震災の代受苦とアセンション ≪イザナミワークの勧め!≫


   サイトのコンテンツは、私の霊的体験に基づいて書かれたものです。

   私は、自分の考えを強要しません。賛成できないならスルーしてください。

   私は反論しません。それが貴方の霊的体験に基づくものであるなら。

   貴方の魂の要求に従って行動しましょう。 分かりますか?

   私から見て間違っていることであっても、貴方にとって真であるなら反論はしません。

   縁のある人が私を見てくれればそれで良いです。

   代受苦は、体験した者にしか分からないものですから。
 
   私には、現世の存在は無意味なのです。 必要なのは神との関係です。

   私の言葉が分からないならそれはそれで良いのです。 貴方は別の道を行くのでしょうから。


    

@アセンションとは何か?


アセンションとは、人魂の回帰。 人は神の分霊を受けて生まれています。 

その魂の親である神に帰ることであると思います。 でも、それは肉体が滅びるのではありません。 

この現世は滅びません。

次元上昇と言いますが、現世に何かが起こるのではなく、魂が覚醒するという意味です。

そして魂の覚醒というのは、超能力者になるとか覚者になることではなく、

¨ありのままの人間¨ ¨ありのままの霊性¨ を現す自我を持つ人間になることなのです。


元々、神と人、自然と精霊たちは、一体となって存在していました。 少なくとも、江戸時代までの日本は。

明治11年に、日本を訪れたイギリス人女性イザベラ・バードの「日本奥地紀行」には、当時の日本人の様子が感動的に書かれています。

イザベラは、東京から東北にかけて訪ね、行く先々の街や農村の様子を書き留めました。

始めは、日本の農村の極貧生活に閉口します。 隙間だらけの粗末な小屋で、蚤とダニだらけの室内。 

しかし、何故か人々は礼儀正しく、親切で、外国人の女性の一人旅に全く不安を感じさせませんでした。

日本の農民は、粗末な家に住み、貧乏な暮らしをしていますが、心は大らかだったのです。

お金が無くなり、生活が厳しいと、人間は精神的に弱くなり、排他的になったり、欲張りになったりするものです。

イザベラは、日本の農民は貧乏なのに、なぜ豊かな心を持ち続けられるのか、大変興味を持ちました。

彼女が日本人を観察して感じたことは、日本人は、自然と一体化して暮らしていて、

自然や地域の社会に心を開いているから、他の人間と自分を比べる必要が無いし、

他の人間と自分は仲間なので、競争する必要も無い。つまり欲張らなくても良い社会なのです。


その「自然と一体化」というのは、山ノ神とか田の神、河童や稲荷のような霊的存在に囲まれる暮らしのことです。

現在でも里山ではありますよね、四季折々の行事とともに神仏との交流があります。

イザベラはキリスト教徒ですが、自然の神仏に手を合わせる日本人を、そのままの姿で理解したようです。

彼女が見た日本は、しばらく表には出ませんでした。その後の日本は軍事国家となり、

終戦後は経済大国を目指します。 家族の関係も変わり、核家族となり、個人は孤独になりました。

自然の精霊たちや、祖霊は現代の日本人の心からは遠ざかったように思われました。


そこで、少し深く考えましょう。 

ただ単に自然の中で暮らすだけでは、自然と一体化は出来ませんよね。例えば、那須ですが、

何度も行っていますが、あの地域も自然の中で暮らせると思いますが、あまり精霊は感じません。 

恐らく今住んでいる人たちは、那須の自然と仲間になっていないのです。

イザベラの見た日本人は、自然に魂を委ねていたのです。 だからこそ、無欲で大らかに暮らしたのです。


「自然に魂を委ねて、無欲で大らかに生きる」 それってアセンションではないですか?

