九尾稲荷
白面金毛九尾狐の話


☆日本の三大稲荷は?☆


伏見稲荷、豊川稲荷、もう一つは?と考えると、思いつかないですね。

今まで、私の背後霊団には、大峰系犬の神様が居たので、

お稲荷さんとはあまり縁がないと思っていました。

お稲荷さんは犬が苦手なので、犬を飼っているお宅には来ません。

ペットの犬が死んだら、犬歯をもらってお守りにすると、悪い稲荷は近づきません。

私は、昨年亡くなったクッキーの犬歯をいつも持ち歩いています。

だからお稲荷さんが私の霊団に参加するとは思っていませんでした。

その子は九尾稲荷といいます。童子の姿をしています。男の子です。

私たちは、キュウビくんと呼んでいます。。

それで、「どこから来たの?」と聞いたら

「温泉神社」と答えました。検索したら、那須に温泉神社があって、

そこに九尾稲荷が祭られていることが分かりました。

膳は急げで、行ってみることにしました。温泉に入れるし〜と思いまして。

3月29日に向かいました。自宅から現地までは、車で三時間弱でした。

でも、山の天気は変わりやすいと言います、吹雪になり、ホテルまでやっとたどり着きました。

着いたのは夜だったので、次の朝お参りすることに。

でもやっぱり朝も雪が止まず、神社には行ったのですが、猛吹雪になったので、本殿のお参りはできませんでした。

これ以上、那須にいて雪のために足止めされる可能性があるので、帰ることにしました。

車を走らせてしばらくすると、九尾くんが出てきて「帰らないで」と言います。

明日になれば天気が良くなるのでおまいりして欲しいと言うのです。

気がつくと、空が明るくなってきて、天気雨成らぬ、天気雪になっていました。

稲荷は天気雨を降らすと言われています。九尾くんの意向を汲んで、近くの旅館にもう一泊することに成りました。

                      
温泉神社下の地獄谷の全景


3月31日は九尾くんの言うとおり、快晴となりました。小春日和で、お参りには良い日です。

ちょと長めの参道を登っていくと、本殿のすぐ右隣に、九尾稲荷大明神の赤い鳥居がありました。

その途中、境内の右端に、殺生石という指示看板があったので、側まで行ってみてびっくり、

眼下に地獄谷が広がっていました。温泉神社を良く調べていなかったので知りませんでしたが、

この神社の下には、史跡があり、恐山のような地獄谷があるんです。

こんな光景を見るのは初めてです。九尾くんの言うとおり、戻ってきて良かったです。

地獄谷の奥に「殺生石」という史跡がありますが、ここに九尾くんが封印されているのです。

九尾くんは、実はとてもすごい稲荷なんです。







☆温泉神社☆

温泉神社(ゆぜん神社)
栃木県那須郡那須町湯本那須町役場0287-72-1111JR東北本線黒磯駅より那須湯本行きバス利用
延喜式神明帳にも記されている歴史の古い神社で、源平合戦「屋島の戦い」で那須与一が矢を射るときに祈願したことでも有名。
松尾芭蕉も「奥の細道」をたどる途中、温泉神社に参詣、那須与一奉納の鏑矢などの宝物を拝観、
殺生石見物などが曽良の随行日記に載っている

               
温泉神社 参道



☆殺生石☆


昭和二十八年一月十二日史跡に指定されました。
この由来は、昔中国やインドで美女に化けて国王を誘惑し、悪行を重ね、国民を惨殺していた白面金毛九尾の狐が
今から八百年程前の鳥羽天皇の御世に日本に渡来しました。この妖狐は「玉藻の前」と名乗り朝廷に仕え、
今度は日本を亡ぼそうとしましたが、時の陰陽師阿部泰成にその正体を見破られ、那須ヶ原へと逃れて来ました。
その後も妖狐は領民や旅人に危害を加えましたので朝廷では三浦介、上総介の両名に命じ遂にこれを退治してしまいました。
ところが、妖狐は毒石となり毒気を放って人畜に害を与えましたのでこれを「殺生石」と呼んで近寄ることを禁じていましたが、
会津示現寺の開祖源翁和尚が石にこもる妖狐のうらみを封しましたのでようやく毒気も少なくなったと語りつたえられています。
インド、中国、日本と三国を股に掛けて悪事を働いた九尾の狐。その最期は栃木県那須で石と化した。石となっても怨霊は残り、
毒気を吐いて近寄るものすべてを皆殺しにした。殺生石の名の所以である。それを玄翁という和尚が(杖とも)で砕いて鎮めたという。
その後、砕かれた殺生石は北は福島県、南は大分県まで飛散し、各地で祟りを及ぼしたという。那須の殺生石はその大元である。

                       
殺生石

現地の観光局で配布されている栞を引用してご紹介します。

奈良時代の学者古備が遣唐使の役目で日本に帰る際についてきた一人の少女がいた。
この少女は姐己(だっき)となって殷を滅ぼし、華陽夫人となって天竺の皇太子を惑わし、
ほうじとなって周を滅ぼした金毛百面九尾の狐であった。この狐は悪が集まって世界ができたとき誕生した。
12世紀初めついに宮廷に入り、玉藻前となって鳥羽上皇の寵愛をうけるにいたった。
しかし陰陽師安倍泰成にその正体を見破られ、那須野ヶ原に逃げた。朝廷では、三浦義明、上総介広常に討
伐を命じ討ち取られてしまうが、その魂は巨大な石となり、近づくものは全て殺してしまうと恐れられた。
後年に能登総持寺の玄翁和尚の一喝で、三つに打ち砕かれ、一つは会津一つは備後に飛びちったが、
残った石は毒気を吐きつづけたという。これが殺生石である。
                                              (那須観光協会 那須の伝説)


☆殺生石その後の展開☆

栃木県那須湯本から発生した殺生石伝説は、能楽をはじめ文学芸能へ発展し、現代に至ります。
謡曲『殺生石』に組み入れられたのを機に、全国各地へ殺生石と九尾狐の伝説が伝播しました。
現在に伝わる殺生石伝説の形にまとまったのは、高井蘭山『絵本三国妖婦伝』(1804年)
式亭三馬『玉藻前三国伝記』(1809年)などの小説や、芸能として大衆化されたために幅広く、社会層に広まりました。
また、九尾狐は、法石稲荷尊天、正しくは当山(法石山)開基法石院殿佛性真如大姉と呼ばれ、
仏法加護及び民衆加護の神に昇華された。これら一連の物語は、源翁心昭自身の伝説として多くの民衆に伝えられた。
殺生石伝説は仏教の浸透以後、曹洞宗に接触する。人々は曹洞宗と源翁禅師を介して殺生石伝説におよび
仏教伝来以前の古代信仰を転換させる。殺生石への畏怖は、その仲介者である源翁禅師によって解決されると同時に、
仏教・曹洞宗及び源翁禅師への尊敬・信仰を生じさせた。また、人々の災いであった殺生石並びに妖怪九尾狐を、
仏教の善なる菩薩に転じさせている。仏教は怨霊や鬼を教化して、善神にしようとする。



というわけで、九尾稲荷の九尾くんは結構マニアックなお稲荷さんのようです

なんで私のところに来たのかは分かりませんが、今後の展開が楽しみです。

心霊相談にも力を貸してくれるのかも知りません。

クライアントの皆様のところにもお邪魔すると思いますので、よろしくお願いします。



















   
ピア・スピリチュアル 守護霊視と前世霊査
   
   
心霊写真
   
   
ご利益のツポ