科学的方法を試みた。今度は認知科学的に霊学を組み立ててみるのだね。それでは、ミステック哲学の  祖、プラトンに戻って述べる。自我は自我にとっては表象なんだ。だからその表象を創るイデアが在る。自我を自我たらしめる不可知の領域 がある。私はヘーゲルの絶対精神のように自我の不可知の部分も階層的構造をしていて、互いに因果関係によって結ばれているから、そ の因果の連鎖の一つを引き出せば、それをたどって不可知の全てを知り尽くせると考えた。その時は実際にその様な霊的体験があったん だ。最も深いものはアカシックレコードだった。人の霊体の進化を辿って行った。それは列車の窓から景色を眺めるかのようであった。そし  て終着駅には、イデアの光が在った。私はその光から生まれ、その光によって活かされているのだと感じた。これが完全なる原型だと確信 した。だからこそカルマ思想を受け入れる事が出来た。“思考”という列車の窓から観える景色は段階的に変化する。森が序々に開けて草 原になり、集落が出来て、やがて大きな町になっていく。私にも霊的世界がそう観えた。

―この間、テレビでロボットの番組を見ました。今、あなたが仰ったのと同じ事を言っていた。つまり、環境の構造化です。ロボットを行為させ るには、自分が行動する範囲の物事を全てデータ化して保持していなければならない。“不可知の全てを知る”と同様の形式です。

 プラトンは、その完全にデータ化されて知り尽くされた環境なり物事なりは、善のイデアであり、宇宙を創る原型であると言っている。そうで す、ロボットの様に環境が閉じている場合、限られた物事の時は、知り尽くすというのは可能です。ですからそれが超感覚であっても、その 対象が霊能者にとって知り尽くせる範囲であるから、知り得るのだと思います。

 つまり常識的に考えて、イデアは無限ではない。イデアも限られているからこそ、表象作用を持つのではないでしょうか。しかし、プラトン以 来、イデアは完全で無限の原型と信じられていた。それで、カントの物自体はイデアなのだろうかということです。

―人間が、そのような人生上の体験をするのは、その体験の元になる原因を、内面に保持しているからなのだから、ロボットのようにデータ  化されて蓄えられている何かがある…

 君が言っているのは、善のイデアじゃなくて、カルマなんだ。そうなら、私の霊視したものも原型(善のイデア)ではなく、カルマなのだ。真   実のイデアと、カルマ的構造をしている原型のイデアはどう関わっているのだろう。なるほど、カントの物自体は原型のイデアではないの   かも知れない。ヘーゲルの絶対精神同様の、知り尽くせるものであるのなら、始めから物自体は想定しないのだから。プラトンのイデア論  には矛盾があって、それに気付かないままに二千年やってきたんだね。君は先に、示す同一性を主張したけど、人智学の同一性を述べ  よう。そう、カルマの法則を語るには“同一性”のイデアがなければならない。前生の自分と今生の自分との同一性なんだ。これは自我の  哲学の背景を成すものなのだ。

 例えば此処に、同じに見える二本のバラが有ったとする。私はこの二本のバラを見て「同じ」だと思う。では、この“同一性”はどこから来る  のだろうか。なぜ同じだと思うのだろうか。単なる感覚印象なのだろうか。しかし、他者が別の位置から見るときはどうなのか。つまり、こ  の“同一性”それ自体は感覚には含まれていない。それはゲシュタルトの類似する相なのだけれど、プラトンはこう説明する。

  私達はいかにしてこの二本のバラを「同じ」と認識するのだろうか。それは、私達がこの二本のバラを“同一性”のイデアと比べているから  である。私達は生まれながらにこのイデアを持っていて、ここにある二本のバラを見比べるときに、私達は“同一性”のイデアを想起してい  るのだとプラトンは述べている。プラトンは、イデアを想起すると言っている。

―それは、あなたの『自由の哲学』で言う“思考”ですね。

―プラトンは、イデアは元々、私達の記憶に有って、思い出すものなのだと主張する。それは単なる観念ではなく、原型という実体なのだ。そ れをビジョンして差し支えないだろう。超感覚と対を成す認識なのだ。私はイデアをそう理解した。