イザベラは、旅行記の後半では、綺麗な日本の農村の風景を「桃源郷」と評しました。

ヨーロッパから来たキリスト教徒の女性を、そこまで感動させた日本は、アセンションの国だったのではないでしょうか。




A 霊界と現世 連動するアセンション


仏教に「代受苦」という言葉があります。

相手に代わって業を背負ってあげることです。 広義では、キリストの磔刑もそうではないかと考えます。

類魂の研究を通じて分かったことですが、神仏は人の業を背負って穢れてしまうことがあるのです。


地球は有限の世界ですよね。 その地球を物質化させている霊界も、物質という意味では有限です。

神は広大無辺ですが、物質を創造することは有限なのです。つまり、ある所に集まると、一方は足りなくなる、というわけです。 


現世は常に創造されています。 創造のために、多くのエネルギーが必要ですが、一方ではエネルギーが不足しているはずです。

それが「業」です。 人間の場合も、願い事が叶うのは、創造することと同様で、一方でそれが業になります。

厳密には、人間は生きているだけで業になります。 生きるために呼吸するのも食事をするのも。

でも、人間は生きている間に人のためになることもします。 それで業が軽減されます。


一言で「業」と言いますが、業の正体は、一体の霊なのです。 

何か気のようなエネルギーというイメージはありませんでしたか? 業は、個性を持った神霊です。


人間は、守護霊の未熟な部分が生まれ変わってきたものである、と言われています。

つまり、人間が生まれるとき、浄化した部分は霊界に残り上昇し、守護霊となり、浄化できていない部分が人間となります。

同様のことが神のレベルでも起きているようです。

表現を変えると、生まれ変わる側は、守護霊の業を背負って、現世に落とされた、とも言えます。

逆に、人間をサポートするために、守護霊の側が業を背負うこともあるようです。

甚大な被害をもたらす自然災害は、地球規模の業を、その地域の神霊が背負った、と理解できます。

その際に、縁のある人間達が巻き込まれてしまったのです。

一緒に亡くなった人々も、地球の業を背負った神と同様に、日本の業を背負ってくれたものと考えられます。

代受苦ですね。 身近な範囲でも、同様のことがあります。 

エリート家族の中にたった一人の障害者や、お金持ちの一族の放蕩息子のような。 


3.11の震災は、より大きな原発事故から世界と日本を守ったのだと思います。

最悪の原発事故ですが、それを期に、脱原発の機運が高まるでしょう。 それは、日本と世界の将来には、とても大切なことですよね。


津波で、二万人の人が亡くなりましたが、一緒に冥府に立った神様が居ます。

日本はアセンションの国です。  人間も、神も、精霊も、祖霊も、みんな一緒に暮らしています。

津波で亡くなった人々と、一緒に沈んだ神が居るのです。 それは、塩土翁らしいです。 4000万年前に大洗沖に暮らしていたそうです。


イザナミワークは、イザナミの愛力を高めるアクションです。

神さま、精霊たち、人間、自然界の諸々の霊的存在たちと、

この限られた地球で、みんな一緒に豊かに生きるための道標です。



≪イザナミワークの勧め!≫


魂の里の仲間は、弱者や被災者や、孤独の苦しみの中で亡くなった人たちを忘れてはいけない!