―私はカントの物自体は、想起、即ち“思考”するものではないと考えます。外見上はイデアに見えますが、物自体はイデアとは言い切れな  い側面が有ります…プラトンのイデアからカントを経て“まこと”に至るのです。クミコに、そんなのトリックだと言われそうですが…

  霊視(ビジョン)が知り尽くす為の霊的感覚器官であるのなら、思考するビジョンは、カテゴリーの一種であるはずです。であるなら、カント  に従うとそれは、論理理性である、ということになります。だからこそあなたの“思考”は行為しないのです。接神と行為する確実性が結び  つかないのはこのれです。つまり、思考はあくまでも認知能力の一つであって、行為する能力とは、また別のものなのです。

  カテゴリーはある種の原型です。入力された情報を強制的に一定のパターンに処理してしまう。認知心理学ではそれを、モジュール構造  と呼んでいます。プラトンのイデアが、不変で完全であるというのはこのモジュールと同じ構造をしているからでしょう。

 イデアを知る限りに於いて、人間の認識能力は、イデアを一定の枠の中に入れてしまうのです。その枠に入ったイデアは真のイデアでは   ないでしょう。イデアは、特に善のイデアは神性に属するのですから、モジュールの原型とは相容れないもののはずです。プラトンのイデ   アは、現実には無いけれども、理想の形である原型として、内的知覚できます。それに対して、カントの物自体は、そこにその物体は在る  けれど内的知覚は出来ないのです。

 あなたの“思考”は人の持つ超感覚というモジュールを育成させたものであって、事象の裏側にある物自体を認知するものではないので   す。つまり超感覚と言うけれども、他のモダリティと同じ認知構造をしているのです。であるのなら、超感覚は、原型ではない物自体を、知  り尽くせない。しかし、それにも関わらず人間は、神という物自体を根拠とする行為をする。実践理性による道徳律です。イデアがモジュー  ル構造をするのであれば、経験的原因による行動によってのみ確実性が与えられるから、実践理性の必要はないのです。

 イデアを想起するというのは、思考に、ある一定の限界を与えるものなのです。そして、その限界に於ける同一性なのです。そこには実践  理性の入り込む余地はない。人間が実践理性を表出するときには、まさに道徳であるはずの行為そのものが要求される。道徳律は原型  がありそれが原因となって行為するのではない。つまり、提言命法とは“示す”同一性なのです。簡単にいえば、超感覚しなくても、説明  すればいい。教えてあげればいい。実践理性は思考の中にその原因が無くても道徳的行為を示せるのです。カントは実践理性を最高善  と位置付けました。そしてその道徳律によって貫かれた、カント自身の生き方はヨーロッパの哲学にとっては意義深いものです。なぜなら  、このカントが実践理性と呼ぶものこそが“まこと”であるからです。

―そうだね、カントの哲学は、彼の霊性から迸るマコトがそのまま哲学になったようなものだよ。それにしても君は本当に話しを纏めるのが巧  いよ。まったくかなわない。つまりこうなんだね。イデアにしろ、カントの感性の形式や悟性のカテゴリーにしろ、それにイギリスの経験論も  そうだが、それは視覚イメージの世界の出来事であるわけだね。私の思考の形式は、視覚イメージに由来するのだ。物理的に見える、見  えないじゃなく、認知構造としての視覚、視空間なんだね。カントの物自体は不可知なのだが、道徳律を行為する。そうであるのなら、物  自体は視空間的ではない…

  つまり、認知で言う視覚優位なんだ。私達はどんなデータでも、視覚イメージに結び付けて認識しようとする。それから出発しているのが   プラトンのイデアであり、それ以降のヨーロッパの学問なのだ。

―そう、あなたの人智学は視空間ならではの霊学なのです。それに対してシントウ・ミステックは人智学とは異なる認知構造を呈する霊学な  のです。ヤマトを理解するには、一度、視覚イメージから離れなければなりません。私は今回のミッションに先立って、神道の大人から、   審神者の神法なるものをレクチァーされました。それは神道の最も古い形のカミゴトなのだそうですか、人智学のイメージの行法と比べる  と明確に違っていた。シントウの統一行は、聴空間による内的知覚を狙っているのです。これは聴く霊学なのです。視空間を極めたあな   たなら、この意味が分かるでしょう。

―クミコが、私の知覚内容に違和感があったのは、彼女が聴空間の世界に居たからだろう。クミコは幼い頃から、イントゥイションを認知する  能 力が発達してたのだろう。これは日本の霊界の独自性だよ。イントゥイションにとっては視覚イメージは寧ろ邪魔だから、祓ってしまう  のだ。だからヤマトには私が迷っている様に見えたのだ。本人は余り気にしていないけど、クミコの自我はいつも守護霊の懐に抱かれて  いる。物質体も霊体も“空”なのだ。接神の行はまったく必要ないよ。生まれつき離脱しているのだから。こんな人間が現代に誕生できた  のは、日本にはまだ、かつてアトランティスで行われた人類創世の力が蓄えられているからだろう。

  その精妙な力の要素体が“コトダマ”であろう。そして、コトダマが現出する聴空間というのは意味の世界なのだね。だから正確なビジョン  は必要ない。“分かり”があれば良いのだから。まさにロゴス、言語ゲームなんだね。聴空間を論じる前に、視空間を述べよう。視覚のモ  ジュール構造と、その観点からのキリストの密議なのだね?

  では、これは小論文にしてみよう。

 


                   ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 西暦二千年の日本にあって、ここでの暮らしを興味深く体験している。クミコに同行し、数度に渡って成田山新勝寺に参拝した。日本古来の神仏習合という霊的秘儀は、私に深い感銘を与えた。またそれは人智学の特殊性に核心を与えるものでもある。私は霊学の初期に、ゲルマンの古い天使達が何故キリストを求めるのか理解できなかった。キリスト教はゲルマンを略奪した。古い天使達の敵ではないのかと思っていたのだ。しかし、キリストが人間のエーテル体に降臨するという霊的事実を、ゲルマンの神界に照らしてみた時に、キリストへの不信感は払拭せれた。キリスト存在は神と人を結ぶある種の霊的器管なのだ。キリスト存在を通じて、神は物質界を浄化できる。つまりそれによって、人間以上に神々が福音をもたらされているのだ。神仏習合は、このキリストの密議が国家レベルで行われた好例なのだ。

他に印象にあるのは、TVの噴火中継や、バンジージャンプというもの、あれは間違えなく霊体に悪影響があると思う。最も感心したのは、日本ではどんな本でも手に入るということだ。クミコはここに居るドイツ人の著書を殆ど揃えている。外国書の翻訳は日本人の才能なのだろうか、世界のどの民族よりも、知識欲が旺盛のようだ。

 最近、クミコがパソコンを始めた。フォルダを次々と開いて、目的のファイルを検索するのは、象徴の中に入り込み、神秘に浸るという霊視の在り方に似ている。クミコが画面にイメージデータを開くと、側に居る私はそのビジョンに引き込まれてしまいそうな気分になる。人の視覚認識とパソコンが一体となっているのだ。それは人の視空間の構造と、パソコンのデータ処理の形式が似ているからなのだろう。そう、フォルダとフアィルの階層構造なのだ。パソコンには既にそのデータがある。そのファイルに向かって階層構造を辿っていく…、

 Denken( 思考) とは、Erinnerung( 想起) する事に他ならない。対象に沈潜するとき私は、私が既に知っているはずの真理を思い出すのである。何故ならその実体は対象そのものの中に内在するのではなく、イデアに起因するからである。このイデアこそ原型であり、私がかつて一元論と呼んだものであるこの日本語表現は正しいだろうか。