なぜなら、その人たちは代受苦者であるからです。


「自分に代わって、亡くなってくれたのかも知れない」という気持ちは、一見すると身勝手な観がありますが、

実際にそれに直面すると理解できるでしょう。

たとえば、子供が亡くなる体験ですが、最愛の我が子を亡くすとき、始めは 「どうして私を置いて亡くなったの?」 

と嘆きの中に在りますが、我に返った時に 「私の業を持っていってくれたのかも知れない」 と感じるようになるでしょう。 

それは、強い共感性があるからです。 魂の仲間として、相手と自己が一体となっています。

そのため、相手の苦しみを自分のことのように感じ 「私の苦を代わってくれた」 と感じます。それは、思い込み、ではありません。 

魂の仲間だからです。 苦しんでいる人を見て 「とても人事とは思えない、力になってあげたい」 と感じるときも同様ですね。

魂の繋がりが意識のレベルに表れているので、相手の苦しみに共感できるのです。

同情の場合は 「可愛そう、大変そう」 で終わりますが、 魂の繋がりに於いては 「苦しみを代わってくれた」 と感じます。


人間は、神の前では皆兄弟です。 地球に住む命は皆家族なのです。 物質の側面を持つ地球は、有限の世界です。

有限であるから、創造のエネルギーに偏りが生じ、一方は満たされますが、他方は少なくなります。

創造のエネルギーは物質化の原動力ですから、それを利用できる人間は社会で成功し、欲のままに生きていきます。

でも、それは有限のエネルギーを私用したためですから、それを使えずに思うように生きられなくなった人間も在るのです。 

つまり、人間の類魂のなかでは、成功者も脱落者も、生き残った人も亡くなった人も、同じ境域にある魂の仲間であると言えるのです。

魂の仲間(類魂)だからこそ「自分の変わりに亡くなってくれたんだ」と感じます。




その@ 日ごろの心がけ、それは寄り添う気持ち


動物の魂、植物の精霊、気象現象の精気、それらは人間と同様、神由来の霊性を持っています。

それらの存在の霊性を尊重し慈しまなければならない、ということは理屈の上ではわかって居ますよね。

霊を信じない人間でも、命ある者は大切にする道徳はわかっています。 魂の仲間は、理屈ではない、共感です。

魂のレベルで共感できる交流をしましょう。 それは、いつも相手の立場になって考えることですが、相手の外面的な利益ではなく、

「本心」を感じるように心のチャンネルを開くことなのです。 感性のない人は、自分の正義感や都合を相手に押し付けることが多いですね。

人の気持ちがわからない、と自覚している人は、「自分ならどう感じるのかな?」 と内省する習慣をつけることです。

犬や猫の心もそうです。 彼らは人間が楽しくしていると自分も楽しいのです。 人間と共通する感性を持っているので分かり易い精霊さんです。

(私は、ペットは自然界の扉を開く存在と考えています。 ペットたちの霊性にふれることで人間の魂の活性化のきっかけになります)


こんな相談がありました、「猫が何かと大食なので困ります。食べても食べても要求しています」 という苦情のようなご相談。

そして 「ちゃんと育てていて、可愛がっているのですが、室温もエアコンで快適にしているし、おもちゃもあるし、お散歩にも行きます」 とおっしゃる。

見えてきたビジョンも、甲斐甲斐しくお世話をする飼い主さんの姿。 ほぼ一日一緒に居て、何かと気を使っているようです。

でも、猫ちゃんはなんとなく不満、ストレスがあるようです。 良く良くビジョンしてみると、飼い主さんの態度が冷たいのです。

笑顔がないのです。 ご飯を上げるときも、何も話さずに床に置くだけ、おもちゃで遊ぶときもただ放り投げるだけ。

猫ちゃんにしてみると、寂しくてつまらないのです。 心の交流が無いのです。 それで食べることだけが楽しみになったのでしょう。

というのは早食いをすると人間が驚くので「楽しんでいるんだ」と感じて、なおさら食べるようになったようです。

猫は、動く人形ではなくて心がある生き物なのです。 飼い主の人間と共感して生きていくことがペットの動物たちの幸せなのです。

この場合も「この子は本当はどう思っているのだろう」と思いやってあげる必要がありましたよね。

大食いをすると人間が喜ぶから、それが唯一の楽しみになってしまったんです。 他のことで共に喜び合えることがあればそんなに大食いにはならなかったでしょう。 


寄り添う気持ちが大切なのです、人間も動物も。


「動物は言葉をはなさないからわからない」と言いますが、寄添う気持ちがあれば感じます。 ペットの気持ちは共感できればわかります。

人間の場合も、子供や後輩のように弱い立場の人はあまり上の人間には意思表示はしませんよね。

でも、いつも一緒に行動していれば、その時々の言動でなんとなく本心がわかるはず。

「これだけの事をして上げているんだ」では無く「一緒に生きよう、一緒に楽しく過ごそう」という気持ちに成ることです。

職場の場合は「私がやって上げている」ではなく 「どうせ疲れるんだから、だったら楽しくやろう」と思うこと。

人間でも動物でも「皆で一緒に生きていこう」という思い。 それが寄り添う気持ちとなるのです。


「皆で一緒に!」という気持ちが、イザナミの愛力を大きくします。




そのA 本当の愛は自分の時間を相手に上げること、



女の子に多いのですが、好きな人が出来ると自分の全てをわかって欲しいと思い、

心の中の悪い部分を全部さらけ出そうとする人が居ます。 「こんなに貴方を思っているのに!」と、

男性を恋する苦しみを訴えます。でも、もし貴方がその「苦しみ」を受け取る側だったら? 