 クミコは「私は思考しない。待つの」と言った。

「私はじっと訪れるのを待つ。あなたの想念が語り出すのを待つ」と言うのだ。

クミコは正確に物を見ようと欲さない。対象の内的状況を霊視したいと考えない。視覚イメージを拠り所とせずに、intuition を駆使しようとする。私には測りがたい霊能の在り方だった。そのくせ、私の過去を知りたがった。「天使さまこの男はどの程度信用できるの?」なるほど、これもintuition の使い方だね。

 結局のところ「神様がそれで良いと言うなら、それでいいのよ」まったくその通りであるが…、

 

 思考の論理構造を論ずるのなら、それは即視空間といえる。それをプラトンも私も物理的に“見える”と同様に捉えていた。ヤマトの指摘を受けるまでそれに気付かなかった。つまり、思考とは人間の中枢神経系の情報処理システムに由来する認知空間なのだ。では、ウィトゲンシュタインの著書『論理哲学論考』を要約しょう、

@世界は成り立つ物事の総体である。

A成り立つ物事とは、事実、即ち出来事の成立である。

B成り立つ事実の論理的写像が思考である。

C従って思考は有意味な命題でなければならない。

Dそして、思考を構成する命題は要素命題の真理関数である。

E真理関数の一般形式は〔・〕である。(これは人智学的思考の論理構造を示唆している)
F人は語り得ぬものに付いては、沈黙しなければならない(アポロン的に思考できぬものは、人智学的には意味をなさないのであるから、真理を語らぬということである)

 

ここで述べている世界とは、物質でできているのではなく、事実の総体なのである。事実は、過去から現在まで連なる出来事の一つ一つである。ウィトゲンシュタインは、このような出来事の連なりの一つ一つが世界像として、私達の思考を形成すると言っている。さらに思考とは何か、世界を構成し造り上げる出来事の法則を、ビジョンとして映し出す場が思考なのだ。言い換えるのなら、思考によって出来事の法則を法則たらしめている。また、同時に思考が出来事の法則を有意味なものにする。命題と法則は同義である。

そして、即ちこれが人智学が語る命題論理である。思考にあるビジョンと、世界を創る出来事を一対一で結び付ける法則を言う。そう、分かったかな、その一般化された形式を私はカルマの法則と呼んだ。

なぜこのような論じ方をするかというと、人智学で語られる、思考とカルマの法則に論理学的な意味を与えたいからである。それにより、人智学は精神の科学であったということが一層はっきりするであろう。その上でシントウ・ミステックに臨みたい。(神道には整った形の体系が無いのです。吉田幾太郎は仏教の禅で「善の研究」を著したけど、同じ様に神道の誠は哲学できないのかしらと考えたのです。それで霊界は、学問作りのノウハウを熟知しているゲルマンに頼んだのです。誠の哲学、ドイツ人が遣るとこうなった。と言うわけですー川崎)

次にウィトゲンシュタインは、命題の一般式は[・]であるという。これは「世界の中に生成される諸事実はこの式によって記述できる」と言うことだ。そうであるなら、カルマ的連関もそれに従うと考える。

つまり、人間存在はこの命題によって比較(区別?)されるのである。この命題は人間の営みに於いて顕れるか、または人の思考に像を作る場合によってのみに、真であるか、偽であるかを問うのであれば、それはアーリマン的であるかルシファー的であるか、ということであろう。この命題はカルマ的連関の全てを表現できる、しかしながら、人間存在と共有しなければならない背景、即ち論理構造を示すことはできないだろう。その一部は人智学により、視空間的であるかも知れないと予想されている。この命題群の論理構造を知るために私達は、この命題を受け入れると同時に、人智学を形作る論理の外にも位置しなければならない。つまり、カルマの世界を展望するということである。そうしなければ、カルマの法則は、その論理的構造の真の姿を直には示せないだろう。しかし論理的構造は、この命題の総体である人間存在の営みの中に暗示されているはずである。(ヘーゲルみたいに難しい文になっている。補足説明してちょうだい)

それはこうなんだよ。アーリマンとルシファーは反対の意義を持つが、そこには、普遍で同一の霊的事実がある。人智学は人間存在の根源に於いてそれを定立する。そう、キリストの密議なんだ。