その時自分が元気で、精神的にも疲れていなければ、相手の苦しみを受けても平気かも知れませんが、それこそ愛があればね。

でも人間は有限の生き物です。愛にも限界があるわけで、際限なく苦しみを受けることは不可能ですよね。

「好きだから全てを与えたい」 でも、苦しみを与えては行けませんよ。 何故相手は苦を感じているのか、というと

自分の時間を、その恋愛のために犠牲にすることに納得していないからです。

それはやはり相手から「苦」が来るから魂が拒絶して、恋愛モードにならないのです。

本当の愛情は、自分の時間を相手のために使うことです。「苦」という悩み事を与えることでは在りません。

例えば、一緒に食事をする時は「これとても美味しいね」と楽しく食べる。相手と共にその時間を楽しむのです。

帰りが遅いとか態度が悪いとか愛が無いとか思わない。相手と一緒に居る時間を共に楽しむこと!

それが自分の時間を相手に上げる、自分の時間を相手のために使う、という意味です。

そして、それが「絆」と言われるものです。

男性は良く「可愛い子でセックスができれば良いや」と言いますが、それは「絆」のある本物の愛を経験していないからです。

女性と「苦」の投げ合いを続けているので「絆」を作ることが面倒になっているのです。


男性は、原則としてみんな亭主関白です。女性よりは子供なので妻に依存する傾向があります。

家庭内で何かと妻を振り回しますよね、それは妻の時間を使うことで「愛」を要求しているのです。

でも妻も有限の人間なので、振り回されることに疲れてしまうので、心の壁を作り自分の心を守ります。

精神的家庭内別居の始まりとなります。 でも殆どの場合、夫はそういう妻の心の変化に気が付きません。

老年になるまで何十年も一緒に暮らしているのに、妻がやってきた精神的家庭内別居に気が付かないのです。

それは先に述べた猫ちゃんと同様の理由です。 夫婦の間に寄り添う気持ちが無かったのです。

妻を精神的家庭内別居にさせる男性の特徴は、相手の気持ちが分からない、ということです。

こういう男性は職場でも、上司の本心や部下の本音が分からずに対人関係のトラブルを起こしているはずです。

思い当たる人は、相手の身になって考える癖を付けてください。それは、こんな感じです。

「お前の所為でダメになった。お前のバカは死んでも治らないよ」と妻に言うとする、

その時にその言葉を「自分が言われたらどう感じるだろう」と、一呼吸置きましょう。

そんなことを誰かが言ってきたら、絶対に喧嘩になるでしょう。

この場合は「君のやり方まずかったけど、今度は良く考えてね」 文句は言ってもいいのですが、言い方を考えること。

相手に「苦」を与え無いようにしましょう。 それが家族なら尚更です。 魂の仲間は自分と同じように大切なはずです。

「苦」のキャッチボールは愛のエネルギーを消耗します。

どんなに愛していても、相手は有限の人間です。 夫だから妻だからと言って、毎日「苦」を上げていたら何れ心が離れます。


お互いの時間を与え合って「絆」のキャッチボールが出来るようにしましょう!

「絆」の中にイザナミの愛力が訪れます。





そのB 本当の思いやりは自分の愛力を相手に分けること



「相手の身になって考えなさい」「相手の苦しみを分かってあげなさい」

と言いますが、やはり他人の苦しみや痛みは分からないものですよね。 独我論というものですが、

例えば、今歯が痛いとします、でもそれは自分だけが痛いのであって、他の誰かが痛いわけではありません。

逆の場合もそうです。 他人の歯痛は自分の痛みではありません。 当然のことです。

痛みだけでは在りません。 借金苦や不倫苦もそうですね。 それは自分の苦しみではないのです。

同情はするけれど、苦を分けてもらうことは出来ません。(仏様は苦を持って行ってくれるらしいですが)


では、目の前に「苦」を抱えた人が居たら何が出来るでしょうか? 例えばこんなことが出来ます、

寒さで凍えそうな人が居たら、毛布を掛けてあげて「もう大丈夫だよ」

怪我をしている人が居たら「助けを呼んだからもう少し頑張って!」

不安で泣いている子供が居たら「大丈夫だよ、心配しないで!」

と言いながら、側に居てあげたり、介抱して上げることは出来ますね。この人たちの苦しみは体験できないけれども

側に居てあげて、励ましたり、手を貸してあげることは出来ます。

つまり、苦痛を肩代わりすることは出来ないけれど、力を与えることは出来ます。では、その力って何なのでしょうか? 

力を上げなかった場合は、寒ければ暖かくして上げれば良いし、怪我なら救急車を呼べば良いし、

子供が泣くなら我慢させれば良いだけのことですよね。 これは相手の「苦」に対して現象的に対応しているだけで、

本当の意味の「助け」ではありません。 心を上げたのだと言えばそうですが、もう少し深く考えるのがスピリチュアルです。


人間が行動するときには、霊が働きます。 助けても助けられても、良いことをしても悪いことをしても。

行動と共に動く霊を「業」と言いますが、業は否定的なイメージがありますが、力の方向であってベクトルのようなものです。

業は常に「浄化」する方向に動きます。 人を助けるという行為にも「業」が動きます。

人間が困難な状態に陥るのは、それによって魂が向上する機会が与えられているのです。

「人の力になる」という意味の真意は、正にそれで、相手の魂の力になることこそ本当の意味の「人の力になる」なのです。


見ず知らずの人を助けるときも、家族を助けるときも、その魂を助けると言うことを意識することが大切です。

もっとも大切なことは、「万物は同胞であり、命あるものの魂はみな仲間である」と実感すること。

そして「みんな一緒である」と共感することが、深い意味での「思いやり」と言えます。

さらに魂のレベルで互いに思いやった行動が出来ると、そこにイザナミの愛力が訪れるのです。

先の例のような「苦」にある人は「自分は何も出来ないけれど、心はここにあります」という想念と言葉を上げましょう。

相手の魂に愛力が届くはずです。 始めは効果は無くても、相手の魂に繰り返し「みんな一緒、魂は共にある」

というメッセージを与えれば、必ず希望を取り戻します。


相手の魂を意識した支援をすることが、スピリチュアルな思いやりであり、そこに愛力が働くのです。

魂のレベルで助け合うこと、相手の魂に届く気持ち、それがイザナミの愛力





そのC 魂に届く笑顔が霊性を開き、地球の未来に導く



宇宙の構造について、私の神霊に聞いたところ、

「大きな太陽の中に、浮島のように漂うものがあるが、それが人間。その人間の内部には光る部分があり、それは魂。

 魂は、人間を内包する太陽と同じ波動で出来ているので、互いに共鳴し合い、高次では一体となる」

とのことです。太陽の光の中に人間は存在していて、その魂は太陽と一体のものである、と言っています。

太陽と魂が共鳴し合うのは、魂の力が強ければもっと強力に結び合えることになります。

人間の魂の力を高めるもっとも簡単な方法は
「笑顔」です。 笑うこと。。。

笑顔は、自分が笑顔になることですが、相手に笑顔になってもらえるように
「与える」という所作が大切です。

笑顔の積み重ねが魂を豊かに穏やかにします。

労働を提供するボランティアはもちろん必要ですが、それ以上に人間として「与える」行為は「笑顔」こそ不可欠なものです。

真に人の役に立ちたいなら、先ず「笑顔」を与えられる人間になりましょう!
























                      2013年1月更新






今までアセンションについて論述することは控えていました。というのは、

この手の案件は一般的に¨反社会的¨とみなされる事柄を肯定する主張が避けられないからです。

つまり、霊的にはこの度の大震災は、起こるべくして起こったもので、人類の霊的成長には必要なことであったのです。

それは、神霊を信じない人にとっては、不謹慎な発言となります。津波のために、

たくさんの人々が亡くなり、多くの皆さんが家族と再会出来ず、

故郷を喪失しました。その状況を肯定することは、全く常軌を逸しています。

しかし一方で「アセンションと震災の意味を教えて欲しい」という

要望のメールが多数寄せられております。サイトのアクセスログをみても

「震災 意味」などのキーワードでお出でになる来訪者が多くなっています。

震災で家族を亡くされた方や、被災された方から非難されることとは思いますが、

「アセンションと大震災の霊的意義」について、

敢て、私の所属する霊界の霊人に答えてもらうことにしました。 


   → 【アセンションとは何か? ルドルフ・シュタイナーの霊界通信】










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