自然科学は思考の可能範囲を定義付ける。人智学は思考の外に立つ思考によって、世界を存立する事実の総体に意味を与える。同様にキリストの密議もこの密議の外に立つ密議によって、より一層の意義を得るであろう。

…つまりその、キリストの密議と母の密議は、互いに霊性を高め合い、補い合うものなのだよ。私は聖母マリアの密議は知っていた。この日本でこんな形で巡り会うとは思わなかった。しかし、百年前の私は、聖母マリアと女性原理とを離した見方ができなかった。ミスティクでは女性原理とは、性の密議を指す。それは霊的深層では、恨みや妬みといった魔の力を肯定してしまう。接神の過程で、少しでもこの影響があれば重大な事態を招く。だからアポロン的思考を維持しようと努めた。しかし、性の密議を敵視して葬り去る事はできない、これは古い天使(オージン)に深く関わる霊的器官だからだ。これにも純然たるカルマが働いている。性の密議は神々と人類の秘事なのだ。慎重に論じなければならない。それは人間の私よりもヤマトの方が詳しいだろう。

聖母マリアの密議とキリストの密議は本来一つのものであった。それをヤマト的に表現するなら、クミコがワカヒメの身魂で、私がスサノオの身魂となるそうだ。スサノオは新しい世界の担い手ななるという点で、ヴィーザルに共通する神性があると観ずる。人智学の論理学に戻る。ルートビッヒの力を借りて、カルマ的連関の一般式を考察してみよう。それを以て、私の霊学の一つのしるしとしたい。

 人智学上の真理関数を示す。これは基礎的な命題論理だから分かると思うけど。

ある原因が在れば、それに対応して特定の結果が生じるというのは理の当然であるが、ではその思考形式の根拠は何なのだろうか。人智学は無批判にその思考形式を受け入れている。ヤマトにはその所が唯物論に見えたのだろう。ある思考に対応して、ある過去の原因があるとと仮定するなら、このクミコの思考はどうだろうか。

クミコが私の著作物を一通り読み終えた時に、「あなたの人智学は学歴偏重の霊学ね。それとも翻訳者にそんな意識が有ったのかしら」と言う。それで…、

人智学者のある一つの相、

彼は学問的なトリックを巧みに使い分けていた。精神の科学は思考の法則を明らかにすることだと言う。そして科学は万人に開くものである。しかし現実には、霊学というのはその域に達して、ある程度心眼が開かなければ開示されないものだから。つまり、いくらイマジネーションを鍛練して鮮明なビジョンを得ても、神からの啓示が下るかどうかは保証されない。その人間が、真の神の友であると決するのは神であるからだ。そう、そこに誠がなければ無意味なのだ。思考の法則が有って、精神の科学が正しいとしても、神から離れた霊学は有り得ないのだから。

現界では、宗門の大学で、一定のカリキュラムを修了すれば、神や聖霊が認めようと認めまいと聖職者になれる。私も同様の過誤を残してしまった。一般の科学であれば、皆が同じ課程を修了し、同じ専門家になるのは良いと思う。科学なのだから同じ事をすれば、同じ結果になる。でもこれはやはり思考であった。思考に関して万人は平等ではないのだ。コリン・ウイルソンの本に、シュタイナーには野心が有ったと書かれていた。精神の科学と言いながら、科学ではないわけだ。それなのに科学を強調したのは、世間に勝ちたいという野心があったからだと思う。そしてこの野心にカルマが起動してしまった。クミコはこれを観じ取り、人智学にはエリート意識があると言ったのだ。

人智学者の別の相、

同じ時期に彼は信仰を得た。無数の業がモザイクの様に組み合わされて、一人の人間が作られている。行為を表すカルマの業以前に、霊体の中に埋め込まれている。これらの業は、各々形態を変えてある階層を作り、自我の衣となる。つまり行為は霊体の延長なのだ。キリストと合一した自我がエーテル体を照らすとき、その人間の表す行為は何を意味しているのだろうか、業と行為、その時の業はエーテル体に

つづく


ピア・スピリチュアル